小説家、翻訳家。1898年2月15日、備後加茂村(広島県福山市)に、15世紀からつづく豪農の次男として生まれる。本名は満壽二。5歳の時、父郁太と死別。兄の勧めで1919年、早大文学部仏文科に進む。3年の時、担当教授と衝突して帰郷。翌年、退学。聚芳閣という出版社に勤めたり辞めたりをくりかえし、早稲田鶴巻町界隈の下宿と郷里を行き来する。同人誌活動をつづけるが、プロレタリア文学流行の中で孤立感を深める。1927年、29歳で最大の庇護者だった祖父を失う。同年、実家の援助でまだ畑ばかりだった荻窪に新居を建て、終生の住処とする。
1928年、「鯉」を「三田文学」に。以後、「山椒魚」など20代の作品を改稿し次々と発表。1930年、第一短編集『夜ふけと梅の花』。この頃、太宰治が師事するようになり、死にいたるまで面倒をみつづける。 1938年、『風来漂民奇譚ジョン萬次郎漂流記』およびユウモア小説を対象に直木賞を受賞。1941年、陸軍に徴用され、報道班員としてマレーに向かい、翌年、占領直後のシンガポールにはいる。同年、徴用解除。1943年、甲府、後に郷里の加茂村に疎開。1947年、東京の自宅にもどるが、太宰の心中にあい、葬儀委員長をつとめる。
「山椒魚」と『ドリトル先生』シリーズの名訳の印象が強いので、牧歌的なユーモア作家と受けとられがちだが、世態人情を骨太に描くリアリズムの作家である。その帰結として、『黒い雨』など戦後の傑作群がある。
1950年、『本日休診』で読売文学賞。1966年、『黒い雨』で野間文芸賞。1972年、『早稲田の森』で再度読売文学賞。1982年、自伝ともいえる『荻窪風土記』刊行。
1993年6月、死去。95歳だった。