上中下三冊、二段組で1600ページ余の大作で、二週間かかると思ったが、一週間で読みおえた。おもしろいのだ。
第一巻は故郷近江の国分寺を出て、漂泊民や政界の黒衣と知りあって、時代の課題に気づき、東大寺で受戒するまで。第二巻は桓武帝の帰依を受け、還学生として渡唐し、天台の教えをもちかえるまで。第三巻は大乗戒壇設立をめぐる南都との戦いを軸に、入寂までをあつかう。平城京を国際都市として描きだした第一巻は特にいい。
著者は仏文畑から美術史に進んだ人だが、それだけに一般的な歴史小説とは趣きが違う。演劇的にディスカッションで進む部分、最澄ゆかりの土地を訪ねた紀行的部分、考証的な部分、教理史や仏像史的な部分、百科事典的な部分が物語に自在に織りこまれていて、バルザック以前の小説を読んでいるような印象がある。
鎌倉仏教の源流となった最澄と異なり、空海は明治以来軽視されてきたが、高度経済成長が一段落したあたりから、にわかに再評価されるようになった。その代わり、今度は最澄が割をくうことになった。空海を主人公にした小説や映画では、最澄は融通のきかないマジメ人間として引立て役に回るしかなかった。ライバル関係だったから仕方がないのだが、最澄を主人公にした本書を読んでみると、女性にはもてるし、漂泊民からはあがめられるし、空海とよく似ているのである。比叡山に伽藍を次々と建てたばかりか、大乗戒壇を実現したことを考えると、後宮の女性をふくむ有力な外護者がいたのは間違いないし、漂泊民のバックアップがなければ山中で冬を越すことすら難しい。当り前の話だが、空海の蔭で見えにくくなっていた。
読みごたえのある小説だが、いくつか不満がある。徳一との三一権実論争の内容に立ちいらなかったために、権力闘争という印象で終わったのは残念だ。最澄が勝ったかのような書き方をしているが、高橋富雄の『徳一と最澄』(中公新書)によると、そんな単純な話ではなかったようだし、天台宗側も何世紀も論争を気にしつづけている。
関連するが、大乗戒壇設立も天台宗の立場に偏していると思う。道元は比叡山で大乗戒を受けて渡宋したが、宋であらためて具足戒を受けなおさなければならなかった。大乗戒はよくも悪くも日本仏教のその後を決定したが、大乗戒のもつ重要性をしめすには南都側の反論も公平に紹介すべきだったと思う。
「さざなみ軍記」は木曽義仲に追われ、都落ちする平家一族を、15歳の公達の眼から描く。平家は義仲の没落に乗じて福原の旧都にもどるが、この機に京を回復すべしという積極策はいれられず、いたずらに日を過ごすうちに義経の奇襲にあう。一ノ谷の敗戦である。
平家は屋島に逃れるが、主人公は偵察隊をまかされ、山陽道をさかのぼり、要衝に陣地を築く。義仲の郎党におびえていた主人公が、僧兵あがりの豪傑や平治の乱の生き残りの老武者と寝食をともにするうちに、たくましく成長していく姿がすがすがしい。
「ジョン万次郎漂流記」は中浜万次郎の半生記で、他の「ユウモア小説」とともに第六回直木賞を受賞している。難破して無人島に漂着し、異国船に拾われるという成行は悲惨だが、万次郎はそれをプラスに転化していて、文章にもたくまざる「ユウモア」がにじみでている。作家としての大きさを感じた。アメリカの文明と接した戸惑いを万次郎たちの意識に即して描くあたり(ハワイのアメリカ政府政庁も「奉行所」である)も、「ユウモア小説」である。
併録されている「二つの話」は、疎開先で仲よくなった二人の疎開児童にせがまれて書いたというSFで、元禄時代と桃山時代に時間旅行する。井伏の戦後第一作。
日記形式の小説で、市内から郡部の派出所に転属になったばかりの若い甲田という巡査の眼から、村の人間模様と世相を描く。日中戦争が拡大した昭和14年の発表だけに、冒頭に出征兵士の壮行会がでてくるし、飛行場の埋め立て工事で土工が流れこんでくるなど、海沿いののどかな村も騒がしくなっている。甲田巡査は朝に夜にたたき起こされ、席のあたたまる暇がない。
ユーモラスな語り口は初期の牧歌的な短編の延長線上にあるが、人間観察は格段に深くなっている。
正編は甲田巡査が水争いを解決するところで終わって、めでたしめでたしなのだが、その後に補遺がつき、村長派と反村長派の対立を軸に、外国人や都会の娘の排斥騒ぎがあったり、煙草屋の娘の自殺未遂があったりと事件がつづき、ブツンと終わる。物足りなくもあるが、現実感が増したのも事実だ。
「遥拝隊長」はマレー戦線で片足を負傷し、精神にも異常をきたした元将校が、敗戦後、いよいよおかしくなる話である。主人公は正常な時から、なにかといっては部下たちを皇居に向かって遥拝させたことから「遥拝隊長」と綽名されていた。最初からおかしかったともいえるが、郷里の村はこういう狂者をも悠然とつつみこんでいる。狂気は近代の産物か。
「本日休診」は蒲田に甥とともに産婦人科を開業する老医師の話。老先生は足を悪くした甥に代わって、往診を一手に引きうけ、東奔西走する。『多甚古村』の町医者版といえる。
敗戦直後(昭和24〜25年の発表)の蒲田が舞台であるから、患者は貧乏人ばかりで、診察料が物語の動因になる。16年前に代金を払いに来た患者もいれば、最初から踏み倒すつもりのヤクザ者もいる。代金未納を苦に勝手に退院し、生命を縮めた患者もいる。人間観察がさらに深まっている。
名人芸の短編集で、傑作ぞろいだ。
「下足番」は早稲田にあった娘義太夫の小屋の下足番の男に三十数年ぶりに再会する。「子熊の夜遊び」は足利の豪族の葬儀で殉死させられそうになった男がタイムスリップして現代にやってくる。「河童騒動」は河童が溜池を決壊させるという話を調査する侍のその後。虚実皮膜がおもしろい。「開墾村の与作」は古墳荒しに加わり、幼なじみを身請けして開墾村にはいった男の述懐。古墳ものが多いが、この時期、作者は古墳の出土品に興味をもっていたのか。
ここまでもおもしろいが、この後はもっといい。「病中所見」は戦時中、疎開していた宿屋を新婚旅行で再訪した疎開児童が、下男としていついた幼なじみとイチジクの木に登るのを、同宿した主人公が見守る。「手水鉢」は格安の手水鉢をめぐる三十年。ようやく古色を帯びてきたが、タワシでこすると色が剥げてしまったという結末に余韻がある。「伊之助の短文」は従弟からの無心状だが、破綻すると見せて、ちゃんと小説になっている。「釣場」は公園の池で釣をする主人公が、スピッツの散歩のアルバイトの男女を結びつけ、結婚式に招待される。これもうまい。最後の「貝の音」は、竹法螺の名人をからませた川中島異聞。
「ジョン万次郎漂流記」に漂流仲間とわかれ、現地に居残る船乗りが出てきたが、本作の主人公の宇三郎も帰国のチャンスを自分から捨てる。理由は他愛がないのだが、他愛がないだけに哀れが深い。
漂流する船内、ハワイ、ロシアと舞台が変わるが、鮮やかな場面とこくのある語り口を堪能する。これは傑作である。
原爆文学というレッテルで敬遠していたが、疎開先での生活を静かに描き、井伏ならではのこくのある小説に仕上がっている。
酸鼻を極める広島の描写は意外にすくなく、大半は疎開先での被曝の後日譚である。被曝した同僚や友人が次々に亡くなっていくが、僧侶が足りないので、総務課勤務の主人公はお経をにわか勉強し、葬儀のために走りまわる。ついには可愛がっていた養女までもが死をむかえる。声高な告発よりも、訴える力が強い。
原爆のきのこ雲が夕方まで残っていたとか、放射能の害を知らされていなかったために二次被爆が多かったとか、知らなかった話がいろいろでてきて、原爆について無知だったことを知った。
インド以来の仏教史に、最澄と空海を位置づけようという試みである。インドの仏教は、なんらかの実在を認めるヒンズー教の諸学派との論争を通して発展したので、唯名論の立場を研ぎすましていったが、中国に伝来すると、実在論に立つ論争相手がいなかったことと、人間の心は本来清浄であるというシルクロード起源の如来蔵思想がいっしょにはいってきたために、空の体験を実在視する考え方が出てきた。また、インドでも、密教の段階にいたると、空を実在、それも聖化された実在とみる思想が出てきた。本書を荒っぽく要約すると、前者の立場を先鋭化したのが最澄であり、後者の立場を先鋭化したのが空海だというわけである。
実在論、唯名論というと理論上の問題のようだが、実は戒律の問題に直結する。もともとの仏教なら、どんな美女もいずれ白骨になるから近づくなと教えるが、実在論化した仏教では、白骨になると承知した上でなら美女は聖なるものだと教える。もちろん、これは極端な例だが、実在論化した仏教が戒律を重視しないということは言える。
最近は、最澄も空海も仏教とはいえないと断定する学者がいるが、著者はそこまで過激ではなく、仏教の発展形態のバリエーションとして、最澄と空海を考えようとしている。ちょっと優等生的かもしれない。
中国ではたびたび皇帝の命令で廃仏(仏教弾圧)がおこなわれたが、本書はその前後の事情をあきらかにした論文を集めている。著者は歴史学者で、政治制度の視点から論じた専門的な論文なので、かなり退屈なのだが、仏教が中国社会にとって異物だったことがよくわかる。
火葬は仏教とともに伝来したが、中国ではほとんど広まらなかったし、僧侶は君親を拝すべきかいなかという礼敬問題も繰りかえし起こり、廃仏の理由になっている。仏教は儒教的秩序を否定する危険思想だったのである。
危険というなら、初唐に活躍した法琳ほど危険な僧はいまい。唐の王室は李姓で、老子の子孫と称していたことに目をつけ、廃仏を奏上する道士がいたが、法琳は反論に立ちあがり、大宗の面前で唐の李氏は西戎の拓跋部の出で、老子とは無関係だと論陣を張った。当初、法琳を持ちあげていた首都の仏教界は恐れをなし、あわてて彼の追放を策したというが、こういう僧が出たのは仏教が思想として生きていた証拠である。
現在、出まわっている百閒の本は、後年、テーマ別に編纂したものが多いが、これは昭和八年刊行の第一随筆集をそのまま文庫化したものである。
最初に「短章二十二篇」として短編をならべるが、思い出をつづった楽しいものが多い。次は「貧乏五色揚」として、借金にまつわる五篇がくる。最初は「無恒債者無恒心」のような借金自慢で笑えるが、後の二篇は小説風にシビアな現実を描く。最後は「七草雑炊」と題する七篇だが、雑炊どころかいずれも豪勢な文章がならんでいて、すっかり満腹して読み終わるという趣向だ。
半分位は別の本で読んだことがあるが、百閒自身の考えた順番で出されると、細心の配慮がわかって、味わいが一層深い。百閒先生はもてなしの達人である。
『百鬼園随筆』が好評だったせいか、早くも翌年まとめられた第二随筆集である。近什前篇、近什後篇として近作を巻頭と巻末におさめ、中間は若書きで、雑誌の入選作もならんでいる。かなり急いで本にしたらしい。
近作は例によって人を食った筆致で、もちろんおもしろいのだが、若書きの方は純朴な好文章だが、どうも百閒らしくない。百閒にも、青春時代があったのだなぁと発見した気分である。
座談会の速記から百閒の発言だけを抜きだし、手を加えた本である。テーマごとにならべかえた語録形式ではなく、座談会を要約した風で、会話の流れの見当がつく。ずいぶん安易な作り方だ。
偏屈オヤジの小言集という印象で、百閒のいやな面が出ている。
阿房列車ものの第一作「特別阿房列車」は昔、読んで、おもしろかったのだが、旅には興味がないので、まとめて読む機会をもたなかった。今回、通して読んで、しまったと思った。おもしろいのである。こんなおもしろい本を読んでいなかったのかと、あわてた。
『第一阿房列車』の旅がおこなわれたのは、昭和25年から27年にかけてで、最初の方では外食券がないと駅弁すら買えなかったが、だんだん物資が出まわるようになったらしく、最後の奥羽本線では贅沢をいうようになっている。
時代色も興味深いが、旅の相棒になったヒマラヤ山系こと平山三郎氏のキャラクターがいい。百閒先生とのコンビは、ドン・キホーテとサンチョ・パンザに匹敵するかもしれない。
もっとも、ここに描かれる平山山系像は、百閒先生の潤筆によるものらしく、現実の平山氏(中公文庫版の解説を書いている)は、国鉄の社内誌の有能な編集長だったそうである。
昭和28年の旅である。雪国を体験したくて、新潟、横手を旅し、山陽本線に特急が走りだしたとて、博田に行き、九州のローカル線を走る。阿房列車の旅は「小説新潮」に掲載され、本にもなって有名になっており、行く先々で新聞記者の取材に悩まされている。
陸軍教官時代、予算が余ったのか、どこでも好きなところに出張させるといわれて京都を望んだところ、行先が仙台になってしまった。百閒先生のことであるから、仙台に行く途中に京都に立ち寄ろうと考えをめぐらした。常磐線で平に出て、本州を横切って新潟に向かい、北陸を通って京都に寄り、そこから仙台に立ったという。阿房列車の萌芽は先生若年のみぎりよりあったのである。
外人のうるさいのに辟易する場面が出てくるが、「紅毛人が南蛮鴃舌を弄する」とあきれる一方、知らない国に連れてこられて可哀想だと同情してもいる。連れてこられてということは、アメリカの軍人だろうか。いや、百閒ワールドに遊ぶには、「紅毛人」は「紅毛人」と受けとった方がよい。
最後の阿房列車だが、二番目の「房総鼻眼鏡」は最初の「特別阿房列車」に匹敵する名編である。千葉を拠点に北房総と南房総をぐるっと漫遊する。その順路が鼻眼鏡に似ているというわけだ。今ではこのあたりは通勤圏だが、百閒先生は東京生活は長くても、千葉には縁がなかったそうで、旅情の深い名紀行に仕上がっている。
ところが、その後がいけない。次の四国阿房列車では風邪で高熱に苦しみ、紀行の体をなさない。つづく山陰行ではヒマラヤ山系氏の体調が悪い。すぐに回復するものの、今度は百閒先生のご機嫌がよろしくない。どうも五年つづいた連載で、先生、飽きてきたようである。
しかし、最後の大分、延岡、宮崎、鹿児島、八代と九州を一周する不知火行では、阿房列車は調子を取りもどす。八代ではお気に入りの松浜軒に泊まるが、干上がっていた池は、希代の雨男、ヒマラヤ山系氏の通力で、たちまちあふれるほどの豪雨。百閒先生はご機嫌で帰路につく。
百閒は法政大学騒動で教職を離れたが、その前後の事情を、教授宅に書生ではいった学生の視点から小説に仕組んだものである。大学から追いだされることになる百閒を思わせるドイツ語主任教授も登場し、駄洒落やスカトロジーを夫人の前で披露して顰蹙を買っている。
学生の間に不穏な空気が出てきたり、怪しげな卒業生が暗躍したりするが、ぶつんと終わってしまう。連載していた時事新報が廃刊に追いこまれたからだが、百閒の方にも書きつづけるつもりがなかったらしい。連載打ち切りにいたった言い訳と、「登場人物のその後」という申し訳程度の後日譚がついている。
私怨をはらそうという底意があるのか、すかっとしないうえに、終わり方が終わり方なので、よけい読後感がよろしくない。連載時の木版の挿画が全点はいっているのは、古拙な味わいでよい。
藤原博文氏のホームページ、「藤原博文の館」は 1995年8月に公開をはじめたが、年内には三千万ヒット(正面玄関のアクセス数で約二百万)を達成する勢いだという。本書は一千万ヒット記念に企画された本だが、出版がもたついているうちに、一千五百万ヒット記念になったということである。
藤原館を発見したのは、「文字コード問題」特設ページのリンク集を準備していた 96年8月のことだった。十万字検索「漢楽街」をサーチエンジンで見つけて、リンクしていたのだが、そのうち、JavaとUnicodeについて調べていたところ、cgiでなんのコードかわからなくなるという危険性を指摘したページがひっかかった。これがおもしろくて、階層を上にたどったところ、「漢楽街」のオーナーとわかったしだいである。
本書は自分のホームページの紹介という体裁をとっているが、実は高邁なインターネット論である。高邁な議論についてこれない読者のことも考えて、ギャグでくるんだインターネットの基礎知識も盛りこんである。アクセスログの解析から、WWW読者の生態を推定している部分は、WWW開設者としては特に参考になる。
この本は本屋に行っても、多分、手に入らないと思う(秋葉原の書泉でもなかった)。どうやって読んだかというと、最近、全文が著者のホームページで公開されたので、それを読んだのである。
表題は『お役所の掟』を意識したもので、暴露本的な体裁をとっているが、中味は『藤原博文の館』同様、高邁なコンピュータ論である。
本書を読んでつくづく思ったのだが、日本のコンピュータ業界はソ連そっくりである。左翼関係者はダンマリを決めこんでいるが、森本忠夫の『ソ連経済730日の幻想』などを読むと、あの国の破綻の真の原因はマルクスの労働価値説にあったことがわかる。
資本主義国では、商品の価値は市場で決まる。どんなに多くの労力がかかろうと、出来が悪ければ買いたたかれ、ゴミなら誰も買わない。ところが、社会主義国では、商品の価値は投下された労働時間で決まった。どんなに出来が悪くても、労働時間ががかかっていさえすれば、かかった労働時間で評価された。かくて重厚長大なゴミの山が、あの広い国を埋めつくし、ついに経済が破綻をむかえた。
本書によると、日本のソフト業界は、ソ連の重工業と同じことをやっているらしい。ソフトを評価する立場の人間がコンピュータのことがまるでわかっていないので、労働時間とか、勤務態度といった筋違いの尺度でしか評価できないのである。これでは市場は機能のしようがない。
今、インドやタイやシンガポールのソフト産業はどんどん伸びている。21世紀には南アジアがシリコンバレーに匹敵するコンピュータの中心地になるという見方もある。
阿辻氏には『図説 漢字の歴史』という主著がある。この本の一部分に新しい材料を足して、一般向けの本を何冊も出していて、本書もその例にもれないけれども、主著を越える内容もふくんでいる。もし、『図説 漢字の歴史』以外にもう一冊、阿辻氏の著作から読むべき本を選べといわれたら、迷わず本書をあげたい。
最初の章の「漢字の字形」では、意符(木偏や火偏、草冠のような意味を示す部品)と、音符(「仇」の「九」のように音を示す部品)という従来のカテゴリーにくわえて、部品相互の位置関係の重要性を説く。
「育」の上は「子」を上下逆転させた意符で、産れてくる嬰児をあらわす。下は肉月だが、甲骨文では「女」だった。「育」とは出産を生々しくかたどった文字なのである。一方、同じ「女」と「子」の組みあわせでも、横に並べた「好」は、女が我が子を可愛がる愛着をあらわしている。
「即」と「既」が器に盛りつけた御馳走の前で、人が今にも食べようとしているか、食べ終わって顔を背けているかが原義だという説も紹介されている。
「漢字教育と字書」は古代人がどんな風に漢字を習ったか主題にし、「漢字文化圏の歴史」は朝貢体制と漢字文化圏の成立を掘りさげている。
どれもどこかで読んだ話なのだが、本書は阿辻氏の著書にしてはかなり理屈っぽく、理屈っぽい部分で内容が深まっている。
第二次大戦で最大の激戦地となったレイテ島には、8万の日本人将兵が投入され、97%が戦病死した。本書は三巻、1400頁を費やしたレイテ戦の記録である。第一巻は米軍上陸からリモン峠の前哨戦まで、第二巻はリモン峠の死闘と無益な脊梁山脈越え攻撃、そして物資集積地に上陸されて崩壊する戦線、第三巻は敗走を描く。エピローグでルソン島の戦いと戦後のフィリピン情勢にふれる。
日米の公刊戦史が基本資料だが、戦史には不可抗力的な事実誤認だけでなく、故意の誇張と自己正当化がつきものだそうで、戦後に作られた正確な地図をもとに、双方の記述をつきあわせて事実を推定していく推理小説的興味もある。
本書を読んでいる間に、「シン・レッド・ライン」を見た。この映画はレイテ戦の二年前のガダルカナル戦の一齣を描くが、トーチカを破られたとたん、日本兵がみじめに逃げだすあたりは不自然にしても、陣地構造など、こうなっていたのかと納得できた部分もある。雨期でなかった点を除くと、背丈よりも高くコゴン草の茂る草原も日本軍、米軍の装備、戦法もレイテ戦とほぼ同じだったろう。映画で描かれたのは一つの高地をめぐる攻防戦だが、リモン峠ではこうした戦いが各所でおこなわれていたのだ。
レイテ戦は緒戦の段階で、戦艦大和を押したてた栗田艦隊がレイテ湾突入直前で引きかえしたことでも有名だが、その直前、最初の特攻がおこなわれている。後半では陸上で凄惨な戦闘が続けられる一方、海上では輸送船団が次々と沈められ、わずかに特攻機が戦果をあげていた。レイテ戦の時点では、特攻も有効性があったようである。
戦記としてすぐれているのはもちろん、読み物としての迫力も第一級である。国民文学として読みつがれるべき本である。
大岡はフィリピンのミンドロ島でマラリアに倒れているところを米軍に捕獲され、捕虜病院をへて、レイテ島の収容所に送られるが、本書は米軍上陸から日本送還までの体験を書いたノンフィクションである。大岡の最初の本だが、日本作家にありがちな私小説仕立てにしないで、体験記として書いた点、大岡の面目躍如たるものがある。
草原に潜伏中、大岡は米兵を撃てたのに撃たなかった。大岡はスタンダール流の筆致で撃たなかった自分の心理を分析する。この部分が本書の白眉ということになっているが、昔、読んだ時はわざとらしく感じ、退屈な捕虜生活がはじまったところで放りだしてしまったのだ。
なぜ撃たなかったかの部分は今回もわざとらしく感じたが、捕虜生活の部分はおもしろく読んだ。スタンダール流の心理分析の本領が発揮されているのは、捕虜のプロフィールを描いた部分だと思うが、もう一つ、『レイテ戦記』を読んだことが大きい。
タクロバン、パロ、十字架山等々の収容所近辺の地名が出てくるが、いずれもレイテ戦の激戦地で、つい数ヶ月前、何千という日本人将兵の血を吸った場所だ。ちょっとジャングルにはいれば、日本の敗兵がまだ飢えてさまよっていたのである。一方、捕虜たちは戦場の跡にニッパハウスを建て、米軍支給の軍服でおしゃれをし、残飯が出るほどの食料をあてがわれ、毎日、退屈をもてあましているのである。
出版時には、このひりひりするアイロニーは自明のことだったろうが、今となっては『レイテ戦記』を借景にしなくては、わかりにくくなっている。
これから本書を読む人は、まず『レイテ戦記』を読んでおくことを勧める。