エディトリアル   March 2013

加藤弘一 Feb 2013までのエディトリアル
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3月 1日

 新宿サニーサイドシアターで「友達」を見た。サニーサイドシアターは地下鉄新宿三丁目から新宿御苑方向に向かい、一つ目の交差点のメガネドラッグの裏の廃墟のようなビルの地下にある。6〜7人の座れるベンチ席が5列あり、だいたい埋まっていたから30人以上はいっていただろう。ベンチ席で芝居を見るのは何年ぶりだろうか。背もたれがないのはきつい。

 暗転後、首飾の歌のコーラスにつづいて照明がつくと家族八人が舞台最前列にヌッと立ってる。八人並ぶと間口はいっぱいである。なんという圧迫感。舞台が小さいので八人の家族は物理的な脅威なのだ。主人公の絶望感が皮膚感覚で伝わってくる。

 役者の力量はばらつきがあるが、父親ときゃりーぱみゅぱみゅのような祖母がムードメーカーになって悪夢のような舞台が展開する。あまり期待していなかったが、なかなかの出来である。

 ところが長女が主人公に色仕掛けで迫る場面になると失速した。檻に入れられる場面で多少持ち直したが、次女と二人の場面でまたも失速。ムードメーカーになれる役者がいないと馬脚があらわれる。

 役者などの制約のためだろうが、脚本の改変が目につく。後半の台詞はカットしすぎではないか。

 前半がよかっただけに、残念な舞台である。

 尼崎の事件のせいかどうかはわからないが、東京では「友達」が競演になっている。明石スタジオの方も見る予定である。

3月 6日

 「レッド・ライト」を見た。伝説の超能力者を演ずるロバート・デ・ニーロと超能力のインチキを暴く科学者を演ずるシガニー・ウィーバーの対決という謳い文句だったが、ウィーバーは対決の前にあっさり亡くなってしまう。本当の主役はネアンデルタール顔のキリアン・マーフィで、なぜ彼がインチキ超能力にこだわるのか、そしてなぜ主役かは最後でようやくわかる。

 アイデアはいいと思うが、力の入れどころが微妙にずれていて、全部わかってもカタルシスは薄い。引き立て役にされたデ・ニーロとシガニー・ウィーバーはバカをみた。

3月 7日

 今日は安部公房の89回目の誕生日である。昨年『天使』が「新潮」に掲載されるにあたって付した解説を「安部公房を読む」に掲載した。先に公開した「『天使』解説・拾遺」もあわせて参照してほしい。

 ペンクラブ言論表現委員会に出た。遅刻したので全部は聞けなかったが、自炊代行の合法化問題は前回聞いた通りの、Yahooがからんだきな臭い話だった。しかし著作権問題のドンが乗り気なので通るのだろう。

 著作隣接権問題は出版社に著作権者の権利に抵触しない範囲の弱い権利(エージェント権になるらしい)をあたえるという線で合意が形成されつつあり、一番強硬な団体も反対はしていないという。しかしその権利を本当に著作者のために使ってくれるかで不信感が残っている。

 著作権者側は出版社が著作権侵害で戦えるようになっても、売れている作家のためにしか行使しないのではないかと懸念している。無名作家のためにも戦うという保証を形にしてほしいというところでせめぎあっているようだ。

 しかし時間がない。TPP交渉で著作権が議題になるのは確実で、今のままではアメリカの著作権法がそのまま押しつけられかねない。死後50年が70年になるくらいならともかく、強力なフェアユース規定や著作人格権の空洞化まで突き進んでしまうだろう。

 世界の著作権法は著作人格権を重視する大陸系と軽視する英米系にわかれる。日本の著作権法は多数派の大陸系だが、TPPの参加国のうち先進国はカナダも、オーストラリアも、ニュージーランドもアメリカと同じ英米系である。他の分野はともかく、著作権法では日本は孤立している。

 アメリカ主導の著作権法改正を恐れてだろうか、経団連が改正案を作り、間もなく提示するという。現行の案よりも出版社の権利が強く、著作権者の権利を制限するものらしい。うかうかしていると経団連案が通ってしまうかもしれない。

 TPPで再販制が崩れるのではないかという話も出た。非関税障壁として槍玉にあがるのは確実で、おそらく法律的には再販制度はなくなるが、新聞では実質的に残るだろうという。CDは実質的にもなくなるが、出版は微妙らしい。Amazonしだいというところか。

 明石スタジオで笛井事務所の「友達」を見た。高円寺南口のOKストアの先の辻を右に折れるとスタジオの看板の出た黄色いビルがあり、その二階である。

 明石スタジオには小劇場通いをしていた頃に何度か行ったことがあるが、中央線沿いだったような記憶がある。移転したのだろうか、それとも勘違いか。

 舞台はほぼ正方形でSSTの1.5倍くらい。コの字に囲むように席がある。背もたれのないベンチ席で120人定員だが、満席だった。初日なので出演者の友人や家族が多かったようだ。楽日はともかく他の日はここまで混まないだろう。

 コの字の縦棒の位置にすわったが、手前にワイヤーで吊った窓枠、奥に二本のポールにとりつけた玄関ドア、上手に骨組だけの下駄箱、下手手前に黒電話機の載った事務机、その後ろに別室につながる通路がある。

 全方向舞台だが、それでも実質的な正面はあるはずだ。コの字の縦棒が実質的正面だと思っていたが、記録用のカメラはコの字の上の棒の位置にあり、カーテンコールでも主演(本間と次女という解釈)の二人は上の棒に向かって立った。ということは上の棒側が実質的正面なのだろうか。

 舞台の出来はSSTより段違いによかった。まず役者の質が違う。SSTは11人の出演者のうちプロレベルは3〜4人しかいなかったが、こちらは15人のうち10人はプロレベルだ。SSTは勢いまかせで危なっかしいが、こちらは安定している。基礎ができている・いないの差は歴然である。SSTは役者の問題等々で無理な解釈が多かったが、こちらは穏当な解釈で安心して見ていられた。レベルは高いが、傑作かといったらそこまではいかない。もちろん「友達」の舞台を見たことのない人はこの機会に見ておいた方がいい。

3月 9日

 シネマ・ヴェーラの大島渚追悼特集で「飼育」を見た。かなり混んでいて、6〜7割は若い人、しかも半分は女性である。安部公房でも感じたが、1960年代の前衛が古典になったということなのだろう。原作は大江健三郎の初期の傑作で四国の山村が舞台だが、映画では信州に設定を変えている。原作は子供の眼で描かれ、詩的な美しさがあったが、映画は大人のドロドロした関係をこれでもかとほじくりだし、黒人兵はただただ惨めに描かれる。疲れた。

 併映の「絞死刑」は奇作だが傑作に近い。絞死刑のドキュメンタリー風にはじまるが、死刑が執行されたのに死刑囚は死ななかったという驚きの展開。刑務所の幹部と立会い検事はあわてふためいて善後策を協議。もう一度吊るそうとするが、意識を保った状態でないと執行できないとわかり医者に救命措置を命ずるが……。限りなく屁理屈に近いディスカッションドラマで笑いに笑った。最後は立会い検事が貫禄を示し、権力の本質をギラリとさせる。やはり傑作というべきか。

3月11日

 キネカ大森で「情熱のピアニズム」を見た。ミシェル・ペトルチアーニという骨形成不全症のピアニストの生涯を描いたドキュメンタリーである。

 ペトルチアーニは南仏の田舎町に生まれたが、骨が先天的に脆く全身骨折の状態で産まれてきた。歩くこともできず、身長は1mそこそこで止まった。20歳まで生きられるかどうかと危ぶまれたが、ジャズをやっていた父親の影響でピアノに没頭、13歳でプロデビューを飾り、19歳で渡米して大成功をおさめる。 ペトルチアーニは底抜けに明るく、チャレンジ精神旺盛で乙武洋匡氏と共通するものがある。最初に拠点をおいたサンフランシスコでナバホ族の女性と結婚(ベッドは最高だったと彼女はのろけていた)。その後ニューヨークに移り、別の女性と同棲。三番目の女性との間には息子を設けている。

 なんと言っていいかわからないが、息子も同じ障害を負って産まれてきている。息子もまた音楽の道に進んだが、突き抜けておらず屈折をかかえている。話し方が暗く、いたたまれない気持ちになる。ペトルチアーニや乙武氏のような強靭な精神をもった障碍者は稀なのだろう。

 ジャズはわからないが、ペトルチアーニのピアノは非常に魅力的に聞こえた。たくさんCDが出ているが、"Live at the Village Vanguard"をベストに推している人が多いようである。

 併映はグレン・グールドのドキュメンタリーとアナウンスされていたが、「僕のピアノコンチェルト」になっていてがっかりした。「僕のピアノコンチェルト」も悪くはないが、一度見ているのだ。天才児の自分探しの物語で、思春期の方の主人公を演じた子役は二宮和也に似ている。

3月14日

 新国立劇場で「長い墓標の列」を見た。第二次大戦直前に学問の自由を守ろうとして東大を追われた河合栄治郎を描いた戯曲で、福田善之弱冠27歳の作。河合家は当主が失業したこともあって戦争中は家計が逼迫していたが、戦後河合の遺著がベストセラーになり、相当な収入があった。未亡人はその収入を自分のために使うことを潔しとせず、貧しい学生の奨学金にした。奨学金第一号が福田だったという。

 河合栄治郎事件は滝川事件とならぶ戦前の思想弾圧事件だが、今ではほとんど忘れられてしまった。最近立花隆『天皇と東大』の下巻にとりあげられたが、言論弾圧というより東大内部の学閥抗争という視点で描かれているらしい。

 この芝居にも学閥抗争が出てくるが、喧嘩両成敗で大学の自治を守ろうとする学部長や河合を裏切ることになる助教授の城崎(大河内一男がモデル)に較べると、河合はあまりにもナイーブで、ドン・キホーテ的に見える。

 河合を演じる村田雄浩は軽すぎるんじゃないかと思ったが、ドン・キホーテ的な悲喜劇とする演出からすればぴったりである。一昔前だったら河合は悲劇のヒーローのように演出されただろうが、時代は変わった。

 こういう演出が可能なのは福田善之のテキスト自体に河合をドン・キホーテと見る視点が潜んでいたからだろう。「真田風雲録」の作者だけのことはある。

3月15日

 新文芸座で「苦役列車」を見た。主人公の貫多(森山未來)は父親が強姦事件を起こしたために一家離散になり、中学卒業後日雇い仕事でうだうだと暮らしている。金が出来ると風俗で使ってしまうので部屋代が払えず、何度も部屋を追いだされている。

 貫多の唯一の生きがいは読書だが、行きつけの古本屋のアルバイトの女子大生(前田敦子)に片恋していて、ストーカー気味でもある。なんとも困った奴だが、地方から出てきて専門学校に通っている好青年の日下部(高良健吾)と知りあったところから話がはじまる。

 一昔前の映画と違うのは最底辺の暮らしをしている貫多に人生の真実があるなどといきがっていないことだ。愛想を尽かした日下部が「甘えるな」と叱るように、貫多は世間に甘えているのであり、悲劇ではなく喜劇の主人公にしかならない。西村賢太の原作がどのように書かれているのかはわからないが、主人公を突き放していないと文学にはならない。

 併映の「ロボジー」はなかなか面白かった。地方の家電メーカーがロボット・ブームにあやかろうと二足歩行ロボットを試作するが、事故で壊れたために急遽人間を中にいれて発表会をやりすごそうとする。

 ロボットの体型にぴったりあったのは定年で居場所をなくした老人(ミッキー・カーチス改め五十嵐信次郎)だったが、調子に乗ってスタンドプレイをしたことから話が大きくなりインチキ・ロボットを続けざるをえなくなるというドタバタ喜劇。設定もストーリーもいい加減だが、主人公のキャラクターに惹かれて最後まで見てしまった。

 ロボットに男を感じて追っかけをはじめるロボット・マニアの女子大生(吉高由里子)もコミカルないい味を出している。心はがさつだが、体は繊細という役は彼女にしかできないだろう。

3月17日

 メタンハイドレートの試掘がようやくはじまったが、青山繁晴氏が本命は水深の深い太平洋側ではなく、浅い日本海側だという持論を展開している。これまで日本海側の優位点はは太平洋側より格段に利用しやすいだとされてきたが、青山氏は今回日本海側は「海底からメタンハイドレートの柱が立っていて、粒々が毎日、作り出され、溶け出している。いわば地球の活動が続く限り、生成され」るとしている。

 これは石油無機生成説であろう。石油無機生成説はトーマス・ゴールドの『未知なる地底高熱生物圏』と『地底深層ガス』に詳しいが、石油生成バクテリアの研究で否定されたのだと思っていた。青山氏は石油無機生成説の根拠を持っているのだろうか。石油無機生成説が事実だとしたら世の中はひっくり返ってしまう。

 石油無機生成説の真偽はともかく、表層型メタンハイドレートの利用については科学技術振興機構に有望だというレポートがある。

3月18日

 新文芸座の大島渚追悼特集で「少年」を見た。実の息子と後妻を車に飛びこませ、金を脅しとる当たり屋の話である。息子を預けていた高知から日本海側を北上して北海道に達するロードムービーでもある。昔見た時は息子の心情に共感したが、今回は父親の心理が気になった。ダメ男なのに憎めないという言い方があるが、この父親はダメな上に憎々しいのである。それなのに感情移入してしまうとはどういうことか。

 併映は大川橋蔵主演の「天草四郎時貞」。東映でメガホンをとった珍しい一本だが、例によってディスカッション・ドラマなのである。

 要所要所に大島組を配置し、裏切り者には三國連太郎をつれてくるなど工夫しているが、アクション時代劇が売りの大川橋蔵にディスカッション・ドラマをやらせるのは無茶だ。しかも内容が全学連の内幕を思わせる政治論なのである。大島渚らしい場外ファールだ。

3月19日

 新文芸座の大島渚特集で「青春残酷物語」を見た。ベタな題名なので敬遠していたが、青春映画の傑作ではないか。

 好奇心旺盛な女子大生の真琴(桑野みゆき)がオヤジにホテルに連れ込まれようとしているところを不良学生の藤井(川津祐介)が助け、ついでに金を巻きあげる。翌日その金で遊びにいくが、藤井は木場の貯木場で真琴とレイプ同然に関係をもつ。真琴は藤井の部屋に転がりこみ同棲するが、金がなくなると美人局で稼ぐようになる。ところが真琴は妊娠、中絶費用を作るためにした仕事で逮捕される。二人は釈放されたものの、警察の取調べで地回りを売る結果になり、彼らからも負われる羽目に。絵に描いたような転落だが、政治闘争で挫折した姉の世代と藤井の家庭教師先の有閑マダムがからんでおり、ドラマの懐が深い。

 併映の「無理心中日本の夏」は見通すのが苦痛な前衛映画。

 同じ前衛でもゴダールの映画はヒロインが美しいので理屈についていけなくなっても目の保養になるが、この映画のヒロインの桜井啓子(女優ではなく本物のフーテンを抜擢したそうな)は醜悪なブスで、気持ちがささくれだってくる。

3月22日

 新文芸座の大島渚特集で「日本春歌考」を見た。

 見たことがないと思いこんでいたが、伊丹十三が〽ひとつ出たほいの……と歌い出す場面で、見たことがあると思いだした。黒い日の丸を掲げて行進する紀元節反対のデモ隊など、はっとする場面はあるが、映画としては面白いものではない。

 併映の「忍者武芸帳」はアニメではなく、白土三平の劇画をコマ撮りし、俳優に声をあてさせたもの。意外によくできていて、この手があったのかと感心した。最初の一時間は面白かったが、原作が長大すぎて似たようなパターンが繰りかえされるとダレてくる。一時間半でおさまれば傑作だったろうが、二時間半は長すぎる。普通のアニメだったら六時間はかかる内容だ。手頃な原作があれば有効な手法だろう。

 原作の「忍者武芸帳」は小学館クリエイティブから全17巻の復刻版が出ている。いろいろな版で出ているが、原画がないのでページをトレースしたもので、貸本原本から忠実に起こしたのは小学館クリエイティブがはじめてだそうである。読んでみようか。

3月24日

 ずっと北朝鮮を庇ってきた中国だが、先日の核実験にはとうとう業を煮やし、原油の供給をストップしたそうである。中国が石油を止めたら国際相場で買わなければならず、ただでさえ外貨事情の悪い北朝鮮はアップアップだろう。北朝鮮が在外公館に「麻薬で稼げ!」と「忠誠資金」の上納を指令したという記事があったが、いよいよ切羽詰まっているのだ。

 朝鮮学校補助金打ち切り反対集会で「私たちはお金が欲しいわけではない」と演説したそうだが、北朝鮮に余裕があった時代には朝鮮学校はみずから補助金を拒否し、それを誇りにしていた。そんなことを言っても、白々しいだけである。

 韓国は韓国で対馬に住職が押しかけてきたり、祈祷師集団が200人近くもやってきて妙なパフォーマンスをしていったと思ったら、対馬の領有権を主張する地方議員が大挙してやってきたという(サーチナ)。竹島なんか韓国にくれてやれという人がいるが、竹島で味をしめたら次は対馬である。というか対馬が本命だろう。中国も尖閣の次に沖縄を狙っている。

 安倍首相のフェイスブックのコメント欄で反日の韓国人と中国人をフランス人が論破したことがニュースになっている。こういうことは本当は外務省がやるべきだ。外務省は中国や韓国、北朝鮮の理不尽な主張にどれだけ反論しているのか。

 黒田勝弘氏が在米韓国人の目に余る反日活動について書いている(ZAKZAK)。こんなものを放置しているから、慰安婦の像がアメリカにどんどんたつのだ。日本の外務省の怠慢は犯罪的である。

 中国嫁日記作者の井上純一氏が抗日ドラマがなくならない理由を分析している。共産党は抗日ドラマをこれ以上作らせないようにしているが、視聴率がいいから100 チャンネル以上ある民放のテレビ局が勝手に作ってしまうのだそうである。

 中国共産党は日本軍とはほとんど戦っていないのだから、外務省は根気よく抗議するべきだ。共産党が抗日でもウソをついていたという認識が広まれば、共産党独裁の終りは案外早くやってくるだろう。

 時事通信が「抗日ドラマ娯楽化に批判=大量制作、内容ずさん―中国」というニュースを配信している。中国兵がスーパーマンのように日本兵をバッタバッタとなぎ倒す非現実的な抗日映画が増えたので、中国当局も「『民族の大義』を装っているが、実際には商業的計算がある」と批判するようになったという。「イップ・マン 葉問」のような比較的ましなものが日本でも公開されているが、あれでも笑ってしまう。(Apr01 2013)

 産経新聞に「「盗人猛々しい!」韓国の暴論、怒る対馬」という記事が出ている。見出しは激しいが内容はまともである。

 対馬の寺社は統一新羅〜高麗時代の仏像を数十体所蔵するが、大半は焼け跡や欠損がある。李朝時代の激烈な廃仏運動で焼かれたり、壊されたためだ。観音寺の仏像も傷があり光背がない。倭寇に盗まれたと主張している浮石寺は李朝時代に一時廃寺になっており、問題の仏像はこの時期に対馬にもたらされたとみられている。ところが韓国ではそうした歴史的背景を説明せずに、倭寇が奪ったという根拠のない主張を一方的に流すだけだそうである。

 産経新聞にはまた富岡幸一郎氏による『題未定』の書評も載っていた。富岡氏と最後に会ったのは何年前だろう。もしかしたら20年くらい顔をあわせていないかもしれない。

3月25日

 緑内障自己診断サイトでまずい結果が出た。砂嵐の画面の左端に灰色のまだらが見えたのだ。視野欠損がはじまっているのかと鬱に。思いきって眼科に行ったところ念入りに眼底検査。これはやはりと思ったが、結果は異常なし。花粉症の目薬を処方してもらって帰ってきた。『家庭の医学』と同じでうっかり自己診断サイトなんて覗くもんじゃない。

 朝日新聞の文化欄にカラーの年表つきの「はじめての安部公房 真実求めて絶えず変貌」が載った。有料記事なので現物は見ていないが、入門的な記事ということである。

 BOOK asahi.comの方で「真実求めて絶えず変貌 安部公房を読む」として無償で読めるようになった。(mar26 2013)

 わたしのコメントも載っているらしいが、取材を受けた時点ではすでに記事はできあがっていて「コメント」の事後確認だけだった。見てみないとわからないが、おそらく鳥羽耕史氏の安部公房観でまとめられたものだろうと思う。

 紀伊國屋でやったトークショーで誤解があったようなので一言。開始が遅れたのはわれわれが遅刻したからではない。指定の時間には着いていたが、「打合せ」の際に紀伊國屋側が安部ねりさんに一山分の本にサインを求めたのだ。安部ねりさんはプロの作家ではないのでサインに慣れておらず、一冊一冊丁寧に署名していたので開始が遅れたのである。かなりの冊数だったから、紀伊国屋新宿南店にいけばサイン入りの『安部公房伝』がまだ買えるはずである。

3月26日

 新文芸座の大島渚追悼特集で「太陽の墓場」を見た。釜ヶ崎(現在の西成)を舞台にしたエネルギッシュな群像劇で大島版「どん底」である。

 「青春残酷物語」が当たったので続編を作れと言われたが、単純な続編にはしたくなかったので舞台を大阪に移し、主人公を学生から最底辺のアウトローにしたという。川津祐介・桑野みゆきコンビを使いたかったが、桑野はステージパパが頑強に反対、川津は「人間の条件」の長期ロケのために小さな役に回ったので津川雅彦と炎加世子を抜擢。

 津川の信は新興の愚連隊信栄会の親分で、街娼を住まわせるヤサを転々と移しながら勢力を広げている。炎の花子はバタ屋の元締の娘で、モグリの血液銀行で稼いでいる。血液銀行というシノギをめぐる抗争が柱になっているが、それと平行して信栄会にはいったものの、神経が絶えられずに脱走をはかる武の物語が語られる。武を演じたささきいさおは後に「宇宙戦艦ヤマト」の主題歌で知られるようになる。 大日本帝国復活を唱えながら、三国人にルンペンの戸籍を売っているインチキ国士(小澤栄太郎)やら色情狂のオバサン(北林谷栄!)やら片言の日本語で騒ぎまくる朝鮮人(渡辺文雄)やらアクの強い人物がひしめくが、なんといっても野獣のような眼をもった肉感的な炎加世子が魅力的だ。松竹ヌーヴェルヴァーグ の代表的女優だそうだが、不覚にもこの映画を見るまでは知らなかった。

 併映の「悦楽」は人間を試験官の中に入れ、いろいろな薬品を混ぜて反応を見るといった趣の映画である。

 観念的というか頭の中でこねくりまわして作った映画だが、面白くて最後まで引きつけられた。大島渚は観念的な映画の撮れる日本では希有な監督だった。

3月27日

 新文芸座の大島渚追悼特集で「白昼の通り魔」を見た。大昔見たことがあるが、やはり傑作である。

 以前は見過ごしていたが、戸浦六宏が紋付袴で首吊縄をいれた籠を背負い、山道をとぼとぼ登っていく場面がなんとも滑稽でやるせない。原作の短編は最近出た『ニセ札つかいの手記 武田泰淳異色短篇集』(中公文庫)で読めるそうである。

 併映の「わが映画人生 黒澤明監督編」は映画協会が製作したインタビューシリーズの一本で、大島は聴き手に徹している。

 どこかで聞いたような話が多いが、黒澤の口から語られると何度聞いても面白い。画面が荒く、色が黄色がかっていたのはDVD上映のためだった。ところがこのDVDはどこにも売っていない。どうなっているのだ。

3月28日

 歌舞伎座会場を記念して開かれているサントリー美術館の「江戸の芝居小屋」を見た。出雲阿国にはじまり六世歌右衛門の打掛で終わる豪華絢爛たる展示で満腹した。

3月29日

 シャンテシネで見逃した「危険なメソッド」をキネカ大森で見ることができた。ユングの最初の患者となったザビーナ・シュピールラインをヒロインとする映画で、もともとはジュリア・ロバーツのために書かれた脚本だったが、ロバーツが降板したためにキーラ・ナイトレイが演じている。ユングと出会った頃の彼女は古典的なヒステリーだったわけで、発作の場面など鬼気迫る。これじゃロバーツが逃げだすわけだ。

 ザビーナは回復後もチューリヒにとどまり、医学部を卒業してユングのもとで精神分析医になるが、ユングと男女の関係になってしまう。ユングは教育分析を受けたわけではなく、本の知識だけでザビーナを分析したので転移を処理することができなかったのだろう(映画ではオットー・グロスの挑発で一線を超えたことになっているが)。

 ザビーナはユングと別れた後、ウィーンのフロイトのもとに行く。ユングとフロイトの蜜月と離反もこの映画の見どころで、二人の会話中にラップ音がする等々のおなじみのエピソードが実際の場所で撮影されているのである。精神分析に多少とも関心のある人間にはたまらなく面白い。

 ザビーナ・シュピールラインをはじめて知ったのはカロテヌートの『秘密のシンメトリー』(みすず書房)でだった。この本にはフロイトの死の欲動に影響をあたえたとされ、映画にも登場する彼女の論文「生成の原因としての破壊」も収録されていたが、今は絶版で古本にはプレミアがついている。 彼女についてはリッヒェベッヒャー『ザビーナ・シュピールラインの悲劇』(岩波書店)という研究書が2009年に出ているそうだが、まだ読んでいない。

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