森鷗外もりおうがい

加藤弘一

生涯

 小説家、翻訳家、随筆家。1862年、石見国津和野に森静泰(後に静雄)の長男として生まれる。本名林太郎。森家は代々津和野藩主亀井家の典医。父静泰は富農の生まれだったが、医学修行に津和野に来て森家に婿養子にはいり、蘭学を兼修した。弟に篤次郎(三木竹二)、潤三郎、妹に喜美子(星新一の祖母)、息子に於菟おとう不律ふりつ(夭逝)、るい、娘に茉莉まり杏奴あんぬがおり、いずれも文筆で名をなしている。

 藩校養老館で漢学に励むかたわら、父についてオランダ文典を学んだ。廃藩置県後、父とともに上京、一家を呼び寄せる。森家は向島に橘井堂医院を開き、後に千住に移る。

 鷗外は本郷の進文学舎に通うために、遠縁で陸軍大丞・宮内省侍読だった西周邸に寄寓。1874年、東京医学校予科に入学するが、年齢が足りなかったために、1860年生まれとする(公的にはこの生年を使う)。1877年、本科に進むが、この年、東京医学校は開成学校と合併して、東京大学医学部となる。同級に生涯の友となる賀古鶴所がいた。1881年、卒業とともに、周囲の勧めにより、陸軍軍医となる。

 1884年、衛生制度調査と軍陣衛生学研究のために、陸軍省からドイツ留学を命ぜられる。ライプチヒ、ドレスデン、ミュンヘンを経て、1887年4月からベルリンに滞在。コッホ衛生学研究所に通うかたわら、ベック宅でフランス語を習うが、ここで『舞姫』のモデルとなる15歳のアンナ・ベルタ・ルイーゼ・ヴィーゲルトと知りあったらしい(植木哲による)。1888年、石黒軍医監に従って帰国の途につく。足かけ五年の留学中の日記は『航西日記』、『独逸日記』、『還東日乗』として残っている。

 9月8日、帰朝するが、同月12日、ヴィーゲルト嬢が鷗外を追って来日。あわてた森家は弟の篤次郎、妹婿の小金井良精に説得にあたらせ、ヴィーゲルト嬢は滞日わずか一ヶ月で帰国する。

 1889年3月、西周の媒酌で海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚。赤松則良は幕臣だったが、オランダに留学して軍艦建造技術を学んだ後、新政府に出仕、男爵となる。鷗外は赤松家を通じて、松本良順(初代陸軍軍医総監)、榎本武揚らの形成する旧幕臣テクノクラートに連なったことになる。

 落合直文、妹の喜美子らを率いて、新聲社を結成、同人とともに訳詩集『於母影』を発表する。『新體詩抄』が実験にとどまったのに対し、『於母影』は格調高い雅文体で新しい詩境を歌い、衝撃をあたえた。この原稿料をもとに評論誌「しがらみ草紙」を創刊。1894年までに59号を数えるが、西欧文学を紹介する評論「埋れ木」、『即興詩人』などの翻訳、『観潮楼偶記』にまとめられるエッセイの発表の舞台となり、明治文壇を主導した。

 1890年、処女作「舞姫」を「國民の友」に発表。石橋忍月と論争になる。9月、長男於菟が誕生するが、その直後、鷗外は家を出て千駄木の貸家(後に漱石も住む)に移り、なし崩し的に離婚。媒酌をした西周と気まずくなり、遠ざかった。

 1892年、団子坂上の家に移り、二階に増築した書斎を観潮楼と名づける。最初の単行本『美奈和集』を刊行。

 1894年、日清戦争が勃発、第二軍兵站医学部長として出征するが、脚気で三千人近い病死者を出す。脚気に麦食が有効なことは経験的に知られていたが、東大は病原菌説に固執し、栄養説を迷信として排撃した。鷗外は東大派の急先鋒として論陣を張り、麦を前線に送らなかったために、被害が拡大した。東大派は誤りを認めなかったために、日露戦争でも悲劇を繰りかえすことになる。啓蒙主義者鷗外の限界である。

 「しがらみ草紙」は廃刊するが、戦後の1896年、「めさまし草」を創刊。幸田露絆、斎藤緑雨とともに「三人冗語」を連載。樋口一葉を絶賛したのもこ の合評においてである。同年、父静雄死去。

 1899年、小倉の第12師団医学部長に任命される。緊迫するロシア情勢を控えて、小倉は最重要の戦略拠点と目されており、決して左遷ではなかったが、鷗外自身は左遷と受けとり、一時は職を去ろうとまで考える。三年におよぶ小倉時代は文筆もふるわず、「鷗外漁史とは誰ぞ」と『即興詩人』の翻訳を完成させたぐらいしか見るべきものがない。

 1902年、23歳の荒木茂子と再婚。賀古鶴所に「好イ年ヲシテ少々美術品ラシキ妻ヲ相迎ヘ」たと書き送る。第1師団軍医部長に補されて帰京。翌年、長女茉莉が生まれる。1904年、日露戦争勃発。第2軍軍医部長として出征。

 1906年、山県有朋を発起人とする歌会常盤会が発足すると、賀古鶴所の引きで幹事となる。離婚で旧幕臣テクノクラートの人脈を失っていた鷗外は、陸軍の大御所、山県の庇護を受けることになる。

 その一方、與謝野晶子、伊藤左千夫、佐佐木信綱らに呼びかけて、観潮楼歌会をはじめ、歌壇の革新に一石を投ずる。1907年、軍医として最高位の陸軍軍医総監に就任。1908年、臨時仮名遣調査委員会の委員となり、新仮名遣いの無謀を説き、『假名遣に關する意見』を発表する。

 1909年、自然主義流行に対抗して、「スバル」が創刊される。「スバル」は鷗外の命名で、1913年の廃刊まで、毎月寄稿した。私小説を意識した「半日」、漱石の『三四郎』の向こうを張った『青年』、『雁』はすべて同誌のために書いたものだし、『百物語』におさめられた翻訳の多くもここに掲載された。海外文学の動向を紹介する「椋鳥通信」もある。「ヰタ・セクスアリス」にいたっては発禁処分を受ける。

 1910年、慶應大学文学部刷新の相談を受け、顧問に就任。永井荷風を推薦する。

 1912年、明治天皇崩御。乃木希典が殉死し、死体検分に立ちあう。この時の衝撃から最初の歴史小説「興津弥五右衛門の遺書」が生まれ、「阿部一族」、「大塩平八郎」、「堺事件」とつづく。

 1916年1月、最大の部数を誇った東京日日新聞(大阪毎日新聞)に史傳『澁江抽齋』の連載をはじめる。現在は鷗外の最高傑作として評価が定まっているが、当時は不評だった。6月からは『伊澤蘭軒』を連載するが、こちらはさらに悪評だった。同年、陸軍を退き、予備役に編入。

 史傳は「都甲太兵衛」、「細木香以」、「小島宝素」とつづき、最後の『北條霞亭』にいたるが、宮内省に出仕したために新聞連載を中止。続篇を「帝国文学」、「アララギ」に書きつぎ、1920年に完結。

 1919年、帝国美術院が設置されると、初代院長に就任。正倉院の曝涼のために、毎年、奈良に出張する。1921年、『帝諡考』を発表、『元号考』に着手する。

 1922年、委縮腎が悪化。7月6日、賀古鶴所に遺書を口述。9日、死去。60歳だった。

参考文献

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