内田魯庵うちだろあん

加藤弘一

生涯

 随筆家、批評家、小説家。1868年4月5日、江戸下谷車坂六軒町に、幕府御家人で上野東照宮警護役の鉦太郎の長男として生まれる。貢太郎と名づけられるが、生後一ヶ月で上野戦争が起こる。父は彰義隊にくわわらず、「二股武士」となじられたが、官軍総攻撃がはじまると、東照宮御神体を安全な場所に運ぶために病身をおして飛びだし、一月余帰らなかったという。

 1872年、戸籍法施行にともない、貢太郎を貢と改名(父は正に)。父は東京府に出仕していたが、相場で儲け、同年、下谷埋堀の旧松前藩下屋敷を買いとって移るが、母親が急逝。父は六年間で六人の後妻をむかえるなど、女出入りが激しくなり、魯庵の反面教師となる。

 1878年、父は相場に失敗し、埋堀の邸を手放す。最後の後妻を家にいれ、魯庵の養育をまかせ、自分は内務省官吏として地方回りの生活にはいる。魯庵は義母と折り合いが悪く、母の実家に世話になったり、下宿したりしている。立教学校(現在の立教大学)、大学予備門(現在の東京大学教養学部)、東京専門学校(現在の早稲田大学)で学ぶが、どこも卒業していない。この間、叔父の文部省編輯局翻訳係井上勤のもとで下訳をしたり、井上主宰の翻訳雑誌の編集に従事したりしている。

 20歳の時、山田美妙の『夏木立』が出た。魯庵は長文の批評を書き、美妙に送ったところ、巌本善治の「女学雑誌」に「山田美妙大人の小説」として掲載された。これを機に文芸批評を発表しはじめる。

 1889年、処女小説「藤の一本」を「都の花」に連載。この年、『罪と罰』を英訳で読み、衝撃を受ける。二葉亭四迷、坪内逍遥の知遇をえて、近代小説をいち早く理解し、明治・大正期の代表的批評家と目される。

 1892年、『罪と罰』の前半部分を英訳から重訳して刊行。以後、トルストイ、 ヴォルテール、デュマ・フィス、ゾラ、モーパッサン、シェーンキェヴィッ チ、ワイルドを翻訳。

 1901年、小説「破垣」がモデル問題から発禁とされる。同年、丸善に書籍部顧問としてむかえられ、「學の燈」(後に「學燈」「學鐙」)の編集をまかされる。

 1908年、「図書館雑誌」の編集委員となる。ペテルブルクにおもむく二葉亭四迷の送別会では発起人代表として送辞を述べた。翌年、二葉亭が客死するが、この年の12月、丸善が全焼し、改訳中の『罪と罰』の原稿を失う。前半の改訳は7年後に刊行するが、全訳はならなかった。

 1910年、坪内逍遥、池辺三山とともに『二葉亭四迷全集』を編纂。二葉亭追悼会を開く。1916年、随筆集『きのふけふ』を刊行(後に増補して『思ひ出す人々』)。1918年からは『トルストイ全集』を共同監修する。

 1929年、「銀座繁盛記」を発表。2月、生家の近くに建った松坂屋のために「下谷広小路」の執筆中、脳溢血で倒れ、失語症となる。6月29日、死去。62歳だった。

 魯庵の死の二ヶ月後、小林秀雄が「様々なる意匠」で文壇に登場。魯庵の名前は急速に忘れられることになる。

作品

参考文献

Copyright 2001 Kato Koiti
This page was created on Aug31 2001.
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