まったりとした異世界  ――ファンタジーはタブーだったのか?

加藤弘一

 近代日本文学は「殺人」をタブーとしていたという説がある。

 そう指摘するのは秋山駿で、秋山は近代文学の二大テーマは「恋」と「犯罪」だが、近代日本には「恋」をあつかった傑作は多いのに、「犯罪」、なかんずく「殺人」をあつかった小説は第一次戦後派が登場するまでは皆無だった、これは「日本近代文学七不思議の一」だとしている(佐木隆三『復讐するは我にあり』解説(講談社文庫)加賀乙彦『宣告』解説(新潮文庫))。

 明治以前には滝沢馬琴や鶴屋南北の血みどろの世界があったこと、明治以後も、「文学」とは見なされなかった大衆小説の世界では、「殺人」はポピュラーなテーマでありつづけ、探偵小説のような「殺人」専門のジャンルが人気を博したことを考えあわせれば、秋山の指摘はいよいよ際立ってくる。

 「殺人」小説については「人殺し小説は可能か」(「群像」二〇〇三年一一月号)で論じたので、今回はその時語り残したことについてふれてみたい。すなわち、「殺人」と同じように、ファンタジーもタブーであり、近代日本文学から排除されていたのではないか、ということである。日本の現在のファンタジー受容を考える上で、これは見過ごしにできない問題である。

 ファンタジーがタブーだったというと、あちこちからブーイングがおこりそうである。漱石の『夢十夜』、幸田露伴の「観画談」、泉鏡花の「高野聖」、芥川龍之介の「河童」、谷崎潤一郎の「覚海上人天狗になる事」、横光利一の「微笑」、川端康成の『掌の小説』、内田百閧フ「サラサーテの盤」、中島敦の「山月記」、尾崎翠の「第七官界彷徨」、そして稲垣足穂の『一千一秒物語』……第二次大戦前の日本にもファンタジーの傑作は目白押しだからだ。

 だが、こうした作品は「異色」と形容されるのが常だったし、尾崎翠や稲垣足穂のような「異色」の作品しか残さなかった作家は「異能」、「異端」というレッテルを貼られたものだった。

 もう一つ、「異色」の作品は短編や小品に偏していたということも押さえておきたい。単行本として出版された作品であっても、『夢十夜』は連作短編といった方がいいし、『掌の小説』は文字通りの掌編集、『一千一秒物語』も似たような形態である。わたしの不勉強かもしれないが、「文学」の範疇にはいると認められた戦前の長編ファンタジーというと、『吾輩は猫である』くらいしか思いつかない。

 長編がほとんどないという偏りは、旅先で怪異と出会うというフォークロア的な作品や、夢落ちの作品が多いことと無関係ではないと思う。旅先や夢は「実」に対する「仮」にすぎず、一時的に現実を脅かしても、第二の現実となることはない。明治以降のファンタジーは、馬琴や南北の作品のような一つの強固な世界像を構築するまではいたらなかったのだ。

 近代日本では、幕末期までつづいていた幻想文学の大河は地に隠れ、わずかに伏流水のようなかたちでつづいてきたにすぎない。伏流水は時に泉となって地上に湧きでるが、孤立したささやかな流れを作るにすぎず、昔日の面影はなくなっていた。

 明治期の断絶が、当時、西欧の最新の文学理念だったリアリズムの輸入によってもたらされたものであることは誰しも異論がないだろう。リアリズムの影響は子規の「写生」説や、田山花袋の「露骨なる描写」説を生みだしたが、「写生」にしても「露骨なる描写」にしても、単なる文学技法を越えて、実感第一主義・誠実第一主義の生き方の主張につながった。そこには旧時代の文学を退嬰的・頽廃的と決めつけ、否定する明治の気負いがあっただろう。

 田山花袋は「小説総論」で「小説に勧懲摸写の二あれど、云々の故に摸写こそ小説の真面目なれ」と断じ、無媒介の「模写」を提唱する。

 抑々小説は浮世に形われし種々雑多の現象(形)の中にて其自然の情態(意)を直接に感得するものなれば、其感得を人に伝えんにも直接ならでは叶わず。直接ならんとには摸写ならでは叶わず。されば摸写は小説の真面目なること明白なり。夫の勧懲小説とは如何なるものぞ。主実主義(リアリズム)を卑んじて二神教(ヂュアリズム)を奉じ、善は悪に勝つものとの当推量を定規として世の現象を説んとす。是れ教法の提灯持のみ、小説めいた説教のみ。

 これは「自然の情態」に忠実であることがなによりも優先されるという、一種の芸術至上主義宣言である。

 「模写」小説との対比で貶められている「勧懲」小説とは、馬琴流の観念小説である。『里見八犬伝』の八犬士は忠孝悌仁義礼智信という八の徳目の擬人化であり、筋立は朱子学の観念体系の絵解きとなっているが、花袋はそれを「説教」、「教法の提灯持」と斬って棄てているのだ。

 観念を柱とした小説の否定は、坪内逍遙の『小説神髄』を嚆矢とする。逍遙は西欧文学を知るところが深く、花袋のような単純な割り切り方はしていないが、観念小説の否定という一点では花袋よりも徹底している。そこには、つとに指摘されているように、本居宣長の漢意排撃の影が射している。

 逍遙は『小説神髄』で「小説の主脳は人情なり」と新時代の文学の目標を高々と掲げたが、同じ章の結びに儒仏の教える道理との対比で「物のあはれ」を説いた『源氏物語玉の小櫛』の一節を長々と引き、「右に引用せる議論のごときハすこぶる小説の主旨を解してよく物語の性質をバときあきらめたるものといふべし」と称揚している。

 逍遙のいう「人情」、「情欲」とは宣長の「物のあはれ」の近代版にほかならない。彼は小説が結果的に勧善懲悪的な効果をもたらすことは否定しないが、勧善懲悪のための小説は断固として拒絶している。

 子規の「写生」説、花袋の「露骨なる描写」説は、明治新興知識人の反伝統的な気運から生まれたといっていいが、逍遙の観念小説排撃の論はより深い、宣長が見出した庶民の原質に根ざすだけに、影響する範囲は一層広く深刻だった。

 大正末の新感覚派の勃興から昭和初年のモダニズムの時代にかけて、本稿冒頭にあげたファンタジーの傑作が次々と書かれた時代があった。「文学」外のあつかいだったが、『新青年』文化が花開き、探偵小説というジャンルが確立したのもこの頃である。

 この時期、西欧から移植された文化はようやく日本の風土に根づき、最初の収穫期をむかえていた。明治の誠実第一主義は前面から退き、文学を楽しもうという余裕が生まれていたことがファンタジーの誕生と受容をうながしたが、先に述べたように、こうした作品はほとんどが短編にすぎず、現実と拮抗するような別世界を構築するにはいたらなかったことを忘れてはならない。

 『里見八犬伝』はいうにおよばず、『指輪物語』、『ナルニア国物語』、『ゲド戦記』等々の長大なファンタジーは強固な観念体系をバックボーンとしている。理屈っぽい小説を禁じ手にした近代日本では、こうした長編ファンタジーは「文学」としては書きようがなかったのではないか。

 日本の近代文学は、しかし、マルクス主義の流行によって、理屈っぽい小説を「文学」として認知せざるをえなくなる。最初の波は新感覚派と前後して登場したプロレタリア文学だった。

 荒俣宏の『プロレタリア文学はものすごい』(平凡社新書)によると、プロレタリア文学には探偵小説もあれば、SF、怪奇小説、スプラッター小説まであったそうだが、通俗小説の意匠を貪欲にとりこんだこと以上に重要なのは、芸術よりも思想を優先させ、小説に観念体系をもちこんだことだ。プロレタリア文学はある意味で、誠実第一主義の権化といえるが、時代がひとまわりした結果、誠実第一主義が理屈を正当化するようになったのである。

 しかし、プロレタリア文学は文学としては粗笨で、本格的な成果となると第一次戦後派を待たなくてはならない。

 第一次戦後派はマルクス主義的な作品を押し立てて登場したが、注目すべきは、マルクス主義の観念体系にもとづく小説のみならず、理屈っぽい小説全般を「文学」として認知させたことである。

 第一次戦後派で今日まで残っている作品には、マルクス主義以外の観念体系にもとづくものの方が多い。埴谷雄高はマルクス主義からアナーキズムに転じたことになっているが、実際に立脚しているのはドイツ観念論じこみの思弁である。武田泰淳の作品の骨格となっているのはまぎれもない大乗仏教だし、安部公房は短編こそ唯物史観の影響が顕著だが、長編を屹立させているのは人類学的な思考にほかならない。

 第一次戦後派は『死霊』や『砂の女』のような奇想天外な設定の長編小説だけでなく、人肉嗜食という猟奇的な主題にまで踏みこんだ『野火』や「ひかりごけ」のような小説まで生みだしている。

 人肉を食うという極限状況は実際に存在したわけだが、自然主義の観点からいえば、いずれの作もあきらかな作り事であり、観念先行の「説教」、「教法の提灯持」にほかならない。それにもかかわらず「文学」として認知されたのだ。

 第一次戦後派と目される作家たちはキリスト教、仏教、マルクス主義、アナーキズムと多彩な思想的背景をもっていたが、戦争体験を通じて、国家と対決する個人の尊厳に目を向けたという一点で共通していた。文学的表現のよりどころが、心情への忠実さから、個人の思想への忠実さに移っているのであり、その姿勢の転換が作り事を必然に転じていたといえよう。

 逆にいえば、第二次大戦後のある時期まで、作り事を「文学」と認めさせるには、国家と戦う個人という政治的大義名分が必要だったということでもある。そこには、いかがわしい芸能とされてきた芝居が、新劇の政治性によって、芸術として認知されたのと似た機微があったかもしれない。

 しかし、政治が有名無実化する時代は意外に早く訪れた。メルクマールとなるのは、蓮實重彥が『小説から遠く離れて』で論じた小説群である。

 蓮實がとりあげたのは、村上春樹の『羊をめぐる冒険』、井上ひさしの『吉里吉里人』、大江健三郎の『同時代ゲーム』、村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』、石川淳の『狂風記』、丸谷才一の『裏声で歌え君が代』で、いずれも架空国家をテーマとした大仕掛けな長編であり、しかも一九七〇年代半ばから十年ほどの期間に競いあうようにして書かれている。

 今、振りかえってみると、まっとうな「文学者」と目されてきた作家たちが作り事中の作り事、「教法の提灯持」というしかない長編ファンタジーに一斉に筆を染めるさまは壮観を通りこして、一大奇観というしかないが、国家をテーマとしながら、第一次戦後派の作品のような重苦しさがまったく感じられないという点も不思議である。

 蓮實はこうした小説群が、そろいもそろって双子が宝さがしをするという共通の話型で書かれており、しかもその宝さがしは、申し合わせたように、黒幕的権力者から依頼されたもので、王位継承とか、少数者の共同体に係わるという点まで共通していると指摘してみせる。

 みごとな一致だが、一致するにはそれなりの理由がある。

 まず、この前後、フランスの構造主義とラテン・アメリカの魔術的リアリズムが世界的に流行したことがあげられる。

 架空国家小説は日本だけの流行ではなかったが、日本には流行を準備する別の条件があった。山口昌男の「中心と周縁」論と吉本隆明の著作が端緒となって広まった「共同幻想」という言葉である。

 吉本の『共同幻想論』という著作が実際にどれだけ読まれたかは怪しいと思うが、中味とは別に一人歩きをはじめた「共同幻想」という言葉、そして国家は作り物にすぎないという単純化された形で広まった断定が圧倒的な影響力をふるったことは間違いあるまい。

 国家が共同幻想であり、作り物だというなら、日本国とは別の国家=共同幻想を作ることも可能なはずだ。では、どうやって作るのか? そこにあらわれたのが、フランス構造主義の直接的な影響下に生まれた山口の「中心と周縁」論である。

 『同時代ゲーム』をはじめとする大江健三郎のこの時期の作品は、「中心と周縁」論をあからさまになぞっていた。他の作家の作品にも、大江ほどはっきりした形ではないが、多かれ少なかれ山口理論の影が見える。山口本人には不本意だろうが、山口の著作が架空国家を作るためのハウツー本として読まれた面があったことは否定できないと思う。

 架空にせよ、国家=共同幻想を作ってしまうということは、国家と個人の対決という第一次戦後派的なテーマの足下を掘りくずすことにつながる。それは国家論がゲーム化するということであり、さらにいえば、小説の骨組となる観念体系自体も、信念・信仰のように宿命的にあたえられたものから、取りかえ可能な「設定」と変わらなくなる。信念・信仰だったものが「設定」と同一視されていく動きは、構造主義以降のシニシズムと無関係ではあるまい。

 ここまで来れば、「文学」かどうかという分類は意味を失う。従来、「文学」外の読み物とされてきた江戸川乱歩、国枝史郎、中里介山らを、谷崎潤一郎や埴谷雄高、さらにはボルヘス、ガルシア・マルケス、トールキン、ヴォネガットらと共通の場面で論じる条件が整ったのである。

 村上龍と村上春樹は「双子の宝探し」小説以降も架空の世界を舞台にした作品を書きつづけている。『五分後の世界』、『ヒュウガ・ウィルス』、『希望の国のエクソダス』あたりは完全なSFだし、『ねじまき鳥クロニクル』と『海辺のカフカ』は善と悪の力がせめぎあう正真正銘のファンタジーである。

 ただ両者の作品とも、危機的状況と戦う個人を主人公としており、異世界を描くのにある種の力みがあることも否めない。その意味では、第一次戦後派の影を残しているといえないこともない。

 ところが、すこし後の世代の伊井直行になると、危機的状況なしに異世界が日常とつながっている。『悲しみの航海』は造船所を中心にした街、『濁った激流にかかる橋 』と『お母さんの恋人』は無意味に巨大で複雑な橋を中心にした街を描くが、これだけ骨太に組み立てられた世界なのに、第一次戦後派の影はすこしもない。

 川上弘美の描く日常はさらにまったりと異世界が混在している。『神様』、『おめでとう』、『いとしい』には河童やくま、壺中の天の住人が登場するが、ここまで日常ととけこんでいると、ファンタジーかどうかと問題にすることすら、不自然に思えてくる。

 日本文学が第二の成熟期をむかえているのかどうかわからないが、すくなくとも「近代」が終わったことは確かだ。

Jan 2004 「大航海」 no.49
Copyright 2005 Kato Koiti
This page was created on May23 2005.
批評目次 ほら貝目次