エディトリアル   May 2010

加藤弘一 Mar 2010までのエディトリアル
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5月 7日

「夢の泪」

 井上ひさしの「東京裁判三部作」の第二作である。2003年の初演は見逃したが、新国立劇場の一挙上演で見た。演出は初演にひきつづき栗山民也。新橋のマーケットに事務所を置く弁護士夫妻が松岡洋右の補佐弁護人に選ばれたてんやわんやを、進駐軍歌手の持ち歌争いと朝鮮人ヤクザと日本人ヤクザの抗争にからめて描く。

 東京裁判の被告はいずれも破産状態だったので、弁護士は当初無報酬だったというのははじめて知った。GHQは日本政府に出させようとしたが出す名目がないと拒否されたので、最終的にはGHQが占領費用の中から出したそうである。この芝居では弁護人が弁護費用の募金を呼びかけたので、GHQがあわてて支給することにしたという話になっているが、実際はどうだったのだろう。

 第一作の「夢の裂け目」は天皇の戦争責任を追及すると大上段に振りかぶっただけで終わったが、今回も東京裁判に関係する部分は中途半端だ。平和に対する罪は1928年のパリ不戦条約にさかのぼるから、事後法という批判はあたらないと主張したいのなら芝居の中心に据えるべきだったのに、台詞で説明して終わりである。全盛期の井上なら法律論議を芝居にしたてられたはずだが、創作力が落ちていたか。

 主筋が貧弱な分、脇筋に力がはいっているが、つっこみどころ満載である。

 第一の脇筋である進駐軍歌手の歌争いは絶叫芝居に終始し、話としてふくらまないまま最後に原爆と結びついたのは意外だった。「父と暮らせば」の副産物だろうが、話の組立に無理がある。

 新橋マーケットの抗争は主筋を押しのけて後半の中心になった。朝鮮人同情論一色で、全盛期の井上だったら、ここまで牽強付会に走らなかっただろう。執筆当時、小泉訪朝で金正日が拉致を認め、北朝鮮批判が一気に噴きだしたことが影響しているのかもしれない。

 井上は朝鮮人が可哀想だと同情論を煽ろうとするが、戦勝国の国民だという韓国・朝鮮人の自己認識を無視し、日系アメリカ人の迫害と同一視するのはいかがなものか。新橋マーケットを舞台にしているのに「三国人」という言葉が出てこないのはおかしいし、アメリカが炭鉱の労働力を確保するために、在日韓国・朝鮮人の帰国を日本国内に足止めしたというにいたってはあきれるしかない。それともこの芝居は実はパラレルワールドもののSFで、別の日本を舞台にしているのだろうか。

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5月 8日

レンピッカ展

 Bunkamuraミュージアムで駆けこみで見てきた。素晴らしかった。

 レンピッカはポーランド系ロシア人だが、ロシア革命後、弁護士だった夫とともにパリに亡命し、収入を得るために絵を描きはじめる。肖像画が評判になり、アール・デコの波に乗って成功をおさめ、ボヘミアンな生活や両性愛で話題になるが、戦後は一転して忘れられてしまう。

 ペテルブルク時代の習作からレンピッカ・スタイルを確立していく20年代の初期作品、金属的なタッチと遙か彼方を見すえるような強い視線が印象的な全盛期、レンピッカ流のスタイルを維持しながらも社会的な題材を描いた40年代、すっかり毒気の抜けてしまった50年代以降と、すべての年代から代表作が集められている。高名な写真家に撮らせた自分自身のポートレートも展示されている。

 この展覧会のポスターになり、岩波から出ている画集の表紙にもなっている娘キゼットの肖像からはアール・デコの画家という印象を受けていたが、通してみていくと、最初に出会ったキュビスムの影響が一貫していることがわかる。そういえば、ブリキ細工のような髪や円錐形の乳房はキュビスムそのものではないか。

 少女時代のキゼットを描いた連作がすごいが、大人になったキゼットは扁平なスラブ系の顔のオバさんになり、絵もつまらなくなる。

 マドンナが大ファンだそうだが、それもうなづける。

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5月10日

「カティンの森」

 ムラルチクの原作をアンジェイ・ワイダが映画化。岩波ホールの封切で見ようと思っていたが、重い映画なので一日伸ばししているうちに終わってしまった。新文芸座でかかったので、最終日に見てきた。

 作品のすごさは今さら言うまでもない。新聞やネットの映画評でも絶賛の嵐なので、ここではあまり指摘されていないことを指摘したい。

 カティンの森ではソ連軍の捕虜になっていた4400人のポーランド人将校が虐殺されたが、彼らは単なる軍人ではない。一部に職業軍人もいたが、大半は戦争が終われば市民にもどり、管理職や医師、教師としてポーランド社会の屋台骨を支えることになる知識人だったのだ。ソ連はポーランドの知識人を選択的に殺したのである。

 なんのためか? もちろん、ポーランド支配と共産化をしやすくするためだ。ナチスとポーランド分割を談合した時点で、ポーランドの共産化は既定方針だったのである。

 これはワルシャワ蜂起に対する裏切りとも関連する。

 1944年8月1日、ソ連軍のワルシャワ進出に呼応してポーランド国内軍はワルシャワで蜂起するが、ソ連軍は事前の約束を破って進軍をやめ、反撃に転じたドイツ軍による殲滅戦を傍観する。ポーランド国内軍は9月末には壊滅するが、その後、ドイツによる残党狩りと都市破壊がおこなわれ、20〜25万人のワルシャワ市民が虐殺されたといわれている。ソ連軍がワルシャワに入城したのは翌1945年の1月だが、廃墟となったワルシャワでソ連軍が最初におこなったのはわずかに生き残ったレジスタンスの逮捕・処刑だった。ソ連は共産化の障害になりそうな気骨のあるポーランド人をあらかじめ排除したのである。

 映画の中で、将軍の家の家政婦の夫が市長に抜擢され、家政婦が貴婦人然とした服装であらわれる場面があったが、ああいうことは実際にあったのだろう。

 共産主義者による知識人殺しはカンボジアが有名だが、ベトナムや北朝鮮、中国、東欧諸国、そしてソ連でもあった。共産主義国家は情報統制による愚民支配を必ずおこなうが、知識人殺しはその一環である。

 カティンの森事件とワルシャワ蜂起への裏切りが同根のものだということは1978年4月に放映されたNHK特集「あの時、世界は…」の第1回で知ったが、放映直後からキャスターをつとめた磯村尚徳氏に対するバッシングが放映直後から朝日新聞をはじめとする左翼マスコミによってはじまった。カティンの森は左翼人種にとって隠しておきたい汚点だったのである。

 NHKアーカイブスで見られるかなと思って「あの時、世界は…」を検索したところ、全5回のうち第2回以降は保存されているが、なぜか第1回はない。普通は第1回だけ残っているというケースが多いのだが……。

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「母なる証明」

 知恵遅れの一人息子トジュン(元斌)が女子高生殺しの容疑で逮捕されたので、母親(金恵子)が嫌疑を晴らそうと必死に素人捜査をするが、予想外の真相にぶつかる。主人公のオバさんが草原で自己陶酔して踊っているという気色悪い場面ではじまるが、結末はもっと気色悪い。

 韓国は儒教の国で、朴正煕を除く歴代の大統領がすべて身内の汚職問題をおこすくらい身びいきが普通の社会だが、あの結末は韓国社会の病弊をちょっとつついてみたというところだろうか。衝撃的ではあるが、韓国社会の価値観を越える普遍性に到達しているとは思えない。

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5月11日

「レベッカ」

 ヒッチコックの映画化でおなじみのデュ・モーリアの小説のミュージカル化である。

 シアター・クリエで大当たりし帝劇に進出したということだが、高校生の団体を入れても空席が目立っていた。まだ帝劇で二ヶ月興業ができるほど知られていないのではないか。

 空席が多いので危惧したが、はたして出だしは大味である。ヒロインの大塚ちひろは頼りない役柄にしても、歌まで頼りなく存在感が薄い。わかりやすい反面、図式的すぎるという印象を持った。

 しかしマンダレイ荘に舞台が移り、冷血無情なダンバース夫人(シルビア・グラブ)が登場すると俄然面白くなる。存在感も歌もヒロインを圧倒していて、先妻の衣装を知らずに得意になっていたヒロインがマキシムの怒りをかい、ダンバース夫人に追い打ちをかけられる場面では自然に応援したくなった。

 二幕になると完璧な二枚目に思えたマキシム(山口祐一郎)が後ろ暗い過去をヒロインに告白する(マキシムのソロは「オペラ座の怪人」のメロディーに似ている)。ヒロインは夫を守るために立ち上がり、大団円に。

 大塚ちひろはまだまだだが、ドラマとしてよくできているので満足した。再演をくりかえしていくと、もっとよくなるだろう。

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5月14日

 ペンクラブの言論表現委員会に出た。ペンクラブは3月18日に「東京都青少年条例改定による表現規制強化に反対する声明」を出したが、お爺さんの団体が漫画のために声明を出してくれたということで、若い人たちから感謝のメールが殺到したという事務局からの報告を聞き、一同あんぐり。

 ペンクラブは何でも反対する団体というイメージが強く、反対声明を出してもたいして反響がないのだが、今回は漫画ファンだけでなく、東京都や共産党、その他諸々の団体から説明にうかがいたいという申しいれが来ているそうである。石原都知事と猪瀬副知事がどちらもペンの会員だということも影響しているのかもしれない。

 他の団体はともかく、東京都に返事をしないと了承したと宣伝に使われかねないので善後策を協議したが、再度声明を出す時期ではないから談話という形に落ち着いた。

 東京都がなぜこの時期に漫画規制に乗りだしたかの背景事情についても話があったが、どうも警察庁から左遷されてきた役人が児童ポルノのお先棒かつぎをして点数を上げようとしているということらしい。

 「非実在青少年」という無茶な論理構成になっているのも児童ポルノ規制の露払いと考えればわかりやすい。石原氏は役人の狙いがわかっていないので、先日の「非実在青少年」に関する談話になった模様である。

「ひなぎく」

 1960年代の薫りをぷんぷんさせたチェコの前衛映画である。気ままな二人の娘のはちゃめちゃな日常を描いた他愛のない映画だが、チェコ国内では上映禁止になりヒティロヴァ監督は沈黙を強いられたという。

 好きな映画で、バウス・シアターの再映で見て以来、十回近く見ていると思う。久しぶりに再会したが、フィルムの状態が悪く、お洒落な色遣いが台無しになっていた。しかし軽快なテンポは損なわれることなく、楽しく見た。この映画は何度見ても飽きない。

 驚いたのは満席で立見が出るほどの盛況だったことだ。「ひなぎく」のようなマニアックなでこんなに客がはいるなんて信じられない。早稲田松竹は先日のゴダールの二本立ても満席だったが、どうなっているのだろう。

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「不思議惑星キン・ザ・ザ」

 1986年製作のソ連のSF映画で、その方面では有名な作品である。ようやく見ることができたが、これは聞きしに勝る傑作だ。

 雪の降りしきるモスクワの街頭で汚いオーバーをまとっただけのホームレスの男が裸足で凍えている。通りかかった学生と中年男が同情して靴下をめぐんでやろうとしたところ、ホームレスは自分は異星人で間違って知らない惑星に来てしまった。ここの座標はいくつだなどとわけのわからないことを口走る。中年男がホームレスの持っていた機械のボタンを押したところ、彼と学生はキン・ザ・ザ星雲の砂漠の惑星プリュクに転移してしまう。

 途方にくれていると釣鐘型の飛行物体がやってきて拾われるが、これからすごい。SF版チェーホフ劇とでもいうべき頓珍漢なやりとりがはじまり、キン・ザ・ザ星雲の歪んだ社会構造がすこしづつわかってくる。

 最後は二人とも地球にもどれるのであるが、中年男は地球人としての意地を見せてかっこいい。

 ソ連社会の諷刺が根柢にあるのだろうが、検閲をのがれるためか、鈍感力というか屈折したユーモアが横溢していて容易にしっぽをつかませない。検閲なしにはこういう複雑な味わいの作品は生まれないのだろう。

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