読書ファイル   2001年10 -12月

加藤弘一 2001年 9月までの読書ファイル
2002年 1月からの読書ファイル
書名索引 / 著者索引
October
村上龍 『最後の家族』
脇英世 『ポスト・ゲイツの覇者』
ルディネスコ,エリザベト 『ジャック・ラカン伝』
ベンヴェヌート&ケネディ 『ラカンの仕事』
ラカン 『フロイト理論と精神分析技法における自我』
ラカン 『精神分析の四基本概念』
片田珠美 『オレステス・コンプレックス』
新宮一成 『ラカンの精神分析』
窪田空穂 『わが文学体験』
窪田空穂 『窪田空穂随筆集』
November
大場建治 『シェイクスピアを観る』
小林多喜二 『蟹工船 一九二八・三・一五』
荒俣宏 『プロレタリア文学はものすごい』
小林秀雄 『ドストエフスキイの生活』
本村凌二 『ポンペイ・グラフィティ』
本村凌二 『ローマ人の愛と性』
辺見庸 『赤い橋の下のぬるい水』
スタイナー 『青髭の城にて』
スタイナー 『脱領域の知性』
December
スタイナー 『悲劇の死』
スタイナー 『アンティゴネーの変貌』
スタイナー 『真の存在』
スタイナー 『G・スタイナー自伝』
ソポクレス 『アンティゴネー』
ナボコフ 『ディフェンス』
山田風太郎 『警視庁草紙』
金庸 『碧血剣』
斎藤緑雨 『緑雨警語』
高島俊男 『漢字と日本人』
黄文雄 『漢字文明にひそむ中華思想の呪縛』
中村正三郎 『Linux狂騒曲 第3番』

October 2001

村上龍 『最後の家族』 幻冬舎

 今週はじまるTVドラマの原作で、脚色も村上本人がやるよし。

 引きこもりとドメスティック・バイオレンスだけでなく、リストラ、女子高生、主婦の不倫願望……と今風の材料がならぶ。文章も村上龍らしくなく、筋をなぞるだけの通俗文体でメッセージ臭がきつい。

 辟易しながら読み進んだが、3/2あたりで、長男が隣家のドメスティック・バイオレンスを受けている妻を救うために動きだし、文章に緊張が生まれてくる。最後の12月24日の章は村上龍のレベルに達している。

 村上春樹に触発されたのか、最近の村上龍はアンガジュマンに目覚めたようである。『アンダーグラウンド』のような義務感の方向に流れなければよいが。

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脇英世 『ポスト・ゲイツの覇者』 講談社

 コンピュータ業界ウォッチ本である。後書によると、原稿は何冊分もできていたが、本にならなかったそうである。知名度のある著者にしてこれとは、出版不況は深刻である。

 おなじみの人物のおなじみのエピソードが並ぶが、はじめて読む情報が結構ある。社名や製品名の由来を詮索したり、WindowsNT以来、鳴かず飛ばずのカトラーの行方を調べてレーシグカーに凝っていることをつきとめたり、楽しそうに書いている。感心するけれども、ゴシップの好きな先生だなぁとも思う。

 コンピュータ業界には当事者に感情移入して熱っぽい書き方をする人や価値観を押しつけてくる人がすくなくないが、著者はギャラリーと割りきっている節があり、あくまで冷静である。ペンポイント以来、死屍累々の手書き文字認識の歴史をふりかえって、

 本当にキーボードは駄目だったのだろうか? また手書き入力は必然だったのだろうか? GOのカプランの例で調べてみると、いきなり頭の中だけで考えて手書き入力に飛躍しているのである。ジェネラル・マジックもアップルも同じだ。

 実際の場で、答えを出したのは渋谷の女子高生である。彼女たちは、親指だけで携帯電話の文字入力をこなし、十分実用になることを示した。何も難しい認知処理を伴う手書き入力に頼らなくてもよいということを証明したのである。

とまとめるあたりが、この人の真骨頂である。

 後半にはネットワーク関係のそれほど知名度の高くない業界人が紹介されていて、その方面の仕事をしている人には便利だろう。原稿の整理が悪いのか、同じ文章がそのまま出てくる箇所があった。編集者の怠慢である。

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ルディネスコ,エリザベト 『ジャック・ラカン伝』 河出書房

 ラカンの定評のある伝記がやっと邦訳された。A5版上下二段組で570頁余ある。読了に一週間かかったが、おもしろかった。

 祖母の出たデソー家(ワイン・ビネガーの製造で有名で、ラカンの父はパリ支店をまかされていた)の歴史にはじまり、20世紀はじめの精神医学の状況、精神分析のごたごたつづきの歴史、ドイツ哲学をフランスに移植したコイレ、コジェーヴら亡命学者……と、ラカンの精神形成の背景を分厚く描きながら、幼年時代、精神科医としての修行時代、最初の結婚、『エメ』と通称されている学位論文の反響、シュールレアリストたちとの交流をたどっていく。

 この後、ジョルジュ・バタイユの妻で女優のシルヴィアとの出会いがあり、ジュディットが生まれる。しかし、二人はすぐには正式な結婚をしなかった。バタイユはシルヴィアとの離婚を承諾しており、そのことでラカンとの友情が壊れることもなかったが、シルヴィアはユダヤ系だった。当時はナチス占領下であり、バタイユと離婚したら彼女は強制収容所送りになりかねず、ジュディットはバタイユの娘として出生届を出さざるをえなかったのである。後年、ラカンはジュディットに「父の名」をあたえるために苦労することになる。

 当時のパリの精神分析医は高級住宅街として知られる16区の豪壮なアパルトマンに住居をかまえ、その一角に美術品を飾った診察室と待合室を設けるのが普通で、ラカンもそうしていたが、シルヴィアと同棲するようになってセーヌ左岸の学生街に移った。東京でいえば、白金から高円寺へと引っ越したというところか。住居が狭かったので隣の建物に診察室を借りたが、そこは本で足の踏み場もなかった。ラカンが国際精神分析協会を除名されたのは短時間セッションのためだが、生活スタイルの違いも一因だったかもしれない。

 ラカンとシルヴィアはメルロ=ポンティ夫妻と家族ぐるみの交際をつづけていたが、第二次大戦後、メルロ=ポンティの紹介でレヴィ=ストロースに引きあわされる。レヴィ=ストロースの『親族の基本構造』を読んだ衝撃が、象徴界・想像界・現実界という三つ組の局所論に影響していることを指摘したくだりは興味深い。もっとも、メルロ=ポンティもレヴィ=ストロースもラカンの論文を理解できなかったらしい。レヴィ=ストロースいわく、「メルロ=ポンティとわたしの結論は、われわれには時間がたりない」。

 20世紀の思想史・芸術史に輝く名前が次々と登場するが(ニューヨークでダリと出くわしたエピソードは笑える)、ハイデガーとのつきあいには打算がまじっているし、アルチュセールとの関係はアルチュセール側の片恋に近く、ラカンの方では高等師範学校内にセミネールの場を設けるために利用しただのようである。スイユ社の名編集者、フランソワ・ヴァールが『エクリ』のテキスト確定で大きな役割を果たしたという指摘も興味深い。

 協会除名後、ラカンはパリ・フロイト派を旗上げし高等師範学校出のエリートを門下に加えていくが、その中の一人がジュディットと結婚したジャック=アラン・ミレールである。ミレールは秀才型・官僚型の人らしく、ラカン理論を小さくまとめてしまったと著者の点は辛い。ラカン自身、ミレールは整理しすぎると不満を漏らしたというが、娘婿に対する信頼は揺るがず、そのことがパリ・フロイト派のお家騒動の遠因となる。

 1970年代にはいると、ラカンはマテームと呼ばれる記号に凝りはじめるが、特にボロメオの環に夢中になり、レストランで食事をしている間も紙ナプキンに三つ組みの環を描いては考えこんでいたそうである。

 晩年のラカンは神格化されていたが、体力の衰えは明かで耳も遠くなっていた(それすら認めない熱狂的な弟子もいたようだが)。著者はボケもあったのではないかと推測しているが、ミレール夫妻がガードしていたので真相はわからない。終章ではラカン没後の混乱を概観している。

 本書を読んだからといってラカンがわかるようになるわけではないが、ラカンについて考える上での基本図書であるのは間違いないし、20世紀フランス思想史を知る上での必読書でもあるだろう。

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ベンヴェヌート,ビチェ&ケネディ,ロジャー 『ラカンの仕事』 青土社

 英国人が英国人のために書いたラカン入門である。英国の視点からフランスの特殊性を指摘している部分は日本人にも役に立つ。英国人から見るとラカンはあまりにも難解であり、理屈っぽすぎるという。

 英国精神分析協会がクライン派とアンナ・フロイト派の対立で紛糾し、アーネスト・ジョーンズの老獪な政治力でかろうじて分裂をまぬがれた経緯は『ジャック・ラカン伝』にもふれられているが、本書では随所でラカンとクラインを比較している。アンナ・フロイト流の自我心理学を批判する点ではラカンとクラインは軌を一にするが、クラインが言語獲得以前の幼児の世界に注目するのに対し、「ラカンにとって決定的に重要なことは、子供がひとたびランガージュの能力を持つと、心的構造に質的な変化が生じるということ、つまり子供は一人の主体になる、という事実である」と指摘する。

 次の一節では、先日伝えられたヘミングウェイの三男、グレゴリー氏が女性監房で亡くなったという報道を思いだした。

 シュレーバーの精神病は高等控訴院長に任命された時に始まった。そこに彼は法の代表者達とともに席を占めたわけである。女であって性交されたらどんなに素晴らしいだろう、という幻想は後に彼の妄想世界の主要なテーマとなったが、これは象徴的去勢の排斥、排除を示している。父の高い場を占めることができず、またファルスを所有することができないので、彼は母の欲望に同一化し、それを引き受ける。このように彼は「母に欠けているファルスであることができないので、彼に残されているのは、自分は男が必要としている女であるという解決策である」。

 グレゴリー・ヘミングウェイ氏は医師だったが、父親呪詛と酒にあけくれる一生を送った。女装趣味が嵩て性転換し、最近はグロリア・ヘミングウェイを名乗っていたという。酔って全裸で中央分離帯にすわりこんでいたところを逮捕され、留置中に死亡したそうだが、彼はもう一人のシュレーバー議長だったのかもしれない。

ラカン 『フロイト理論と精神分析技法における自我』 岩波書店

 1954年から1955年にかけて、サンタンヌ精神病院でおこなわれたセミネール二年目の記録で、邦訳は上下二巻にわかれている。下巻の二番目は『エクリ』巻頭にすえられた「『盗まれた手紙』のセミネール」である。

 すらすらというわけにはいかないが、翻訳はこの種の本としては読みやすい。「『盗まれた手紙』のセミネール」の回などは、悪名だかい『エクリ』邦訳から較べると、ずいぶん進歩したわけだ。。テキストが同じではないし、セミネール版は『盗まれた手紙』が出てきた文脈がわかるという利点もあるにしても、『エクリ』邦訳時のラカン理解はよちよち歩きだったのだ。

 ミレールの校訂したテキストは整理しすぎと批判されているように、かなりはしょられているらしいのだが、才気煥発のひらめきがところどころに残っている。

 フロイトにおいて語られていても、ヘーゲルにおいては語られていないものがあります。エネルギーのことです。……中略……ヘーゲルの時代の意識とフロイトの時代の無意識を対置して語るなどということは、パルテノンと水力発電の矛盾について語るようなものであり、この二つを並べてみてもどうしようもありません。ヘーゲルとフロイトの間に、機械の時代が到来したのです。

 こういう話がもっと出てくるのなら、海賊版セミネールを読んでみたいものだ。

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ラカン 『精神分析の四基本概念』 岩波書店

 昔、英訳版を手にいれ、一日一ページ以上のノルマを決め、一ヶ月かけて、無理矢理読んだ本である。邦訳は読みやすく、なるほど、なるほどとうなづきながら読んだ。速く読んだ結果として、『フロイト理論と精神分析技法における自我』との語り口の違いがはっきり感じられた。

 『フロイト理論……』はサンタンヌ精神病院で、弟子と友人という限られた範囲の聞き手を相手にしたものであり、上からものを言っている印象があるが、本書のセミネールはフランス精神分析協会(SFP)から除名され、会場を高等師範学校に移した時のもので、異分野の聴衆をも魅了しようという心意気が感じられる。一口にいうと、かっこいいのだ。

 この年のセミネールは理論的にも大きな転換点となった。第1回はいみじくも「破門」と題されているが、『ジャック・ラカン伝』によると、最終回の三日前にはパリ・フロイト派を設立するためのアピールを発表している。支持基盤を専門家以外に拡げざるをえない状況に追いこまれたラカンは精神分析の基本概念を哲学の言葉で把えなおすことにしたのである。

 わからないところがあるのはしょうがないが、第14回から第16回にかけての講義の密度と透徹には身の引き締まる思いがする。こんなすごい講義を20歳で聞いたら、ミレールならずとも人生が変わってしまうだろう。

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片田珠美 『オレステス・コンプレックス』 NHK出版

 題名と表紙、出版社からすると、一般向けに書かれた本という印象だが、第一部は京都大学に提出した修士論文、第二部はパリ大学ヴァンセンヌ校に提出した博士論文だという。第一部は四章にわかれるが、各章は紀要に発表した論文そのままらしく、同一の症例が違う仮名で繰りかえし出てくるし、同じ文がそのまま使われている箇所も目につく。どうも論文のファイルをそのまま印刷所に送ったらしい。

 自分の言葉で説明してあるのならともかく、本書のキーワードである「ものの殺害」は出典が書かれるだけだし(こういう解釈でいいのだろうか……)、他のラカンの用語も出典を示す以上の説明はない。ラカン関係の本を読んできた読者でなければ、とうてい読みとおせる代物ではない。編集者は何をやっていたのか。

 ただし、内容は興味深い。これだけの悪文なのに症例の迫力で読まされてしまう。

 第一部は著者自身が手がけた母を殺傷した四つの症例をラカン理論で読みといていくもの、第二部はフーコーがとりあげて有名になったピエール・リヴィエール事件と、アンリ・エイが精神鑑定にあたったジャン・ピエール事件という、いずれもフランスで起きた分裂病者の母親殺害を再解釈し、オイディプス、オレステス、ハムレットという親殺しの系譜につなげるもので、いろいろ連想が拡がる。

 後書にも、おもしろいことが書いてある。最近、脳科学や向精神薬の発達で、分裂病の原因を器質的な異常にもとめる考え方が支配的になっているが、フロイトが登場した百年前も、器質論万能の時代だったというのだ。

 ラカンの『エメ』も、今読むと地味な学術論文であり、シュールレアリストがなぜ熱狂してむかえたのかわからない。だが、『ジャック・ラカン伝』によると、当時のフランスも器質論万能で、精神病者の言動や行動はノイズあつかいされていたという状況があった。その中で精神病は人格の病であり、異常な言動や行動にはメッセージがこめられていると指摘した『エメ』は画期的な仕事だったのである。器質論は今後さらに強まっていくことが予想されるだけに、本書の後書は憶えておこう。

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新宮一成 『ラカンの精神分析』 講談社現代新書

 ラカンはサンタンヌ精神病院の習慣でエメと呼ばれた女性患者の病歴を学位論文のテーマにしたが、『ジャック・ラカン伝』にはその後日譚が紹介されている。エメは退院後家政婦となり、偶然ラカンの父親に雇われ、ラカンと20年ぶりに再会したのだ。両者の係わりはそれだけではない。伯母の手で育てられたエメの息子は高等師範学校卒業後、ラカンが母親の主治医だったことを知らずに彼の教育分析を受け、分析家になったからである。あまりにも因縁話めいていて、ユング派ならシンクロニシティの実例として嬉々として本に書くところろう。

 ラカンとエメの数奇な関係を最初に知ったのは本書でだったが、『ジャック・ラカン伝』の赤裸々な書き方とは受けた印象があまりにも違うので、気になって読みかえしてみた。本書では「エメの王子として」という小見出しを立て、こう書いている。

 いわばラカンは、すでに学位論文の時点で、エメの息子になろうとする欲望と共に、分析家として世の中に送り出されていたのである。彼が分析家として大成しつつあったときに、父の傍らに、ちょうど母の位置に、エメを見出したということは、何ら偶然ではない。ラカンがディディエ・アンジューを自分の分析の中に受け入れたのは、エメの息子であるということはどんなことなのだろうかということを、ディディエを通じて経験してみたいという、無意識の欲望が働いたからだろう。

 ルディネスコの身も蓋もない書き方とくらべるとメルヘン的な印象を受ける。

 最初は上記部分を確認するだけのつもりで、本書を引っ張りだしたのだが、おもしろくて、ずるずると最後まで読んでしまった。

 本書は出た直後に読んでいて、明快な記述に感嘆したのであるが、今回、読み直してみて、あらためてすごい本だと思った。ラカンは『エメ』を除くと、症例に触れることはほとんどなかったらしく、フロイトのテキストの哲学的な注釈と言葉遊び、さらにはマテームと呼ばれる記号と図表でしか、自分の学説を表現しなかった。ラカンの解説書の大部分は抽象的なレベルで、ラカンの言葉をなぞっているにすぎないという不満がある。

 本書は随時症例を紹介しながら、ラカンの学説を具体的なレベルで語ろうとしている。精神科医の一部でラカンに対する関心が高いのは、ラカンの概念が臨床の現場でリアリティをもっているからだというが、そのあたりの機微を、新書という枠内で紹介してくれたのが本書なのである。

 新書として、すらっと読める平明な文章だが、内容は深い。折に触れて読み直すことになりそうだ。

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窪田空穂 『わが文学体験』 岩波文庫

 窪田空穂が最晩年に書いた回想録である。もともとは作歌の手引のつもりだったらしいが、30ページほど書き進んだところで短歌との出会いにふれるにおよび、若い日の思い出が堰を切ったようにあふれだし、歌論が自伝に転じた。與謝野鐡幹のこと、黎明期の「明星」のこと、獨步社のこと、坪内逍遥のこと、博文館の前田晁のことがビビッドに描かれ、明治末年から大正にかけてのジャーナリズムと文壇の一面が再現される。

 窪田空穂は早稲田の文学部の日本文学科の基礎をつくった人とされていて、わたしが在学した頃は神様あつかいされていたが、最初はアカデミズムの人ではなかった。早稲田の文科の卒業生は地方の中学の教師ぐらいしか就職先がなかったが、著者は田舎に埋もれることを嫌い、今でいうフリーライターの道を選んで悪戦苦闘したのだ。『皇族画報』の企画を立てたとか、三越に対抗して大丸がつくったPR誌に係わったとか、意外な話が出てくる。マスコミの底辺で早稲田人脈で仕事を融通しあうところなど、今も昔も変わらない。

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窪田空穂 『窪田空穂随筆集』 岩波文庫

 大岡信氏が選んだ窪田空穂の随筆集である。大岡氏は父子二代にわたる窪田の弟子で、同じく岩波文庫から出ている『窪田空穂歌集』と『わが文学体験』の刊行にもかかわっている。

 わたしは学生時代、窪田空穂を記念する大学のイベントで大岡氏の講演を聞いたことがある。確か真冬で、会場は暖房の効かない大教室(201教室?)だった。寒くて寒くてどんどん客が帰っていくが、話がおもしろいので震えながら最後まで聞いた(おかげで風邪を引いてしまった)。それ以来、窪田空穂という名前は気になっている。

 最初に置かれているのは郷里の信州の思い出である。著者は松本市のはずれで生まれ育ったが、こんな田舎でも発句が盛んで、落選した者は「あの天は、あの選者を当て込んで、某のこういう句をもじったものだ。それ、こういう文句、こうもじったのだ。な」と、しばらく噂しあっていたという。江戸の文化はここまで深かったのだ。

 著者の家の本家は庄屋で、幕末期の当主は平田国学の徒だった。当然、藤村の父の島崎正樹と親交があった。島崎正樹は名物爺さんとして知られていたそうで、藤村を知らない村人も懐かしがっていたそうである。

 著者の家は分家だったが、昨今話題の特定郵便局を引き受けていた。当時は「箱場」といって、玄関の柱に赤塗の箱を一つかけただけだった。配達は「西屋敷の婆さ」と呼ばれる老婆にまかせていた。「西屋敷」は祭文語りの家で、この老婆は宛名の漢字が読めたという。

 Ⅱに集められたのは早稲田時代と、ジャーナリスト時代の回想である。『わが文学体験』と重なる話題もあるが、ディティールはこちらの方が詳しい。坪内逍遥の美談も読ませるが、やじ将軍と綽名された早大野球部応援団の吉岡信経の思い出もいい。

 Ⅲには富士山に登ろうとして果たせなかった顛末を書いた三篇の文章がならぶ。谷とは著者を女子美術学校に招いた旧友だが(『わが文学体験』の18に言及あり)、執筆年が大正4年、大正9年、昭和8年と18年にわたっている。遭難しかけたとはいえ、一度の旅行のことを18年がかりで書くとはどういうことだろうか。

 Ⅳ以降は小説的な文章、老いをむかえての感想がならぶが、ややパワーダウンする。

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November 2001

大場建治 『シェイクスピアを観る』 岩波新書

 老境にいたったシェイクスピア学者が、シェイクスピアのおもしろさを自在に語った本である。『十二夜』、『ハムレット』、『冬の夜がたり』(『冬物語』)、『ヘンリー五世』で喜劇、悲劇、ロマンス劇、史劇を代表させているが、舞台評から演出論になり、テキスト・クリティックといった専門的な話が謎解き仕立てで出てくるかと思えば、エリザベス朝論になるといった具合で、楽しそうな語り口とあいまって、広い範囲の読者に推薦できる。映画の話がよく出てくるが、DVD化されている往年の名画と最近の作品(ブラナーの「ハムレット」など)が選ばれているので、白ける心配はない。

 『十二夜』ファンとしては、数ある喜劇の中で『十二夜』を選んでくれただけでもうれしいが、今日のシェイクスピア・ブームの原点は1959年に小沢栄太郎が演出した俳優座の『十二夜』にあったとする指摘は知らなかった。

 当時から評判になり、飯沢匡らが絶賛したそうだが、小沢は演出だけでなく、翻訳にも革命をもたらした。三神訳を使ったが、訳文に大幅に手をくわえ、「教会へ行くんだって、行きはジルバで、帰りはルンバとしゃれたらいいじゃないか。おれなら、散歩はマンボで、小便はチャッ、チャッ、チャッ、チャッといくね」という具合に、後の小田島雄志訳ばりの軽快な台詞に仕立て直したのだ。勝手に訳文を変えられた三神勲は「千田学校出身のわたしにとって、小沢さんの乱暴と思われる台本造りはショックではあったが、同時にたいへん参考になり、教えられた」と書いているというから、こちらもなかなかの人物である。

 小沢演出を受けつぎ、さらに過激にしたのは、1971年に文学座アトリエで出口典雄が演出した『十二夜』である。

 小沢演出では、贋のラブレターを読むマルヴォーリオと、(テキストによると)「柘植の木の陰に」隠れて聞いているサー・トービーたちの間に、まだしかるべき距離がありました。これを近代劇的距離感覚と言ってみてもいい。それが出口演出だと、サー・アンドルーの江守徹が右手に小枝をかざして顔を隠しながら、北村和夫のマルヴォーリオのすぐ後ろまで進み出て、左手をふり上げて彼をぶとうとする。左上の舞台写真をごらんください。出口はこのとき三十代に入ったばかりだったでしょうか、まさに奔放自在、ヴァイオラはスクーターで登場して舞台をぐるぐる回る、オリヴィアもぐるぐる回りながら恋の思いを打ち明ける。

 出口の『十二夜』はシェイクスピア・シアターになってからの舞台を三回見ているが(わたしが『十二夜』ファンになったのは出口演出に出会ったおかげである)、小枝の演出は踏襲していたものの、他はずっとおとなしくなっていた。1971年といえば小劇場運動が最盛期をむかえた頃で、「六〇年代の小劇場運動の舞台理念の大きな一つは反近代劇でしたから、小劇場運動の随伴運動の一面をもつシェイクスピア・ブームも、近代劇的教条主義を身軽に脱しながら、雑芸的(アチャラカ的)演出を取りこんで情緒の乾燥化を徹底させていった」という指摘は正鵠を射ていると思う。

 『ハムレット』の稿本の問題を演出論と演劇史とからめて語るくだりはみごとの一語に尽きるが、三年前、劇団俳小が上演した『どさ回りのハムレット』は、なんとドイツで発見された笑劇仕立ての異本『ハムレット』だったのだという。あの公演は気になっていたのだが、まさかそうとは知らず、見のがしてしまった。悔しくてたまらない。

 ほかにもさまざまな話題が出てくるが、シェイクスピア別人説だけはふれていない。これも見識である。

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小林多喜二 『蟹工船 一九二八・三・一五』 岩波文庫

 「蟹工船」はカムチャッカ沖で操業する工場船の極悪な労働環境を描いた作品で、プロレタリア文学の代表作ということになっている。「作家事典」で小林多喜二をとりあげる必要から読んだが、あまりにもお粗末で唖然とした。擬音とドギツイ表現の多い文体は劇画的で、小林よしのりの誇張したタッチを思わせる。後半は階級闘争図式そのまま。

 小説というより粗筋であって、小説を読んだという気がしない。蟹工船という題材は面白いのだから、筆力のある作家が書いていれば『ジェルミナール』のような本格的長編小説になっていたかもしれない。

 「一九二八・三・一五」は小林の処女作である。治安維持法による1928年3月15日の一斉検挙を小樽にしぼって描いた作品で、主人公を設けない群衆劇的な書き方は「蟹工船」につながる。インテリ崩れからたたき上げの活動家、おっちょこちょいの跳ね上がりと、いろいろなタイプを登場させているが、類型的で素人の落書きである。

 プロレタリア文学は下手だとは聞いていたが、ここまでひどいとは思わなかった。いくら脳の腐った左翼でもこんなゴミを本気で持ちあげているのだろうか。特高警察に殺されていなかったなら、小林多喜二の名前が文学史に残ることはなかっただろう。

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荒俣宏 『プロレタリア文学はものすごい』 平凡社新書

 著者とプロレタリア文学のとりあわせは意外だが、平凡社を中間に置くと、それほど不思議ではない。山口昌男の『「挫折」の昭和史』は平凡社を創立した下中弥三郎に一章を割いていたが、昭和初期の平凡社はアナーキストの梁山泊で、プロレタリア文学ばかりを集めた『新興文学全集』などというものも出していたのである。戦後の百科事典ブランドからはちょっと考えられないが、出版目録を見ると今でも結構変な本を出している。

 もっとも、著者は平凡社に対する一宿一飯の恩義(著者は社内に仕事場を構えている)から本書を書いたわけではあるまい。プロレタリア文学には著者の博物学志向というか、ゲテモノ志向をそそる刺激的な作品がそろっているからだ。

 粗筋紹介を読む限りではホラー小説あり、恐怖小説あり、セックス小説あり、SFあり、忍者小説ありで、おもしろそうではある。『蟹工船』を読む前だったら鵜呑みにしたところだが、最高傑作とされる作品であのお粗末さだから、無理しておもしろがっているのではないかという疑いが残る。

 むしろプロレタリア文学に影響をあたえたと著者が考えるグランギニョールやドイツ表現主義、白樺派を論じた部分の方が自然に愉しんでいる印象である。『メトロポリス』論もおもしろいが、プロレタリア作家が白樺派、とりわけ志賀直哉に「憧れ」ていたと断定するくだりはさすがである。

 ただし、白樺派が他の無頼派、観念派の作家たちと異なるところは、身勝手を押し通すことに対するふしぎな自信と、それを鍛えあげる苦悩をセクシャルな快感と同一視できる逞しさとが、いつも内在している点だろう。苦しみも快楽のうち、どうせ最後は自らの自我が世間をうち負かすに決まっているのだから、という独善性にある。ここが最大の魅力なのだ。ああ、もしも願いが叶うなら、われもなりたや白樺派。貧乏性の上に小心者の筆者は、いつも白樺派の勇ましさに憧れてきた。

 おどろくべきことに、プロレタリア文学者にしてもその思いは同じだったらしい。宮本百合子、小林多喜二をはじめ、有能な作家はこぞって志賀直哉を師と仰いだ。志賀は、白樺派のうちでも図抜けて勇ましい、筋金入りの快感作家だった。苦悩はするが反省はしない。これが白樺派的絶倫性の本源であり、プロレタリア作家にも参考になるところだったのである。

 箸にも棒にもかからない駄作の集まりをここまで宣伝してもらったのだから、プロレタリア文学を研究してきた人はよろこばなくてはいけないが、脳の腐った左巻人種だけに逆の反応をしそうな気がする。

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小林秀雄 『ドストエフスキイの生活』 新潮文庫

 高校時代、第一章の途中で放りだして以来気になっていた本で、ようやく宿題を片づけた気分である。

 第一章を退屈と感じたのは小林秀雄がプロレタリア文学と対決する形で世に出たということを知らなかったからだ。歴史がどうのこうのと書いてあるが、マルクス主義の知識がないと論旨がたどれないだろう。マルクス主義は数学のでき来ない文系バカを騙すためのエセ科学なので、今さら論旨をたどっても何の意味もないが。

 第二章からはドストエフスキーの行きあたりばったりの人生を描いた評伝で、すらすら読める。

 逆説を駆使したおなじみの小林秀雄節だが、『罪と罰』や『白痴』のような後期の大作は執筆の経緯にふれるだけで、作品そのものには立ちいっていない。これでは評伝とはいえない。

 はぐらかされた気分だが、本作と対をなす『ドストエフスキイの作品』という本が出ていて作品論を読みたい人はそちらを読めということか。『生活』の出来がお粗末なので、食指が動かないけれども。

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本村凌二 『ポンペイ・グラフィティ』 中公新書

 ポンペイ展がおもしろかったので手にとった本である。副題に「落書きに刻むローマ人の素顔」とあるが、前半は選挙、剣闘士試合、貸家等のために、専門の職人が壁に書いた広告をあつかっている。こうした広告は落書きと区別して「塗書き」と呼ぶそうである。当時、すでに広告が商売になっていたのである。後半はいわゆる落書きをあつかっている。

 ヴェスヴィオ火山の噴火というアクシデントで、偶発的に残ってしまった文章だけに、ポンペイの人々の素顔がうかがえておもしろい。

 選挙の塗書きから引いてみよう。

トレビウスを造営委員に選出するように菓子作りたちは推薦する。

漁師よ! ポピディウス=ルフスを造営委員にしなさい。

セクンドゥスを造営委員として風呂焚き仲間は推薦する。

Cn=ヘルウィウス=サビヌスを造営委員として、イシス女神礼拝者団は一致して推薦する。

C=クスピウス=パンサを造営委員としてプルプリオはパリス後援会員たちと一緒に推薦する。

「パリス後援会」とは、ポンペイで人気の黙劇役者、パリスのファンクラブだそうだ。

C=クスピウス=パンサを造営委員として、サトゥルニウスは生徒たちと一緒に推薦する。

ガイウス=セクンドゥスを裁判権を有する二人委員としてアセッリナは推薦する。

アッセリナはアボンダンザ通りの居酒屋の女将。私塾の教師と女将というと対照的なようだが、当時はどちらもあまり尊敬されない職業だった。

 ここまでは真面目な推薦だが、以下はからかっているか、落手の類だろう。

M=ケッリウニウス=ウァティアを造営委員としてすべての深夜飲酒族は推薦する。フロルスがフルクトゥスとともにこれを書く。

ウァティアを造営委員としてすべての朝寝坊族は推薦する。

ウァティアを造営委員としてこそ泥仲間は推薦する。

 地方都市には裁判権を有する二人委員」と造営委員という二つの役職があり、ポンペイでは中央広場南端の東と西に専用のオフィスをかまえていた。二人委員が地方都市の最高職だったが、残っているAD71〜79年の塗書きからするに候補者数と定員が同じで、名目的な選挙だったらしい。

 それに対して、行政の実務を担当する造営委員の方は二人定員のところ、毎回三〜四人の候補がいて、実質的な選挙戦が戦われていた。公職を目指す若者は、まず造営委員になって実績を作り、市参事会員や二人委員を狙ったのだという。

 買収があったかどうかはわからないが、公職を目指すからには人気とりが必要で、造営委員や二人委員を目指す有力者は剣闘士試合を主催して、名前を売ろうとした。次の塗書きは試合の広告である。

Cn=アッレイウス=ニギディウス=マイウスによる見世物興行の主催総覧記念碑の開設にちなんで、パレード、野獣狩り、格闘技が行われ、香水散布も天幕もある。町の第一人者マイウスに幸あれ。

 地中海地方は日射しが強いので、天幕が張ってあるかどうかで、来場者数が違ったのだろう。そういえば、「グラディエーター」でも、コロッセオに天幕が張ってあった。

 剣闘士関係の落書きは生々しい。

トラキア闘士のファビウスよ、がんばれ。

網闘士クレスケンスは少女たちのご主人様。

ネロ養成所出身のプリスクス六勝、解放奴隷ヘレンニウス十八勝目に死亡。

ネロ養成所出身のアストロパエウス百七勝。オケアヌス五十六勝目に助命。

剣闘士はスーパースターだったが、生きるか死ぬかの試合を百回以上も勝ち抜かなければ、自由の身になれなかった。そういう男に惚れる貴婦人もいた。ポンペイでは営舎でみごとな宝石を身につけた女性と抱きあって死んだ剣闘士の遺体が発見されているという。

本村凌二 『ローマ人の愛と性』 講談社現代新書

 『ポンペイ・グラフィティ』がおもしろかったので読んでみたが、こちらは期待はずれだった。「サティリコン」の紹介にはじまるプロローグは快調だが、古代ローマの頽廃を描きはじめると、早くもガス欠を起こす。冗漫で退屈なだけである

 『ポンペイ・グラフィティ』のようなおもしろい本を書ける人がなぜこんな駄作を書いたのだろうと訝しんだが、最後の二章で意図がわかった。著者は紀元前後からの百年間に「結婚」が特別な意味をもつようになり、性を穢れと見るような意識が拡がっていったと言いたいのである。フーコーの『性の歴史』を補完し、延長しようというわけだ。

 意図はおもしろいが、十分熟成しないうちに書いてしまったのだろう。今後の展開を期待したい。

辺見庸 『赤い橋の下のぬるい水』 文春文庫

 映画になった表題作の他に、「ナイト・キャラバン」と「ミュージック・ワイア」をおさめる。

 今村昌平の映画が素晴らしかったので読んでみたが、原作は大したことなかった。女体に水がたまるという即物的な発想はすごいし、川・橋(原作では朱塗の太鼓橋)と結びつけるのもオリジナリティといえるが、映画と違って、いたって単純な話だった。東京近郊の営業所に赴任してきた20代後半の保険会社社員の話になっていて、土俗的な拡がりは望むべくもない。

 川・橋とくれば土地の精霊とつながるはずなのに、活かしきっていないので、結末がありきたりの失恋話に矮小化されてしまった。こういう中途半端な話から、あのような傑作を作ってしまうのだから、今村昌平はおそるべきである。

 「ナイト・キャラバン」はベトナムのバーで娼婦を買ったものの、郊外のホテルに行こうと口車に乗せられて、夜道を四台のシクロを仕立て、延々と走る話。どうということはない。

 「ミュージック・ワイア」はだらしのない一家に飼われて、糞まみれになって病気になったアヒルを見かねて、元獣医の青年が訪れるようになり、一家をきれい好きに変えていく話だが、家の乱雑ぶりが過激で、笑える。

 三篇とも徒労感というか、倦怠感がにじみでていて、いかにも最近の「純文学」という印象である。

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スタイナー 『青髭の城にて』 みすず書房

 これも大昔読んで感銘を受けた本である。読みかえしてみて、立花隆の『脳を鍛える』は本書を意識しているのではないかと気がついた。人文的教養の空洞化と文系・理系の断絶に警鐘を鳴らすという論旨は、スタイナーを引きあいに出すまでもなく、多くの論者が語っているけれども、ヴァレリー的な主知主義を主軸にすえるあたりはスタイナーの影響のような気がする。

 ただし、人文的教養の厚みとなると、比較するのが気の毒になるくらい違うし、ユダヤ出自だけにナチスの残虐行為と科学の発達による大量生産社会の到来を滔々と語る語り口の迫力は言わずもがなである。本場ものと比較して、和製を貶すような安易なことはやりたくないが、ここまで歴然としていては仕方がない。

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スタイナー 『脱領域の知性』 河出書房

 大昔、夢中になって読んだ本だが、「愛のエチュード」の原作に言及しているので、久しぶりに引っ張りだしてみた。短い言及だが、なるほどということが書いてある。ただ、由良君美氏の癖のある訳文には抵抗をおぼえる。

 スタイナーは旧批評を標榜した人で、主たる敵はニュー・クリティシズムだったが、当時流行していた構造主義に対しても批判的な物言いをしている。皮肉なことに、日本人が書いたり、翻訳したりした構造主義入門よりも、スタイナーの構造主義批判の方が構造主義を理解する上ではるかに役に立ったし、おもしろかったのである。『言語と沈黙』所載のレヴィ=ストロース論など、何回読んだか知れない。

 本書の後半は構造主義批判にあてられているが、今読むとチョムスキーを好意的に紹介したくだりなど時代を感じさせる。新しい話柄ほど古びるのが早いのだ。

 理論的な後半部分と較べると、個々の作品を論じた前半は古びていない。セリーヌ論ではリュシアン・ルバテを絶賛していて、読みたくてしょうがなかったのだが、何かの座談会で、あれはセリーヌを遠回しに貶すために持ちあげただけで、実は大したことがないとあるのを読み、そんなものかと思った。国書刊行会から翻訳が出たが、未だに読んでいない。実際はどうなのだろう。

付記:『ふたつの旗』をようやく読んだ。傑作だった。→書評空間 (Dec30 2007) amazon

December 2001

スタイナー 『悲劇の死』 筑摩書房

 20年ぶりくらいに読みかえしたが、やはり傑作である。訳文も明晰にして格調高く、原著にふさわしい名訳といえよう。

 フランス古典主義の記述が半分くらい占めているように思いこんでいたが、二章をさいているだけだった。ロマン派以降、なぜ悲劇が駄目になったかがテーマだから、シェイクスピアとフランス古典主義は前説のあつかいなのだが、コルネイユとラシーヌを論じたくだりが一番力がはいっており、実際、おもしろいので、こういう錯覚が生まれたのかもしれない。

 傑作が書かれたのは以下の五つの時代しかないとスタイナーはいう。

 傑作が生まれる時代の方が例外的なのだが、一旦生まれる条件がそろうと、傑作がきびすを接して書かれる。「アイスキュロスの後にはソポクレスとエウリピデスが続き、マーロウの後にはシェイクスピアとジョンソンとウェブスターが、さらにコルネイユの後にはラシーヌが続く」というわけだ。

 ロマン派以降、なぜ悲劇が駄目になったのか。スタイナーは進歩主義と楽天主義のせいだと断ずる。

 大抵のロマン主義演劇やワーグナーの楽劇において実現しているのは、悲劇ではない。悔恨の劇は窮極において悲劇ではあり得ない。それを支えているのは、《近似的悲劇》の定式なのだ。四幕にわたって悲劇的暴力と罪障が描かれた後で、救済と回復された無垢を描く第五幕が続く。《近似的悲劇》とは、まさに悪の窮極性を信じなかった時代の妥協の産物である。

 キリスト教の救済神話は権威を失っていったが、それに代わってマルクス主義の救済神話が徘徊するようになる。1961年に刊行した本書の中で、スタイナーはこういう予言的な一節を書いていた。

 マルクス主義的世界観は、キリスト教的世界観よりもなお明確に、あやまちや苦痛や一時的敗北は認めても窮極的な悲劇は認めないという態度をとる。絶望とはキリストに対してと同じくマルクス主義に対しても赦しがたい罪なのだ。

 マルクス主義は西洋的意識に根を下ろした重要な神話としては三つめのものである。それが道徳的・知的経験の進路にいつまで、またどれほどひどく、傷あとを残すかは、まだ分からない。マルクス主義の世界観は人々の集団的感情の成熟よりも政治的強制によって生まれたのだが、まさにこの理由によって、おそらくは浅い根しかもっていないのではあるまいか。

 マルクス主義が破綻し、科学が馬脚をあらわしつつある今日、幸福なことかどうかはともかくとして、悲劇の復活する条件が整いつつあるのかもしれない。

スタイナー 『アンティゴネーの変貌』 みすず書房

 今日、ギリシア悲劇を代表する作品といえば、誰しも『オイディプス王』を思いうかべるだろうが、1790年代から1905年までは『アンティゴネー』がその位置にあったとスタイナーは先制パンチを見舞う。

 虚を突かれたが、よくよく考えればその通りである。1905年はフロイトがエディプス・コンプレックス論を発表した年で、20世紀の精神史は『オイディプス王』と母子相姦をめぐって展開されたといっていいくらいだが、19世紀は『アンティゴネー』と兄妹・姉弟相姦が中心だった。ヘーゲルしかり、シェリングしかり、ヘルダーリンしかり。『精神現象学』には『アンティゴネー』を論じた章があるが、スタイナーによると前半部分は暗々裏に『アンティゴネー』を下敷きにして書かれているという。そうかもしれない。

 ヘルダーリンにいたっては『アンティゴネー』をドイツ語に翻訳している。逐語訳にこだわったために恐ろしく読みにくく、ゲーテは酷評したが、ハイデガーの存在論とベンヤミンの翻訳論はこの翻訳を手がかりにして展開されているそうだ。そういえば、ハイデガーの『形而上学入門』に引かれていたのは『アンティゴネー』のコロスの朗誦だった。

 第一章と第二章は博覧強記にものをいわせて『アンティゴネー』を軸にした精神史を描きだし、返す刀でコロス論を展開している。目の醒める思いがするが、第三章では『アンティゴネー』のギリシア語原文の逐行批評をおこなっている。

 急に細かい話になったが、実は一番の読みどころはここである。批評家の本当の力量はディティールをどこまで読めるかでわかる。特に逐行批評はごまかしがきかない。スタイナーはそれをみごとにやりおおせているのである。

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スタイナー 『真の存在』 法政大学出版局

 「旧批評」を標榜するスタイナーが、「新批評」の次に出てきた構造批評と脱構築批評を批判した本である。

 スタイナーが一冊の本を書くところまで脱構築にこだわるのは、脱構築がアメリカでそれだけはびこっているからである。第一章と第二章は言葉遊びにおちいった批評とアカデミックな文学研究の現状を憂えている。

 それにしても、訳文がひどい。『悲劇の死』の名訳とは較ぶべくもない稚拙な日本語だが、第二章までは一応意味がとれないことはない。ところが、スタイナーの積極的な主張が書かれている第三章はまったく意味不明の駄文がつづく。訳者がわかっていないのだ。

 文章がお粗末なだけでなく、基本的な知識も怪しい。アルベルティーヌをアルバーティーンと表記しているなど、バカとしか言いようがない。編集者はチェックしなかったのだろうか。こんな最低最悪の翻訳を出すなんて、大学出版局を名乗る資格はない。

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スタイナー 『G・スタイナー自伝』 みすず書房

 邦題は「自伝」とうたっているが、自伝的な記述は多くない。スタイナーの前半生は波瀾万丈だったが、それを期待すると肩すかしをくう。自伝的なエピソードを枕にして過去の著作で述べてきたことを再説するという趣旨の本らしい。

 原題は Errata(正誤表)だが、ユダヤ人の宿命を語った次の一節が関係しているようだ。

 タルムードの読み手の中でもっとも鋭かったラシ自身は、アブラハムがテントを捨ててふたたび放浪の旅に出る永遠の必要性を説かなかったか? 道を尋ねるときには、ユダヤ人の耳に正しい答が聞こえてはならない、ユダヤ人の使命はたえずエラント〔間違っている、遊歴中の意味もある〕であること、ということはつまり、間違いを犯してさ迷い歩くことにある、という意味だ。

 訳者は『真の存在』と同じ人だが、具体的な話の部分は一応意味がとれるものの、抽象的な話になるとわけがわからなくなる。訳した本人がわかっていないのだ。こういう人は翻訳をしてはいけない。編集部は訳文のチェックをしなかったのだろうか。みすず書房も落ちたものだ。

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ソポクレース 『アンティゴネー』 岩波文庫

 『アンティゴネーの変貌』を読むために読みかえしてみたが、呉茂一訳は苦しい。こんな具合なのである。

アンティゴネー だってお葬いを、兄さま方に、クレオンさまが、一人はちゃんとしてあげても、もう一方へはしないで酷い目を見せてんでしょ。エテオクレスのほうは噂のようでは、正しい道と掟とをちゃんと守って、お墓に納めてさしあげたけど、――かたのとおり、他の死んだ人にも恥ずかしくないよう、――ところが悲惨な最期を遂げたポリュネイケスの亡骸は、町じゅうにもうお布令を出して、けして葬いをして葬ってはならない、また泣き悼んでもいけない、それどころか、弔いもせず打っちゃっといて、見つけた鷹や鴉のいいご馳走に、好きなまま食い荒らそうというのですって。

 なまじ上演台本に使えるようにと考えたために、こういう情けない日本語になってしまったのだろう。ちくま文庫の『ギリシア悲劇』のも呉訳だった。

 呉訳でも『花冠』はよかったが、『イリアス』、『オデュッセイア』になると読めたものではなかった。現在の岩波文庫には松平千秋による新版がはいっているが、『アンティゴネー』も新訳を出すべき時期に来ているのではないか。

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ナボコフ 『ディフェンス』 河出書房

 若いチェス・マスターを主人公にしたナボコフの初期作品である。最近、映画が公開されたが、前半はすばらしいのに、後半は無理があり、もったいないと思った。

 そこで、原作読んでみたのだが……前半は原作に忠実なのに対し、後半は別の話になっていたのである。映画では主人公のルージンをチェス・マスターに育て、限界が見えてくると捨てたヴァレンチノフが、ルージンの優勝を阻むために、意味不明の陰謀をめぐらしたが、原作のヴァレンチノフは映画界の実力者になっており、自分の製作する映画に箔をつけるためにルージンに出演をもちかけたにすぎない。不自然な陰謀など、影も形もない。

 もっとも、すばらしい原作を脚色で台無しにした……とは言いにくい面もある。後半はナボコフおなじみの亡命ロシア人社会の話になっていて、冬のベルリンの閉塞的な人間関係の中で、主人公が孤立し狂気におちいっていくという地味で暗い話だったのである。このままでは映画にはなりにくい。

 ひと夏のドラマチックな話に仕立てようとした脚色方針は理解できないことはないが、陰謀に逃げたのは安易だった。

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山田風太郎 『警視庁草紙』 ちくま文庫

 今秋、NHKで放映された『からくり事件帖』の原作で、山田風太郎明治小説の第一作である。

 お話としてはTV版の方がよくできていた。原作はストーリーもトリックも無理がありすぎるのに対し、TV版は巧みに仕立て直して、不自然さが目立たないようにしてある。脚色者はいい仕事をしているのである。

 ただし、ストーリーやトリックの無理など、山田風太郎では傷とはいえないし、本書の場合、読ませどころははっきり別のところ――明治になって南町奉行所や牢奉行の石出帯刀、首切り浅右衛門、剣豪といったお歴々はどうなったか、幼い日の夏目漱石や幸田露伴、樋口一葉はどういう暮らしをしていたのかという野次馬的な興味を満足させてくれるところ――にあるのである。東条英機の父親の東条英教まで、端役でちょろちょろする。

 人脈の絡みあいがおもしろい。冑割で有名な榊原鍵吉は生活に窮して撃剣会をはじめるが、これを発案したのが清水次郎長の養子になった天田五郎で、大久保利通を暗殺した長連豪ら、元加賀藩士までからんでいたという。本当なのだろうか。

 週刊誌的興味を刺激する本だが、山口昌男の『「敗者」の精神史』につながる明治精神史といえないこともない。来年は明治小説全集を読んでみよう。

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金庸 『碧血剣』 徳間文庫

 冤罪で処刑された明の名将、袁崇煥の忘れ形見を主人公とする武侠小説で、明清交代期を背景にしている。

 袁崇煥の一子、袁承志は反間の計で父をおとしいれた清のホンタイジと、それに乗せられた崇禎帝に仇を報じるため、華山派武術の奥義をきわめるが、洞窟で金蛇郎君という悪名だかい剣客の遺体と秘伝書を発見する。「わが門に入たりて、禍に遇うを怨むなかれ」と警告してあったのに、金蛇剣法を会得したため、作らなくていい敵を作り、災厄にまきこまれていく。

 師の悲恋と宝探しが前半の軸になっていて、『連城訣』と似ている。サービス過剰なくらい趣向が盛りこまれているが、『連城訣』のような悲劇性はない。

 ヒロインの温青は男装の美少女剣士だが、本当の父が金蛇郎君とわかると、金蛇郎君の姓の夏を名乗り、夏青と称するようになる。父系の系譜へのこだわりは大衆小説だからよけい出ているのかもしれない。

 後半、五毒教という雲南の邪教が登場するが、教主の何鉄手は彝族なのである。何鉄手は美女で、やたらフェロモンをふりまくのだが、彝族の人たちはうれしくはないだろう。

 袁承志は李自成幕下の知将、李岩(史書では李巌。最近、実在が疑問視されている)と義兄弟の盟を結び、一党を引きつれて李自成軍を応援するが、李自成は皇帝に即位したとたんに本性をあらわす。政治に失望した袁承志は海外に移住し、幸せに暮らしたという結末がつくが、支那に残った阿九と何鉄手あらため何惕守は別の小説で大活躍することが予告されている。

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斎藤緑雨 『緑雨警語』 冨山房百科文庫

 戯作研究で有名な中野三敏が緑雨のアフォリズムを編集して一冊にした本である。現代の読者が緑雨のアフォリズムを味わうには注釈が必要だが、編者の中野は脚注でひねったコメントをつけている。成功しているものもあれば、余計なお世話というものもある。

 いくつか引いてみよう(「*」以降は中野の注釈)。

○元気を鼓舞すといふことあり、金魚に蕃椒水たうがらしみづを与ふる如し、短きほどの事なり。

*長ければ鼓舞とは言い難し、拷問なり。

○懺悔は一種のヽろけなり、快楽を二重にするものなり。懺悔あり、故にあらたむる者なし、懺悔の味は人生の味なり。

*「人生の味」、いわばフランス風なま悟りとも言うべきか。

○知己を後の世に待つといふこと、はなはだしき誤りなり。誤りならざるまでも、極めて心弱き事なり。人一代に知らるヽを得ず、いづくんぞ百代の後に知らるヽを得ん。今の世にやくざなる者は、後の世にも亦やくざなる者なり。

*「人一代に……」の件りは適評なるも、「今の世にやくざ……」の件りはやや勇み足の気味なり。

○おもふがまヽに後世を軽侮せよ、後世は物言ふことなし、物言ふとも諸君の耳に入ることなし。

*アーせい、コーせい。

○明朝、米を買ふの銭は工面するに難く、今宵、女を買ふの銭は算段するに易し。上下誰しもの事なり。嘘とおもはヾ実験すべし。

*嘘と思ひて実験しようとした者の曰く、「どちらも難しい」。

○若き妬みは得んが為、老が妬みは失わざらんが為。

*中年の妬みは何の為? 補わんた為か。うとまし。

 編者は緑雨を「化政度戯作文學のラスト・スパーク」と評した魯庵に異を立て、江戸中期の文学を継ぐものとしている。なるほど、なるほど。

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高島俊男 『漢字と日本人』 文春新書

 ベストセラーになっている本だが、確かにこれはおもしろい。中国語の専門家が半可通の漢字論議にいらだっているところにあって、それが辛めのスパイスになっている。

 どこかで読んだ話が多いが、日本語と中国語は音韻体系が違うということを「日本人の口は不器用」と言いきってしまうなど、見切りがいいのである。例の出し方もうまい。国語改革の出鱈目さをマツサカ・タダノリに代表させたのは正解である。同時代人ならではの臨場感もある。

 著者は中国語の先生だそうで、学生がどこで飽きてくるか、どういう話のもっていき方をすると興味を持つかという呼吸を体得しているのだろう。

 考えるヒントをいろいろあたえてくれる本だが、文字コードのくだりはかなり誤解がある。著者はJIS関係者の対応に頭に来ているようだが、すくなくとも本書に書いてあるような批判はJISはおりこみずみである。JISの応援団で騒いでいるような手合はともかくとして、JISの委員はやるべきことはやっている。なめてはいけない。

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黄文雄 『漢字文明にひそむ中華思想の呪縛』 集英社

 台湾内省人の立場からの漢字批判である。著者は台湾独立論の側に立つ論客で、台湾の成功は戦前に移植された日本文明の力だと明言している。外省人に対する反感を割り引かなくてはならないが、母親が通っていた長老派教会で教会ローマ字の台湾語を勉強して以来、漢字に対しては距離をおぼえているという。

 前半が圧倒的におもしろい。台湾の学習事情を書いた序章、漢字によって隠蔽されている多民族・多言語国家という中国の実態を衝いた第一章、仏教が漢字の拡散にブレーキをかけたとする第二章と、はじめて接する情報が多い。

 仏教が漢字にブレーキをかけたという指摘は意外だったが、『漢字文明圏の思考地図』に紹介されているように、契丹文字、女真文字、西夏文字など、10〜12世紀にあいついで作られ民族文字は仏典の翻訳が動機になっていたし、世界宗教である仏教が中国文明の普遍性を相対化したのは確かだ。

 漢字の歴史に踏みこんだ第三章以降は退屈だ。著者はこの方面の専門家ではないから、阿辻哲次の本を読んだ方がいい。

 肝心の漢字批判であるが、漢字批判というより、漢文(古典文語)批判ではないかという気がする。

 漢文の文字排列順序は口語の順序や思考の順序とは直接の関係がなく、文章の語順や語法はすべて古典としての地位を与えられた書物の文を基準にし、古語に従って文字を羅列していかなければならない。だから名著古典を博覧強記し、熟読、暗記しないかぎり、漢文の奥義を体得することができないのである。

 岡田英弘が指摘しているように、中国語は独立語なので、品詞の区別がない。口語は語順で推定できるが、漢文(古典文語)ではそうはいかないことが多い。大量の古典を丸暗記しない限り、書くことはもとより、読むことすらおぼつかないという。

 だが、それは漢文の欠点であっても、漢字の欠点ではないだろう。ネイティブ・スピーカーであるために、切り分けが曖昧になっているような気がする。

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中村正三郎 『Linux狂騒曲 第3番』 ビレッジ・センター

 「Linux Japan」の人気連載をまとめた本の第三集である。第一集、第二集も読んでいるのだが、Linuxに密着した話が大半だったので、本欄ではとりあげなかった。

 今回はLinux以外の話題が増え、Linuxではじまっても、一般的な話題におよんでいる回が多く、Linux使いでない人間でも楽しく読める。コンピュータの世界がどういう方向に向かっているか関心のある人にはお勧めの一冊である。

 2000年12月号から2001年12月号までの13回分をおさめる。13という数字のせいではあるまいが、訃報がらみの記事が目につくし、「bit」休刊という雑誌の訃報もあった。最終回は同時多発テロとサイバー・テロの話である。2001年という年はこういう年だったのだのだなと嘆息した。

 MicrosoftとNTTは独占企業の常で、あいかわらず悪辣なことをやっているようであるが、番長IBMはLinuxに全社をあげてとりくみ、着々と成果をあげているという。猛威をふるった病原体は、代をかさねるごとにおとなしくなり、宿主との共存をはかるようになるというが、IBMはその域に達したのだろう。MicrosoftとNTTはまだまだ若いのである。

 文字コードではGB18030の話題があるが、「結局、現実策としては、UnicodeにGB18030の文字を丸呑みしていくしかないと思うんですね。つまり、今後、文字コードについては、中国はGB18030をテコに主導権を握る可能性があるなあと思うんです」と指摘しているが、この読みは当たっていると思う。さすが『三国志』の国である。

 漏れ聞くところによると、昨年11月のIRGにGB18030制定を通告した際、中国側は「上の方で決まったことだ」と珍らしく釈明めいたことを言ったそうである。文字コードをめぐる中国のふるまいについてはバカ説と深謀遠慮説の二つがあったが、GB18030騒動から考えると、深謀遠慮説が正しかったのかなと思っている。……なんていうことを書いていると、またあの世界にもどってしまいそうなので、これくらいにしておこう。

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2001年 9月までの読書ファイル
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