母殺し 2

加藤弘一
承前

主題

 間接性の次元、知的認識の領野が不安や魅惑の源泉であることはすでにみたが、直接性の次元と間接性の次元は(最終的には和解しうるとしても)なぜ対立しあわねばならないのだろうか? 小松自身はこの分割・対立を本能的なものに還元しょうとしている。未知のものを求めてやまない「雄の本能」と定住・待機を本質とする「雌の本能」、あるいは「知」と「情」というように(自然科学的認識の本来的な無償性・純粋性は「雄の本能」の精華というわけだ)。だが、それは話が逆だろう。「雄の本能」、「自然科学の認識」が本来役に立たないもの、自分と無関係なものを目指す自己目的的な活動として見えてくるためには、すでに知的認識の独立性、あるいは間接性の次元の独立性が前提されていなければならないはずだからだ。それに、第一、実際の「雄」や「自然学」はそんなに純粋でロマンチックな代物だったろうか? それだけではない。知性の本源に位置するはずのこの分割・対立は、論理上の問題として以上に欲望の問題として問われている。「凶暴な口」の主人公はこう言っている。

 おれの中には、豚以下の部分と、豚以下であることを、かぎりなくはじ、腹をたてている「高貴な部分」がある。その「高貴な部分」が、「豚以下の部分」を食ってやるのだ。何をおそれることがある?

 「高貴な部分」が知的な自己、間接性に係わる自己であり、「豚以下の部分」が動物的な自己、直接性に係わる自己であることは言うまでもない。彼はこの分割を「理由なし」に、しかも「怒り」にかられて遂行し、後者の抹殺のために、自分自身を切りきざみ、むさぼり食うところまでいく。その衝動は「存在の芯に巣くってしまったこの怒り──このはげしい、不条理な破壊への衝動」と呼ばれるが、興味深いことは、「食べる衝動」と同一視されていることだ。「高貴」であるはずの部分は、なんと、口愛サディスムの権化となるのである。自己自身に対する食人行為がいよいよきわまる時、間接的な経験の本源について、次のような先鋭な洞察が生まれる。

 人間は、食欲がなくても食うことができる。あの広汎で、奇々怪々なものにまでおよぶ人類の食物のいくつかの種類は、食欲からでなくて好奇心から発見されたものだ。好奇心さえなくなってしまっても、人間は怒りさえあれば、常識では考えられないものでも食う。……食欲の、もっとも深い所にあるものは、凶暴な攻撃衝動だ。くいころし、かみくだき、のみこむ、凶暴な口だ。

 これは太古的な水準における食餌衝動である。奇妙なことに、「食べる」ことの深層性を説くこの口吻は、知性の超越性を賞揚する時のそれとよく似ている。人間は食欲がなくても食べることができるが、同様に、実用性のないことも知ろうとする。人間の認識欲は、小松にあっては、「食べる」ことと同じように果てしがなく、太古的な凶暴な相貌を見せているのだ。何かを「知る」とは、対象を食い殺し、噛み砕き、飲みこむことであり、源初的には口愛サディスムの発動であるとは、すでにフロイトやメラニー・クラインによって指摘されているところだが、少なくとも、『果てし無き流れの果てに』の野々村=マツラの敢行した探索行はそのようなものである。「獣のすえにうまれて、みちたりた腹と、あたたかい洞窟の暗がりに、かぎりなく幸福な眠りをむさぼることのできる人の心が、同時に、虚無と抽象のはての、巨大な宇宙の姿をうつすことができるのはなぜか」という主題は、謎の物音を探して怒り狂う冒頭の恐龍の姿にはっきり体現されているように、もう一つの「飢え」の状態としてたちあらわれてくる。野々村=マツラは、この「飢え」に駆られるまま、時空の果てへつきすすみ、宇宙の最も弱い部分に取り返しのつかない傷をおわせてしまうのである。小松における知的認識は暴力、侵犯、冒涜という徴を帯びざるをえないのだ。(注1) それだけではない。知的な認識という行為には抽象化、間接化という操作が不可分にともなう。何かを認識するとは、目の前のその対象を象徴的な次元に遠ざけること、その一回的な現実存在の重みを斥け、相対化してしまうこと、一般的なものに解消してしまうことである。それは、ヘーゲル的にいうなら、概念化という名の殺害であり、否定行為にほかならない。小松は自らを生み出した世界、自らの立地である世界を、このような「知的認識」の犠牲に供する。

 「なぜ、歴史がいくつもあってはいけないのだ? それが可能なら、平行する無数の歴史があってもかまわないじゃないか? 無数の可能性を追求する、無数の歴史的実験があっていいのに、なぜ、やりなおしのないこの歴史だけに、人類が甘んじなきゃいけないのだ?」(「地には平和を」)

 最初の作品以来、固着観念のようにくりかえされるこの主題は、知的認識に内在する否定性から直接発している。注意してほしい。この一見逆説的に見える主題は、タイム・パラドックスのような形式論理上の問題とはまったく別のものだ。過去の自分殺しや先祖殺し、両親の結婚の妨害が背理となるのは、過去を現在の唯一無二の原因、立地として認めた限りにおいてである。タイム・パラドックスをあつかった作品の腕の見せどころは、過去と現在をむすぶ同一律の糸をいかにこみいらせるかにある。「時の門」や「時の娘」、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のような作品はそうやって作られている。ところが、小松が提出した「可能な歴史」という主題は、形式論理的操作の土台となる同一律そのものの拒否に発しているのだ。自己の立地、さらには自己の現実存在そのものが否定されているからだ。

 「結晶星団」では、こう書かれている。

 造物主のさだめるルールの内部で、その無限の可能性を探究すべくあたえられた「存在の自由」は、一たんその卵からかえれば無限の成長をとげ、やがてその生れ出た宇宙の絶対性をも疑い、あたえられた制限の宿命性をも疑い、この宇宙すら、“考え得る無限の可能的な宇宙”の一つにしかすぎない、と考えるようになる……。

 このような「自由」、「可能性」は、いわゆる意識主体の自由、超越性とは根本的に異なる。それは意識の存在構造自体に即して「自由」の問題を解明したサルトルや埴谷雄高と比較すれば、一層はっきりする。

 「ほーれ、万象をその万象自体たらしめずひたすら前へ前へと異なった変容へ向かってつき動かすその自らに内在する満たされぬ力を端的に短くいえば、それは、あらゆる事物の変化の原動力、“自同律の不快”だ!」(『死霊』

 埴谷が「自同律の不快」と呼び、サルトルが「意識の脱自構造」と呼ぶのは、不断に自己自身をのりこえ、自己差異化していくあり方、すなわち意識の能動性である。それは「意識の分泌する無」(サルトル)、「われならざる虚在のわれ」(埴谷)といわれるように、意識に内属する否定性にはちがいないが、ただし未来へ向けての否定性であり、いまだない自己を目指しての否定である。無限の「可能性」とは、無限の将来性にほかならない。これに対して、小松的な「無限の可能的な宇宙」、「可能的な歴史」とは自己の立地、自己の母胎へ向けられた否定性であり、別様の過去があってもよかったのにと考える「自由」のことである。それは論理上の逆説どころか、論理自体の拒否であり、自己を生み出した母胎、自らの立つ立地へ知性という攻撃を差し向けることだ。

 「時の顔」は四十世紀の未来人と十九世紀中葉の江戸との出会いを通して、その攻撃性の何たるかを追いつめた作品である。主人公はタイム・トラベルを管理する時間局員で、自分の生まれた年代を含めて、すべての時代を相対化できる特権的な立場にある。日系人である彼は友人の命を救うために二千年前の日本──幕末の江戸へ行き、あまりの悲惨さに衝撃を受ける。そして、自分の人種的な血のつながりを通じて、「陰惨な過去の時代の影が、クモの糸のように」からみつきはじめるのを感じる。

 ──花のお江戸は、草原と丘陵の中に、ごちゃごちゃかたまった、ほこりだらけ犬の糞だらけの灰色の町だった。武家屋敷のみがいたずらに宏壮で、だだっぴろかった。

 数年前の大ききんの余波がまだおさまらず、いたるところ乞食の群がおり、道ばたのむしろの下からは、行きだおれの鉛色の脚が出ていた。大部分の人たちは、飢餓と、疾病と、政治的圧力の中で、垢まみれになって豚のように生きていた。

 これは進歩史観から遡ってつくりあげられた江戸像にすぎない。近年、広く知られるにいたったように、本当の江戸の街並みはこのような「うす汚れた」代物ではなく、幕府の統制とたびかさなる大火によって、今日の東京の野放図さとは比較にならない、緑ゆたかで古典的な秩序を誇った街だった。また、街を行きかう人々も、大尽は大尽なりに、貧乏人は貧乏人なりに、それぞれの楽しみにことかかなかっし、心のゆとりもあった。いくら物情騒然とした慶応年間とはいえ、また四十世紀の未来人の眼から見たとはいえ、まるで第二次大戦後の焼け跡を重ねあわせたようなこの描写はあまりに誇張がすぎよう。

 しかし、街を灰色一色に塗りつぶすことによって、紅一点、お蝶の形姿はいよいよ引き立つことになる。お蝶の描写は、小松の描いた女性像のうちで、まず第一に指を屈すべきものである。

──僕はお蝶の姿をひと目見て、そのなまりの小柄さに、ショックをうけた。こんなにも華奢な、五尺にも満たぬ小娘のどこに、人を呪い殺すほどのはげしさがひそんでいるのか、わからなかった。

 銀杏返しに結って、派手な振袖にたすきがけ、白の腕ぬきに棒縞の袴をはいたお蝶は、まるで人形のようにかわいらしく見えた。そのしなやかな小づくりの肢体、勝気な三白眼、きつくひきむすばれた唇には、もえ上がるような負けぬ気と一しょに、何か全身で訴えるような、はげしい悲哀がみなぎっていた。

 その「はげしい悲哀」は、裏切られた恋のゆえだった。彼女は身内にみなぎる激情をほとばしらせるように、危険な籠抜けの芸に挑む。地上三尺にささえられた、十数本の短刀を突きたてた胴丸籠を「稲妻のように身を細めて」飛びぬける。主人公は心をつかれる。とぎすまされた刃が牙をむく胴丸籠を、「華やかな征矢」のようにくぐりぬける時、彼女は「一本の銀かんざし」と化し、彼はその「銀かんざし」が裏切った恋人の胸をつらぬくと同時に「それを見る僕自身の胸をもつらぬ」くかのような戦りつに襲われる。なぜか?一つには、お蝶の懸命さがある。どんなことであれ、人が懸命に打ちこむ姿は局外者をも感動させるものだから。しかし、それだけではあるまい。主人公が裏切った恋人もろとも、お蝶の「稲妻」、「征矢」、「銀かんざし」に胸をつらぬかれたと感じるとすれば、彼もまた、何らかの裏切りを犯していたのである。

 それはどのような裏切りか? 「時の顔」の主人公は「無限の可能性」の一つとして江戸──自己の母胎を見ている。「地には平和を」の第二次大戦に勝利したもう一つの日本を作ろうとするマッド・サイエンティストや、『果てしなき流れの果てに』の宇宙の必然性を嘲い認識行為にすべてを賭る野々村=マツラよりはよほど謙虚だとはいえ、自己に根拠を与えた唯一一回的な過去の存在性を否定する自由、言わば自分はこう生まれなくてもよかったのにと考える自由を行使している点では、彼も同じである。それは単なる自由である以上に、知性そのものに内在する攻撃性の発動であり、自己の母胎に対する攻撃性の発動にほかならない。それは、どんなに正当化しょうと、罪責感を生まずにはいない。事実、野々村=マツラは探索行の果てに「燃え尽き」、すべての記憶を失って「肉の身」に落とされる。「無限の可能的な宇宙」を考えるような「自由」を奪われ、ただただ直接性の経験の領野に閉じこめられること──それが小松的存在にとっての罰であり、つぐないなのである。だからこそ、その光景は彼の脳裏にまざまざと焼きつき、ついには自らの顔を彼女を裏切った男の顔に整形し、自死に立ち会うところまでいく。

ではないし、また超歴史的・超社会的な可能性でもない。

 そのような自由、可能性が現実性を持ちうる社会とはどのような社会だろうか? それは少なくとも江戸時代までの社会ではありえず(階層間の移動が以外に活発だったことは、近年明らかになっているが)、近代の出現を待たなければならない。

 江藤淳はこう書いている。

 日本の「近代」は、学校教育制度の確立というかたちで階層のあいだの壁をとりはらい、「教育」によって「出世」する道を開いた。つまりよい「教育」をうけることができさえすれば、むすこはほぼ確実に上の階層に移れるのである。……日本の「近代」は学校教育制度を導入することによって、大草原の彼方ではなく男たちの心の中にひとつの「フロンテア」を開いた。そして母親たちは、あの「ヒリヒリと痛いような恥ずかしさ」をのがれるために、息子をこの「フロンテア」の彼方に旅立たせなければならない。(『成熟と喪失』

 江藤によれば、明治以来ゆらいできた日本の伝統的な農耕社会(それは母性文化の根底である)は、第二次大戦後の高度経済成長によって全面的な崩壊を迎えるが、それはまた「母」の文化の危機でもあった。母性文化の安定と停滞から「近代」のただ中に投げ出された青年たちは、「フロンテア」を選ぶことを余儀なくされ、その結果として「母」を裏切ったという思いと、それと表裏する「母」から拒絶されたという思いをともに引受けさせられることになる。しかも、根底を掘りくずされたとはいえ、依然として母子一体感の幻想を核とする日本的人間関係において。江藤が分析の対象とした「第三の新人」は、明治以来百年にわたるパラダイム転換が集約的に、そして最終的に発現した時期に遭遇した最初の世代なのである。

 「無限の可能的な宇宙」、「可能的な歴史」、つまりは「フロンテア」が抗しがたい魅惑をもってたちあらわれるのは、まさにこうしたパラダイム転換を背景にしてのことだ。それは母の期待の実現であると同時に、母への裏切りでもあらざるをえず、抜き差しならぬ相反感情を光背のように帯びることになる。そして、そうであれば自己の母胎に対する否定、攻撃は、どんなに正当化しょうと、罪責感をまぬがれるわけにはいかない。事実、過去改造をくわだてた科学者は狂気に知性を侵され、野々村=マツラは探索行の果てに「燃え尽き」、すべての記憶を喪って「肉の身」に落とされる。「無限の可能的な宇宙」を考えるような「自由」を奪われ、知性の角を切り落とされて直接性の経験に閉じこめられること、それこそが小松的存在にとっての罰であり、つぐないなのだ。だからこそ、「時の顔」の主人公も、脳裏に焼きついたお蝶の幻影に心せかされるまま、ついには自らの顔を彼女を裏切った男の顔に整形し、彼になりすまして、彼女の自死に立ち会うところまでいく。

 慶応三年十月十一日、──向こう両国百軒長屋でまさに毒をあおごうとしていたお蝶のもとにかけつけた時、彼女は僕の顔を見て、どんなに驚き、かつ狂喜したろう。お蝶はまだ進之丞を愛しつづけていた。……彼女の愛を果たし、同時に僕の彼女に対する渇望──それはまた、あの暗い、盲目的な江戸時代そのものに対する愛でもあったのだが──をもみたすためには、僕が手術をうけるよりしかたがなかったのだ。──三日間は夢中にすぎた。このような暗黒の愛情は、情死によってしか解決されないものだが、心中しょうといった時の、彼女の喜びようを見ると、何度解毒剤をのむのをやめようかと思ったか知れない。

時間局員としての職務上、心中にこそつきあわなかったものの、彼は別の形で「徳川幕政の崩壊と、偶然運命をともにしたこの江戸娘」(注2)に殉じることを選ぶ。彼はもつれあった因果の糸のつじつまをあわせるために、四十世紀の時間局員であることを捨て、幕末の江戸に骨をうずめる道を取るのだ。ちようど、『果てし無き……』の野々村が「肉の身」に受け止められ、ひなびた山村で残りの日々をひっそりと送るように。「長い長い夢物語」から帰還した野々村=マツラが、葛城山にだかれた佐世子の家ですごす平安の日々同様、お蝶とすごした「盲目の愛情」の三日間はよみがえった「母」の文化による許しと癒しにほかなるまい。

 こうした結末のつけ方の背後には、「母なるもの」をめぐる反抗と許しのドラマが透けて見えるが、奇妙なことに、小松的葛藤は「母」とのそれとしては語られず、逆に「父」とのそれとして語られてしまう。敵対者はつねに「父」なる造物主であり、主人公たちが殉じようとするのは、「時の顔」の主人公の場合のように、「父性愛」なのである。そして、

 見よ、アイ……と「声」はいった。──眼をひらいて見るのだ。造物主のさだめた法にしたがって、いまなおこの宇宙では多くの可能性がつみとられ、ここに……宇宙の汚物溜に流しこまれてくる。造物主は、何の権利によって、このような法をさだめ、法にしたがって存在の可能性を制限するようにきめたのか? ──そしてまた、法にそわぬ生物の生ずる可能性も彼があたえたのだ。(「結晶星団」)

 「声」は造物主に対して、何の権利によって「法」を定めたのかと問うている。だが、父性的な絶対者にむかって、このような異議のたて方は意味をなさない。絶対者は絶対者であるというそのことによって「法」をさだめる権能を有するからだ。そして、たとえば、ヨブならそんな弾劾の仕方はしなかった。

 ヨブの場合、最終的には神の絶対性の前に屈するにしても、その告発の根拠は、神が神自身の定めた「法」をないがしろにしているという点にあった。彼は神の「法」に照らして自己の正義を主張し、神の「法」の名のもとに神自身を弾劾したのである。神が「法」の唯一の根拠である限り、これ以外に異議のたて方はありえないといっていい。あるいは、埴谷雄高は『死霊』に「亡霊宇宙」の挿話を入れ、食物連鎖で結ばれていた生物たちが、死後、自分を食べた相手をたどっては告発するという喜劇的な一場を描いたが、ここでイエスや釈迦を弾劾する論法は、ヨブのそれと同じである。イエスは「愛」の名において裁かれ、釈迦は「正覚」の名で問い詰められるのだから。埴谷がこの挿話で企てたのは父性的論理の自己解体による自同律の破壊ということである。同じ自同律の拒絶ということでも、一億総ざんげ的な「食物連鎖の罠」(すべての生物は被害者であると同時に加害者である式の)による責任の曖昧化は斥けられる。むしろ、責任の追求は徹底的に押しすすめられ、宗教的権威者の弾劾から自己自身の弾劾、さらには虚空そのものへの弾劾へと突きすすんでいき、自同律が隠蔽していた虚在の世界が反語的に浮かびあがる。しかし、そこへ到達するためには、戦術的にせよ、一度は権威、論理を認めなければならない。

 しかし、「結晶星団」の「声」は造物主の権威など頭から認めず、すぐさま自分に都合のいい「法」の制定を言い出す。だが、「法」が「法」であるのは、制定者自身をも拘束するような権能をもつからなのである。

 造物主は本当は何について裁かれているのだろうか? ほかでもない、可能性を無数に生み出したこと、そして、それを自分の都合で殺してしまったことについてだ。アイは結晶星団中心の特異空間の中で異形のものたちに出会う。それは「存在を拒否されたものの無限の堆積であり、流産させられた無数の「種」である。「声」は「刈り取られた可能性」を代表して、自らの生命の根源である造物主、自らを生み、はぐくんだ造物主を告発しているのである。つまり、小松的造物主は「父」と言い条、気まぐれでエゴイスティックな「母」、母であることを放棄した「母」にほかなるまい。

 われわれはここで古沢平作‖小批木啓吾のアジャセ・コンプレックスの議論を思いだしてもいい。古沢‖小批木は父との葛藤を核としたエディプス・コンプレックスに対して、母とのそれを核としたアジャセ・コンプレックスを提唱したが、小松的小説はどんなにエディプス的装いを凝らそうとも、その中核で動いているのはアジャセ的ドラマである。「声」とは、エディプスの仮面をかぶったアジャセ王なのである。

 それにしても、なぜ、こんな事態にいたったのだろうか? 古沢がアジャセ・コンプレックスを提唱したのは、何もコンプレックスの一覧表をつくろうとしてのことではない。最初の論文が「罪悪感の二種」と題されていることからも明らかなように、古沢の議論の主眼は父への罪悪感に特権的な位置をあたえたフロイトに対し、母への罪悪感にも同等の、あるいはそれ以上の位置をあたえることに置かれていた。

フロイトは主体が「法」、「おきて」を受け入れ、象徴的現実に参入する契機となるのは父への罪悪感だとしたが、古沢は母への罪悪感も同等の働きをすると考えたのである。

 懲罰と許しの力学に導かれた小松の小説はまさに象徴的現実に参入し、成熟するためのドラマであるかのように見える。事実、そうした意図をあからさまに表現した作品にはことかかないし、性急に「父」(それが父性的権威と何の関係もないことはすでに見た)に同一化しょうとするのも、象徴的秩序を堅固に確立しょうとしてのことだろう。だが、最良の作品の最良の部分では、懲罰も許しも罪悪感も吹き飛ばし、すべてを混沌の中へたたきこむような力が暴威をふるっている。

 足もと一面にひろがっているのは、悪臭はなつ花畠だった。──だが、よく見ると、一見野菊に似た花の一つ一つは、膿みただれた痔ろうの肛門そっくりの色と形をしており、花びらには血と膿がしたたり、花芯のまわりには淫らな毛がはえ、乾いた糞便さえこびりついている。時おりいくつかの花の中心がひらいて、中から血まじりの太い糞便 がのろりと吐き出されてきた。その度にその花は、痛そうなうめき声を地中からあげるのだった。吐き出された、──というよりは、はい出して来た黄褐色の糞便は、巨大なみみずのように、自分であたりをのろのろと這いまわり、葉のない奇妙な樹木にはいのぼって、しきりに木の実をむさぼり食い、また洞にはいこんでいる。食われる度に、雑木も叫びをあげた。(「ゴルディアスの結び目」)

 この時、象徴的秩序もまた揺れ動き、きしみ、悲鳴をあげる。ここには、わけのわからない野放図な力が確かにうごめいている。直接性と間接性の相克をもたらすのは、まさにこの力だ。そして、境界領域で噴き出すこの力が働つづける限り、小松の小説は問題でありつづけるだろう。

(May 1978 アステロイド10号)
Copyright 1996 Kato Koiti
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