エディトリアル   April 2009

加藤弘一 Mar 2009までのエディトリアル
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4月6日

「スラムドッグ・ミリオネア」

 HMV主催のアフィリエイター向け試写会に行ってきた。映画よりもアフィリエイターというのはどういう人たちなのだろうという好奇心で出かけたが、中高年男性が多く普通の試写会と変わらなかった。しかし、HMVからのお土産(HMVオリジナルの暖簾)が配られる段になってわかったが、HMVの招待したアフィリエイターは1/3ほどで、大半は業界関係者だったのである。お土産をもらっているアフィリエイターだけを見ると、20代30代の女性が多く、お局さま的な雰囲気が濃厚だった。

 さて、映画であるが、思いがけない傑作だった。うっかりしていたが、「トレイン・スポッティング」のバレンボイム監督作品で、今年のアカデミー賞を作品賞をふくむ8部門で獲得した話題作だったのである。

 物語は主人公のジャマールが警察で乱暴な取調を受ける場面からはじまる。ジャマールはスラム育ちでお茶くみをしている青年だったが、「クイズ・ミリオネア」というTV番組で勝ち残り、この夜、史上最大の賞金を手にしようとしていたのである。取調にあたった刑事はろくな教育をうけていないジャマールにクイズの答えがわかるはずはないと決めつけ、どんなトリックを使ったか白状しろと拷問にかける。

 ジャマールは潔白を証明するために、なぜ自分が答えを知っていたか、ひとつひとつの問題について説明をはじめる。クイズの答えはどれも彼の人生の重大事件に関係しており、はからずもスラム育ちの青年の半生をふりかえることになる。

 スラムのストリート・チルドレンを描いた映画は傑作が多い。本作と同じムンバイを舞台にした「サラーム・ボンベイ」がまず頭に浮かぶし、リオデジャネイロを舞台にした「セントラル・ステーション」もよかったが、こうした映画はドキュメンタリ的な作り方をするのが常である。題材自体がすさまじいのだから、余計なフィクションは入らないというわけだろう。

 ところが、本作はドキュメンタリ的手法はあえてとらず、徹頭徹尾ショーアップしている。ギンギラギンのクイズ番組はもとより、偶然に次ぐ偶然でほら話的であり、ラテン・アメリカ小説のマジック・リアリズムに近いノリなのである。そして、それが成功している。

 ドキュメンタリ的な撮り方をすると、社会悪の告発という視点がはいりこみ、主人公の子供を可哀想な被害者として描くことになりやすい。しかし、可哀想な被害者のままでいたら、スラムで生き延びられるはずはない。生き延びてきたということは悪いことも相当やっているはずなのだ。子供の犯す犯罪をあからさまに描くと見ている方はいたたまれなくなるが、本作はマジック・リアリズム的な誇張によって、きわどいところでユーモラスにまとめている。固くなりがちな題材を良質のエンターテイメントに仕上げた脚本と演出には脱帽する。

 インド映画にはダンス・シーンがつきものだが、本作にはダンス・シーンがまったく出てこず、そこだけが不満だったが、最後の最後になって群舞が炸裂し、胸がスーッとした。

公式サイト
4月24日

 ペンクラブの言論表現委員会でGoogle問題に関する勉強会に出た。「秘密会」にするというので、なにを大袈裟なと思ったが、決して大袈裟ではなかった。

 通常は委員会レベルでは縁のない取材陣が陣取る中、出版社の法務・著作権担当者がゲストとして参加してはじまったが、出版社側の危機感の激しさにたじたじとなった。表にするのをはばかれるような立ち入った話もあり、確かにこれは「秘密会」でないと具合が悪いだろう。

 なぜ出版社はここまで危機感をもっているのだろうか。日本では版面権が認められていないので、Google問題はGoogleと著者の間の問題であり、出版社は直接の当事者ではないともいえるが、「Googleブック検索」のような形で著作権がおさえられると、出版社のこれからの生命線となる権利ビジネスが空洞化するということのようである。

 発言者を特定できない形なら、内密と断った情報以外書いても差し支えないということだったので、以下、メモから摘記する。

  • 提携図書館の間では絶版になっていない図書の相互閲覧もできる。これが広がれば図書館需要に依存する専門書の出版は不可能になり、学術系の出版社は廃業せざるをえなくなる。
  • Googleは和解の副産物として、オーファン・ワークス(著者不明の作品)を勝手にハンドリングする権利を得てしまったのではないか。
  • プライバシー問題などで絶版になった本がネットで公開されてしまう。ヨーロッパで認められている著作の「撤回権」が無意味になる。
  • 誰が何を読んだかというクリティカルな個人情報をGoogleに握られる。
  • アメリカでは個人情報が保護されておらず、Googleを通じて著者の個人情報が丸裸になる怖れがある。
  • 一年前には総すかんを受けた長尾構想が急に見直されるようになり、長尾構想でGoogleに対抗しようという意見まで出てきたのは危険である。

 最後の長尾構想とは国会図書館の長尾真館長が個人的に提唱しているプロジェクトで、電子化した書籍を国会図書館が有償でネット配信するというもの。国会図書館が本の流通に乗りだすことになるので、これまでは戸惑いと反発だけだったが、毒をもって毒を制しようということか。

 今回の会合で一番重要な発言は取材陣の一人からあった。出版界の利益を守ろうという趣旨の発言ばかりだが、Google問題の本質は日本の文化発信力をGoogleに押さえられていいのかという国益に係わる問題ではないのか、というのだ。

 言論表現委員会はペンクラブの中でも特に左翼色の強い委員会なので「国益」という剥きだしの言葉に一瞬場が白んだが、喉元まで出かかっていて言えなかったことを代弁してくれた発言だったので、賛同する声があいついだ。

 自動車産業の先が見えてきた以上、これからの日本は文化で食べていくしかないが、その文化がGoogleに握られようとしているのである。

 著作権者、特に遺族の中にはGoogleが絶版本を無償で電子化し公開してくれることを歓迎する声がすくなからずあると聞くが、一私企業であるGoogleにそこまでまかせてしまっていいのだろうか。「Google八分」のような実質的な言論統制の危険性はないのだろうか。Googleが倒産したり、買収されたりした場合、絶版本のデータが消滅する怖れだってないわけではないだろう。

 日本の文化発信力という新しい視点を明確化できたことが今回の会合の最大の収穫だったと思う。

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This page was created on May17 2009.
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