北原白秋きたはらはくしゅう

加藤弘一

生涯

 詩人。1885年1月25日、柳川で代々海産物問屋と酒造業を営む長太郎の長男として生まれる。本名は隆吉。早くから詩歌に親しみ、伝習館中学時代からさかんに投稿する。16歳の時、柳川沖ノ端の大火で、酒蔵をふくめて生家がすべて焼亡し、家運が傾く。

 1904年、早大文学部英文科に入学。同級に若山牧水、土岐善麿がいた。與謝野鐡幹に師事し、新詩社に参加。「明星」の常連となるが、木下杢太郎、吉井勇らと脱退。1908年、象徴主義と耽美主義を標榜する「パンの会」を結成。翌年、鷗外を中心とする「スバル」創刊に参加。前後して刊行した『邪宗門』の官能的できらびやかな作品で注目され、つづく『思ひ出』、歌集の『桐の花』、『雲母集』で詩壇、歌壇の寵児となるが、1911年、生家がついに破産し、両親、弟妹が白秋を頼ってあいついで上京してくる。

 1915年、阿蘭陀書房を創立し、「ARS」を創刊。鷗外、上田敏に寄稿をあおぐ豪華な雑誌だったが、七号で終わる。後に出版社アルスを設立し、弟の鉄雄に経営をまかせる。

 1918年、鈴木三重吉の創刊した童話雑誌「赤い鳥」に参加し、童謡を担当。わらべ唄の採取や「まざー・ぐーす」の翻訳もおこなう。第一童謡集『トンボの眼玉』をかわきりに、千篇近い童謡を作詞する。「待ちぼうけ」、「この道」、「ペチカ」、「揺籃のうた」などは今でも親しまれている。

 1924年、大正歌壇に君臨していた「アララギ」に対抗し、さまざまな結社の若手を糾合して「日光」を創刊。口語歌の運動を応援し、自由律への道を用意した。1933年の『白南風』では青年時代とはうってかわった枯淡の境地を歌う。1937年、眼底出血で視力をほとんど失う。1943年の『渓流唱』では社会派的な視点が見られる。

 1942年11月、喘息で死去。57歳だった。

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