演劇ファイル  Jan - Jul 2000

1999年12月までの舞台へ
2000年 9月からの舞台へ
加藤弘一
*[01* 題 名<] 肝っ玉おっ母と子供たち
*[02* 劇 団<] 俳優座
*[03* 場 所<] 俳優座劇場
*[04* 演 出<] カーニン,アレクサンドル
*[05* 戯 曲<] ブレヒト
*[05* 翻 訳<] 千田是也
*[06  上演日<] 2000-01-28
*[09* 出 演<]栗原小巻
*[10*    <]小笠原良知
*[11*    <]松野健一
*[12*    <]可知靖之
*[13*    <]執行佐智子
*[14*    <]山下裕子
 『馬の首風雲録』の原作ということもあって、ずっと見たかったのだが、今回まで機会がなかった。
 肝っ玉おっ母のアンナと戦争好きの長男、律義で軍の会計係になる次男、唖でやさしい末娘、調子のいい色男の炊事係、したたかで好色でもある従軍牧師、がさつな娼婦という顔ぶれだが、栗原のアンナはちょっとしゃがれ声で早口にまくしたてる。痩せていることもあって、おっ母という感じではないが、酒保商人のずぶとさと女としての脆さを感じさせる。他の役者は人がよさそうでしたたかな牧師の小笠原以外、特に印象はない。
 前半では幌馬車で移動していたが、次男の逮捕時に略奪にあい、すべて奪われる。戦地で暮らす緊迫感は一応伝わってくる。
 次の場面ではちゃっかりジープを調達しているが、荷台が狭すぎるのは興ざめ。奇襲攻撃の場面も、森に降下してきた落下傘部隊にしたのは底意が見えすぎる。
 ラスト、末の娘が町の子供を救うために、自分の命を犠牲にして、太鼓をたたきつづけるクライマックスは悪くないが、教科書的な美談という印象がなくもない。
 大昔に見た、わざとらしく異化効果を強調したブレヒト劇とはもちろん違うが、役者の個人プレイを抑制し、整然とまとめすぎたような感想をもった。
 ブレヒト劇でおなじみのソングが低調で、小粋な味が微塵もないのは残念。これでいよいよ教科書的な印象が強まった。
*[01* 題 名<] 華々しき一族
*[02* 劇 団<]
*[03* 場 所<] 新国立劇場小劇場
*[04* 演 出<] 鐘下辰男
*[05* 戯 曲<] 森本薫
*[06  上演日<] 2000-02-28
*[09* 出 演<]榎木孝明
*[10*    <]佐藤オリエ
*[11*    <]佐藤慶
*[12*    <]未來貴子
*[13*    <]大原康裕
*[14*    <]七瀬なつみ
 森本薫は「女の一生」のイメージが強すぎて、敬遠していたのだが、こんなにモダンで、洒落ていて、痛切な芝居を書いていたとは! しかも、昭和10年、23歳でだ。天才というしかない。
 鐘下も従来の絶叫芝居とは一線を画すサロン劇を演出して、新境地を開いた。
 老映画監督の鉄風(佐藤慶)と舞踊家の諏訪(佐藤オリエ)がそれぞれ子供を連れて再婚した家庭に、監督の弟子の新進監督の須貝(榎木)が下宿している。監督の長男の昌允(大原)は芸術一家にあって、芸術的才能のないことを自覚していて、プロデューサーとして生きようとしているが、ちょっと屈折している。彼は義理の妹になった舞踊家の内気な娘の美予(未來)に恋心をいだいているが、彼女の方は須貝を意識していて、長男はそれがおもしろくない。老監督には娘の未納(七瀬)もいて、はねっかえりの末っ子タイプだが、やはり須貝をしたっていて、だだをこねては彼をふりまわしている。
 須貝の初監督を翌日にひかえた夏の昼下がり、昌允は不機嫌に美予と須貝にからむが、生々しい嫉妬がちらちらして、美予と兄弟のようにも夫婦のようにも見える。未納のほほえましい駄々っ子ぶりの後に、いきなりドラマの核心へ引きずりこむこの展開は秀逸。
 須貝は美予に結婚をほのめかすが、諏訪が帰ってきて、二人だけになると、いきなり愛を告白する。
 幕は引かずに二幕に突入するが、ここがまたすごい。諏訪は須貝に愛を告白されたことを家族に打ち明け(自慢が混じっているところが可愛い)、鉄風はあっけにとられ、二人の娘はショックを受け、痛烈な言葉が飛びかい、家族崩壊に突き進む。
 このあたり、新境地とはいっても、鐘下は鐘下である。
 これだけの事件がありながら、夜になると諏訪がご飯を食べたいと言いだし、女中が里に帰っているので、二人の娘が食事を作りだす。その間に、須貝は昌允にだけ告げて家を出ていく。
 あっけにとられたまま芝居が終り、腹にずしんとたまる余韻が残った。これが傑作というものか。
*[01* 題 名<] 青空・もんしろちょう
*[02* 劇 団<] 木山事務所
*[03* 場 所<] 紀伊国屋サザン
*[04* 演 出<] 末木利文
*[05* 戯 曲<] 別役実
*[06  上演日<] 2000-03-17
*[09* 出 演<]三谷昇
*[10*    <]小林のり一
*[11*    <]高木均
*[12*    <]林次樹
*[13*    <]楠郁子
*[14*    <]新村礼子
 三木のり平追悼公演で、息子の小林のり一が出演している。
 このところ、戯れの不条理劇から重い宿命劇に舵を切った感のある別役だが、今回の舞台では久しぶりに電信柱が復活した。電信柱の下では看護婦を連れた老夫婦と夫に会いにいくらしい中年女、リュックを背負った青年、幻の蝶をさがす二人のホームレス、そして警官が出会い、なんとなく花見気分になり、桜前線を追って一緒に北に向かいはじめる。
 縁もゆかりもない者どうしがたまたま出会い、関係の中に引きこまれてゆくというおなじみの展開のように見えるが、中年女と青年は義理の母子らしいことがわかり、北へ向かう旅がだんだん宿命の色あいを帯びてくる。死ぬ、死ぬといいながら、さっぱり死にそうもない車椅子の老人(高木)や、不倫をした妻の元から逃げだしてホームレスになっている男(三谷)は滑稽なはずなのだが、この芝居ではまったく笑いに結びつかない。なにかにせき立てられているような切迫感が舞台を領していて、一行とともに、なにかが待っているはずの北に向かって急ぐしかないのだ。
 果たして、北のどん詰まりの港には墓標が立っていた。老人と母子の関係が明らかになるが、謎が解けてめでたしという気分ではない。疑似家族がさがしていたものは謎のまま、海峡の向こうに飛び去ってしまったかのようなのだ。
 青空を映しだした幕に「蝶が一匹、韃靼海峡をわたっていく」という文字がくっきり映しだされ、深い喪失感のうちの放りだされる。
*[01* 題 名<] マクベス
*[02* 劇 団<] ロイヤル・シェークスピア劇団
*[03* 場 所<] グローブ座
*[04* 演 出<] ドーラン,グレゴリー
*[05* 戯 曲<] シェークスピア
*[06  上演日<] 2000-03-27
*[09* 出 演<]シャー,アントニー
*[10*    <]ウォルター,ハリエット
*[11*    <]ボーンズ,ケン
*[12*    <]オコナー,ジョゼフ
 黒一色の舞台の両側には矢倉が組んであって、二階の見立て。矢倉の下にはパーカッションのチームが陣取り、アブストラクトな演奏で舞台をしめる。汚いコートを着こんだ、ホームレスのような魔女ではじまる。軍人は黒いベレー帽に野戦服、マクベス夫妻は黒っぽいスーツ、ダンカン王や廷臣は中世っぽいが、簡素で現代風の作りといえる。
 マクベス夫妻は前半はいかにも現代風の小物の権力者で、ブレア夫妻やクリントン夫妻に見立てているような印象を受けたが、後半になると自分の行いの結果をまっこうから見すえ、悲劇的人物として立ちあがっていく。たたみかけるような戦闘場面と、その間のマクベスの孤独を凝視した独白の緩急が鮮やかだ。
 余分なものをすべてそぎ落とし、悲劇の骨組だけを残した演出だが、骨組が恐ろしくがっちりしているのである。アングロサクソンの底力を見せつけられた。
*[01* 題 名<] 三人姉妹
*[02* 劇 団<]
*[03* 場 所<] STUDIOコクーン
*[04* 演 出<] 蜷川幸雄
*[05* 戯 曲<] チェーホフ
*[05* 翻 訳<] 小田島雄志
*[06  上演日<] 2000-03-31
*[09* 出 演<]原田美枝子
*[10*    <]松本典子
*[11*    <]川本絢子
*[12*    <]村井国夫
*[13*    <]荻野目慶子
*[14*    <]林昭夫
 急勾配の階段座席が紗幕で仕切られた細長い舞台をはさんで向かいあっている。客電が落ちていくと、舞台が徐々に明るくなり、紗幕ごしに白い家具がおかれた客間が浮かびあがる。椅子に座り、卓に肘をついているオーリガ(松本)。寝椅子の上で本を読んでいるマーシャ(原田)。はつらつと歩きまわるイリーナ。
 イリーナは自分の名の日の祝の喜びを歌いあげ、それにオーリガの台詞が答えるが、朗読調で、対話というより輪唱に近い。その間、マーシャは黙然と読書に没頭している。最近のチェーホフ劇は台詞のすれ違いというかズレを強調した演出が多いが、この上演はすれ違うどころか、三人がそれぞれ自分の内面に閉じこもり、断絶している。
 こんなはじまりかたをしていいのかと固唾をのんでいると、イリーナが小走りに紗幕を引き、老軍医や連隊の将校連が加わって、普通の芝居らしくなる。特に村井のヴェルシーニンが登場すると、舞台は一気に華やぎ、密度の高い親密さがたちこめる。モスクワ時代を回顧する場面の切なさ。
 だが、流れはしばしば淀み、虫眼鏡で拡大したかのように台詞の細部が大写しになる。断絶の亀裂がぼこっぼこっと深淵をのぞかせる。老軍医(妹尾正文)や男爵(高橋洋)など、愛すべき人物ばかりなのだが、それだけに台詞の背後の孤独が痛ましい。
 二幕(原作の三幕)にはいり、舞台が不幸の色に染められてくると、亀裂はいよいよ口を広げていく。マーシャの原田は一幕は冴えなかったが、ヴェルシーニンと不倫に走り、懊悩する二幕では俄然輝きだす。イリーナの川本も夢に破れてからの方がいい。
 男爵が死に、連隊が去ってしまった終幕。三人かけあいの台詞は、冒頭同様、輪唱に近くなり、三人ばらばらの断絶をだめ押しする。シェルバンの「桜の園」以来、チェーホフの喜劇性に注目した演出が多かったが、蜷川は「新劇」とは別の意味で、悲劇として上演したのだと思う。いろいろな「三人姉妹」を見てきたが、一見正統的に見えて、こんなに挑発的な舞台ははじめてだ。
*[01* 題 名<] オットーと呼ばれる日本人
*[02* 劇 団<] 民藝
*[03* 場 所<] 紀伊国屋サザンシアター
*[04* 演 出<] 米倉斉加年
*[05* 戯 曲<] 木下順二
*[06  上演日<] 2000-04-03
*[09* 出 演<]三浦威
*[10*    <]鈴木智
*[11*    <]津田京子
*[12*    <]助川汎
*[13*    <]内田潤一郎
*[14*    <]齊藤尊史
 ゾルゲ事件に材をとった芝居。尾崎秀実は「オットー」、ゾルゲは「ジョンスン」、二人を引きあわせたアグネス・スメドレーは「宋夫人」と呼ばれる。民族と名前のズレはスパイ組織をあつかっているためでもあるが、ナショナリズムとインターナショナリズムの対立という主題に直結している。尾崎の売国的行為は「労働者には祖国はない」というインターナショナリズムによって肯定されてきたからだ。
 だが、この芝居の眼目は尾崎にナショナリズムを語らせるところにある。尾崎niはスパイの暗さはみじんもない、直情径行で生一本の好男子で(実際にそうだったらしい)、ゾルゲの説くインターナショナリズムに対しては、あくまで自分は日本人であり、日本を愛するからこそ国家機密をソ連に提供するのだと語る。
 初演時にはこうした問題設定が衝撃的だったのだろうが、ソ連が崩壊し、インターナショナリズムが社会帝国主義の隠蓑にすぎないことが明らかになった今日では悪い冗談にすぎない。ソ連と共産主義中国と日本が手を結び、アジア共同体を作るという尾崎構想にいたっては冗談にすらならない。38年という時間は「古典」になるには中途半端なのだ。
 ディスカッション・ドラマとしては苦しいが、芝居としておもしろい部分もある。治安維持法で検挙され、職を失った友人の瀬川という学者は日本のインテリの典型になっているからだ。彼は尾崎の生一本の行動をいじいじと深読みし、時局が厳しくなると、占領地に報道班員として出かけるにあたり、少佐待遇にしてもらえないかと尾崎に頼みに来ている。国際的な陰謀の進んでいるすぐそばで、ちまちまと考えこんでいる姿は滑稽だが、戦後は空想平和主義者としてさぞ活躍したことだろう。
*[01* 題 名<] ラ・マンチャの男
*[02* 劇 団<]
*[03* 場 所<] 日生劇場
*[04* 演 出<]
*[05* 戯 曲<] ワッサーマン
*[05* 翻 訳<]
*[06  上演日<] 2000-05-10
*[09* 出 演<]松本幸四郎
*[10*    <]鳳蘭
*[11*    <]上條恒彦
*[12*    <]浜畑賢吉
*[13*    <]松本紀保
*[14*    <]佐藤輝
 染五郎時代から何度も見ているのだが、日生でははじめて。オーケストラ・ピットがないので、楽団は円形舞台を囲んで両袖にはいっている。正面壁の上方に穴があいて、地下牢に見立てた舞台に階段が降りてくるのだが、舞台が小さいので、牢獄の重苦しさが弱い。
 しかし、芝居がはじまり、セルバンテス役の幸四郎が軽妙に口上を述べはじめると、一気にラ・マンチャの世界に引きこまれる。
 前回は鳳蘭が一本調子と書いていたが、今回のアルドンサはすばらしい。すさんだ女がドン・キホーテにほだされ、真心に目ざめるが、手当てしようとしたロバ追いたちに手籠めにされる。しかし、キハーナ老人の臨終にあらわれ、夢を取りもどせと叱咤する。心の軌跡をこれだけ骨太に描けるのは、鳳蘭だけだ。
 神父の石鍋多加史もいいが、松たか子に代わった松本紀保は影が薄い。
*[01* 題 名<] レプリカ
*[02* 劇 団<] THE・ガジラ
*[03* 場 所<] 世田谷パブリックシアター
*[04* 演 出<] 鐘下辰男
*[05* 戯 曲<] 鐘下辰男
*[06  上演日<] 2000-05-19
*[09* 出 演<]若村麻由美
*[10*    <]木場勝己
*[11*    <]KONTA
*[12*    <]内田滋啓
*[13*    <]大鷹明良
*[14*    <]外波山文明
 ストーカー防止法制定にあわせたわけではあるまいが、鐘下の時事的な嗅覚が生かされた芝居だ。
 嵐の夜からはじまる。雷鳴がとどろき、山小屋の屋根を雨が激しく打ち、絢子(若村)が留守を守っている。停電になり、窓に人影がかすめる。父親の並木(木場)と宮田(KONTA)がもどってくるまで、一人でおびえる彼女の姿をたっぷり見せる。受身の性としての彼女を最初に印象づけるのが、このストーカー・ドラマのポイントになっていて、若村の魅力なしには成立しなかったろう。
 彼女は19歳の時にストーカーにつきまとわれ、そのショックで精神を病み、10年間入院していた。並木は娘の社会復帰のために、仕事をやめ、東京を引きはらって、山小屋に移ってくるが、ストーカーは山奥の村まで追いかけてきて、この夜も小屋に出没し、配電盤からヒューズを抜いて電気を止めてしまった、という。
 翌日、絢子の絵の教師の谷村(大鷹)が、彼女そっくりの人形を誕生日プレゼントを甥に託して送ってくる。絢子の目の前で人形をもてあそぶ場面があるが、この倒錯したおもしろさは特筆に値する。
 中盤、室内を盗聴したテープが送られてきたり、人形に盗聴器がしこんであることが発覚したりして、迷宮にはいりこんでいくような眩暈に襲われる。要するに、ここに登場する男たちは多かれ少なかれストーカーなのだ。
 最後に最大のストーカーの意外な正体がわかる。理屈で考えれば、いくつかおかしな点があるが、芝居としての起承転結はみごとについている。ただし、その後の付け足しは余計な印象を受けた。
*[01* 題 名<] 恋する人びと
*[02* 劇 団<] 木冬社
*[03* 場 所<] 紀伊国屋サザンシアター
*[04* 演 出<] 清水邦夫
*[05* 戯 曲<] 清水邦夫
*[06  上演日<] 2000-06-09
*[09* 出 演<]松本典子
*[10*    <]磯部勉
*[11*    <]黒木里美
*[12*    <]中島久之
*[13*    <]中村美代子
*[14*    <]吉田敬一
 昭和11年、北陸の軍都Sが舞台と字幕が出るが、プログラムによると高田だそうだ。高田連隊は二・二六事件鎮圧で活躍しすぎたために、大陸に送られることになるが、その前の半年間の物語である。
 老主人も跡取りも亡くなり、廃屋と化した銀嶺写真館に、高田連隊の清田大尉が二人の部下を連れて訪ねてくる。ハイカラな洋館を将校クラブに使いたいというのだが、姉(松本)は軍服姿の男を見ると、老母が錯乱するといっていったんは断る。
 女学校の国語教師の姉は、女学生と中学生を集めて朗読会を主宰していて、モダニズムの実験演劇を稽古している。そこに清田大尉のヒポコンデリーの息子が参加していたことから、大尉が写真館を再訪し、将校クラブに使う話が実現する。アールデコ調の洋館にタンゴの調べが響き、『暗殺の森』のような妖しい世界が展開するという趣向だ。
 もちろん、これは清水のファンタジーである。あの国家社会主義の時代に、礼儀正しく、文化的な将校はいなかったろう。『上海バンスキング』や『洪水の前に』のように外地を舞台にするならともかく、北陸が舞台ではあまりにも無理がある。
 ドラマに力があれば、ファンタジーにリアリティが生まれるのだが、この芝居にそこまでの吸引力はない。軍国主義のお先棒かつぎの報国写真協会をラストに登場させたのは、結末のつけ方としては苦しい。
 黒木里美は軍帽を目深にかぶって、タンゴを踊る。努力はわかるけれども、魅惑するところまでいかない。彼女のヒポコンデリーの夫役の中島久之は思いいれたっぷりの台詞が決まっていて、よかった。今後、清水劇の中心的な戦力になるかもしれない。
 NHKが収録に来ていたが、客席は八割の入り。
*[01* 題 名<] 尺には尺を
*[02* 劇 団<] シェークスピア・シアター
*[03* 場 所<] ニュープレイス
*[04* 演 出<] 出口典雄
*[05* 戯 曲<] シェークスピア
*[05* 翻 訳<] 小田島雄志
*[06  上演日<] 2000-06-26
*[09* 出 演<]吉田鋼太郎
*[10*    <]久保田広子
*[11*    <]松木良方
*[12*    <]星和利
*[13*    <]佐瀬弘幸
*[14*    <]住川佳寿子
 シェークスピア・シアターは、昨年、25周年をむかえた劇団で、創立6年目の1981年にはシェークスピア全37作品上演という世界初の快挙をなしとげたものの、翌年、主要メンバーが大量退団するというアクシデントにみまわれた。
 大量退団直前の公演では、「十二夜」と「ジュリアス・シーザー」を完全Wキャストで上演できるほど、役者の層が厚かったのだが、全作上演という目標が達成されてしまったので、求心力がなくなったのだろう。
 たまたま、この時の新人組の「十二夜」を見たのだが、普通、マルヴォーリオいじめを中心にするこの芝居を、ヴァイオラとオーシーノ中心に演出していて、「柳の枝で小屋を作り……」という退屈な長台詞が思いがけず、一編の詩となって立ちあがってきて、「十二夜」はこういう芝居だったのかと衝撃を受けた。しかも、ヴァイオラとオーシーノを演じた新人コンビがすばらしくて、あれは最高の「十二夜」だったと今でも思っている。
 なんでこんな昔話からはじめたのかというと、その時の新人コンビ、久保田広子と吉田鋼太郎がそろって舞台に立つのを、今回、18年ぶりに見ることができたからだ(久保田は残留組、吉田は退団組)。劇団のホームページによると、二人の共演は昨年五月に実現していたのだが、「夏の世の夢」と「リア王」は何度も見ているので、公演案内をろくに見ずに捨ててしまったのである。
 さて、吉田は公爵からウィーンの全権をまかされた謹厳実直なアンジェロ役、久保田はアンジェロに死刑判決を言いわたされた弟を救うために、嘆願に行く尼僧のイザベラ役で、謹厳実直なはずのアンジェロがイザベラに一目ぼれし、関係を迫るくだりが前半の山場となる。
 シェークスピア・シアターは前から立ち上がりの遅い劇団で、どの芝居でも一幕目はなかなか調子が出ないのだが、今回は特にひどく、ほとんど学生演劇なみの出来で、客演の吉田のうまさばかりが目だってしまった。
 座員の中では久保田は抜群にうまいのだが、この劇団の看板女優の吉沢希梨そっくりになっていて、おやおやと思った。昔は天衣無縫にはじけていたのだが、不自然に抑制している印象なのである。
 二幕になって、ようやく調子が出てきて、舞台は尻上がりによくなっていった。ヴィンセンシの佐瀬は一幕とは別人といっていいくらい、すばらしかった。大団円は感激である。もっと早く調子が出ていれば、一幕の久保田に吉田が迫る場面が生きていたはずなのだが。
 吉田の次の客演は来年一月になるらしい。もし、将来、「十二夜」をやったとしても、吉田はマルヴォーリオ、久保田はオリビアだろう。あの時の「十二夜」は記憶の中で大事にしておくしかない。
*[01* 題 名<] 水の記憶
*[02* 劇 団<] ひょうご舞台芸術
*[03* 場 所<] 紀伊国屋ホール
*[04* 演 出<] 栗山民也
*[05* 戯 曲<] スティーヴンソン,シーラ
*[05* 翻 訳<] 小田島恒志
*[06  上演日<] 2000-07-14
*[09* 出 演<]キムラ緑子
*[10*    <]佐藤オリエ
*[11*    <]戸川京子
*[12*    <]八木昌子
*[13*    <]千葉哲也
*[14*    <]坂部文昭
 薄暗い舞台。右手のベッドで女(キムラ緑子)が寝ている。緑色のスポットのあたった左手の鏡台に緑色のひらひらドレスを着た老婆(八木昌子)が髪を直している。女はメアリーという独身の女医、老婆は彼女の母親らしいが生きてはいないようだ。母親はメアリーがもってきた専門書を手にとって、こんな難しい本を読んでいるから縁遠くなるんだと小言を言い、メアリーは辟易している。
 照明が明るくなり、奥の扉から中年の女(佐藤オリエ)が登場。姉のテリーザで、母親の葬儀の段取をつけてきたところだと、がみがみまくしたてる。さっきの母親はやはり亡霊だったのだ。メアリーは夜勤明けで、すこしでも寝かせてくれと言うが、一人で母親の最期を看取る羽目になったテリーザは容赦せず、子供時代の事件の蒸し返しから、健康食品談義にはいっていく。テリーザは健康食品を売っているヴェジタリアンで禁酒主義者なのだ(飲尿療法の話題が出てくるが、ヨーロッパでもはやっているのか)。このやり取りは絶妙で、本当の姉妹のようだ。
 そこに末娘のキャサリン(戸川)がパンクな衣装で登場。ボーイフレンドが葬式に来るからといって、彼の電話を待っているが、男に逃げられてばかりいることを知っている姉二人はまたかという顔。キャサリンはいよいよいきり立って、マスカラが溶けて、狸みたいな顔で駄々をこねる(ちょっとやりすぎ)。
 さらに、メアリーの不倫の恋人で医者のマイク(千葉)が窓からはいってきて(外は雪)、テリーザの夫で人のよいフランク(坂部)もくわわり、母親の棺まで運びこまれてくる。
 このてんやわんやだけでもおもしろいのだが、爆弾が用意されていた。禁酒主義者のはずのテリーザが酒を飲んで酒乱ぶりを発揮し(かわいらしさを失わないのはみごと)、一家の期待の星だったメアリーが14歳の時に出産して、生まれてきた男の子を里子に出したことを暴露してしまったのだ。メアリーは25歳になるはずの息子とずっと再会したがっていたが、10年前に事故で亡くなっていたことがわかる。誰もいなくなった居間で、母親の亡霊とキャサリンが語りあう場面はしみじみとする。
 地味なマイクにも見せ場が用意されていて、信じてもいない健康食品のセールスなんかやめて、パブを開く決心をする。
 翌朝、葬儀屋が雪で来られなくなり、棺を家族で運びださなければならなくなるが、このどたばたでひびのはいった家族関係が修復される。こういうことはあるものだ。
 「三人姉妹」のバリエーションなのだが、凜々しいキャサリンを演じたキムラ緑子をはじめとして、役者がみんなうまく、演出が細部までゆきとどいて、たっぷり笑わせながら、味の濃い家族劇に仕上がっている。
*[01* 題 名<] オイディプス王
*[02* 劇 団<] ク・ナウカ
*[03* 場 所<] 東京都庭園美術館
*[04* 演 出<] 宮城聰
*[05* 戯 曲<] ソフォクレス
*[06  上演日<] 2000-07-26
*[09* 出 演<]美加里
*[10*    <]阿部一徳
*[11*    <]大高浩一
*[12*    <]吉植荘一郎
*[13*    <]江口諒
*[14*    <]吉田桂子
 都立庭園美術館中庭での野外公演。
 昨日、台風で大雨が降り、今晩も雨が残るというのでレインコートを用意して出かけたが、午後、雨はあがり、気温が下がる。待ち時間にビニールの雨合羽(昨夜はあれをかぶって見たのか?!)と虫よけスプレーを貸しだしていたが、雨の直後のせいか、蚊はまったくいなかった。
 舞台の背景になる美術館本館はコンクリート打ち放しだが、デザインは木造洋館風で、細川邸を思わせる。舞台の作りも、「桜姫東文章」の時と似ている。
 コロスとスピーカーは白い袴、緋色の衣で、律僧の服装か。
 オイディプス(美加里)は長身のイオカステ(江口諒)が押す祭壇に座って登場。黒地に金色の鱗の大蛇の法服、密教の法具、金色の烏帽子で、後醍醐天皇を意識しているらしい。顔が小さいので、御雛様みたいだ。
 原作は朦朧としか憶えていないが、かなり台詞を増やしているような気がする。ケガレの張本人と名指されたオイディプスはクレオンの陰謀を疑い、逡巡しながら真相に近づいていく。オイディプスの心の揺れを事細かに描いていて、世話物っぽい。ク・ナウカは歌舞伎に近づいているのか。
 目をつぶした後のオイディプスはおどろ髪に血の赤い糸、膿の白い糸を顔にまつわりつかせ、お岩さんのように変貌する。ちょうど村上龍論で、王権とケガレの関係について書いているところだったので、シンクロニシティのように感じた。
 全体に湿っぽい印象があったが、自らを追放し、娘たちと別れる最後の嫋々たる場面は感動的だった。
 オイディプスを美加里にしたのは、日本の風土にこの劇を移植するという意味では正解だったと思う。最初から両性具有的な妖しい美しさがあり、目をつぶす場面では運命に翻弄される人間の弱さが出ていた。ただし、これは運命に一人立ち向かうギリシャ悲劇とは別物である。
 イオカステはもっと出番があった方がよかったと思う。テイレシアス(萩原ほたか)は漫画的。コロスの長(榊原有美)が目立った。
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