尾崎紅葉おざきこうよう

加藤弘一

生涯

 小説家。1868年1月16日(慶応3年12月16日)、芝中門前町に、伊勢屋惣蔵の長男として生まれる。惣蔵は谷斎と号した牙彫の職人で、谷斎彫の根付は名高かったが、名人気質のために生活は苦しく、素人幇間芸で生計をたてた。赤い羽織で相撲場などで奇行をくりひろげ、本業より有名になったが、紅葉は父を恥じて、関係を隠した。

 四歳の時、母、庸が病死したため、母の実家に引きとられ、芝神明町で育つ。祖父の荒木舜庵は漢方医。紅葉の号は芝紅葉山にちなむ。

 府立二中(現在の日比谷高校)、岡鹿門塾、三田英語学校を経て、大学予備門に入学。予備門在学中の1885年、学友の山田美妙、石橋思案らと硯友社を起こし、手書き回覧雑誌「我楽多文庫」を創刊する。「我楽多文庫」は評判になり、翌年、活版化され、1888年5月からはは市販されて、1889年10月まで通巻43号が出た。24号、26号には淡島寒月に教えられた西鶴の「好色一代女」、「好色五人女」を掲載し、西鶴再評価に道を開いた。

 1888年、東大法科に進むが、翌年、和文科に転科。同年12月、幸田露伴、坪内逍遥とともに読売新聞社にむかえられ、小説記者として活躍をはじめ、「読売の紅葉か、紅葉の読売か」といわれるほどになる。東大は退学し、英米のロマンス小説を種本に、流麗な文体で小説を多作する。

 初期の『江嶋土産滑稽貝屏風』には式亭三馬の影響が顕著だが、鹿鳴館全盛の1889年に書かれた『二人比丘尼色懺悔』は世相をとりいれた風俗小説である。1893年の『心の闇』では口語の口調にしばられていた言文一致体に「である」調を導入し、客観描写に耐える文章語として確立した。

 1897年から『金色夜叉』を読売新聞に断続的に連載。高利貸しを主人公に、西鶴ばりのリアリズム小説を目指した。リアリズムになっているかどうかはともかく、作品としては成功した。

 1903年10月30日、胃癌が悪化して死去。35歳だった。『金色夜叉』は未完で終わった。

作品

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