徳冨蘆花とくとみろか

加藤弘一

生涯

 小説家、随筆家。1868年10月25日、水俣の郷士、徳富一若の次男として生まれる。本名健次郎。母久子の妹は横井小楠の後妻。兄猪一郎は蘇峰と号し、民友社をおこして、明治言論界に重きをなした。徳富家は島原の乱の功績で細川家から領地をあたえられた家で、代々惣庄屋兼代官をつとめるが、父が明治新政府に出仕することになり、熊本に移る。

 熊本洋学校に学んだ後、10歳で兄とともに京都の同志社に入学。2年後、兄がキリスト教から離れ、同志社を中退したために、郷里に帰る。17歳の時、父と兄への反発から熊本メソジスト教会で受洗。今治で伝道した後、同志社に再入学するも、新島襄の姪と恋愛事件を起して退学。

 20歳で上京、兄蘇峰の民友社の記者となる。以後、10年間、民友社系の雑誌に多くの雑文や翻訳を寄稿する。1894年、原田藍と結婚。藍は東京高等師範を卒業した才女で、徳富愛子という筆名で活躍することになる。蘆花は秀才の兄に劣等感を感じつづけてきたが、妻にも引け目をおぼえ、神経症に苦しむ。蘆花という号は「『蘆の花は見所とてもなく』と清少納言は書きぬ。然もその見所なきを余は却って愛するなり」(『自然と人生』)にあるように、阿蘇山にちなむ兄蘇峰の号と対照的である。

 30歳の時、転機が訪れる。転地で逗子に滞在中、大山元帥の娘、信子の境涯を聞き、一気に『不如帰』を書きあげる。『不如帰』はベストセラーになり、つづく随筆集『自然と人生』で文名をあげる。

 民友社を退職後、兄との不和が表面化して話題となる。「徳」と表記したのは、兄の「徳」に対抗するためだったという説がある。1903年、黒潮社をおこし、「黒潮」を出版する。自由民権派から政府よりに転向した兄に対抗して、社会主義に接近し、トルストイ崇拝を強める。1906年、エルサレムに巡礼した後、ヤースナヤ・ポリャーナにトルストイを訪ねる。翌年、トルストイ主義を実践するために、千歳村粕谷(世田谷区粕谷)に移り、「美的百姓」となる。田園生活の種々相は1913年刊行の『みみずのたはこと』で語るが、蘆花は終生この地に住みつづけ、没後は愛子夫人が東京都に家屋敷を寄付し、現在、蘆花恒春園として公開されている。

 1900年、幸徳秋水事件が起こると助命に奔走し、「天皇陛下に願ひ奉る」、「無叛論」を書く。

 1919年、自分は第二のアダム(日子)、妻は第二のイブ(日女)だという妄想に近い確信をいだくようになり、世界一周旅行後、「日本から日本へ」を刊行し、日本主義を提唱するようになる。

 1924年、自伝大作『富士』にとりかかり、第三巻まで出した1927年9月18日、伊香保千明仁泉亭で没する。臨終の直前、兄蘇峰と15年ぶりに対面し、和解する。59歳だった。

 『富士』の最終巻は妻愛子が遺稿をまとめて出版した。

作品

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