岡本かの子おかものとかのこ

加藤弘一

生涯

 小説家。1889年3月1日、青山に大貫寅吉の長女として生まれる。本名、カノ。生家は大和屋の屋号をもつ幕府御用の大商人で、二子多摩川に広大な本邸があり、病弱な彼女は本邸で育てられた。1902年、跡見女学校に入学。晶川と号していた一歳上の兄の手引きで新詩社にはいり、與謝野鐡幹・晶子に師事する。女学校卒業後、馬場孤蝶門下となり、平塚らいてう、山川菊栄と知りあう。20歳で同門の青年と駆け落ちするが、連れもどされる。

 次兄の下宿で知りあった上野美術学校の学生、岡本一平に熱烈に求婚され、21歳で結婚。翌年、太郎が誕生。平塚らいてうの誘いで青鞜に参加する。実家が傾いたために経済的に窮迫するが、一平が朝日新聞に漫画記者として入社したために、生活が安定する。1912年に次兄の夭折にあうが、第一歌集「かろきねたみ」を刊行。この頃から一平の浮気と彼女の恋愛がはじまり、家に恋人の青年を下宿させて家事をさせるなど、生活は混乱をきわめる。一平は参禅体験で改心を体験し、妻の乱行を許して、献身的につくすようになる。その影響で、彼女も仏教研究をはじめる。

 1919年、小説第一作「かやの生立」を発表。翌年、川端康成、今東光らとともに第6次「新思潮」を旗揚げ。1929年、一平がロンドン特派員として派遣されたのを期に、上野美術学校に入学したばかりの太郎と、二人の崇拝者を連れて渡欧。帰国後、仏教の啓蒙活動に邁進し、1933年、川端らが創刊した「文學界」を金銭面で援助する一方、島崎藤村を助けて日本ペンクラブ創立に参加。父の死にあい、脳充血で倒れるが、「鯉魚」など傑作短編を次々と書く。1936年、第一短編集『鶴は病みき』、翌年、第二短編集『真夏の夜の夢』を刊行するが、1939年2月17日、脳充血で死去。

 没後、一平によって『生々流転』、『女体開顕』という近代文学史上有数の傑作長編が発表される。一平の手がはいっているのは確かといわれるが、作品の価値にゆるぎはない。

評伝劇

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