ニューヨーク・タイムスは過去記事の無償公開に踏みきった(media pub)。無償公開されているのは1987年以降の記事だが、それ以前の記事の多くも無料で読めるようである。
安部公房の訃報を検索したところ、ちゃんと出てきた。
映画評も無償公開されており、映画評の抜粋と読者の投稿した感想を読むことができる。映画評の全文を読むにはあらかじめ自分のメールアドレスを登録しておく必要があるが、たいした手間ではない。下は『砂の女』の映画評である。
media pubによると、アーカイブ開放にあわせ、リンク切れがおこらないように記事URLの恒久化するとともに、サーチエンジンの上位に来るように記事のマークアップを変更を進めているということだから、狙いとするところは明確だ。
過去記事の有償公開にこだわっていてはネット社会では埋没するだけだ。ニューヨーク・タイムスのブランド力を守り、アーカイブという資産を生かすには無償公開に踏みきるしかなかったのである。
日本はどうか。MSNは毎日新聞との提携をやめて、10月1日に産経新聞と組んで新ニュースサイト「MSN産経ニュース」を開始したが、過去記事の公開は半年間限定である。毎日MSNが3ヶ月だったことを考えれば多少進歩したといえるが、五十歩百歩でしかない。
一方、毎日新聞は10月1日から「毎日jp」を開設したが、過去記事の公開は一ヶ月間に短縮してしまった。
ITmediaによると「サイト全体について、アルファブロガーと呼ばれる有名ブロガーやネットジャーナリストに助言をもらった」ということだが、一ヶ月でリンク切れになるようなことをしておいて、本当に意見を聞いたのだろうか。
アルファブロガーによるお勧め記事のコーナーなどを作るらしいが、有名人に頼ってという発想がすでに古い。こんなことだから、マイクロソフトに見限られるのだ。バカはどこまで行ってもバカである。
最悪の独裁者といわれたウガンダのアミン大統領を、はからずも側近になってしまった若いスコットランド人医師の視点から描く。原作はジャイルズ・フォーデンの『スコットランドの黒い王様』。
エジンバラ大医学部を卒業したニコラス・ギャリガンは冒険心からアフリカの診療所に赴任するが、クーデタを起こして大統領に就任したばかりのアミンが村にやってきて知りあったことから、とんとん拍子に主治医にとりたてられる。アミンは英国嫌いだったが、ギャリガンが英国に抵抗したスコットランドの出身だったことが気にいられた理由らしい。
フォレスト・ウィテカー演じるアミンは陽気で騒々しく、周囲を熱狂に巻きこみ、現実の大統領というよりカーニバルの阿呆王という印象である。ウィテカーの怪演は評判通りだが、アフリカではこういう人物でないと大統領になれないのだろうか。
ギャリガンはジャングル暮しをやめて首都の豪邸に移り、得意満面の日々を送るが、しだいにアミン政権の裏面を知るようになる。
始末の悪いことに、彼はアミンの夫人の一人に同情するうちに恋仲になってしまう。
不倫がばれたギャリガンは脱出を試みるが、時すでに遅く、絶体絶命のピンチに。最後の最後にエンテベ事件を持ってきたのは上手い。
ギャリガンは架空の人物だが、『金正日の料理人』を読んでいたので、こんな若者がいても不思議はないと思った。北朝鮮が崩壊したら、金正日を主人公にして同じような作品が作れるだろう。
ダイアナ妃の死の後の英国王室の内情を描いた映画だが、3ヶ月前のブレア首相就任時点からはじまる。就任するまでの手続を通して女王の役割を紹介しようというわけだ。
覗き見趣味をほどほどに満足させ、人間模様を見ることもでき、英国の政治制度の勉強にもなるというよくできた映画だが、感動するところまではいかなかった。
エリザベス女王を演じるヘレン・ミレンはすばらしいが、他の役者がしょぼすぎるのだ。ブレア首相がかっこよく描かれてはいるが、所詮、脇役であって、女王に拮抗する人物にはなっていない。王室の面々も小粒だ。ヘレン・ミレンがどんなによくても、対立する人物がいないとドラマにはならない。映画のブレアは3ヶ月で反王室から女王のファンに転向したが、ここを掘りさげればドラマが生まれたかもしれない。
イタリアの文化財ものの図書館で開かれた討論会の場面からはじまる。討論会のテーマはセルジュ・ノヴァクという覆面のベストセラー作家で、壇上には代理人の編集者があがっている。最後列で見ているダニエル(ダニエル・オートゥイユ)がノヴァク本人で、彼はさっさと会場を離れ、ナポリに向かって車を走らせる。ナポリの沖のカプリ島で義理の息子、ファブリツィオ(ジョルジョ・ルパーノ)の結婚式があるからだ。
カプリ島にわたる船上で彼はミラ(アナ・ムグラリス)というイディッシュ語を話す美女と出会い、彼女に誘われるまま一夜をともにする。翌朝、彼女と別れて結婚式場につくが、花嫁としてあらわれたのはミラその人だった。
ミラは新婚の夫をさしおいて、ダニエルに接近してくる。ミラはモデルで、豪勢な匿れ家を持っていたが、同じポーランド出身というエヴァ(マグダレーナ・ミエルカルツ)という女が影のようにつきしたがっていた。
最初はオヤジの危険なアバンチュールで引きつけるが、半ばから復讐の物語であることが明らかになってくる。エヴァはダニエルの自殺した親友の娘で、彼女はダニエルの処女作は自分の父の作品の盗作だと、巨額の金を要求してくる。ミラはエヴァの復讐のためにダニエル一家に近づいたのか。
アナ・ムグラリスの挑戦的なまなざしがどきどきするほど魅力的だが、そのまなざしには意味があったことが最後のどんでん返しであきらかになる。ダニエルが覆面作家として活動してきたことにも、二重の意味があったことがわかる。
盗作というと「私家版」という傑作があるが、こちらはどっちがどっちを盗んだともいえない親友どうしの魂の結びつきにふれており、実に深い。
ダニエルの妻という脇役だが、久々のグレタ・スカッキがいい味を出している。若い頃の彼女はただの美人女優で薄味だったが、年齢を重ねて、いい意味で貫禄が生まれている。
しかし、この映画の成功はアナ・ムグラリスの存在によるところが大きい。なんという美貌だろう。『NOVO』に主演しているということだが、見のがしてしまった。ぜひ映画館で見たい。
いきなり女性の半開きの唇が大写しになる。カメラが引いていくと、寝椅子の上でポルノ・ビデオを見ながらマスターベーションしている彼女の全身像が映る。彼女はそれだけでは満足できず、悶々としながら踊りにいき、男をひろって野外で交わる。
その後もストーリーらしいストーリーのないまま、濡れ場ばかり。最初はポルノ風芸術映画かと思ったが、実は芸術映画風ポルノだった。途中で退屈した。
弥生美術館で「ふろくのミリョク☆展」を見た。ここは雑誌の挿絵専門の美術館だから、雑誌の付録も守備範囲ということだろう。
若い人は知らないだろうが、少年サンデー、マガジンが創刊される前はマンガ雑誌は月刊が基本で、本体より一回り小さい別冊マンガ数冊と紙製の組立付録を間にはさみ、倍くらいの厚さに膨らんでいた。紙の事情がよくなっても、マンガ雑誌だけはガサガサの仙花紙にこだわっていたから、見かけの厚さが売行を左右したのかもしれない。組立付録は紙製といってもあきれるくらいよく出来ていて、組み立てるのがまた楽しみだった。
展示は一階がルーツと少年雑誌、二階が少女雑誌という配分である。
組立付録のルーツは江戸紙おもちゃと欧米のペーパークラフトだ。双六やカルタ、錦絵、皇室ブロマイド(!)のような紙の付録をつけているうちに、昭和にはいった頃からペーパークラフトを日本化した組立付録をつけるようになったらしい。
初期の組立付録は時代が時代だけに、軍艦や戦車、飛行機といった軍事ものが多い。講談社「少年倶楽部」専属で中村星果という付録作りの名人がいて、彼の作品で一つのコーナーができていたが、ひと抱えもある戦艦三笠など、唖然とするくらいよくできている。細部まで細かく作りこんである上に、組み立てる前の紙の状態を見ると、ほとんど無駄がない。戦艦三笠は復刻版が講談社から出ていたようだが、今は絶版である。これはぜひほしい。また復刻しないだろうか。
戦前は中村星果を擁した「少年倶楽部」の独壇場だったが、戦後は光文社の「少年」が組立付録の王者となる。
「少年」で一つのコーナーができていたが、「少年」はとっていたので懐かしかった。見覚えのある付録もあった。今にして思えば大変なことだが、「少年」には「鉄腕アトム」、「鉄人28号」、「サスケ」など、昭和のマンガの代表作が連載されていたのだった。
うっかりしていたが、『月刊漫画誌 「少年」 昭和37年 4月号 完全復刻BOX』という復刻版が出ていた。また復刻してくれないものか。
戦後の組立付録は軍事から科学へシフトしたが、科学付録といえば学研の「科学」が他を圧していた。学習雑誌は講談社や小学館からも出ていたが、「科学」の付録はプラスチックや木材、金属を使っていて、次元が違っていた。それが現在の『大人の科学』シリーズにつながっているわけであるが。
学研の「科学」だけ紙以外の素材を使った付録をつけることができたのは、学研がトラック輸送を使っていたためだそうである。学研以外の学習雑誌は国鉄で運送していたので、雑誌には紙しか認めないという国鉄の規制にひっかかり、紙の付録しかつけることができなかったというわけだ。
多分、これには取次の問題もからんでいるだろう。学研の学習誌は書店ではなく、学校で売られていた。教師が予約した子供から毎月お金を集め、教室でわたすということをしていたのだ。よくあんなことが許されていたものだと思う。
さて、二階は少女雑誌の付録だが、こちらはイマイチだった。松島トモ子は懐かしかったが、どれも妙に実用的で、付録特有のバカバカしさが薄いのである。
この展覧会にあわせて、河出書房の「らんぷの本」シリーズから『少女雑誌ふろくコレクション』が出版されるというが、少女雑誌の付録では食指が動かない。平凡社の「別冊太陽」から出ている『おまけとふろく大図鑑―子どもの昭和史』の方がおもしろそうだ。
マリリン・モンロー、トニー・カーティス、ジャック・レモンが顔をそろえたコメディ映画の古典である。遅ればせながら見たが、これは傑作中の傑作だ。
舞台は1929年2月の禁酒法時代のシカゴ。映画の公開は1959年だから、30年前の話という設定だ。1929年は10月に大恐慌がおきているから、2月はバブル景気が最後の暴走をはじめた時期にあたるだろう。
冒頭、夜の街を霊柩車とパトカーが派手に撃ちあいをしながらカーチェイスをくりひろげる。それだけでもおもしろいのに、車はどちらも1920年代のクラシックカーだ。
霊柩車が棺桶に隠して運んでいるのは密造酒で、葬儀社の地下にはゴージャスな地下酒場があり、夜な夜な乱痴気騒ぎ。そこへ警察の手入れ。
しがないバンドマンのジョー(カーティス)とジェリー(レモン)は潜入した刑事に気づき、警察が突入する寸前に逃げだす。逮捕を免れたものの、二人は寒空のシカゴで路頭に迷う。やっと見つけた仕事に行くために女友達から車を借りるが、そのガレージでマフィア同士の抗争をを目撃してしまう。「聖バレンタインデーの虐殺」と呼ばれる事件だ。
二人はマフィアの大親分(アル・カポネがモデルだが、名前は変えてある)に追われる身となり、シカゴから逃げるために女装して女だけのバンドにもぐりこんでフロリダに向かう。そのバンドのウクレレ兼ヴォーカルがマリリン・モンローである。
ここまでは前置きで、本篇は暖かなフロリダのリゾートホテルが舞台となる。一人二役や勘違いといったコメディでおなじみの手法で笑わせるが、観客はこの後に大恐慌が来ることを知っているわけで、それが物語の隠し味になっている。
マリリン・モンローは私生活では睡眠薬でボロボロになっていたが、映画の中ではひたすら明るく、無垢で、可愛らしい。
マリリン・モンローとクラーク・ゲーブルの最後の映画である。原作はアーサー・ミラーの短編 "The Misfits"で、「不適格者」とか「はみだし者」と訳されている。映画も原作の題名をそのまま使っており、邦題とはまったく印象が異なる。
映画製作当時、ミラーとモンローの結婚生活は破綻しており、離婚は秒読みだったが、ミラーはモンローのためにロズリンという役を書き加えてやったという。
舞台は6週間滞在すれば離婚が認められるネバダ州のリノで、ロズリン(モンロー)は離婚のために町にやって来ている。
めでたく離婚が成立した日、離婚コーディネーターのイザベルに誘われて酒場にいき、野生馬狩りで生計を立てているゲイ(ゲイブル)と流れ者のパース(クリフト)、元爆撃機のパイロットで自動車修理工のギド(ウォラック)と意気投合する。
ロズリンは西部の生活にあこがれをいだくが、パースの出場したロデオを見てショックを受ける。ふりおとされ、脳震盪でふらついているのに、まだ出場するというのだ。周囲の人間もそれを当然と考えている。ロズリンにはまったく理解できない。
自由な生活の実情もだんだん見えてくる。ゲイは時代錯誤のカウボーイだし、パースは牧場を継ぐはずだったのに継母に追いだされたことを愚痴っている。ギドは爆撃で無辜の市民の殺戮に手を汚したことを悔やんでいる。
翌朝、野生馬狩りがはじまると、ロズリンはさらにショックを受ける。ギドがオンボロ飛行機で野生馬の群れを追いたて、待ち構えていたゲイとパースが投縄でとらえるのだが、つかまえた野生馬はかつては乗馬としての需要があったが、今はドッグフードの原料にしかならないというのだ。ロズリンは脚をロープで縛られ、地面でもがく馬を見てパニックを起こす。パースは見るに見かねて、ロズリンのために野生馬を解放してやる。
面目丸つぶれのゲイは最後に意地を示す。徒手空拳、野生馬のリーダーと格闘してとりおさえる。これで救われた。
それまでは陰々滅々な展開で、途中で席を立ちたくなった。DVDだったら見るのをやめていただろう。二本立ての一本目だったので、我慢して最後まで見たが、最後まで見通すと感動していた。ゲイは最後にプライドをとりもどした。ゲイを演じたクラーク・ゲーブルはクランクアップの四日後に急死したということだが、それだけの鬼気迫る名演だった。
ギリシャ悲劇などもそうだが、真のカタルシスにいたるには不快に耐えなければならない。昨今のマーケティング主導の映画作りが忘れていることだ。
宿命のライバル関係にある二人のマジシャン、ロバート・アンジャー(ヒュー・ジャックマン)とアルフレッド・ボーデン(クルスチャン・ベール)の相克を描いた奇作。
冒頭、ボーデンが舞台の地下に駆けこむと、アンジャーが密閉された水槽の中でもがき絶命し、その場にいあわせたボーデンが殺人罪で逮捕される。外連味たっぷりの出だしだが、凶器となった水槽は無名時代のボーデンが脱出マジックでアンジャーの妻を事故死させたいわくつきのものだとわかる。事故以来、二人はことごとにいがみあい、憎しみが憎しみを呼んで、抜き差しならない関係になる。
出だしがすごすぎて、対立がエスカレートする部分が中だるみ気味だが、後半、盛りかえしてくる。ニコラ・テスラが登場した時点で並の終わり方はしないだろうと思ったが、まさかそんな結末にはしないだろうと思った通りの結末になり唖然とした。
こんな変態的なストーリーを考えたのはただ者ではないと思ったが、はたしてクリストファー・プリーストの『奇術師』という長編が原作だった。『奇術師』はさらに手がこんでいるらしい。結末がわかっていても読んでみたくなった。
十分おもしろいけれども、演出が上手ければもっとおもしろくなったと思う。スカーレット・ヨハンソンが重要な役で出てくるが、対立がエスカレートする部分がごちゃごちゃしているためにキャラが埋没している。彼女を活かせていれば中だるみはなかったろう。
デンマークの人形劇映画だが、庵野秀明と長塚圭史が脚色した「ジャパン・バージョン」だという。エイベックスが鳴り物入りで宣伝しているだけに声優陣は豪華で、主人公のハルを草薙剛、その妹ジーナを優香、敵対部族のリーダーでハルと恋に落ちるジータを中谷美紀、他に香取真吾、市村正親、戸田恵子、伊武雅刀、劇団ひとり、小林克也が参加している。
「脚色」の関与がどのくらいなのかはわからないが、日本語吹替えの出来はベストとはいえない。もそもそ喋っていて、有名スターがそろっているのに、誰が誰だかわかりにくいのだ。専門の声優を使った方が人間関係がわかりやすくなっただろう。
しかし、作品そのもののレベルが高いので、後半、盛りあがってくる。マリオネットが生きている世界という設定にして、マリオネットの宿命というべき糸をあえてさらしたセンスはすごい。「デビルマン」のように、自分の正義をひっくりかえしてみせたのも、デンマークという小国だからこそ可能になったストーリーだろう。結末は感動した。
高田馬場駅前にムトウ楽器という老舗のレコード屋がある。靖国通りの両側に店があるが、新宿側のビルの二階の店はクラシック専門で格調高いのに対し、目白側はポップスと歌謡曲と落語のCDが雑然とならべられていて、ちょっとした昭和レトロの雰囲気だ。
二階はDVD売場になっているが、レトロを通りこして場末感がわだかまっていて、いい感じなのである。。ここは穴場で、ブルース・ウィリス主演の『ブレックファスト・オブ・チャンピオンズ』など、アマゾンのデータベースにもないような珍品を買ったものだ。
この数年はたいしたものが出ず足が遠のいていたが、久しぶりにのぞいたところ、レジ側の一番奥に見るからに怪しげなコーナーが出来ていた。けばけばしいジャケットを正面に向けてWHDジャパンという会社のDVDが陳列されていたのである。
WHDはレトロSFとホラー専門に激安DVDを出している会社らしく、そそられるタイトルがごろごろしている。
まず目についたのは「『ソラリス』の原作者が放つ禁断の空想科学映画!」とポップのついた『金星ロケット発進す』。ジャケット裏の説明を読むと『金星応答なし』の映画化ではないか。しかも、ヒロインは日本女性だ。こんな映画があったなんて知らなかった。
一点780円なので、『金星ロケット』とウェルズ原作の『来るべき世界』、ジャケットの笑える『火星から来たデビルガール』、解説がおもしろそうだった『メシア・オブ・ザ・デッド』の4枚を買ってきた。
WHDのホームページを調べると、500円のものもあった。『メトロポリス』や『カリガリ博士』など、他社から出ているものは500円、WHDでしか出ていないゲテモノは780円ということのようだ。
500円ものには「新訳」という惹句がついている。PDものは概して字幕の翻訳がいい加減であり、SFやホラーとなるとジャンルの約束を知らない人間がデタラメな訳をつけることがすくなくないが、その点を改良して差別化を図ったらしい。
うれしいことにアマゾンでもあつかっている。WHDで買うと送料がかかるが、アマゾンなら780円ものなら2点、500円ものなら3点買えば総量が無料になる。
『メトロポリス』は「国内発売ではモロダー版でしか観る事のできなかった競技場のシーン等の幻のフィルムを発見。WHDジャパン独自の編集により加えた117分の特別バージョン」と銘打っているが、アマゾンの読者評を見ると、場違いな音楽がついているなどの理由で評判がよくない。
一方、『吸血鬼ノスフェラトゥ』と『巨人ゴーレム』はなかなか評価が高い。
新作が毎月出ていて、『シスター・オブ・デッド』などもおもしろそうだ。
記憶消去技術が発明された社会を舞台にしたほろ苦いラブストーリー。封切を見のがしたが、やっと映画館のスクリーンで見ることができた。これは傑作である。ゴンドリー監督の最高傑作といっていいだろう。
ヴァレンタイン・デーの朝、会社に行こうとしたジョエル(ジム・キャリー)は急に海が見たくなり、病気と偽ってモントーク行きの電車に乗る。モントークの海岸で彼はクレメンタイン(ケイト・ウィンスレット)という女性と知りあう。ジョエルは内気だが、クレメンタインは陽気で多血質で、積極的にジョエルにアプローチしてくる。二人はつきあうようになるが、実は……という展開。結末は途中で見当がつくが、それでも引きこまれた。
見終わって考えこんでしまった。一見、よくあるボーイ・ミーツ・ガールのようだが、深い。『マトリックス』同様、あくまでエンターテイメントでありながら、哲学的ともいえる問いを投げかけてくる。
記憶消去をうけおうラクーナ社がハイテク企業ではなく、場末の私立探偵の事務所のような一室で開業しているという設定がいい。他人様の頭の中をいじるのに、作業員がちゃらんぽらんなのがリアルだ。
ジム・キャリーは内気で引っ込み思案の役が思いのほか似合っている。ケイト・ウィンスレットは地でやっているんじゃないかと思うくらいぴったりで、まさに多血質。彼女の環状の深さがないと、この映画は成りたたない。
キルステン・ダンストは盲腸のような役だったが、すごくよかった。今まで嫌いな女優だったが、はじめていいと思った。
同じゴンドリー監督の「エターナル・サンシャイン」はすばらしかったが、こちらは期待はずれ。
パリ生まれ、メキシコ育ちの内気な青年ステファンがパリに到着したところからはじまる。ステファンの父はメキシコ人、母(ミュウ=ミュウ)はフランス人だったが、両親は離婚し、彼は父親につれられてメキシコにわたった。父親が亡くなったので、母親に呼ばれてパリにやってきたもの。
母親はアパルトマンを一軒所有していたが、今は芸術家の恋人の郊外の家で同棲していて、ステファンは子供の頃住んでいた最上階の部屋に一人で住みはじめる。母親が用意してくれた仕事はデザイナーということだったが、実際はカレンダーに文字をいれるだけの単純作業で、フランス語のうまくないステファンは早くも空想に逃避するようになる。
空想世界は段ボールや飛び出す絵本で作られていて、ほほえましいが、そこに事件が。隣室にステファニー(シャルロット・ゲンズブール)が引越してきてのだ。ステファンは成り行きで引越を手伝ったことから彼女に引かれるようになるが、心が通いあったはずなのに、彼女は恋人はいらないと拒絶する。
ステファンはいよいよ空想に逃避していき、現実と空想の区別がつかなくなる。彼は会社を馘になり、メキシコに帰ることにするが、ステファニーを思いきれず、未練な行動をとっていよいよ嫌われてしまう。
空想シーンは才気走っているが、現実シーンがぐちゃぐちゃすぎる。日本だったらこういう男にも別の着地点があるが、フランスの場合、ハードランディングしかないのだろう。
文藝春秋社から『電脳社会の日本語』を10月いっぱいで絶版にするという連絡が来た。
在庫数を見たところ、予想より1桁すくなかった。千部か二千部売れ残っているだろうと思っていたが、発行部数の1%未満しか残っておらず、ほとんど売れたことになる。
この本は営業部が売れると勘違いしてくれたおかげで、通常の部数よりかなり多く刷ったが、文字コードなどというディープなテーマが文春新書の読者層とあうはずはなく、最初の一ヶ月は惨憺たる売行だった。その後、中村正三郎氏が褒めてくださったおかげで最悪の結果はまぬがれることができたが、決して売れた本ではない。
7年かかって売りきったのならめでたいことであるが、途中で在庫の圧縮がおこなわれた可能性もなくはない。聞けばわかるが、こういうことは気にはなっても知りたくはないものだ。
まる5年かけて書いた本だけに、いくばくかの感慨はある。文字コードという泥沼のような問題にはまりこんで悪戦苦闘し、いい出会い、悪い出会い、いろいろあったが、最大の収穫は文字の記録が当てにならないことを知ったことだ。本当のことは文書には書かれず、闇から闇に消えていっているのだ(わたし自身、すべてを書いたわけではない。できるだけ暗示しようとはしたが)。
そんなこと当たり前じゃないかと思うかもしれないが、書かれたものがすべてというテキスト派の文藝批評をやってきた人間にとっては得がたい経験だった。
12月にはいったら、いよいよ裁断処分らしい。しばらくは流通在庫があると思うが、今調べたらAmazonで3冊、紀伊國屋書店全店で3冊、ジュンク堂で1冊だった。7年前の本だから、在庫もこんなものか。
興味のある人はお早めに。
ニュージーランドの片田舎に住む老スピード狂、バート・マンロー(アンソニー・ホプキンス)が62歳にしてアメリカに渡り、世界記録を打ち立てるまでを描いた実話。のんびりはじまったが、途中ではらはらさせ、最後は感動させてくれた。故ファーンズワースの「ストレイト・ストーリー」に通じる風格がある。
バートは草ぼうぼうの掘っ建て小屋に住み、40年前に買った当時最速のバイク、インディアン・スカウトのチューニングだけが生き甲斐の老人だ。庭の草刈りをしないので、周囲からは困った変人と見られている。
彼はモーターレースの聖地、アメリカのボンヌヴィル・ソルトフラッツで走るのが夢だが、年金暮らしのためにいつ実現するか当てがない。しかし、狭心症の発作を起こしたのを期に、家と土地を抵当にいれて旅費を工面し、ボンヌヴィルに出発する。
旅費がぎりぎりしかないので愛車を運ぶ貨物船にコックとして無料で乗せてもらいアメリカにわたるが、アメリカでは完全なおのぼりさん状態で、本当にボンヌヴィルに辿りつけるのだろうかとはらはらさせられる。
バートの純朴な人柄に、会う人、会う人がみな親切にしてくれて、なんとか憧れのボンヌヴィルに到着する。夕暮の塩湖の底に立ち、過去のレーサーを回顧する場面は老境に達したアンソニー・ホプキンスだからこそ演じることのできた場面で感動した。
しかし、本当にはらはらするのはこれからだ。バイクの知識がなかったのでわからなかったが、1920年代製のインディアン・スカウトで現代のレースに出るのは、ジェット機のレースに複葉機で参加するようなもので、ありえないことだったのだ。バートの参加資格をめぐって二転三転するが、最後にニュージーランドからやってきた老人に敬意を表して、テスト走行という名目で走ることが許可され、バートは予想外の好タイムを出す。
ここからがアメリカ人のいいところで、実力があるとわかるとすぐに正式参加が認められ、バートは世界記録を更新する快挙をなしとげる。実話だというのがすごい。
ロジャー・ドナルドソン監督は1971年にバートのTVドキュメンタリー"Offerings to the God of Speed"を撮って以来、この企画をあたためつづけていたそうで、34年かかった実現したことになる。これはこれでドラマである。ゴッド・オブ・スピード・エディションと銘打った特別版DVDの特典ディスクには1971年のドキュメンタリーが収録されているという。見てみたい気がする。
ハンニバル・レクター博士の生い立ちにさかのぼった、いわば「羊たちの沈黙」エピソード1。日本の鎧兜の出てくる予告編で悪い予感がしていたが、本篇は目を覆いたくなるお粗末さだった。
ハンニバルはリトアニアにレクター城をかまえる大貴族レクター家の御曹司だったが、両親を爆撃で失い、妹を飢えた逃亡兵のグループに食われ、リトアニアがソ連領になってからはかつてのレクター城を改造した寄宿舎でいじめぬかれる。ハンニバルは寄宿舎を脱出し、フランスのレクター家の分家に頼っていく。
分家の当主はすでに他界していたが、日本から嫁いできたレディ・ムラサキという若い未亡人(なぜか鞏俐)にあたたかく迎えられ、パリで医学を勉強することになる。
レディ・ムラサキは大名家の生まれで、日本から刀剣や能面、鎧兜などをもって嫁に来ているらしく、夥しい日本の美術品がおどろおどろしく映しだされる。しかも、念のいったことに彼女の両親は原爆で死んでいる。
成人したハンニバルは妹を食べた逃亡兵たちが国際ギャングのようなことをしていることを知り、復讐を誓う。一人一人探しだしては日本刀で首を刎ねていくのだが、悪の化身だったはずのハンニバルが勧善懲悪のヒーローになってしまっている。
傑作『羊たちの沈黙』に泥を塗るような作品だが、なんとエド・ハリスの原作に忠実らしいのである。エド・ハリスはここまで駄目になっていたのか。
「日立世界ふしぎ発見」の「パリ エジプト化計画」はおもしろかった。フランス第二帝政期のエジプト・ブームがテーマで、お約束のフリーメイソンの話も出てきたが、パリの歴史軸とルクソール神殿の中心軸がどちらも途中でずれているという指摘が興味深かった。
これまでは自然条件が原因で曲げたということで片づけられてきたが、どちらもずれも6度で平面図を重ねるとぴたりと一致する。
6度という半端な角度が偶然に一致したとは考えにくい。オスマンがパリ改造の青写真を引いたのはルクソール神殿が『エジプト誌』で詳しく紹介された後だから、ルクソールに倣おうとした可能性はあながち否定できないだろう。
では、なぜルクソール神殿の中心軸は6度ずれているのか。ナイル河の屈曲にあわせたということになっているが、本当にそうなのか。
ここで「王の角度」という吉村作治氏の仮説が登場する。ファラオは夫々自分の角度をもっていたというのである。
吉村氏は「王の角度」の例として屈折ピラミッドをあげている(遊学舎の「エジプト博物館」)。屈折ピラミッドは従来は建造技術が未熟だったために、急勾配では崩れる恐れがあったので途中から勾配をゆるくしたと説明されていたが、吉村氏は施主であるファラオが変わったので、勾配の角度が変わったとしている。
屈折ピラミッドは勾配が変わっているだけでなく、入口と玄室が二組ある特異なピラミッドであることを考えると、「王の角度」という説は説得力をもってくる。
ルクソール神殿は第18王朝のアメンヘテプ三世と第19王朝のラムセス二世が大半を作ったが、中心軸のずれはアメンヘテプ三世建築部分とラムセス二世建築部分の境目で生まれていた。しかも、アメンヘテプ三世とラムセス二世の陵墓の中心軸を調べたところ、6度ずれていたのである。「王の角度」という説がどこまで認知されているのかはわからないが、実に魅力的な説である。
テンプル騎士団はフリーメイソンとならぶ西洋陰謀史観の二大震源地だが、17世紀末以降行方不明になっていたテンプル騎士団の裁判記録をヴァチカンが300年ぶりに公開するという(technobahn、breitbart、Catholic News Agency)。
所在がわからなくなっていたのは目録の記載が曖昧だったためだそうで、保存状態はきわめて良好らしい。公開された文書は300ページにおよび、ヴァチカンと関係の深いScrinium社が799部限定で売り出すという。価格は1セット96万円(!)。『ダ・ビンチ・コード』人気もあるから、数年もすれば一般向けの本が登場するだろう。
テンプル騎士団の存在を知ったのは、御多分に漏れず、澁澤龍彥の『秘密結社の手帖』でだった。澁澤が生きていたら、この史料をどう料理しただろうか。
NHKのETV特集で「日本SFの50年」が放映された。50年というのは「宇宙塵」創刊から50年なのであるが、日本SF作家クラブの活動を中心にしていた。
番組は福島正実=石川喬司が原型を作った日本SF史をなぞる形で進行したが、最初の場面は故大伴昌司氏の旧宅だった(書斎が生前そのままに保存されている!)。
大伴昌司氏は「ウルトラQ」や「ウルトラマン」の企画に係わったオタク文化の父ともいえる人である。大伴氏の仕事は多岐にわたるが、中でも少年サンデーの巻頭二色ページを飾った怪獣の解剖図鑑は人気を博し、最近も復刻版が出ている。亡くなったのは1973年だが、荒俣宏の『奇っ怪紳士録』にとりあげられたり、『OHの肖像』という評伝が出ていたりするので、若い人の間でも知られているだろう。
番組はアニメやマンガ、ゲームなど、世界を席巻する日本のオタク文化の形成にSF作家たちがどのように係わったかをテーマにしていたから、大伴氏に注目したのは正解だが、SF作家が小説以外の分野に向かったのは文壇で無視されたのが一因だった。「士農工商犬SF」とは当時のSF人の自嘲まじりの口癖だった。SF作家のホームグラウンドはSFマガジンであり、星新一を別にすると単行本は早川書房からしか出せない時代があったのである。
それだけにSF作家クラブは強く団結していた。わたしがSFマガジンを買いはじめたのは1967年からだったが、SF作家クラブの動向がよく載ったし、SFが「迫害」される事例があると、福島正実がすかさず「日記」に被害者意識まるだしの反論を書いたものだった。
SF作家の団結が頂点をむかえたのは1970年の大阪万博にあわせて開催された「国際SFシンポジュウム」だった。わたしは当時、高校生だったが、科学技術館ホールで開かれたイベントにいき、生クラークや生メリルの挨拶を聞き、野田大元帥演出のブラッドベリの詩の朗読に晴れがましい気持ちになった。万博の企画にSF作家が動員されたということもあるが、設立からわずか7年のSF作家クラブによくあれだけのシンポジュウムが開けたものである。
その後に「拡散と浸透」の時代がくる。万博を通じて社会的地歩をえたSF作家たちは肩を寄せあう必要なくなり、夫々独自の道を歩みだしたわけだ。
筒井康隆氏が威信をかけて開いた1974年の神戸SF大会にはワセダミステリクラブの仲間たちとともに参加したが、その時のテーマが「SF、その拡散と浸透」だった。当時は「SFの危機」と大真面目に考えられていたが、今にして思えば、手塩にかけて育てた作家が大出版社に流出したという「早川書房の危機」にすぎなかった。
今回の番組は基本的に福島正実=石川喬司のハヤカワ史観をなぞっていたが、大伴昌司氏というもう一つの軸を設定したことで、ハヤカワ史観では見えなかったSF作家たちの小説以外の活動に光をあてていたことは評価したい。
江戸東京博物館で「文豪・夏目漱石展」を見た。老人で混んでいたが、若い人も多かった。『直筆で読む「坊っちやん」』なんていう本が新書で出るくらいで漱石人気は健在だ。
原稿や初版本、書簡、写真あたりは定番だが、辞令や英国で買い集めた蔵書、落書き、衣服、デスマスクまでならべててある。よくこんなものもまで保存していたものである。骨格からコンピュータで推定した復元音声が流れていたが、夏目房之助よりも白井晃の声に似ていた。
岡本一平の描いた漫画の漱石像は有名だが、実は連作になっていて、そのすべてが展示してあった。これが一番おもしろかった。
漱石にはユーモラスな面と不機嫌な面の両方があると思っていたが、不機嫌な面しか感じられなかった。晩年に近くなると陰気な印象がさらに強まり、修善寺の大患から先は重苦しくさえ感じられた。
最近、NHK BS2の「奥さまは魔女」にはまっている。4月くらいに第1シーズンから放映をはじめたらしいが、7月に気づき、以来、録画して見ている。
白黒時代の初放映時に最初の方は見ているが、今見ても最高に面白い。半世紀近くも前に、カラーでこんなTVドラマを作っていたことに驚かされる。アメリカでは途切れることなく延々と再放送をくりかえしているそうだが、それもうなづける。
今、タバサがよちよち歩きをはじめたところだが、アダムという男の子も産まれるようだ。全254話もあるそうで、DVD54枚組の「奥さまは魔女コンプリート・ボックス」なるものまで出ている。
昔見たのは第3シーズンくらいまでだったと思う。お向かいのグラディスさんの女優が交代したことは憶えているが(最初のアリス・ピアースが断然よかった)、ダーリン役のディック・ヨークが降板したのは知らなかった。驚いたことに、成長したタバサを主人公にしたスピンオフ・シリーズまで作られていた。
一つ、気になっていることがある。スティーブンス家の玄関の脇に大きな七枝燭台が飾ってあることだ。ダーリンはユダヤ人という設定だったのだろうか。
いろいろ検索したが、そういう指摘をしているページは見つからなかった。七枝燭台は統一協会も使っていることがわかったが、スティーブンス家には多宝塔や壺は見当たらないし、1964年という製作年代を考えると、ダーリンとサマンサが合同結婚式で結ばれた可能性はなさそうだ。
となると、ダーリンはやはりユダヤ人か。アメリカは進化論裁判の国なので、いくらコメディでも、キリスト教徒と魔女を結婚させることにはさわりがあるということだろうか。
「奥さまは魔女」の蘊蓄を集めた『「奥さまは魔女」よ、永遠に』という本が邦訳されているそうだが、それを読めばはっきりするのだろうか(邦訳は絶版なので原書を読むしかないが)。英語では"The Magic Of Bewitched Trivia And More"という本も出ているようだ。英語となると、ちょっと億劫である。誰か知っている人がいたら教えてほしい。
「世界」の賈樟柯監督のヴェネツィア映画祭金獅子賞受賞作。「世界」は北京に出てきた若者の話で、それなりに希望があったが、こちらは三峡ダムで建設ラッシュにわく地域に人探しに来た中年男女の話。題名からすると長江の雄大な景色が出てきそうだが、埃と汗の臭いの立ちこめる工事現場や貧民街ばかりで、観光映画的な趣向はまったくない。
山西省の炭鉱で働くハン・サンミンは16年前に出ていった妻の実家を尋ねて長江の村にやってくるが、そこはすでに湖の底に沈んでいた。サンミンはダム湖際の安宿に泊まり、飯場で働きながら妻と一人娘を探そうとする。やっと船で働く妻の兄を見つけるが、けんもほろろに追いかえされる。サンミンの妻は嫁不足から金で買った妻で、田舎の暮らしに耐えられず、実家に逃げ帰った経緯があるからだ。娘にどうしても会いたいというサンミンに、義兄はあれはお前の子供ではないと言い放つ。それでもサンミンは娘に会いたいという気持ちを断ち切れない。
一方、やはり山西省で看護婦をしているシェン・ホンが出稼ぎにいったまま音信の途絶えた夫を探しに長江へやってくる。ホンは夫の軍隊時代の親友のワン・トンミンを訪ね、夫の職場に案内されるが、多忙を理由に会ってもらえない。夫はやり手の女社長に気にいられ、不動産デベロッパーの現地責任者に抜擢されていたが、違法の住民立ち退きなど阿漕な仕事に手を染めていた。ホンはそんな事情は知らず、会おうとしない夫に不安をつのらせる。
国家プロジェクトの進む三峡地域には多くの寄る辺ない人が吹きよせられてきて、貧富の格差が剥きだしになっている。取り壊しと建設とマネーゲームで人心はすさんでいるが、それでも人情がわずかに残っていて、賈監督は二人の外来者の目を通して、そのわずかに残った人情を描いている。真面目に作られているが、「世界」のような華はなく、疲労感ばかりが残った。
不機嫌な少女像でおなじみの画家、奈良美智のドキュメンタリーで、2005年6月のソウルの個展から2006年7-10月に青森県弘前市で開催された「A to Z」展にいたる500日間を追っている。この間に奈良は横浜、ニューヨーク、大阪、ロンドン、バンコクで個展を開き、さらにアトリエを引っ越している。
アトリエといっても、陽光の燦々とはいるアトリエを想像してはいけない。ニューヨークのアーティストが使っているようなだだっ広い倉庫ともちがう。商店街の空き店舗を借りているらしく、出入り口は引きあげ式のシャッターだ。壁は広いが、雑然としている。外光ははいらず、しけた蛍光灯をつけて仕事をしている。
村上隆のアトリエを紹介したTVを見たことがあるが、助手がたくさんいて工務店の作業場みたいに活気があった。村上隆は中小企業の社長のように貫禄たっぷりだったが、奈良は一人だけで刷毛を動かし、しばしば考えこみ、学生のように自信なさげだ。
製作は孤独な作業だが、個展はちがう。会場スタッフや観客が係わってくるのはもちろんだが、奈良の場合、会場の中に小屋を作り、その中に展示するスタイルをとるようになったので、小屋を作るスタッフが参加しているのだ。
小屋の製作は grafという大阪に本拠をおく会社が担当している。grafは「クリエイティブユニット」を名乗っているが、ふだんはおしゃれなレストランやバーの内装を手がけているらしい。個展の準備がはじまると、grafの豊嶋は奈良にマネージャーのようにつきそっている。grafのスタッフは若く、学生サークルの延長のように見えなくはない。
さて、「A to Z」展である。この展覧会は奈良の故郷である弘前市で開かれた。会場となったのは酒造会社の煉瓦造りの倉庫で、架空の街並を作りあげるという、小屋を使った展示の集大成というべきものだったようだ。grafだけではできないので、全国からボランティアを募り延べ4600人が参加したそうだが、映像で見る限り、ほとんど学園祭のノリだ。奈良の作品は一枚数千万円はくだらないらしいが、こんなに日常的な場所で作られていたのである。
ファンとの交流場面が出てくるが、まったくアイドル化している。特に韓国の女性ファンはミーハー気質まるだしだ。彼らは絵は買えなくても、奈良グッズをどっさり買っていく。
村上隆の作品もそうだが、奈良も複製時代の申し子で、アウラなしの作品で勝負しているということか。
建築家フランク・ゲーリーのドキュメンタリーで、親友のシドニー・ポラック監督が自らビデオカメラをまわしているが、映画館で見るほどの出来ではなかった。
フランク・ゲーリーが何者か知識なしに見たが、助手に指示して紙で模型を作らせ、それを修正させていく。修正も自分で手を出すことはめったになく、言葉で指示して助手にやらせている。大家だから自分で図面を引くことはないと思っていたが、なにからなにまで助手まかせだった。
紹介されるゲーリーの建築はどれも変わった形をしているが、若い頃は当然、仕事の依頼がなく、運転手をやって糊口をしのいだり、突飛な自宅を設計してアピールしたりといろいろあったようだ。ゲーリーの建築を愛するというセレブたちがインタビューに答えているが、みな俗臭芬々である。建築という世界は俗っぽくなくてはやっていけないのだろう。
女流写真家ダイアン・アーバスの生涯を題材に、勝手な妄想をくりひろげた贋伝記映画である。パトリシア・ボズワースの『炎のごとく―写真家ダイアン・アーバス』が原作ということになってはいるが、半分以上はフィクションといっていい。
ダイアン(作中では「ディアン」と発音)は百貨店主の娘として生まれて何不自由なく育ち、ファッション写真家のアラン(タイ・バーレル)と結婚してからは撮影のアシスタントをつとめ、二人の娘を育てるという、健全きわまりないアメリカ女性だった。
しかし、良妻賢母の生活だけではエネルギーをもてあまし、彼女はしだいに気鬱に陥っていった。
そんな時、一つ上の階にライオネル(ロバート・ダウニーJr)という謎の男が越してくる。夏なのにコートを着こみ、目出し帽のようなマスクをかぶり、こっそり出入する。しかも、奇型の客が人目を避けてしょっちゅう訪問しているらしい。
彼女はライオネルの正体をさぐろうとし、多毛症という奇型であることをつきとめるが、その頃には彼に引かれるようになっていた。彼女は精神的な不倫関係におちいり、フリークスの世界に導かれていった。
健康なアメリカ女性が異形の男に惚れたばかりに頽廃の世界にのめりこんでいったというストーリーになっているが、これはニコール・キッドマン主演を前提にした当て書きだろう。
実際のダイアンはニコール・キッドマンとは似ても似つかない東欧ユダヤ人の顔をしていて、大きな愁いを帯びた眼はカフカを思わせないではない。ダイアンの兄はハワード・ネメロフという一家をなした詩人であり、一族には気鬱症をもっている者が多いというから、芸術的天分というか病気の要素は生来のものといえよう。
困ったことに、この映画、かなりおもしろいのである。ダイアン・アーバスはこの映画のような女性だったと誤解する人が増えそうだ。ダイアンの遺族は伝記の類をかたくなに拒否しているということだが、よくこの映画を許可したものだ。
彼女の作品集は筑摩から出ていたが、現在は絶版である。アメリカ版なら"An Aperture Monograph"、"Magazine Work"などがペーパーバックで入手できる。
黒人英語で娼婦の元締のことを「ピンプ」というが、そのピンプの一代記である。主演のスヌープ・ドッグはラップ界のスーパースターだそうである。ラップはまったくわからないが、この映画はおもしろい。
コーデー(ドッグ)はしがないスーパーの店員だったが、なぜか女にはもてた。ある日、オレンジ・ジュース(ホーソーン・ジェームズ)という高名なピンプが豪華なリムジンを乗りつけてきてコーデーを招ききれ、お前にはピンプの才能がある、これはという女を見つけたら力になってやってもいいと申しでる。
コーデーはシャルドネ(シラエ・アンダーソン)という上玉の女と出会い、ピンプになる決心をする。オレンジ・ジュースの教えを忠実に守り、かかえる娼婦をどんどん増やして業界の注目を集め、ピンプの全米大会でその年の最優秀ピンプに選ばれるまでになる。
成功とともに慢心が生まれる。女に本気で惚れるなというオレンジ・ジュースの教えを破り、シャルドネと結婚を決意したのだ。二人で街を出ようと矢先、悲劇が起こる。かつてコーデーに娼婦を奪われたピンプがシャルドネを刺し殺したのだ。コーデーはシャルドネの仇をとり、殺人罪で下獄する。獄中で歌う悲しみと悔恨の歌は泣かせる。
コーデーと喧嘩別れしたオレンジ・ジュースは腑抜けのようになって出所してきた彼をあたたかくむかえる。コーデーは再びピンプ稼業をはじめ、オレンジ・ジュースの片腕となって後進を指導する立場になる。
オレンジ・ジュース役のジェームズはピンプ界のヨーダという貫禄で、かっこいい。ピンプ道なんてあるはずもないが、あるかのように大真面目に作っているところが笑える。
黒人しか出てこない映画で、全編ブラック・ミュージックが横溢している。ゴージャスさと安っぽさがいりまじり、ギトギトに脂っこくて最初は戸惑ったが、すぐに引きこまれた。愛すべき小品といえよう。
ICPFセミナー「通信・放送の総合的な法体系を目指して」を聴講してきた。講師は情報通信法を担当する総務省情報通信政策局総合政策課長の鈴木茂樹氏で、やる気むんむんというか、50年に一度の大改革を手がける喜びに舞いあがっている印象を受けた。制度をゼロから設計する機会にめぐりあえたのは役人冥利に尽きるといったところか。
鈴木氏は情報通信法はあくまでもIT産業振興のための規制緩和であり、新たな規制でしばろうとするものではないと熱弁をふるった。レイヤー型法体系という世界最先端の法体系を整備することで日本のIT産業が復活すれば、他の国も日本に倣うようになり、いち早くレイヤー型法体系に慣れた日本企業の国際競争力が高まるとも説いていた。ほとんど新制度のセールスマンである。
講演の部分はどこかで読んだような話ばかりで新味はなかったが、質疑応答はおもしろかった。
まず、資料中の怪しげな数字に突っこみがはいった。鈴木氏の講演は日本のIT産業に対する危機感を煽り、その処方箋として情報通信法を持ちだすという趣向になっているので、資料にはセールストークというか、素人だましの数字がまじっているのである。今回配布された資料は他の機会でも使われてきたと思われるが、具体的な指摘に鈴木氏はあわてていた。
こんなドラスティックな改革が本当にできるのかと先行を疑問視する声も出た。講演では各界から寄せられたパブリック・コメントの傾向が紹介されていたが、中でも放送界は警戒感を隠さず、断固反対の構えのようである。鈴木氏は放送界について、地方局は遠からずやっていけなくなるという意味の見通しを語った。県域免許制の矛盾は多くの人が指摘しているが、総務省の担当者自身が婉曲ながら、地方局の自滅の可能性に触れた意味は重い。
コンテンツ規制や著作権については情報通信法の範囲外といわんばかりの答えをしていた。
情報通信法は産業政策だとしきりに強調していたが、では遅れた法体系で動いているアメリカがなぜ強いのか。レイヤー型法体系に変えて、本当に産業振興になるのか。その辺りの明確な答えはなかった。
新国立劇場中劇場で鄭義信作、鈴木裕美演出の「たとえば野に咲く花のように」を見た。
新国立劇場は今年7月、芸術監督が栗山民也から鵜山仁に交代したのを機に「三つの悲劇」と題して、ギリシャ悲劇を現代日本に翻案した新作三本を上演する。「たとえば野に咲く花のように」はその第二作にあたる。
舞台は1951年夏の九州の場末のダンスホール。下手に玄関。中央下手寄りに大きな階段。上手寄りにバーのカウンター。上手には窓が大きく切られている。二階はダンサーたちの個室で、そこで客をとるようになっている。
港町という設定で、町は朝鮮戦争特需で景気がいいが、表通りに特需成金の安部康雄(永島敏行)が立派なダンスホールを開店したので、こちらは閑古鳥が鳴いている。ダンサーは三人に減り、マザコン気味の自衛隊員など、常連にたよって細々と営業している。
ヒロインの安満喜(七瀬なつみ)は弟と二人暮らしだが、弟は戦時中、憲兵だった引け目から北朝鮮に肩入れし、米軍妨害工作にくわわっている。
ある夜、弟の仲間がライバル店の支配人の直也とオーナーの康雄に追われてダンスホールに逃げこんでくる。満喜は彼をかくまい、一歩も引かずに毅然と応対するが、康雄は満喜の気っ風に惚れ、毎晩通ってくるようになる。
康雄は満喜に結婚を迫るまでになるが、満喜は日本軍に志願して南方で死んだ婚約者が忘れられず、申し出をはねつける。
康雄の婚約者のあかね(田畑智子)は康雄の心変わりにアル中になり、店に怒鳴りこんできたりするが、まともにとりあってもらえない。あかねを慕う直也はあかねの心中を察して、康雄に刃を向けるが……。
ラストは意外にもハッピーエンド。三人のダンサーはそれぞれ妊娠してダンスホールを去っていく。女はたくましい。
「アンドロマケ」をもとにしているというが、どこが「アンドロマケ」なのか首をかしげた。朝鮮戦争で儲けた成金と朝鮮人娼婦の話なので、まったく無関係とまではいわないが、当時の在日韓国・朝鮮人は自分たちを戦勝国の一員と思いこんで傍若無人にふるまっていたわけで、亡国の王妃に見立てるのは話が違う。
しかし、朝鮮戦争当時の荒くれた世相を描いた風俗劇としてはよくできている。あれこれあっても、結末は希望を感じさせる。
七瀬なつみは鉄火肌の娼婦を熱演し、新境地を開いた。出番はすくなかったが、アル中のお嬢様を演じた田畑智子の可愛らしさは特筆したい。彼女のためだったら、直也が狂うのも無理はない。
業田良家の漫画を堤幸彦が映画化。「自虐」は「あい」とも読む。
非現実的なくらい不幸な女性を中谷美紀がまたもコミカルに演じていて、『嫌われ松子の一生』と完全にかぶっている。中谷美紀はマゾなのかと疑いたくなるが、映画としてはこちらの方が格段におもしろい。堤幸彦作品の中でも一番いい(というか、はじめておもしろいと思った)。
物語は幸江の中校時代からはじまる。幸江は貧しい家計を助けるために新聞配達をしていたが、家にもどってみると警察の車が。父親(西田敏行)がまぬけな銀行強盗をやって逮捕されたのだ。犯罪者の娘になってしまった幸江は気仙沼にいられなくなり、唯一の親友である熊本さんに見送られて上京する。
十数年後、幸江は元ヤクザのイサオ(阿部寛)と、大阪の通天閣の見える下町で暮らしている。イサオはパチンコ三昧で働かず、気にいらないことがあるとすぐに卓袱台をひっくりかえす。幸江はラーメン屋でアルバイトをして、ひたすらイサオに尽くしている。
どん底話と平行してイサオとのなれそめが語られるが、どちらも予想通りのベタな話である。意外性はまったくないが、それでもおもしろいのは中谷美紀の不器用さというか社会との異和感が画面ににじみでているからだと思う。彼女は柴咲コウとよく間違えられるそうだが、柴咲コウがこの役をやったらウソになってしまう。この映画は中谷美紀だからこそ成立している。
DVDは来年3月発売だが、中谷美紀の撮影日記とナビゲートDVDが出ている。