『人獣裁判』を裁く

加藤弘一
質問 あなたが腹をたてたSFはなんですか?

 すばらしい小説はすばらしいさまもそれぞれ違うものだが、くだらない小説はみな同じように似ている──ナボコフの一節をことさらもじって、こう前置きしたからはじめたいと思う。くだらない作品をことさらとりあげることは、うっかりすると、その作品に特別な意味をあたえることにもなりかねないからだ。

 じっさい、腹をたてるにも値しない小説に腹をたてるというのは、逆説的なことだ。そんなことがあるとすれば、問題の作品が神話的な後光にとりまかれていて、あるの傾向を代表している場合に限られるのではないか。

 すくなくとも、ここでとりあげる『人獣裁判』がそうである。わたしが腹だたしく思うのは、『人獣裁判』神話と、それを生みだしはぐくんだ風潮にたいしてであって、『人獣裁判』そのものに対してではない。だが、どんなに論ずるにあたいしない本にせよ、神話とその背景に接近する手続きとして、しばらくこの紙屑とつきあわなければならない。もしわたしがヴェルコールに必要以上の論難をくわえるとしたら、それはひとえにこの不愉快な作業のせいである。

 『人獣裁判』がひどく大味で、雑に書かれた小説であることは、けなす者も絶賛する者もひとしく認めるにちがいない。文章は読みやすいだけがとりえの駄文だし、登場人物はいかにもフランス人的に戯画化した「イギリス紳士」だが、ヴェルヌの昔ならいざしらず、あまりにも図式的すぎて、うんざりしてくる。構成とストーリーについては、凡作の探偵小説のレベルをかろうじて維持している。

 テーマの深刻さにもかからわず(本当に深刻なのだろうか? だが神話の教えるところによれば、これはきわめて深刻なテーマを追及した深遠な大文学なのだ)、時にはたどたどしく、時にはほほえましく、しかし大体は素人くさく、ヴェルコールはセンセーショナルな事件をのんびり語っている。洗練されているとはとてもいえないが、ユーモアや詩的なレトリックもまじえて(「シビルは僕の上に貝のようにかぶさってきました」という詩情ゆたかな一節に、わたしは思わず失笑をもらしたものだ)。

 『人獣裁判』は、すくなくとも小説の出来という観点からすれば、数時間の暇つぶし以上ではない。だが、これはまた『人獣裁判』を崇拝する面々の認めるところでもある。というのは、文章の稚拙さや小説としてのつまらなさは、テーマの真摯さを強調するのに役だつからだ。彼らは言うだろう。なるほど、『人獣裁判』は三流の小説かもしれない。だが、これは小説以上のものなのだと。

 したがって、問題はテーマという一点にかかっている。伊藤典夫氏の手放しの賞賛(氏はこの本を古書店で見つけたら、万引してでも入手しろと書いている)以来、『人獣裁判』は人類の意味を正面から追及した希有の哲学小説としてSF界に名高い。この試みをどう見るかが争点なのだ。最終的には、思想は文学の免罪符になるかを争うことになろうが、予審として、人類の意味が本当にこの作品で問われているのかが明らかにされる必要がある。

 小説の冒頭で主人公のダグラスは「トロピ族」(熱帯族?)の赤ん坊を殺す。トロピ族はダグラスの参加した探検隊が見つけた新種の類人猿で、チンパンジーやゴリラよりも人類に近く、もしかしたら人類の一員かもしれなかった。ミッシングリングの発見に世界は大騒ぎするが、その一方、知能の高いトロピ族を格安の労働力として利用しようという動きもはじまる。ダグラスはトロピ族の奴隸化を防ぐために、高遠なヒューマニズムの理想に燃えて、あえてメスとまじわって子供を生ませ、その赤ん坊をわが手で殺し、「殺人犯」として法廷に立つ。わが身を犠牲にして、トロピ族が人類であるか否かの判断を法廷に迫ろうというわけである。

 小説の前半はトロピ族発見の経緯がたどたどしく語られるが、後半では法廷と英国議会の特別委員会での議論がだらだら紹介される。エンゲルス風、デカルト風、フレイザー風、ティヤール・ド・シャルダン風といったさまざまな人類の定義が出てくるが、今となってはアナクロニズムの印象が否めない。1950年ではなく1970年に書かれていたなら、レヴィ=ストロース風、ラカン風、モノー風、ローレンツ風の定義がくわわり、通俗思想解説書としての価値が生まれたろう。だが、この議論が決定的に駄目なのは、内容の古めかしさもさることながら、論客たちの主張が根本のところでは対立などしていないからだ。

 エンゲルス説の祖述者も、デカルト説の祖述者も、フレイザー説の祖述者も、ティヤール・ド・シャルダン説の祖述者も、暗黙のうちに同一の人間観を共有し、それを信じてうたがわないのである。彼らにとって「人間」とはヨーロッパ人のことであり、トロピ族はかりに「人類」の一員であったとしても、「人間」ではありえないのだ。

 たとえば、ダグラスは婚約者(彼女も赤ん坊殺しの共犯者である)にむかって、自分が手をくだしたあのトロピは動物だったとあっさり断言し、殺人かどうかは「僕のしたことにかかっているのではなくて、人間が結局はそれをどう決めるかにかかっている」とつけくわえている。高邁なヒューマニストとして讃美されるダグラスは、自分が生ませた赤ん坊をわが手で殺したことの痛みなど、まったく感じていないのだ。

 主人公ですらこうなのだから、人類論議のお粗末さはおしてしるべし。実際、この小説で「人類」とはなにかが問われるとしても、それは百科事典的なレベル(にもとどいていないが)でさまざまな説を羅列したにすぎず、人間とはなにかが問われたわけでも、西欧ヒューマニズムのいかさま性が問われたわけでもない。トロピ族は、人類の一員であろうとなかろうと、結局、保護の対象にすぎず、類人猿との獣姦や赤ん坊殺しというえぐい設定は、知的ひけらかし(にもなっていないが)以上のものになってはいないのである。

 こう書いたからといって、わたしは『海の沈黙』の作家を全面的に否定するものではない。ドイツ占領下のフランスで、命を賭して筆をとったヴェルコールを認めない者がどこにいるだろうか。画家志望の無名の青年がヴェルコールの筆名で書くことを選んだのは、書かなければならぬテーマに直面したからである。彼には確かに書かなければならぬテーマがあった。彼は自由フランスの代弁者であり、そのたどたどしい筆で報告されたドイツ占領下のフランスの心情は、希有の緊張のもとに、普遍的な体験へと昇華されたのである。

 だが、文章の稚拙さが思想的誠実さと誤解された時代は、フランス解放とともに終わりを告げた。ナチズムという絶対的な悪が姿を消したあとでは、レジスタンスの英雄も、国民的団結も、人類という甘美な幻想も生きのびることはできなかった。戦争が遠くなるにつれ、いったい何人のレジスタンス作家が生きのびただろうか。彼らはつぎつぎと筆を折っていったのである。

 『人獣裁判』は1950年に発表された。ヴェルコールはスキャンダラスなテーマを選び、読者との幸福な蜜月時代を復活させたかったのだろうか。すくなくとも、冒頭の数ページには、自分にはまだ書かなければならない使命があるといわんばかりの大上段にふりかぶった姿勢がうかがえる。この小説の唯一の美点は、そのようなあさましい筆勢がたちまち崩れ、ほとんど惰性でつづく、読みやすいだけがとりえのだらだらした通俗的文体にかわるところにある。深刻なはずのテーマとはうらはらに、一昔前のユーモア小説をおもわせる肩のこらない読物にまとまっている点は、評価してもいいかもしれない。

 このような毒にも薬にもならない駄作が、なぜ傑作としてまかりとおっているのか──わたしにとっての問題はここからはじまる。

 おそらく、三つの事情が関係しているだろう。ひとつは、この本は20年以上絶版で、文字どおりの神話的書物になっているということ。古今伝授ではないが、苦労して入手した人は、あまりのくだらなさに腹をたて、ほかにも犠牲者をだそうと神話化をいっそうおしすすめる……という悪循環は、いかにもありそうな話だ。もうひとつは、ヴェルコールの名声。今日、ヴェルコールはレジスタンス時代の作品のみが流布し、『人獣裁判』のような未練がましい駄作は知られていない。最後に、これこそが問題なのだが、哲学的内容のある(ありそうな)作品への信仰である。普通の鑑識眼をもった人でも、なにやらありがたい思想が書かれているらしいという雑音がはいっただけで、判断がくるってしまうのである。

 文学とは読む快楽以上でも以下でもない。どんな思想といえども、文学という場に引きだされたら、見世物のひとつにすぎなくなる。SFにもしなんらかの可能性があるとしたら、それは徹底的に見世物だからである。つまり、スペキュレーション(思弁)としてのSFではなく、スペクタクル(見世物)としてのSF。未来を見すえ、人類的責任を負う哲学者としてのSFではなく、いかがわしく無責任で調子のはずれた道化としてのSF。

 しかし、皮肉にも、SFは文学を思想伝達の手段と見なす文学観の最後の拠点として、嘱望されつつある。SFから思想性を払いおとし、いかにして見世物小屋として復活させるか──これこそが、われわれが今日、直面する課題であろう。

(Dec 1975 フェニックス81号)
Copyright 1996 Kato Koiti
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