エディトリアル   June 2004

加藤弘一 May 2004までのエディトリアル
Jul 2004からのエディトリアル
Jun05

 佐世保で小学校6年の女児が同じクラスの女児の首ををカッターナイフで切り裂き、殺すという事件が1日に起きた。殺人女児と被害者の女児は友人同士で、交換日記や交換日記の延長ではじめたホームページをつづけていたが、被害女児に体重のことや「ぶりっ子」と書かれ、やめてと頼んでもやめてくれなかったので、「この世からいなくなれ」と思ったと長崎県警に供述しており(Mainichi Interactive、接見した弁護士にも「1人で悩み、考えた」と語っている(Sankei Web)。

 インターネットが直接の動機になったというのでマスコミは例によって色めき立った。また、二人が仲のよい親友同士と見られていたことから、『blue』や『花とアリス』、『下妻物語』のような、思春期の女二人の関係のもつれかと思っていた。だが、ここに来て、事件の別の面が見えてきた。

 殺人女児はバスケットボールの部活に熱中していたが、今年にはいって親から部活を辞めさせられ、姉によると「落ち込んでいた」というのだ(YOMIURI ON-LINE)。ホームページ作りに熱中するようになったのは、部活を辞めて時間を持てあましていたかららしく、実際、彼女のホームページには「暇暇暇暇暇暇暇暇!」と部活ができなくなった不満が吐露されていたそうである。

 この頃から、殺人女児は粗暴になり、校舎の壁に頭を壁にぶつけたり、ほかの生徒に暴力を振るうなどの異常な行動が目立ちはじめ、クラスで孤立していったという。敬遠されていることへの反発からか、15人の級友を殺しまくるという、『バトル・ロワイアル』もどきの物語を書いて自分のホームページで公開し(Mainichi Interactive東京新聞)、級友を「下品な愚民や」、「うぜークラス つーか私のいるクラスうざってー」と罵倒する言葉も書きつらねていた。また、事件の10日前には、同じクラスの男子生徒相手に、殺人に使ったのと同じカッターナイフを振りまわしていたことがわかった(Mainichi InteractiveZAKZAK)。

 クラスで孤立する中、唯一関係を深めたのが被害女児だったらしい。ホームページを開いていた殺人女児がインターネットの使い方を教え、被害女児は「感謝、感謝」と書いていたが、被害女児が自分のホームページで殺人女児の体重にふれたことから、二人の仲がこじれていく。殺人女児は唯一人残った友達をも失ってしまう。

 バスケットボール部を退部させられたことによる憤懣と孤立が最も大きな要因だったであろうことは想像に難くないし、小説に書いただけではあきたらず、実際の殺人にまでいたったのは素質的な問題や発達上の問題もあるに違いない。それでも最後の一押しとなったのが、ネット上のトラブルだったことは否定できないと思う。

 小学生の作ったホームページなんて、誰も読んではいないだろうとタカをくくっていたが、現実はそうではなかった。

 風野春樹氏の「読冊日記」の6月2日6月4日の項で知ったのだが、楽天のblogサービスの「職業:小学生・中学生」というカテゴリーを見ると、夥しい数の小中学生のblogがならんでいる。どんなことが書いてあるかというと、たとえば、こんな具合だ(以下の引用は殺人女児とはまったく関係のない小学生のものである。念のため)。

なヵゝィィ友達と・・・! 05月31日(月)

今日ゎなヵゝィィ友達と遊んだょぉ♪
委員会の事とヵゝぃろx2ゃったケド、楽しヵゝったо
CDプレーヤーでぃっしょに聞ぃてた!(笑)
バスケもちょこっとゃったょぉ★ミミミミミミ

今日ゎぁ〜〜〜〜^^ 06月01日(火)

今日ヵゝら6月だぁ〜〜〜^^
今日ゎバスケでしたо疲れましたっ!ケド楽しヵゝったです♪
汗ダらx2〜〜〜〜(;^o^;)
ぅちのクラスの男子達ゥザィ・・・・・((ェ"???

 いくつかのぞいてみたが、だいたいこんなものである。ヤコブソンは言語には六つの機能があるといったけれども、六番目の交話機能に特化しているというか、要するにpingのようなものであり、当然、内容は無いに等しい。

 風野氏は年齢別にセグメント化されており、小中学生の関心がおそろしく狭い点に注目し、こう指摘している。

 では小中学生のホームページはというと、これまでの個人サイトの流れとはまったく断絶しているように見える。自己表現ではなく、競争でもなく、話題によるつながりでもない。なんというか、ただ純粋につながっていること。それだけを指向しているように見えるのである。これは、ネットというよりは、むしろ携帯メールでのコミュニケーションの延長なんじゃないだろうか。だから、順位やこだわりを重視する男の子より、コミュニケーションを重視する女の子の利用者の方が圧倒的に多いのだ。

風野氏は「いずれ彼女たちが成人したときには、ネット社会に大きな変革をもたらす存在になりうるのかもしれない」と書いておられるが、それは考えすぎだと思う。ヤコブソンのいう言語の六つの機能が共存しているように、伝達機能に特化したサイトや表現機能に特化したサイトがなくなることはありえない。

 推測に推測を重ねることになるが、殺人女児は被害女児の書きこみによって、ネット上の交友網を破壊されると感じたのではないだろうか。

 殺人女児は小学6年生にしてはパソコンに詳しく、ホームページ製作の指南役として全国各地に弟子をもっていたという。オフの人間関係で孤立し、被害女児の書きこみによって、ネットの人間関係までも失うのではないかという妄想が彼女を殺人という凶行に駆りたてたのではないかと思うのだ。

Jun08

 佐世保の殺人女児のblogのミラーサイトを閲覧した。TVや新聞ではいかにもおどろおどろしく紹介されているが、実際はちょこまか動くGIFアニメを多用しており、コミカルなサイトという印象を受けた(「暇暇暇暇暇」や「うぜークラス」で検索しても、ミラーサイトはなかなか見つからないと思う。2ちゃんねるを探すのが一番早いだろう。)。

 Mainichi Interactiveの「加害女児、魔術や呪いに関心−−HPに書き込み」という記事では、西洋呪術に対する関心をさも異常なことのようにとりあげているが、おまじないを料理のレシピに見立てて紹介しており、機知を感じさせる。記事中の「笑い者にされた時には「紫ドクロの呪術」という呪法で復しゅうできると記載している」という要約とはずいぶん印象が異なる。

 黒地に赤い字は確かに目立つけれども、「霞ヶ関官僚日記」だって似たようなものだ(官僚氏は痴漢ぐらいならやるかもしれないが、同僚殺しをやるとはとても思えない)。

 『バトル・ロワイアル』の二次創作も読んでみたが、あっさりしていて拍子抜けした。死に対して酒鬼薔薇的な偏執をもっているのかと思っていたが、説明だけで描写はなく、戦果を淡々と記述するだけである。小学生の表現力を買いかぶりすぎてはいけない。

“―――――プログラム終了だぞー。杉江真耶さんスタート地点の分校に戻ってきて下さーいっ。お疲れ様〜〜〜〜。”
プログラム終了の放送が鳴り、真耶はディパックを肩にかけると分校に歩みを進めた。

 強いていえば、このあっけない終り方が印象に残ったくらいか。

 「女児が過激なサイトも閲覧していたことや、フォルダを作成していたことは、家族は把握していなかった」と、家族が彼女のパソコン利用の異常性に気づかなかったことを咎めるような記事が書かれているが、後で使えそうなページをフォルダに分類・保存するくらいのことは多少とも知識のある人間なら誰でもやっていることであって、記事を書いた人間の頭の中味の方が心配になる。彼女がどんなページを保存していたのかは知らないが、ネットに転がっている魔術関係のページではたかがしれている。

 もちろん、楽天広場にならんでいる、同年代の女の子の味も素っ気もないモノローグ垂れ流しのblogと較べると、段違いにレベルが高いことは確かだ。明らかに第三者に受けることを意識しており、その意味で早熟ではあるが、異常といえるほどとも思えない。正直いって、事件前に彼女のblogを閲覧していたとしても、わたしにはちょっと早熟で寂しい女の子がいるということしかわからず、事件を予見するなど不可能だったろう。

 この事件は『バトル・ロワイアル』の影響がとりざたされているが、わたしはむしろ村上春樹の『海辺のカフカ』と通底するものがあるのではないかと感じている。

 殺人女児が『海辺のカフカ』を読んでいるという話は出てきておらず、おそらく読んでいないのだろうと思うが、深いところでつながっているのは『バトル・ロワイアル』ではなく、『海辺のカフカ』ではないかという気がする。

 『海辺のカフカ』が頭に浮かんだのは、被害女児に長さ10cm、深さ10cmという、ほとんど首を切断するほどの傷を負わせながら、15分間、死んでいく被害女児を観察していたと知った時である。頸動脈から血が噴きだし、血だまりがどんどん拡がっていっただろうに、この離人症的な反応は『バトル・ロワイアル』の登場人物たちよりも、『海辺のカフカ』のカフカ少年に近い。

 村上春樹は初期は自殺の物語ばかり書いていたが、『ねじまき鳥クロニクル』を境に、殺人と暴力の物語に転じた。村上春樹の変貌は時代の深層の変化と連動しているように思うのだ。

 さらにいうと、佐世保という土地柄はもう一人の村上を連想させずにはおかない。殺人女児はW村上を読んでいないだろうが、W村上と通底している可能性がある。

Jun12

 法務省は人名用漢字見直し(拡大)案を発表し、人名漢字の拡大に関する意見募集」をはじめた(6月11日〜7月9日)。

 今回の案には578字が収録されているが、選定基準は以下の通り。

ア 現在人名用漢字に含まれていないJIS第1水準の漢字計771字から,基本的に,漢字出現頻度数調査(平成12年文化庁作成)に現れた出版物上の出現頻度数に基づき,上位521字を「常用平易」と認め,選定した。

イ 現在人名用漢字に含まれていないJIS第2水準以下の漢字から,上記出現頻度数,追加の要望の有無・程度などを総合的に考慮し,57字を「常用平易」と認め,選定した。

 平成12年に文化庁がおこなった「漢字出現頻度数調査」とは「表外漢字字体表」のための調査である。あくまで印刷物の用字調査であって、人名の調査ではないことは押さえておこう。

 「漢字の意味(人名にふさわしいか否か)については一切考慮しなかった」ために、「腫」「疹」「痕」「膿」「癌」といった、まず名前には使わないだろう字がはいっている点に注目が集まっているようだが、それは単に字数が水増しされたというだけであって、大した問題ではない。本当の問題点は別のところにある。

 JIS第1水準を中心に採録するという方針は、一見、電子化された現状を重視した現実主義的な選定のように見えるが、実はそうではない。「薩」の「立」が「文」に、「辻」や「辿」の之繞が二点之繞に、「揃」の「月」が「舟月」に作ってあるというように、今回の案はJIS X 0208ではなく、「表外漢字字体表」にもとづいているのである。

 PDF全体を範囲指定してみるとわかるが、第1水準で104字、第2水準とそれ以外で11字、合計115字――実に1/5!――が、「表外漢字字体表」とJIS X 0208の例示字体のズレに係わっている。

 人名漢字が工業標準であるJISではなく、国語審議会の出した「表外漢字字体表」に準拠するのは当然だが、現実にはこれが厄介な問題を引き起こすのである。JISの2004年改正はJIS X 0208JIS X 0213の使いわけという裏技によって、「表外漢字字体表」とJISの齟齬を書類上で棚上げしたにすぎず、実際はなにも解決していなかったからからである。

 JIS的には一点之繞と二点之繞は包摂されており、なんならJIS X 0213という選択肢もあるわけだが、人名となるとそうは言っていられない。「辻」にしても、「表外漢字字体表」が二点之繞であっても、拡張新字体の一点之繞で戸籍や住民票を登録している人もいるわけである。住基ネットが統一文字コードという独自文字コード(「文字コードから見た住基ネットの問題点」参照)を採用せざるをえなかったように、JISの粒度は大きすぎて、住基台帳や戸籍には使えない。人名漢字拡張はパンドラの箱を開けようとしているのかもしれない。

 解決法はないわけではない。ISO 101646に康煕字典体を「互換漢字」として登録申請するのだ。10646の漢字統合は実質的には崩壊しており、JIS X 0213に収録された康煕別掲字があっさり採録されたように、統合すべき範囲とされた微細な違いであっても、正式に申請すれば独立の字としてはいるのである(「互換漢字」をめぐるすったもんだに興味のある方は『朝倉漢字講座5』の拙稿を参照いただきたい)。

 拡張Cにいれるつもりなら急がなければならないが、追加した字をパソコンで使えるようにするにはこういう手続が必要だということを法務省はわかっているのだろうか?

Jun26

 「朝まで生テレビ」が「皇室とニッポン!」として、皇太子発言に端を発した皇室問題をとりあげた。

 お世継ぎ問題が中心で、表向きはともかく、本音ではみな女帝容認論のようだった。しかし、愛子内親王の即位まではコンセンサスができているにしても、皇配をどう選ぶか、選ばれた男性が皇配になることを承知してくれるかどうかをふくめて、難題が先送りされたにすぎないことは誰しも認めるところだろう。

 女帝是非論は現皇室典範の皇位継承者は男系皇族に限るという規定を今後も維持するかどうかかかわるが、中国の宗族の考え方と、それを形而上学化した朱子学の正統観が根柢にあるという事実に言及した論者が一人もいなかったのは不可解だった。

 八木秀次氏は遺伝子の組みあわせのフリップを持ちだし、歴代の天皇は神武天皇のY染色体を継承しているなどととんちんかんなことを言っていたが、もちろん、古代に遺伝学があったわけではない。

 古代中国は遺伝学とはまったく別の枠組で子供が親に似るという現象をとらえていた。人間は精神(気)と肉体(形)からできていて、精神は父親から、肉体は母親からあたえられると考えていたのだ。

 この問題については『石川淳 コスモスの知慧』の「「血」の脱構築」の章を書く際にずいぶん調べたものだった。あらためて説明するのは面倒くさいので、拙著から引かせてもらう。

 それにしても、「血」は「気」ではない。先に述べたように、中国社会は父系の宗族集団によって構成されており、父系で継承される生命の連続を「気」と呼んでいる。時代を通じて民衆の生活に浸透していった族譜に「一祖分派。同気連枝」、「世数雖遠。皆一気也」という句がしばしば見られるように、これはもはや自然哲学というようなものではなく、感情生活に深く根をおろした土俗的な思考と化しているといっていい。後に見るように、朱熹の合理的で精緻な体系といえども、そうした土俗的な思考とけっして無縁ではないが、注意しておきたいのは「気」が父系でしか継承されないという点だ。儒教本来の考え方からいえば、自己の生命とは父系の生命の継承であり、自己像とは父親像のみをひな型に築かれるはずのものなのだ。これに対して、日本語の「血」では母系でも生命が継承され(だから、母系親族を養子にとることも普通におこなわれている)、自己像のひな型も複数でありうる。

 中国土着の「気」の考え方を理論化したのが儒教の「孝」であり、「孝」を道家の自然哲学によって壮大な形而上学に高めたのが朱子学なのである(もっと詳しく知りたい人は滋賀秀三『中国家族法の原理』と加地伸行『沈黙の宗教-儒教』を読んでほしい)。

 朱子学は鎌倉時代に日本に移入され、建武の新政の理論的バックボーンとなり、江戸期には崎門学派と水戸学を生んだ。幕末の尊皇思想が崎門と水戸学の産物であることは言うまでもない。

 拙著でも指摘したが、父系の系譜のみを正統とする考え方は日本土着の考え方とは異質である。崎門の中には、他家に養子にはいったのを恥じて、養子縁組を解消し、本姓に復した学者がいたそうだが、そういう端なことをするのは崎門を勉強したからであって、武士であっても父系・母系にはこだわらないのが普通で、夫婦養子などということさえ、普通におこなわれていた。

 『女帝誕生』や『歴代天皇総覧』という著書のある笠原英彦あたりは、父系重視が中国からの移入であることは当然知っていると思われるが、なにかに遠慮したのだろうか。

Jun28

 今月の「日経サイエンス」にマーク・ソームズの「よみがえるフロイト」という論文が載っている。

 『フロイト先生のウソ』という本も出ているように、精神医学の世界では精神分析の評判はおそろしく悪く、21世紀にはフロイト学説は完全に過去のものになるといわれていたが、最新の脳科学ではフロイトの抑圧や幼児期健忘、リビドー理論、夢の理論を生理学レベルで裏づける発見がつづいていて、International Neuro-Psychoanalysis Societyという学会まで組織されているというのだ。

 この学会は Neuro-Psychoanalysis というジャーナルを出しているが、編集委員の顔ぶれがすごい。『脳のなかの幽霊』のラマチャンドラン、『エモーショナル・ブレイン』のルドゥー、『生存する脳』のダマシオ、『なぜ、「あれ」が思い出せなくなるのか』のシャクター等々、日本でも知られた脳神経学者が目白押しだ(読もうと思っていた本ばかりだが、一冊も読んでいない。早く読まなくては!)。

 抑圧と隠蔽記憶は無意識的記憶システムの産物だという。

 1996年にニューヨーク大学のルドゥーは、無意識を司る脳皮質の下部に、知覚情報を、恐怖反応の出現にかかわる原始的脳部位に結びつける神経回路が存在することを明らかにした。この回路は意識的記憶に関与する海馬を通っていないため、この回路に入った現在の出来事は、例外なく、情動のうえで強い影響を及ぼした過去の出来事についての無意識的記憶を呼び起こす。そして、たとえば「ひげのある男性を見ると不安になる」といった、意識レベルでは不合理と思われる感情を引き起こす。

 神経科学の知見によると、満2歳までは意識的記憶に不可欠な脳構造が発達していないことがわかっている。このことはフロイトが「幼児期健忘」と呼んだ現象を説明している。フロイトが推測したように、人間は人生の最早期の記憶を忘れるのではない。その時期の記憶は後々まで残る。ただ、それを意識にのぼらせることができないだけなのだ。

 最初期のフロイトは催眠術によって抑圧されている記憶を思いださせるカタルシス療法をおこなっていたが、確実ではないという理由で、自由連想法に転換した。海馬を通らない神経回路に記憶が存在するなら、思いだせるはずはないわけで、カタルシス療法を放棄したのは正解だったことになる。

 記憶に関するフロイトの神経科学の論文は、脳神経学とは無関係というか、むしろ脳神経学の発展に背を向ける形で、ラカン派の研究者によって読み直しが進められていて、日本でも『ヒステリー研究』の新訳が出ているし、『失語論』の翻訳も数年前に出ている。

 ラカン派の読み直しと、最新の脳研究は交差するのだろうか、無関係なままで終わるのだろうか。久しぶりにわくわくしてきた。

 なお、フロイト復権には反発も激しく、日経サイエンスの今月号には『夢の科学』の著者で、睡眠の世界的権威であるアラン・ホブソンによる「フロイト再来の悪夢」という反論が併載されている。「精神分析は存亡の危機に瀕している。神経科学的な修繕を多少施したところで、どうにかなるものではない。仮に修繕するとしても、あまりにも修繕箇所が多すぎるので、多くの神経科学者は、それよりもむしろ、神経認知的なモデルをゼロから作り上げる方を好むだろう」と大変な剣幕で、無視できない動きであることをはからずも示している。

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