演劇ファイル  Jan - Aug 1999

1988年12月までの舞台へ
1989年 9月からの舞台へ
加藤弘一

*[01* 題 名<] カルメン
*[02* 劇 団<]
*[03* 場 所<] 青山劇場
*[04* 演 出<] アシュマン
*[05* 戯 曲<] なかにし礼
*[06  上演日<] 1989-01-13
*[09* 俳 演<]大地真央
*[10*    <]萩原流行
*[11*    <]紺野美沙子
*[12*    <]榎木孝明
 学芸会! 生伴奏でビゼーの曲を歌うのだが、大地真央のシャンソンっぽい歌い方ではひどく平板に聞える。後半に出てくるエスカミリオ(誰だろう?)と、ちょい役で出る二人のオペラ出身者に完全に負けている。闘牛士の歌の場面でようやく、聞くに耐えるようになった。ひどいのは萩原で一所懸命歌ってはいるのだが、たどたどしくて本当に学芸会。いゃいゃ、紺野と較べればまだいい。あの棒読みアリアのすごさ!! 一体、何を考えているのだ? ポップス調にアレンジするとか、音痴には歌わせないとか、せめて、ごまかす努力をすればいいじゃないか。JRがスポンサーということで、オペラをわかりやすくとかなんとか、教養主義を当てこんだのかもしれないが。
 もっとも、カーテン・コールの大地真央のアリアはポップな自分の歌い方に徹していてよかった(我慢した甲斐があった)。全部あの歌い方で通せば、もう少しどうにかなったろうに。
 近藤XXが山賊の頭目をつぶれた声でやって、ちょっと目立だった。
*[01* 題 名<] 今日子
*[02* 劇 団<] 
*[03* 場 所<] 紀伊国屋ホール
*[04* 演 出<] つかこうへい
*[05* 戯 曲<] つかこうへい
*[06  上演日<] 1989-01-18
*[09* 出 演<]岸田今日子
*[10*    <]三谷昇
*[11*    <]北見敏之
*[12*    <]塩見三省
*[13*    <]立石涼子
*[14*    <]野口早苗
 サンモール公演の前の有料ゲネプロだからだろうか、二時間の本編に20分の「唄う新撰組」予告編がくっついている(昼間は本当のゲネプロをやったそうだ)。はっきりいって、本編よりも歌謡ショーや当て振りのついたカーテン・コールの方が面白かったし、さらに言うと、その後の高野嗣郎のキャバレー式司会のついた予告編の方がずっとおもしろかった(主役の沖田総司は円の平栗あつみがやっていて、これはこれできちんと出来上がっている)。手を抜いたなんてことはないのだろうが、知的な洗練では随一の円にドサ回りの一座まがいのことをさせているわけで、つかこうへいは相変らずつかこうへいだ。もっとも、円の役者たちはみんな大喜びで演歌を唄ったり、当て振りをしたり、チャンバラをしたりしているわけで、からかわれていることに気がついていないようなのだ。
 本編の方はスクリーンの大スター、岸田今日子を主役にした「蒲田行進曲」女版という感じだが、木下浩之の副社長、北見敏之のテレビ上がりの監督、塩見三省の裏方、山崎健二の照明係が虚実の転換の中で、次々と力関係を交代していき、いじめたりいじめられたりするという、例によってグニャグニャした話になっている。役者が全員実名だというのも、虚実の転換を徹底するためだ。岸田今日子はきっかり30分たってから登場する。前半は快調に飛ばし、こくと洗練を感じさせたが、この話で2時間はつらい。相当だれたところで、若林健二の演歌があり、必然性無く盛り上がってしまい、締めの部分でまただれるが、最後に歌謡ショーと新舞踊のカーテン・コール(岸田今日子も網タイツでサービス)で、何となく大団円になってしまう。この辺り、まったくドサ回りの一座のドラマツルギーというか安易さなのだ。
 結局、この夏、パルコでやるという、つか事務所の「唄う新撰組」ばかりが印象に残ってしまった。つかは本当にやな奴だ。
 岸田今日子は「唄う新撰組」に出るらしい。「大阪の女」を華奢な声で唄い、太腿をちらちらさせて頑張った平栗あつみは意外にいい。
*[01* 題 名<] 唐版滝の白糸
*[02* 劇 団<] 松竹
*[03* 場 所<] 日生劇場
*[04* 演 出<] 蜷川幸雄
*[05* 戯 曲<] 唐十郎
*[06  上演日<] 1989-03-16
*[09* 出 演<]松坂慶子
*[10*    <]岡本健一
*[11*    <]壌晴彦
*[12*    <]石井愃一
*[13*    <]ジャニー清水
*[14*    <]高野嗣郎
 岡本健一は決して悪い素材ではない。初舞台でも萎縮していないし、自然体で普通に舞台を歩き回っている。ただ、唐の芝居に出たというのが苦しい。自然体のせいで、かえって浮いてしまっているのだ。前半、銀メガネの壌晴彦と二人の絡みがえんえんとあるのだが、それがまるで空転。何やってるの?、という感じなのだ。壌はあっさりしていて巧いけれども、岡本を無理矢理引っ張りこむような強引さは、良くも悪くもない。
 松坂慶子は変にひたむきで初々しいのが不自然だ。観念お化けみたいな役なのに、あんな風にメロドラマのけなげな女でやられては白けるのだ。根本的に勘違いしているし、蜷川演出も途中で投げている形跡がある。水芸さえ見せればいいだろうというわけだ。ちょっとチャチではあったが、スペクタクルとしてはまぁまぁ。むしろ、幕が開く前に緞帳に映写されていた無機質な模様の方がリアルで面白かった。
 四人の小人チームが出演したことは画期的なことらしい。唐としては珍しい台詞劇なので、主演二人の拙さがよけい出てしまった。
 うっかり木曜日のマチネを選んだために、オバタリアン軍団の直撃を受けた。すぐ後ろに陣取った一団が幕が開いてからもしばらくうるさかったし、通路を隔てたところの二人組は途中でもつまんないことをぺちゃくちゃやっていた。舞台の出来も悪かったが、さっぱり分からないらしく、「わかんないところがいいのよ」なんてわかったようなことを喋くりながら帰っていった。日生で唐十郎なんてやるのが悪い。
*[01* 題 名<] 桜の園
*[02* 劇 団<] CICT
*[03* 場 所<] セゾン劇場
*[04* 演 出<] ブルック,ピーター
*[05* 戯 曲<] チェーホフ
*[06  上演日<] 1989-04-18
*[09* 出 演<]
 低調な舞台。高い天井の舞台を広々と使っていて、空間の美しさはあるが、芝居としてメリハリに欠け、だらだらしている。
 アーニャは颯爽としてなかなかいいけれども、夫人がいけない。糠味噌臭いというか、下町のオバサン風というか、パリに男を追っかけていくようなタイプに見えない。フィリスが元気そうだったり、全体に役者が元気が良くて、場違いな感じがした。ペーチカは「永遠の大学生」そのもので、誰がやってもああなるのだろう。日本人のやる「桜の園」と大して変わらない。
 競売で売れた後で、使用人がお客様面しはじめるところは凄みがあった。階級社会では使用人になめられたらおしまいだ。日本の舞台で抜けていたのは、階級という視点だったのだ。
*[01* 題 名<] ベネファクターズ
*[02* 劇 団<] 民藝
*[03* 場 所<] 砂防会館会館
*[04* 演 出<] 高橋清祐
*[05* 戯 曲<] フレイン,マイケル
*[05* 翻 訳<] 丹野郁弓
*[06  上演日<] 1989-04-19
*[09* 出 演<]日色ともゑ
*[10*    <]伊藤孝雄
*[11*    <]水原英子
*[12*    <]新田昌玄
 よく出来た芝居ではあるが、平板さは否めない。歌うような上すべりの台詞回しが気になる。
 建築家の夫とソシャアル・ワーカーの妻との一家が、うだつの上がらない夫婦の面倒を見たばかりに、振り回されるという話。誰かにいつももたれかかっている問題妻を日色ともゑが好演しているが、見ていて、本当にイライラしてきて、気が滅入ってくる。ああいう女、よくいる。「恩恵者たち」とはよくぞつけた。
 ひねくれ者の売れないジャーナリスト役が新田昌玄で、うじうじしていたのが、建築家の考える高層ビル反対運動のリーダーをはじめるや、元気になってしまい、選挙にまで出てしまうのはおもしろい。伊藤孝雄の建築家も、夢をつぶされてしょげるのではなく、水野の強い妻に養われて、主夫になってしまうあたりが、らしくて笑わせる。手伝いに来ている日色が慕っているのに、まったく気がつかない。こういう夢ばかり追っている鈍い人はよくいる。
 喜劇としての側面をもっと出せば、これ、そうとうなレベルでまとまったのではないか。シリアスにしようとして中途半端になった。
*[01* 題 名<] たそがれて、カサブランカ
*[02* 劇 団<] パルコ
*[03* 場 所<] パルコ劇場
*[04* 演 出<] 杉田成道
*[05* 戯 曲<] 清水邦夫
*[06  上演日<] 1989-04-24
*[09* 出 演<]田中邦衛
*[10*    <]原田美枝子
*[11*    <]小堺一機
*[12*    <]永島敏行
*[13*    <]桜井センリ
*[14*    <]花王おさむ
 一幕がはじまって間もなく、これは傑作かな……と思った。桜井センリと花王おさむのかけあいが抜群に面白く、小堺一機のボードビリアン志望の青年も、冒頭の語りはともかく、一所懸命なところがはまり役で、期待をもたせたのだ。田中邦衛のはにかみ屋のしゃれたまとめ方でとてもいい。そして、なにより、原田美枝子の素晴らしさ。ボードビリアンとダンサーが『カサブランカ』をなぞる話なのだが、原田は背筋をすっとのばし、水の上を歩くような軽やかな足取りで、小さな身ごなしにいたるまで神経がピンとはりつめている。この人、生まれながらのダンサーではないか。涼やかで清麗な色香に心が洗われる。業の深い今までのヒロインとは一味も二味もちがう(最前列は見にくかったが、間近に彼女を見られただけでも満足だ)。
 しかし、見終わって物足りなかったのも事実だ。これといって破綻があるわけではない。優れたバランス感覚できれいにまとめてあるのだが、あっさりしすぎて食い足りないのだ。軽みの境地の年齢ではないだろう。舅と死んだ息子の嫁との意地のつっぱりあいは「エレジー」に通じるが、あのような味の深さはないし、つきつめもない。父親の孤独は仲間の賑わいの中にまぎれこんでしまっている。閉店した店のマスターの桜井センリも本当はもっときつい芝居が出来たはずなのに、仲間のまとめ役で終わってしまった。永島敏行の鮫男も中途半端。多分、台本はもっときわどい所まで書いてあるはずなのだ。小堺の狂言回しが背丈にあって成功してしまったあたりが、この芝居の限界なのかもしれない。
*[01* 題 名<] 幸福を計る機械
*[02* 劇 団<] 
*[03* 場 所<] ステージ円
*[04* 演 出<] 山下悟
*[05* 戯 曲<] 横光利一
*[06  上演日<] 1989-05-15
*[09* 出 演<]山本泰史
*[10*    <]石塚理恵
 新婚旅行の列車の中で、夫と妻が幸福の較べあいをしてじゃれる小品。幸福を計る機械がないかなと言っているうちに、こんなに幸福だと後は不幸なるだけだろうかとか、不幸を計る機械が欲しいとか言いだして、仲たがいまでするが、それさえ幸せのうちだというおめでたい話ではある。幸せの絶頂の二人に喋らせて対話劇をつくるために、理屈の応酬になってしまった嫌いはある。この辺の不自然さが苦しいし、夫役の山本泰史はノホホンとしてなかなかいいのだが、妻役の石塚理恵が凡庸な頭の悪い女の典型で、理の勝ったやり取りを楽しむには程遠い。りきんだ芝居も見苦しい。ミスキャストだ。
 どうしても岸田國士シリーズの林・水野コンビと較べてしまうが、あの二人のような初々しさにかけているし、昔の山の手言葉も板についていない。横光の脚本自体の過度に心理的・分析的な特質も裏目に出ている。
*[01* 題 名<] 閉らぬカーテン
*[02* 劇 団<] 
*[03* 場 所<] ステージ円
*[04* 演 出<] 山下悟
*[05* 戯 曲<] 横光利一
*[06  上演日<] 1989-05-15
*[09* 出 演<]草野裕
*[10*    <]加藤美津子
 中年のとうのたった夫婦かと思ったら、カーテンを閉めて接吻がどうのこうのなんていう話になる。実は二人とも再婚で、まだ感情に生々しい部分があり、お互い相手の前の配偶者のことを当てこすって、それが実は手のこんだ愛情の確認になっている。犬も食わないとはこういうのを言うのだろう。お互いに前の配偶者にそっくりだと言いあい、特に夫の方は忘れる訓練をしようとか、さっき食べた鰻とオムレツとおはぎとキャベツのことしか憶えていないとか、わけのわからないことを言いだす。夫の草野裕は小林勝也と伊藤四郎を足して二で割ったようないかがわしい感じを漂わせ、とてもよかった。妻役の加藤美津子の受けも、水商売的ではあるが、うまい。大正期の山の手言葉で演じられているが、このドロドロしたつつきあいはヒモとホステスの話でもおかしくない。同時代の作家と較べてみると、岸田國士は透明で知的な作家だったのだなと思った。
*[01* 題 名<] 父親
*[02* 劇 団<] 
*[03* 場 所<] ステージ円
*[04* 演 出<] 山下悟
*[05* 戯 曲<] 山本有三
*[06  上演日<] 1989-05-15
*[09* 出 演<]中村伸郎
*[10*    <]柳川慶子
 中村の至芸をみた。はじめ声がかすれ気味で、語り口もいつもとガラリと変ったやさしいものだったので、どうしたんだろう、この人もまた長くないのだろうかとか心配になってしまったが(心なしかヨボヨボして見えた)、芝居が進んで行くにつれ、老年の孤独の底に秘められたいぶし銀の輝きに圧倒されてしまった。しみじみした気持ちで劇場を出た。
 来ると言っていた娘が加減が悪いと言って寄こして来ない。老父の心配がはじまり、次の夜、隣家に深夜の電報が届いたこともあって、娘のかかりつけの医者に婚家まで往診をたのもうと決心する。翌朝、実は妊娠だったことがわかる、という親馬鹿丸出しの話だが、この人がやると親のエゴイズムという面が洗い落とされて、人間というのはこうも気高いものかと嘆息してしまった。老いるというのはこの人でも寂しいのだが、寂しさをかこつのではなく、寂しさに耐え、立ち向かう勇気のようなものがあるからだと思う。
 宇野重吉は中村と較べると普通の幸福な老人だったと思う。すくなくとも宇野にとって孤独ということは切実な問題ではなかったし、人形の幻想と語りあう役をやっても、自然の営みに身をまかせているような安心の境地があった。孤独というものを中村につきつめさせるものは何なのだろうか? 人間としての矜持だろうか?
*[01* 題 名<] 世帯休業
*[02* 劇 団<] 木山事務所
*[03* 場 所<] サンモール
*[04* 演 出<] 末木利文
*[05* 戯 曲<] 岸田國士
*[06  上演日<] 1989-05-29
*[09* 出 演<]本多次布
*[10*    <]稲垣愛
*[11*    <]宮川知久
*[12*    <]斎藤昌子
*[13*    <]松本好永
*[14*    <]石田輝行
 下宿人の詩人が郷里から予定より早く帰って来て見ると、家主の夫婦は「世帯休業規約」などというものを作って、冷戦のまっさいちゅう。下宿人のいない一週間の間、夫婦であることを休むというのだ。下宿人は審判官をかってでて、どちらかが規約に違反しそうな時はエヘンと呟払いをすることになり、三人の滑稽なやり取りが始まる。
本多の人のいい夫、稲垣のツンとしても可愛いい妻の両方とも素晴らしいけれども、詩人の鳥羽をやった新人の宮川が何といっても絶品だ。むさくるしく、ふてぶてしく、そのくせ、人がよくて結構傷つきやすい、いかにも大正時代の文学青年という感じで、腰に両手を当て、胸をそらして、エヘンとやる大時代的な仕草が何とも愛敬がある。こんなに愛敬のある役者は、今どき、本当にめずらしい。
 三人のやり取りが実に面白くて、このままモリエールばりの喜劇としてまとまるのかと思ったら、門司のおじさんの遺産という話が舞こんで来たり、鳥羽が思いをかけている娘が苦情を言いに来たりで、話がごちゃごちゃしてくる。三人以外の役者は下手ではないが、面白みには欠け、ちょっと残念だ。
 しかし、台詞の美しさと繊細なユーモア、そして滋味あふれる人間観察には酔わせてもらった。「静劇」なんていうレッテルからは想像も出来ないこの豊さは見直さなくてはいけない。
 小屋がサンモールに変ったのは、俳優座劇場の事情で、共同公演から手を引いたからだという。行きやすくなったが、残念な話だ。
 はじめてサンモールへ行ったが、紀伊国屋を二回り小さくした感じで、床も木だし、すごくいい感じだ。どう入ったらいいかわからなくて、うろうろしていたら、円の事務所や稽古場まであの超豪華マンションの中にあることがわかった。すごい肩入れだ。
*[01* 題 名<] 雅俗貧困譜
*[02* 劇 団<] 木山事務所
*[03* 場 所<] サンモール
*[04* 演 出<] 末木利文
*[05* 戯 曲<] 岸田國士
*[06  上演日<] 1989-05-29
*[09* 出 演<]林次樹
*[10*    <]水野ゆふ
*[11*    <]大川透
*[12*    <]内山森彦
*[13*    <]五十嵐雅子
*[14*    <]一川靖司
 借金で首の回らない零細出版社の大晦日風景。台所関係は妻が、会社関係は夫がさばくという分担だが、印刷屋、紙屋、製本屋が次々と来ててんやわんや。一段落したところで、著者の持山借金に現れるが、夫は彼に留守番をおしつけて集金に出る。その後が大変。飲み屋の女主人、資本を出した高利貸しまで登場し、さらに昼間の借金取りが戻ってきてパニック状態。あわやという時に、とぼけた持山が高利貸しの鞄から札束をばらまき、どぎもを抜いて一件落着。それまで泰然自若としていた高利貸しがあわてて札勘定をはじめるのが笑わせる。そして、ようやく、除夜の鐘。持山の妻も来て、二組の夫婦がそろったところで、集金に行っていた小僧が思っていたより多くの金を集めて帰って来る。めでたくもないが、ホッとして幕。
 チョビ髭をはやし、礼宮みたいな風貌にこしらえた林は、風格といかがわしさがあって、本当に昭和初期の社長のようだ。妻役の水野は貫禄が出て来て、こういう明るいどっしりとした奥さんがいれば、借金取りにも耐えられるなと思わせるものがある。二人とも完全に岸田の世界を身につけ、遊ぶ余裕も出て来た印象である。
 もう一人素晴らしかったのは、持山をやった大川透。昭和初期の文士という感じはまだだが、ヌーボーとした持味で、札束をばらまくという過激な行動にも愛敬があり、この男なら許されるなという大きさを感じさせた。「世帯休業」の宮川といい、今回はいいバイプレーヤーにめぐまれた。
 それにしても、あの絶望的な状況の中で、新しく出した本の装丁を吟味して話しあう主人風夫婦のほのぼのとした会話は本当の教養人である。岸田をハイカラ趣味とか、翻訳とかいうのは間違いだ。
 今回の二編は昭和七、八年ごろの不景気の時代を背景にしているという。だから、「世帯休業」の鳥羽が下宿を変えるというと、主人があわてたわけなのだ。
*[01* 題 名<] イルクーツク物語
*[02* 劇 団<] 民藝
*[03* 場 所<] 紀伊国屋ホール
*[04* 演 出<] 宇野重吉
*[04*    <] 若杉光夫
*[05* 戯 曲<] アルブーゾフ,アレクセイ
*[05* 翻 訳<] 川上洸
*[05*    <] 泉大三郎
*[06  上演日<] 1989-06-20
*[09* 出 演<]奈良岡朋子
*[10*    <]伊藤孝雄
*[11*    <]新田昌玄
*[12*    <]斎藤美和
*[13*    <]里居正美
*[14*    <]梅野泰靖
 水力発電所の工事現場を舞台にした牧歌的な三角関係の恋物語。1960年に宇野演出で初演、3年間の全国公演の後に、68年からの再演と定評のある舞台だそうだ。最後の公演から20年ぶりで、宇野演出をしのぶために、初演以来の奈良岡と斎藤をつかうなど、民藝としては出来る限りの布陣を引いたということらしい。
 ……しかし、何というか、困ってしまう。基本的には、昔なつかしい民青芝居であって、それだけでも恥かしいのに、いい年したオジサン・オバサンが若作りでしなを作ったり、恥かしがったり、目のやり場に困ってしまった(前から三列目に座ったのだ)。婚礼の場面の踊りもひどかったが(伊藤孝雄の膝をたたくだけのコサック・ダンス)、もっと悲惨なのは、「コーラス」と呼ばれる進行役の4人のオジサン・オバサンたち。観客に呼びかけたり、登場人物に話しかけたりするのだが、当時としては斬新な演出だったのかもしれないが、貧相さがにじみでていて、目を覆いたくなった。リーダーの梅野というオジサンがまた田舎の教頭先生みたいで、変に朗々と思い入れをこめたりして、後味が悪い。
 アナクロ芝居をアナクロな役者がアナクロな演出でやるわけで、劇場は大入り満員だったけど、見たくなかた。
 二人の男の間でゆれる奈良岡の役も時代を感じさせた。
*[01* 題 名<] ウーマン・イン・マインド
*[02* 劇 団<] 俳優座
*[03* 場 所<] 俳優座劇場
*[04* 演 出<] 増見利清
*[05* 戯 曲<] エイクボーン,アラン
*[05* 翻 訳<] 吉田美枝
*[06  上演日<] 1989-07-05
*[09* 出 演<]岩崎加根子
*[10*    <]滝田裕介
*[11*    <]伊東達広
*[12*    <]杉山とく子
*[13*    <]早野ゆかり
*[14*    <]児玉泰次
 現状に不満のある主婦が頭をうってから、理想の家族の幻を見るようになり、しだいに錯乱していくという話。こういう話はとぼけた味の出せる円にやってほしかったが、俳優座がやったことで、陰々滅々な救いようのない話になった。
 演出が直球なのだ。幻の娘が現実の家族をきつい目で睨みつけたり、幻の家族との団欒が絵にかいたような理想的なものだったり、はずすということがない。現実の家族の方も、料理のまるで出来ない妹に杉山とく子を使って妙に重くしたり、教区牧師で夫の滝田裕介が真面目なだけで滑稽さが出なかったりで、本当に重苦しくなってしまった。岩崎加根子はうまいけど、これも直球で、悲惨さが強調されてしまった。唯一、救いは医者をやった伊東達広で、橋爪功を思わせる軽快なフットワークで、幻想と現実をつなぎ、舞台をかろうじて風の通ったものにした。
 ラストの不思議の国のアリス風の競馬場のシーンは、それまでが重苦しいだけに、とってつけたような感じがしなくもないが、転調にはなっていた。
*[01* 題 名<] 青春・ロンググッドバイ
*[02* 劇 団<] 木冬社
*[03* 場 所<] Ankhスタジオ
*[04* 演 出<] 清水邦夫
*[05* 戯 曲<] ウィリアムズ,テネシー
*[06  上演日<] 1989-07-08
*[09* 出 演<]
 思い出のアパートを去る青年の独白を中心とした「ロンググッドバイ」、13才の黒人少女と少年の出会いの短編、そして後のブランチにつながる女性像、ミス・コリンズを描いた一幕もの三篇を集めたテネシー・ウィリアムズのオムニバス。間を松本典子の語りでつなぐ。
 三つのうちでは「ロンググッドバイ」が抜群にいい。よい意味で学生劇団的なのだ。ジョーをやった、ちょっと清水に似た若い男優がすばらしく、時間のポンポン飛ぶ独白を陰影豊かに演じ、芳醇な言葉に酔わせた。あれなら「ガラスの動物園」が出来る。身持ちの悪い妹、マイラをやった女優は昔の根岸季衣を思わせる迫力と存在感で、しかも芝居に緩急があり、力まかせの芝居に終わっていない。癌で死んだ母親役の女優は、若い素顔がチラチラと出てしまい、悪い意味での学生劇団になってしまったが、小さい傷だ。ジョーの友人役もなかなかいい。この舞台はすごい収穫だ。
 ジョー役の男優は、少年役で二番目のトムという少女の話にも出ている。はじめ、鉄橋をフラフラ渡って来るシーンの辺りでは、若い女優特有のキンキン声が気になり、喧しいだけかと思ったが、少年との絡みで鉄道員相手の娼婦をやっていた結核で死んだ姉の思い出を語る少女の像がしだいに結像していき、なかなか深い余韻を残した。顔がいかにも黒人の娘というのもよく似せたものだと思う。
 問題はミス・コリンズの一幕もので、黒木里美が幻の男に襲われたと言張るオールド・ミスを演じたのだが、どうしょうもな絶叫芝居。キンキン声を張り上げるだけでうんざりした。顔もギスギスした感じで、女が落ちたなと思った。あれじゃブランチは無理だ。
 三人のウィリアムズ的女性像ということで纏めたようだが、むしろ男優陣の充実が目覚しかった。
 綾瀬にははじめて降りた。商店街がなく、ミスター・ドーナツとか、マクドナルド、ケンタッキーが並んでいるのは新興住宅地的だが、ただし、狭い範囲にギュッと圧縮されているのだ。そして、ちょっといくと、値上がり待ちの空き地をはさんでごちゃごちゃとマンションが立ち並び、妙に殺伐としている。女子高生監禁殺人のあった街という色眼鏡で見ているのかもしれないが、変な街だ
*[01* 題 名<] マクベス
*[02* 劇 団<] パルコ
*[03* 場 所<] セゾン劇場
*[04* 演 出<] 森田雄三
*[05* 戯 曲<] シェイクスピア
*[05* 翻 訳<] 山崎努
*[06  上演日<] 1989-07-19
*[09* 出 演<]山崎努
*[10*    <]三田和代
*[11*    <]高畑淳子
*[12*    <]後藤加代
*[13*    <]下元勉
*[14*    <]立川三貴
 最低。台詞そのものは早口で喋るが、間合いをたっぷりとって、その間によけいな芝居をつける。いかにも小技で笑わせようとするのだが、当事者たちは斬新な道化的マクベスと悦にいっているかも知れない。山崎が手を入れたという台本も相当枝葉をつけている。ダンカン殺しの翌朝、使者たちとであった時点でもう大げさにビクビクしている。宴会の場面で血塗れのダンカンを出してマクベスを怖がらせる演出は以前にも見たが、その場を取り繕うとするマクベス夫人が盆踊りみたいに踊りだすとか、マクダフ夫人が生命ごいをしようとして、色じかけでマクベスの家来に取入ろうとするとか、シェイクスピァの誇りだかい女性を下卑た俗物にして新機軸を出そう式の安易な姿勢はいただけない。以前、ここでかかった、死ぬほどつまらなかった「十二夜」と共通する。シニカルではなく、単に馬鹿なのだ。
 山崎のマクベスは上背があり、見る分には立派なのだが、芝居をはじめたとたん、やめてくれと言いたくなる。三田和代は格調の高い演技なのだが、下卑た演出のために浮いていた。この人は四季をやめて以来、ろくな舞台に当たっていない。後藤加代はびっこで首をずっとかしげて歩く不気味な侍女役だが、全然生きていない。マクダフ役の立川三貴はもうけ役だが、一人で芝居を建て直すまではいかない。
 舞台装置はまぁ良かった。二幕になって、太腿くらいある綱をからみあわせたオブジェが天井に現れ、さすがにお金のかかった舞台だと思った。
*[01* 題 名<] 女に関するジグソーパズル
*[02* 劇 団<]
*[03* 場 所<] 下北沢駅前劇場
*[04* 演 出<] 三ツ矢雄二
*[05* 戯 曲<] ダ・コステ
*[05* 翻 訳<] 中村まり子
*[06  上演日<] 1989-07-23
*[09* 出 演<]中村まり子
*[10*    <]斎藤昌子
*[11*    <]永六輔
 三話の「洒落た」フランス喜劇のオムニバス。場面転換の間を永六輔のお喋りで繋ぐ。危惧した通り、お喋りの方が面白かった。
 第一話は強姦されそうになった娘と、助けた中年夫人の話で、彼女の夫が実は強姦魔だとわかる。全然セックスが無くて、夫は深夜抜けだして、強姦して歩くという異常な夫婦関係が明らかになっていく。斎藤の中年夫人の方は普通人の狂気を感じさせて悪くないのだが、中村の方が駄目。すべてに大げさで、つまんないところで笑いを取ろうとし、二人の間の芝居が成立していない。
 第二話は、若い女性タクシー・ドライバーと、無賃乗車したメルヘン・オバタリアンの話。中村の方は相変らずキンキン声をはりあげ、つまらない小細工をするものの、受けにまわり、斎藤のとぼけぶりを引き立てているので、なかなかよかった。ほとんど別役実的強引さでメルヘン・オバタリアンはタクシー・ドライバーの友達になってしまうのだが、「洒落た」というより人情喜劇として成功している。
 第三話は場末のキャバレーの楽屋で、売れない歌手とその母親の葛藤を描く。キャバレーのレジ係が離婚した父親で、ストリップまがいの歌手の仕事を世話したのも父親だという異常な関係が明らかになるが、主役の中村の芝居のオーバーさがわざわいして、怖さとか寂しさが説明になってしまっている。
 中村の稚拙さが目についたが、責任は演出の三ツ矢にあると思う。装置を片づける裏方に芝居の内容にあわせてパジャマとかタキシードを着せたりして遊んでいるが、その辺りのくどさがそのまま中村の芝居のくどさに繋がっている。斎藤の方は演出を適当に無視して、自分の芝居をやっているが、中村は百パーセント三ツ矢の演出に従っているようだ。キノトールが元気で、予定通り演出を担当していたら、どうにかなっていたろうに。
 永六輔の話。フランスの絵葉書は優れているそうで、実物を見せられると納得。
 女性刑務所はヤクザの女がたくさん入っていて、美容師が多く髪をきれいにしている。慰問に行くのが楽しい。昨日の美空ひばりの葬儀には、ヤクザが多かった。
 二人の女優のジグソーパズルをせりにかけたが、マチネだからか、盛り上がらない。銀座の銀巴里は千五百円
*[01* 題 名<] レ・ミゼラブル
*[02* 劇 団<] 東宝
*[03* 場 所<] 帝劇
*[04* 演 出<] ナン,トレバー
*[05* 戯 曲<]
*[06  上演日<] 1989-08-24
*[09* 出 演<]鹿賀丈史
*[10*    <]村井国夫
*[11*    <]安奈淳
*[12*    <]島田歌穂
*[13*    <]斎藤晴彦
*[14*    <]松金よね子
 暗くなったな、というのが第一印象。たまたま今日の出来が今一つだったのか、微妙に活気が無かったが、それだけではなく、キャストが相当代ったせいもある。
 ファンテーヌの安奈淳は振幅の大きい芝居だが、はじめからどん底の女という感じで、落ちていく過程も悲惨なのだ。娼婦宿の場面なんか、以前はよくも悪くも勢いでやっていたが、今度はドラマとして陰影があって、だからその後のジャンに恨み言をいう場面がキリキリ胸に迫る。ああ、こんな可哀そうな話だったんだ、と再認識する。マダム・テナルディエは松金に代ったが、これも大きい。チンチクリンで、ひっくり返ってスカートの中を見せたりとおちゃらけ路線だが、いじめの場面でまったく救いがないのだ。笑いの要素を持った役者ということで選んだのだろうが、ミス・キャストだった。斎藤晴彦まで薄汚いだけの小悪党になってしまった。ジャベールの村井は村井とは思えないくらいうまいが、それだけ。花がなくて、嫌な奴にしか見えないのだ。コゼットの鈴木ほのかは最悪。顔と声だけでなく、歌の下手なのまで斎藤由貴に似ている。歌もはずしまくったし、三人のかけ合いは悲惨。
 鹿賀のジャン・バルジャンは明るさが薄れたが、文句なし。島田のエポニーヌはすばらしい。今日が一番良かったかもしれない。以前より痩せた感じで、折れそうに華奢なのだ。マリウスに抱かれて死ぬ場面では涙してしまった。野口五郎は例によってワンマンショー的。最後の場面で、エポニーヌとファンテーヌが声をあわせる所は見せ場ではなくなっていた。あの二人では声質が合わないのだ。
 天井桟敷で見たが、まわりは毎月(毎週?)来ている感じのギャルばっかりで、休憩時間には、マイナーな役者の評判記。まるで歌舞伎座の三階席で、これはこれでおもしろかった。ジャベールに抜擢された佐山氏は(孫悟空みたいな顔だそうだが)すばらしいらしい。
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演劇1989年 2
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