圓地文子えんちふみこ

加藤弘一

生涯

 小説家、劇作家。1905年10月2日、国語学者、上田萬年の末子として浅草に生まれる。両親に連れられて、幼時から歌舞伎に親しみ、祖母からは江戸稗史小説の薫陶を受ける。父の萬年は留学先のドイツで接した青年文法学派を範に国語学を確立し、国家主義的国語政策と漢字廃止論の理論的基盤を築いた人物(漢字廃止が民主的という「常識」は錯覚で、実際はアジア侵略の尖兵の役割を果たした)。学者としては狷介な人物だったが、娘に対してはいたって甘かった。日本女子大附属高等女学校に入学するも、田舎出の級友になじめず、退学したいと言いだすと、萬年はさっさと学校をやめさせ、大和資雄など、有望な少壮学者を招いて、文子に個人教授をさせた。

 1924年、築地小劇場を旗揚げした小山内薫にあこがれ、戯曲を書きはじめる。1926年、「歌舞伎」の懸賞戯曲に「ふるさと」を応募、入選を契機に、劇檀で活躍。生涯の友となる平林たい子と知りあう。この時期、比較的多作であり、左翼運動に興味をもつが、戦前・船中を通じて、お嬢様芸の域を出ない。

 1930年、東京日日新聞記者、圓地与四松と結婚するが、劇作をつづける。1938年、結核性乳腺炎で半年間、入院。1945年、空襲のために家と家財を失う。翌年、子宮癌で子宮を摘出。肺炎を併発し、五ヶ月間入院。

 1949年、『女坂』の第一章となる「紫陽花」を発表。1953年、「ひもじい月日」が正宗白鳥らから激賞される。1956年、『朱を奪うもの』、「妖」と傑作をたてつづけに発表。翌年には『女坂』を上梓し、野間文芸賞を受ける。志賀直哉や舟橋聖一の作品の脚色も手がける。1958年、女流文学者会会長に推輓される。

 1967年から『源氏物語』現代語訳にとりかかる(刊行は1972年)。1969年、『朱を奪うもの』、『傷ある翼』『虹と修羅』の自伝的長編三部作で谷崎賞を受賞。

 圓地は『朱を奪うもの』で、乳房と子宮と歯を喪った自己を、宮刑を受けた司馬遷になぞらえたが、彼女の真の才能が発揮されたのは、女でなくなってからだった。

 戦後、父、萬年の弟子たちによって、国立国語研究所が設立されると、同研究所の評議員に推輓された。国語審議会の委員もつとめ、国語改悪を黙認した。

 1986年11月14日、死去。

作品

Copyright 1999 Kato Koiti
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