クラピッシュが得意の群衆映画でついにパリをとりげた。さまざまなストーリーがからみあっているが、中心になるのは心臓病で仕事をやめたダンサーのピエール(ロマン・デュリス)と、その姉でソーシャルワーカーのエリーズ(ジュリエット・ビノシュ)の姉弟だ。
ピエールは移植をしなければ命が危ないと宣告されており、臓器の順番待ちの不安な日々をアパルトマンから街路を見ることでまぎらわせている。姉のエリーズは三人の子持ちで夫はいない。彼女は弟を気づかって子供を連れて彼のアパルトマンに引っ越してくる。
もう一つの柱となるストーリーは歴史学者のロラン(ファブリス・ルキーニ)の恋物語だ。彼は中年の危機をむかえていて、自分の研究に意味があるのかわからなくなっている。高額のギャラに引かれてバカにしていたTVの教養番組のキャスターになったり、講義にでている美人女子大生のレティシア(メラニー・ロラン)をこっそり追いかけたりしている。
レティシアはピエールのアパルトマンの向かいに住んでおり、ピエールも窓越しに秘かに恋をしている。彼女は二つの中心となるストーリーをつなぐ位置にいる。
エリーズは世話好きで、ピエールがクリスマスなのにセックスする相手がいないとめそめそすると、彼が恋い焦がれているレティシアとの仲をとりもとうとする。彼女はアンケートと称してレティシアの部屋にはいりこむが、イケメンの恋人がいるとわかり断念。代わりに職場の同僚の男のいないオバサンを世話する。
ジュリエット・ビノシュはすっかり世話好きオバサンになったが、オバサンでありながら主演の存在感がある。オバサンアイドルという新しいジャンルを確立したといっていいだろう。
ロランは秘かに追いかけていたことがレティシアにばれてしまうが、意外にもレティシアは彼を受け入れ、ロランはすっかり舞い上がる。しかし、彼女にとってロランは多くの恋人の一人にすぎず、ロランは嫉妬に狂いはじめる。
市場の面々やパン屋のマダムなど、一癖ある愛すべき人物たちが演じる泣き笑いを軽快なテンポで描いていき、暖かい気分になってくる。
ラスト、ピエールは移植手術に向かうためにタクシーに乗り、街とそこに生きる人々を眺めるうちに涙がこみあげてくる。感謝と祝福に充ちたいい結末だ。
名画座に衣替えしたシネ・パトス3で見た。座席の背がやや高いが、見やすいいい小屋だ。中高年のオヤジ向けの番組だがまだそんなに客がはいっていない。
敗戦間際、遠州灘の遠浅の海岸で特攻要員の学徒動員の少尉(寺田農)と置屋の娘(大谷直子)が出会う話で、戦争のグロテスクさをコメディタッチで描いた不条理戦争映画だ。
大昔に見たことがあるが、今見ると大谷直子のヌードが典型的な昔の日本女性の体型で、時代を感じた。記憶から消えていたが、寺田農もヌードになっていたのだった。
戦争映画の傑作ということになっているが、今見ると苦しい。
中井正広主演のリメイク版ではなく、フランキー堺主演の最初の映画版である。中井版で注目が集まったせいか、映画のもとになった1958年のTV版がDVD化されているし、原作者の加藤哲太郎氏の文集が復刊されたり、看守が隠し撮りした巣鴨プリズンの写真集まで出ている。
今回やっと見ることが出来たが、期待以上の作品だった。1970年代以降の第二次大戦を題材にした映画やTVドラマはやたらと力こぶがはいり、戦時下の生活を陰々滅々な色彩に塗りこめているが、この映画には小林秀雄が書いていた銃後の妙な明るさが淡々と定着されている。
敗戦後、主人公は戦犯で逮捕されるが、本人は大変なことだという意識がなく、すぐに帰れるつもりでいる。裁判という非日常がはじまっているのに、本人も家族も日常の延長の感覚しかもてないでいる。死刑宣告後、巣鴨プリズンの死刑囚監房に収監され、同房の青年が処刑されてようやく事の重大さに気がつく。中年で徴兵された田舎町の床屋のオヤジという設定がBC級戦犯の不条理を際立たせる。
いったん希望を持たせておいて突き落とす展開もさることながら、死刑囚の間に処刑された者たちは実は生きているという噂が広まっていたというエピソードは悲痛だ。
なお、現実の加藤哲太郎氏は春秋社の創業者の息子で慶大出のインテリ。精神病院にはいって処刑をまぬがれ、1976年まで存命している。
巣鴨撮影所開設90周年記念・無声映画鑑賞会創立50周年記念・松田春翠23回忌記念と銘打たれた新文芸座の活弁つき上映会で見る。しかも、今日は新文芸座の親会社のマルハンの「7のちから」キャンペーンが重なり、7つながりで「第七天国」と「セブン・チャンス」という黄金のカップリングが実現した。活弁上映会は結構高いのだが、今回は通常の新文芸座の料金である。
以前、紀伊國屋で見た時は澤登翠の活弁だったが、今日の弁士は弟子の斎藤裕子。声は低めで華やかさはないが、安定した滑舌だ。
二度目だが、これはやはり奇跡の一編である。神父のはからいで下水掃除人から道路掃除人に昇格したチコは街娼と間違えられて逮捕されそうになったディアンヌという娘を助ける。ディアンヌは両親を失って姉と二人暮らしだったが、姉はふしだらで強欲などうしようもない女。外国で成功してもどってきた伯母夫婦の養女にという話もあったが、伯父は姉娘を見て家には入れられないと、はした金だけで縁を切られてしまう。姉は養女にしてもらえなかったのをディアンヌのせいにして折檻する。彼女は外に逃げだしたが、そこで街娼狩りにあったのだ。
チコはディアンヌに興味はなかったが、警官にとっさに自分の妻だといった手前、自分の部屋に置いておかないと、せっかく手にいれた道路掃除人の鑑札をとりあげられてしまうかもしれない。こうして同棲生活がはじまるが、二人は次第に引かれていくが、第一次世界大戦がはじまり、チコは召集される。出征前、二人は結婚し、毎日、午前11時になったら「チコ、ディアンヌ……天国」と心の中で唱えることを約束する……。
要約するのも恥ずかしいような大甘のメロドラマだが、ディアンヌ役のジャネット・ゲイナー(本作で第一回アカデミー主演女優賞)の可憐さは天使の領域である。俗世を超越した名作だが、モノクロの無声映画という制約に助けられている部分が大きいと思う。1937年にトーキーでリメイクされているということだが、ディアンヌやチコが台詞を喋ったら、それだけでぶち壊しだろう。
作品とは関係ないが、1927年製作ということは尾崎翠の「第七官界彷徨」の4年前である。内容的にはそれほど重ならないが、尾崎はこの映画を見ていた可能性が高い。
キートンの代表作にしてスラップスティック・コメディの古典だが、今回、ようやく見ることができた。弁士は若手の片岡一郎。ちょっと頼りない。
ジミー(キートン)は青年実業家だが、奥手で、メリー(ドワイヤー)に引かれているのに、どうしても告白することができない。メリーの方も待ちくたびれてイライラしている。
そうこうしているうちに共同経営している会社が左前になり、明日にも倒産という窮地に陥っていたところ、祖父が700万ドルの遺産を残していたことがわかる。ただし、遺産をもらうには27歳の誕生日の午後7時までに結婚することという条件がついていた。ジミーは勇躍メリーに結婚を申しこみにいくが、メリーは遺産のための結婚と知って断ってしまう。
ジミーは郊外の社交クラブで七人の女性に次々と結婚を申しこむが、全部断られてしまい、笑いものに。共同経営者のビリーは埒が明かないと、6時に教会に来た女性から花嫁を選ぶという広告を勝手に新聞に出してしまう。時間にいってみると、700万ドルの花婿をもとめて女性が大集合。ジミーは数百人の花嫁候補に追いかけられる破目に。
白紙の状態で見ていれば感動したと思うが、あまりにも予備知識を持ちすぎていて、これまでに読んだ評論を確認するような形になってしまった。
花嫁候補がオバサンばかりなのは意外だった。花嫁衣装をつけたオバサン軍団に追われる図は恐ろしくもグロテスクである。
代表作のさわりを見せながら嵐寛寿郎を紹介する30分ほどの「傑作場面集」につづいて、「鞍馬天狗」(1928)を故松田春翠の活弁を録音した活弁トーキーで上映。
「傑作場面集」は映画史的になかなかおもしろかった。『出世太閤記』は昭和10年代とは思えない大仕掛けな映画らしく、これはちょっと興味がある。トーキー映画の初期、田舎の映画館や巡回上映会のために同じ映画の活弁版が作られていたとは知らなかった。トーキーで仕事を失った弁士たちはそうしたところで食いつないでいたわけだ。
「鞍馬天狗」であるが、桂小五郎をおびきだすために杉作少年が誘拐され、それを鞍馬天狗が助けにいくというストーリーで、京都と大阪を行ったり来たりするが、セットが安っぽいので、京都と大阪の違いがわからない。売物のチャンバラはちょこまか動くだけで迫力には程遠い。これなら「トンマ天狗」の方がましだ。
代表作のさわりを見せながら片岡千恵蔵を紹介する30分ほどの「傑作場面集」につづいて、「番場の忠太郎 瞼の母」(1931)を故松田春翠の活弁トーキーで上映する。
「傑作場面集」は映画史として面白かった。片岡千恵蔵は嵐寛寿郎と同じ明治36年(1903)生まれで、25歳でともに独立し、自分の名前を冠したプロダクションを設立している。嵐寛寿郎は山中貞雄を世に出したが、片岡千恵蔵は伊丹万作を育てている。チャンバラの大スターが名監督にチャンスをあたえていたのだ。
「番場の忠太郎 瞼の母」は名作とされているが、途中で寝てしまった。
三井記念美術館で「道教の美術」展を見た。「知られざるタオの世界」という惹句に引かれて見たが、なんとも茫洋としたまとまりのない展示だった。
まず中国の道教美術を紹介し、次にそれに影響を受けた日本美術を検討するという構成だが、肝腎の中国の道教美術の紹介が総花的で薄く拡散しており、日本の部にいたっては安倍晴明から浦島太郎、閻魔大王、岡倉天心まで何でもありだが、これだけ手を広げても印象に残るような展示品は一つもなかった。どうでもいい骨董品を寄せあつめただけとしか思えなかった。
この規模だったら、日本への影響にまで手を広げず、中国の道教美術の展開に焦点をしぼるべきだったろう。時間を無駄にした。
三井記念美術館ははじめてはいったが、ビルの一フロアをそっくり使っていた。前半の展示室は美術館というより社交クラブのような作りだったが、多分、元は社交クラブだったのだろう。
ユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』をウォーレス・ワースリーが1923年に映画化したサイレント作品である。
ジーナ・ロロブリジーダが主演した1956年版と較べると、怪奇趣味も含めてこちらの方が原作に近い。小柄で目がぱっちりしていて、小倉優子を思わせるパッツィ・ルース・ミラーのエスメラルダは原作そのままである。
娘は、むぞうさに足もとに投げ広げられた古いペルシアじゅうたんの上で踊っている。舞っている、渦を巻いている。そして、くるくるまわりながら、その晴れやかな顔が見物人の前を通りすぎるたびに、黒い大きな目がきらりと光を投げかけるのだった。
ジーナ・ロロブリジーダのグラマラスなエスメラルダは魅力的だけれども、生意気な小娘という感じではない。
1956年版で割愛されていたエスメラルダの生い立ちが語られているが、カジモドと取りかえ子だったという因縁話はここでも割愛されている。カジモドはエスメラルダより三歳か四歳しか違わない若者のはずなのに、1956年版同様中年のように描いているのは残念だ。
IMDBで調べたところ、『ノートルダム・ド・パリ』は1911年、1922年、1923年、1939年、1956年の5回映画化されており、TVムービーを含めると9回映像になっている(アンソニー・ホプキンスがカジモドをやったのもある)。ディズニーはアニメ化した上に、オリジナルの続篇まで作っている。こんなに映像になっていたとは知らなかった。いずれ手にはいる限り見てみたい。
題名さえ知らなかった作品だが、スクリューボール・コメディの傑作とされているそうで、すごく面白かった。上映してくれたシネマ・ヴェーラに感謝する。
大恐慌のさなかのニューヨークが舞台である。成金のブロック家にゴドフリー(ウィリアム・パウエル)が執事として勤めはじめる。彼はルンペンだったが、パーティの余興の「一番いらない物探し」が縁で、ブロック家の妹娘、アイリーン(キャロル・ランバード)と知りあい、ちょうど執事がやめたところだからと仕事を世話されたのだ。
ブロック家は執事がいつかないのも当然の滅茶苦茶な家だった。父親のブロック氏はボクサーあがりの実業家で苦労人だったが、母親と二人の娘はワガママのかたまりで、母親が面倒を見ている自称音楽家まで居候している始末。
ところがゴドフリーはルンペンあがりとは思えない上品な物腰で執事の役割をみごとに果たし、一家の面目をほどこしていく。アイリーンはゴドフリーに引かれていき、傲慢だった姉娘のコーネリア(ゲイル・パトリック)まで彼に関心を持ちはじめる。
ある日、茶会に招かれたグレイ(アラン・モーブリイ)はゴドフリーを見るなり「ハーバード以来だな」と声をかける。ゴドフリーはグレイの召使としてハーバード大学についていっただけだと胡麻化すが、コーネリアはグレイの正体を疑いはじめる。
これから二転三転あって最後はハッピーエンドだが、機知あふれるやりとりと軽快なテンポが楽しい。見終わった後に幸せな気分が持続した。
国立新美術館でルネ・ラリック展を見た。「華やぎのジュエリーから煌めきのガラスへ」と副題にあるように、前半は宝飾品、後半はガラス器である。400点集めたというだけあって、歩いても歩いても展示がつづく。中間地点の休憩所で座りこんでいる人がかなりいた。急いで見ても一時間では無理で、ちゃんと見るには二時間以上必要だろう。
ジュエリー編はほとんどフランス象徴派の世界である。巧緻を極めた細工と宝石と七宝で描きだされたデザインは奔放にデフォルメされていて、ロールシャッハテストの図形のようにタイトルを結びつけるには想像力が必要で、しばらく眺めているとああなるほどとわかる。
地の金属を薬品で溶し、金線と釉薬のみを残した省胎七宝という技術を使った作品がすくなくないが、金線に縁どられた半透明の釉薬は瑪瑙か玉髄のようで、マラルメの詩を形にしたらこうなるだろうと嘆息した。
デザイン画とならべて展示した作品が何点かあったが、デザイン画も芸術の域に達している。
後半のガラス器はがらりと雰囲気が変わる。写真でしか見たことがなかったが、実物を見ると大きくて、肉厚で、ゴツイのだ。大味で繊細さのかけらもなく、どうしてこんなに変わってしまったのだろうと戸惑った。
最終編の公開間近ということで、三軒茶屋シネマが最初の二本を一挙上映してくれた。話題作だけに、今までになくこんでいた。
原作は読んでいないが、つかみがうまく、たちまち作品の世界に引きずりこまれた。コンビニのしがないオヤジが子供時代のゴッコ遊びそのままの新興宗教を発見し、世界的な陰謀に巻きこまれていくのである。主人公と世代が近いこともあって、わくわくしてしまった。
しかし、巨大ロボットが東京を襲うあたりからついていけなくなった。原作が長大すぎるのか、映画が説明不足なのかはわからないが、ストーリーにリアリティが感じられなくなってきたのである。原作を読んでいたら、受けとり方が違ったのかもしれないが。
ケンジ役の唐沢寿明はじめ中年俳優総出演で、実年齢はばらけていそうだが、同級生に見えないことはない。ラストは謎を残していて、次作以降を見たくなった。
一挙に十年以上時間がたって、小学生だったカンナは高校生になっている。第2章はケンジは姿を消し、カンナが主人公である。第1章のまま、また二時間以上つづくのはつらいなと思ったが、カンナ役の平愛梨の活きのいい演技のおかげでなかなか面白かった。
しかし、後半になり、疫病の流行や子供時代の話がループしてくると、診ている方も息切れがしてくる。原作ではどうなっているのだろう。