「新しい歴史教科書をつくる会」の代表者が書いた歴史論集である。南堂久史氏から日本語の成立の章などがおもしろいとメールをいただき、半信半疑で読んだところ、本当におもしろくて一気に読んだ。
評判と一番違ったのは最新の歴史研究の成果を貪欲にとりこんだ本だったことだ。左翼文化人は細部をあげつらって、遅れた偏向した本だと印象づけようと必死だが、遅れているのは彼らの方だ。
わたしが大学にはいったのはいわゆる唯物史観が権威を失墜した時期にあたっていた。ベルリンの壁の崩れおちる10年以上前から、学問の世界では左翼的歴史観の軛がはずれ、網野史観をはじめとして新しい歴史の見方が紹介されはじめていた。混沌としておもしろかったけれども、歴史を専門に勉強しているわけではないので、あちこちつまみ食いするだけでは全体像がわからなかった。
本書は右翼とか左翼という政治的色分け以前に、近年の歴史学の知見を一つの視点からまとめた点に意義がある。三内丸山遺跡など遺構と遺物のあいつぐ発見で縄文時代の日本が独自の高度な文化を発達させていたことは新たな常識となりつつあるが、著者はこうした事実を踏まえながら、日本は中国との接触後も独自の文明を保ちつづけたとする。日本文化が中国文化の亞流ではなく、主体性を保ちつづけたという論旨は説得力がある。
江戸時代と明治維新の再評価も鮮かである。唯物史観崩壊後も、江戸時代を停滞した暗黒の時代とする貧農史観や、明治維新を西洋の絶対王政になぞらえる発展段階説が幅をきかせていたが、もはやそんなお伽話は通用しない。
本書の出現で、左翼の歴史学者は唯物史観に代わる新たな歴史像を早急に作りださなければならなくなったはずだ。教科書問題の関連で話題になることが多い本だが、長い目で見れば、本書は教科書問題をこえた影響力をもつことになるだろう。
百年前のベストセラーである。十年で百版を越えたとあるから、一過性のブームではなく古典といっていいのだろうが、期待はずれだった。
要するに結核小説で、メロドラマの域を出ない。クライマックスに執筆の前々年の黄海海戦を盛りこむという趣向には鼻白んだ。結核をエイズ、日清戦争を阪神神戸大地震に置きかえたとしても、現代ではこういう薄っぺらな小説は通用しないだろう。
善玉・悪玉がはっきりしていて、善玉は高潔で美しいのに対し、悪玉は卑劣で容貌醜く因果応報の罰を受ける。他愛のない心理分析も子供だましだ。当時の読者はこんなもので納得したのだろうか。
秋聲は蘆花と同年生まれだが、この作品を読んだ限りでは一世代か二世代新しいような印象を受けた。いや、現代の作品といってもおかしくはない。まったく古びていない。新鮮ですらある。
ヒロインのお島は母親にうとまれ、里子に出されるが、養父の甥と無理矢理結婚させられて養家を出てしまう。一旦は食料品を商う男に嫁すが、夫の浮気で実家にもどり、兄に連れられて足尾銅山近くの温泉町で働いた後、東京にもどり、洋裁職人と所帯をもって店を出す。お島は営業に走りまわるが、店をたたんだり、また出したり、なんともあわただしい。ラストでようやく落ちつきかけるが、落ちついたら落ちついたでお島の虫が動きだし、小説の終わりでは波乱が暗示されている。
お島はエネルギーの固まりのような女で、わざわざ苦労をまねきよせている風だが、短文を連ねたリズミカルな文章で語られる彼女の半生は蜜蜂の巣箱のようにブンブンうなっていて、体の奥底からこみあげてくる疼きをよく伝えている。
お島は女として不完全だと暗示されているが、このあたりちょっとひっかかる。他の作品のヒロインと比較したらおもしろいかもしれない。
写真つき文集『モンゴロイドの大いなる旅』の文章版である。前著では食い足りない思いをしたが、こちらは内容豊富だ。
第一章ではベーリング地峡をわたって、ロッキー山脈を南下し、コロラド高原に出たインディアンの旅を追い、第二章ではニューイングランドから五大湖にかけて勢力をはっていたインディアンの六部族連合(イロコイ連邦)とアメリカ建国の裏面史を描く。第三章ではオーストラリアに飛んで、アボリジニのアイデンティティ回復運動を瞥見し、第四章ではバンクーバーからハワイ、ミクロネシアにいたるカヌー文化圏ではじまっている遠洋航海術復活の試みを紹介する。最後の章では一年間の取材旅行を終えて、生活のホームベースである屋久島にもどった著者は日本社会で兆しはじめた環境意識の覚醒と、それでもなお進行しつつある自然破壊を指摘している。
どの章も読みごたえがあるが、アメリカ建国理念にイロコイ連邦が実現していた民主制が影響している点が再発見されつつあるという歴史学の動向をとりあげた第二章が印象深かった。
アメリカ独立とフランス革命を準備した啓蒙思想に、新大陸にわたった初期入植者や宣教師が伝えた「高貴なる野蛮人」神話が重要な影響をあたえたことはよく知られているが、実は神話ではなく、実体(イロコイ民主制)があったというのである。しかも、独立戦争にあたってはイロコイ連邦は13州の結束を条件に支援を約束しているし、建国後の女性参政権運動も、母系制のインディアンの生活に触発されてはじまったものだという。
入植者とインディアンの関係は著者が描きだすほど牧歌的ではなかったと思うが、きちんと考えてみるべき重要な指摘である。
あとがきでは先住民文化と交流した経験から、仏教やヨガに代表される解脱パラダイムに対する疑問を披瀝している。「解脱パラダイムの影響は、環境問題のようなところにも微妙に表れる気がしてならない。一般に環境破壊の元凶として、人間による世界支配を正当化するキリスト教思想や、すべてを資源価値と効率で計る西洋近代の合理主義が槍玉に上るが、どうも説得力に欠ける。しばしば西洋より東洋の方がひどい破壊をする説明がつかないからだ。この世界を究極的に脱出すべき場所と見ていたら、それを本気で愛したり、守ったり、大切にしたりすることができるだろうか
」というのだが、これも重い指摘である。
著者はヒッピーの流れをくむ環境保護派らしく、「あたらしい歴史教科書を作る会」とは正反対の立場だが、欧米中心史観に対する異議申し立てと、縄文文化再評価の姿勢は『国民の歴史』と通ずるものがある。21世紀の時代精神はこのあたりからはじまるのではないか。
氷河期の終わりにベーリング地峡を横断して、アメリカ大陸に移住したモンゴロイドの最初の一団を、少女の視点から描いた小説である。著者の星川氏が『モンゴロイドの大いなる旅』と『環太平洋インナーネット』として結実する一年にわたる海外取材を敢行したのはこの作品の続編を準備するためだったという。
テーマはひじょうにおもしろいし、よく調べてあると思うが、小説としてはおもしろくない。
少女を主人公にした(せざるをえなかった?)点が決定的に弱い。狩猟民の生活がきれいごとというか、少女趣味になっていて、野生の臭いがまったくしないのだ。精神世界に目ざめたOLがアラスカに旅をし、スウェットロッジで癒されるという額縁がこの小説の限界を象徴しているように思う。
『一万年の旅路』のアンダーウッドが教師のために書いたインディアンの知恵の書だそうである。「狼の代弁はだれがする」、「白い冬と黄金の夏」、「多くの輪・多くの道」の三篇からなり、相手が学びをうるまで気長に待つことを説くあたり、『一万年の旅路』の世界を踏襲する。
これがインディアンの叡智なのだといわれればそれまでだが、甘ったるくて物足りない気がした。
『一万年の旅路』はベーリング地峡横断以来の一万年の一族の歴史だったが、こちらはアメリカ建国裏面史で、オナイダ族の族長スケナンドアとワシントンとフランクリンの友情を描く。アンダーウッドは祖父の家系でスケナンドアにつながり、祖母の家系でフランクリンにつながるという(系図が載っているが……)。
フランクリンがインディアンと親しく交際し、対インディアン条約の出版にかかわっていたのは事実だから、スケナンドアと深い友情に結ばれていたという話は信じていいのかもしれない。
しかし、白人のこれはという子供にイロコイ連邦が目をつけ、教育係を派遣しインディアンの叡智を伝えたというくだりは受けいれがたい。そこまで先を見通せたのなら、白人にあそこまでいいように騙されることはなかっただろう。
本書の後半はイロコイ連邦に関する訳者の星川氏の長い解説で、『環太平洋インナーネット』第二章にかなり加筆したようだが、きれいごとで終始していているのは同じである。
昔、マネの画集巻末の吉田秀和の解説がすばらしくて、繰りかえし読んだものだった。画集だから、夕刊紙くらいある大判の本だったが、吉田はたった一枚の絵に数ページを費やし(普通の単行本五〜六ページにあたる)、絵の構造に潜むドラマを浮かびあがらせた。どうしたらこんなに深く絵を見ることができるのだろう、どうしたらこんなみごとな文章が書けるのだろうと、読みかえしては嘆息したものだった。
本書は浮世絵を主軸に江戸文化をあつかった本である。序章こそ、とっつきにくいが、一旦テンポをつかむと、湯上りのような駘蕩たる景色が切り開かれる。最初におかれた鈴木春信論の典雅な語り口と、画の感興をあまさずくみつくさずにはおかない視線の動きに、吉田秀和のマネ論を思いだした。広重と北斎の風景画を論じた部分もすばらしい。
後半、浮世絵の衰滅を確認した後、狂歌と歌舞伎に話を広げ、演劇改良論に反駁するが、「太平の武士町人が声色の快楽を追求して止まざりし一時代の大なる慾情は忽ち遊郭と劇場とを完備せしめ、更に進んでこれを材料となせる文学音曲絵画等の特殊なる緒美術を作出しぬ」という具合だから、別の話をしているわけではない。ただ、ちょっと理が勝ちすぎるかもしれない。
とはいえ、雅文体の妙といい、これは遠くあおぎ見るしかない名文である。
エコノミストの書いた荷風論ということで、昨年、評判になった本だが、こんなにおもしろいとは思わなかった。まだ読んでいない人はぜひ読むべきだ。荷風の読者も、そうでない人も。
荷風は生涯日記を書きつづけたが、大正6年以降の分を『斷腸亭日乘』という総題で刊行している。荷風は一人暮らしをつづけた人だけに、女性との交渉にかかるコストに意識的でなければならなかったし、戦争が激化して物資が乏しくなると食料の調達に頭を悩ませなければならなかった。『日乘』には文明論や政治論だけでなく、花街の盛衰や物価の変動も事細かに記録されているのである。
著者は日銀出身のエコノミストで、長らく証券会社のシンクタンクで景気の先読みをしていた人だけに、『日乘』は経済史の宝庫にほかならなかった。本書は『日乘』を素材にした大正から昭和前半の風俗史であり、経済史なのだ。
といっても、「荷風の女性遍歴とそのコスト」というテーマに全47章のうちの8章を費やしていることからもわかるように、本書は堅い本ではない。数えたわけではないが、ざっと見たところ 1/3は『日乘』からの引用である。風俗史・経済史の観点から編んだ『日乘』のアンソロジーといった趣がある。
著者はいわずとしれた岩波『古語辞典』の大野晋である。深川の砂糖問屋に生まれるが、父親が風流人で昭和大恐慌時に身代をもちこたえられなくなり、家が没落していく。その中で学問にあこがれ、精進(まさに精進だ)する若い日の自分を愛惜をこめて描いている。
一高に入学したものの、恵まれた家庭に育った周囲との格差に自信を喪失するが、日本語に自分のアイデンティティを見いだし、橋本進吉門下で国語学研究に進むくだりは心を打つ。
橋本の推挙で著者は国語研究室の有給副手になるが、教授には時枝誠記が着任する。著者は時枝のもとで八年間をすごし、言語過程説が誕生する現場に立ち会う。「何につけても、ほんのいくつかのデータを持つと、その先は「これは何だ、何だ」と頭をかかえて考え込み、追っていく。結果はいびつであっても何でも、血のつながった一つの考えになる。本を読まない学者の強みである
」は時枝の身近にいた者だけが書ける評価だろう。
戦中から戦後にかけて時枝とともにソシュールを学んだという条になるほどと思った。著者の『日本語をさかのぼる』(岩波新書)にはソシュールの構造言語学がこなれた日本語で明晰に祖述してあって目を瞠ったものだった。あの本が出たのは構造主義ブームのはしりの時期で、フランス文学系や哲学系の筆者の生硬な言葉による紹介などおよびもつかないレベルに達していたが、著者はブームになる30年も前からソシュールを勉強していたわけである。
後半で語られる国語改革の裏面史も読ませる。簡潔にさらりと書いてあるので、多くの読者は読みすごしてしまうかもしれないが、国語国字問題の歴史についてちょっと調べたことがあれば、目を見張るような事実がいくつか明かされている。
著者は橋本進吉に研究の仕上げを託された弟子であり、国語改革に対しても橋本の立場を継承しているが、橋本の弟子がすべて師の立場に忠実だったわけではない。実は来月出す本の取材の過程で橋本進吉周辺の話題がいくつか出てきたが、本筋から離れすぎるので最終的には削ってしまった。著者は遠慮なく書いているように見えるが、実際は師に遠慮して筆を抑えているのだということは指摘しておきたい。
本書の最後の山場は日本語とタミル語の関連を発見する部分である。著者はこの研究にかかわったばかりにマスコミの激しいバッシングにあうが、それにもめげず 20年以上にわたって研究を継続している。
マスコミの論調をうのみにしてトンデモ学説だろうぐらいに思っていたが、途中で共通起源説から接触影響説に変わっているようである。接触影響説ならありうるかもしれない。
荒俣宏はしばらく前から日本各地を旅し、風水で味つけした歴史紀行を書いているが、本書はその最新版で、日本の東西南北四方向を霊的に守る拠点=四門として、東北、小笠原、対馬、沖縄を旅している。
序文には大和朝廷が国土の霊的防衛のために、統一的なプランのもとに四門を設けたように書いてあったのが、読みすすむにしたがい影が薄くなり、四章では一言の言及もない。初出を見ると四章、三章、二章、一章、序文という逆順で発表されていたことからすると、三章の途中で統一プラン説を思いつき、二章、一章と練りあげていったのだろうか。
統一プラン説の誕生の地とおぼしい小笠原だが、こういう夢想に誘うだけの飛んでもないところらしい。小笠原諸島はボニナイトという特殊な鉱物でできているそうだが、この鉱物、見てくれが緑色でまがまがしいだけでなく、誘電率が高いために雷を呼び、さらに重力異常まで起こしているという。おまけに、森にはグリーンペペという緑色に発光する茸が群生し、海岸の一部はラテライトという朱色の鉱物が覆っている。口絵に小さい写真が数点載っているが、確かにこれは怪しい島である。
明治政府がこの島を領有するにいたった経緯も怪しげで(幕末には欧米人とポリネシア系の住民が住みつき、自治政府を作っていた!)、それに発見者とされる小笠原貞頼が歴史から消された謎と為朝伝説がからむ。これはもう伝奇ノンフィクションである。
古代遺跡がある線上にならぶという話はいろいろな人が書いているが、本書では長安、洛陽、対馬、伊勢、伊豆の新島が北緯34度にならび、それが土圭という古代の曲尺と関係があるとする。いつもながらの荒俣ワールドが楽しい。
今月号の『世界』に『国民の歴史』を批判した論文が載ったのでのぞいてみた。網野史観をぶつけるぐらいのことはやるかと思ったら、オーストリアのナチス容認の動きにひっかけて、右傾化の風潮をあげつらっただけの内容のない文章だった。旧来の唯物史観や発展段階説を信奉している左翼学者には網野史観はもう一つの鬼門なので、身動きがとれないのだろう。
本書は「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーが中心になって執筆した論集で、元寇から江戸時代の元禄期までをあつかっている。『国民の歴史』にそのままとられている条もすくなくない。
なぜ、元寇かというと、著者たちはモンゴル帝国の成立によって西洋と東洋が経済的に結ばれ、「世界史」が成立したという考え方をとっているからである。巻頭の「日本とヨーロッパの同時勃興」はユーラシア大陸をほぼのみこんだモンゴル帝国の東と西の辺境で、日本と西欧という二つの新興文明が独自の歩みをはじめたとして、三巻の幕開きとしている。
11世紀から18世紀まで、東アジア貿易は中国が支配していたと指摘する「中華シー・パワーの八百年」、秀吉の朝鮮出兵はスペインの中国征服を牽制するものだったとする「秀吉はなぜ朝鮮に出兵したか」、寛永通宝の輸出がいかに東アジアに大きな影響をおよぼしたかを紹介する「日本経済圏の出現」、江戸時代に生れた勤勉という気風を論じた「非西洋型農業革命」などが読みごたえがあった。
『地球日本史』の第二集である。巻頭の「鎖国は本当にあったのか」が端的に示すように、江戸時代は鎖国によって停滞した時代だったという通念を破壊し、江戸時代の復権をはかっている。
「貧農史観への疑問」、「参勤交代と近代化」、「江戸の金融システム」、「武家制度の本音と建前」、「江戸儒学の国際的普遍性」、「洋学につながった儒学」、「西欧古典文献学と国学」と表題をならべていくだけでも、なにが語られているか見当がつくだろう。
わたしが高校時代に学んだ日本史は今にして思えば、唯物史観のバリエーションにすぎなかった。「新しい歴史教科書をつくる会」は日本神話がどうのこうのとか、侵略戦争だったのか、なかったのかといった表層的な部分で言挙げしているのではなく、従来の左翼歴史観を根本から覆そうとしているのである。
『地球日本史』の第三集で、明治維新の再評価を主題としている。さすがにこの巻にくると、繰返しや質の低い文章が散見するが、「アメリカの南北戦争と明治維新」には目を洗われる思いがした。「水戸学の近代性」と「明治維新とは何だったか」、「市民となった武士」の三篇はそのまま鵜呑みに出来ないにしても、日本の西欧文明摂取を考える上で重要な問題提起となっていると思う。「西欧より早い所有と経営の分離」と「西欧の先を見ていた教育改革」の二篇も読みごたえがあった。
著者は横田順彌氏の影響をうけた戦前の大衆小説の研究家だそうである。気になる題名なので読んでみたが、中味は作家が生きていた頃の「常識」を復元して、漱石、鷗外に時代の制約を読みとるという、最近流行の研究だった。
漱石をあつかった最初の章では当時、欧米で猛威をふるっていた社会ダーウィニズムと、犯罪者や未開人種は先祖返りした生れつきの欠陥人間だという俗流人類学を紹介しているが、このあたりまでなら新味はない。催眠術と漱石のかかわりに言及するあたりから著者の本領が出てくるが、漱石は催眠術に距離をおいていたので、不発に終っている。
次の章では鷗外をあつかう。『澀江抽齋』は抽斎の息子の澀江保が鷗外に提供した資料そのままだという松本清張の指摘を紹介した後、澀江保が催眠術や超能力をあつかった啓蒙書や小説を夥しく書いていたという事実を指摘する。『月世界探検』という小説は催眠術で体外離脱した主人公が月に行き、探検する話だそうである。澀江保のSFについては横田順彌氏がすでに紹介しているそうであるが、文学畑では知られていなかった。
『澀江抽齋』には澀江保が上京して苦学し、書店の注文で本を量産していると書いてあるが、どんな本を書いていたかまではふれていなかった。鷗外は知っていたのだろうか? 実は知っていたのである。澀江保が鷗外に資料としてわたした一族の記録には彼自身の著作が各年ごとに記してあったからだ。
澀江保のくだりはおもしろかったが、鷗外自身がオカルトの心酔していたわけではない。漱石よりは興味をもっていたようだが、好奇心の延長にすぎない。
最後の章では古典SFの研究家らしく、リアリズムの問題とからめて矢野龍溪と『浮城物語』論争をとりあげているが、特に新味はないし、漱石・鷗外とのかかわりも本質的な部分におよんでいない。結局、澀江保がオカルト・ライターだったという発見だけが、この本の読ませどころだったようだ。
『BC!な話』以降の竹内久美子は危険な作家になっている。最初は浮気が人類を進化させたなど、本人も冗談と承知した与太話で動物行動学の最新の知識を紹介していたが、『BC!な話』でSperm Competition(精子競争)を紹介して以後は冗談が冗談ではすまなくなったのだ。
本書には「男は睾丸,女は産み分け」という刺激的な副題がついているが、これは繁殖戦略をいったものだ。睾丸の大きな男は精子競争に勝つ確率が高いので、できるだけ多くの女性とまじわろうとするのに対し、睾丸の小さな男は妻一人を守り、必死にガードして自分の遺伝子を残そうとする。女の場合は魅力的な息子を育てられる条件があれば男を産もうとし、魅力的に育てる条件がなければ、確実に子孫の残せる女を産もうとする(そういう研究結果が実際にあるそうだ)。
竹内は冗談というスタンスを維持しているが、本音では精子競争仮説を信じているのではないかという印象を受ける。もちろん、頭蓋骨の形状で知能程度がわかるという俗流人類学(19世紀から20世紀前半にかけて欧米では真理と信じられていた)の二の舞にならないとも限らないが、ずらりとならべられた材料を見ていると、半ば以上説得されてしまう。
例によって、最初から最後まで冗談めかして書いてあって、読者によっては新手の占いと受けとる向きもあるかもしれない。しかし、これは出版しにくい内容をふくんだ、危険な本である。
表題にある「シンメトリー」とは1980〜90年代を通じて、動物行動学を席巻したテーマで、左右均衡のとれた個体の方が繁殖行動で有利だという仮説である(くだいて言えば、シンメトリーな男ほど女性にもてる)。具体的には指とか肘の長さや耳たぶの幅、鼻の穴、目の大きさなどを、カリパスというノギスに似た計測器で0.1mmのレベルまで計り、統計的に処理してシンメトリー度を算出するが、骨折などでシンメトリーが失われている可能性のある部位は集計からはずすことからもわかるように、見かけの左右対称性が問題なのではない。生物学者たちはシンメトリーの測定を通じてシンメトリーの背後にあるものを計ろうとしているのである。
背後にあるものとは個体の生命力だと、ひとまず言っておこう。成長の過程ではさまざまな環境要因が発育をさまたげるが、元気な個体は制約に負けずに、伸び伸びと体を発達させ、結果的にシンメトリーになるというわけである。
女性が頼りになる男を選ぶのは当然じゃないかという人がいるかもしれないが、ここにもう一つ、繁殖戦略がからむ。著者はさんざん読者を笑わせた後、さりげなくこう書く。「研究者がシンメトリーという言葉に込めようとしている本当の意味は全体的な体の出来具合、脳や神経系も含めて体がいかによく出来上がっているか、そして究極的には体の性能に関する遺伝子の優秀さということなのである
」。
著者は『BC!な話』で、Political Correctに対抗して Biological Correctを提唱した。BCはくだいていえば、生物学的リアリズムとなろうが、本書をげらげら笑いながら読みおわった頃には生物学的リアリズムが身についているという仕掛になっている。倫理・道徳はシンメトリーでない男がシンメトリーな男を貶めるためにおこなっている情報操作だという認識はニーチェの道徳批判の動物行動学版であろう。
シンメトリー度の低いオスの一人としては感情的に反発する部分がないとはいえないが、ヒューマニズムの欺瞞の解毒剤としておすすめできる本である。
近代の言語学はヨーロッパの言語とインドの言語が似ていることに気がつき、両者の比較から印欧祖語の復元に向かったが、同じことを日本各地の方言を使ってやろうという試みである。
前半は退屈だ。第一章は考古学、第二章は人類学、第三章は日本語系統論のおさらいで、百科事典レベルの内容にすぎず、書き方もぎこちない。後半とは関係ないから、読み飛ばして差し支えない。
第四章「縄文語の復元」からが本論だが、いきなり「トンボ」という語の祖語の復元にとりかかり、東北弁に近似した「アゲンヅ」だったろうと結論する。おもしろいけれども、一般向けの本としてはあまりにも唐突である。
第五章「弥生語の成立」ではアクセントの分布を手がかりに、縄文語から弥生語への変遷を推定する。著者は東北弁の無アクセントはアクセントが曖昧化した進化の終着点とする通説を退け、縄文語の特徴をつたえる古い形だとする。これに対して、京阪アクセントは中国系の渡来人が北九州で縄文語を習得する際、母語の四声をもちこんだ結果、形成されたもので、これをもって弥生語の成立とする。東京アクセントは無アクセントの縄文人が、文化的に高い弥生語を真似しようとして、高低アクセントを逆におぼえてしまった結果だという。
第六章「縄文語形成」では南方からやってきたモンゴロイドがまず九州に定着して原縄文語を形成し、本州を北上して裏日本縄文語と表日本縄文語を派生する一方、琉球列島に南下して、琉球縄文語を形成した、という日本語の展開を推定している。
おもしろい視点だが、もうちょっと書き方を工夫すべきではなかったか。
『日本語と私』のような自伝ではないが、情感あふれる文章で一気に読ませる。話の運びも巧みで、古代ロマンを堪能させてくれる。小泉保氏の『縄文語の発見』と較べると、プロとアマの差である。これでは学者仲間からやっかまれるのは当然だ。
もちろん、本としてのおもしろさと学説の当否は別である。本書は日本語とタミル語に関係ありと主張しているが、読んでおもしろかったというだけでは大野説の証明にはならない。
注意しておきたいのは本書と本書以前で、大野説が変化していることだ。『日本語以前』と『日本語とタミル語』は未読だが、小泉氏が『縄文語の発見』第三章で批判している大野説と本書の所説はかなり違う(『縄文語の発見』は本書の後に出ていて、本書についても言及しているが、大野説の変化についてはふれておらず、あいかわらず同祖論に分類している)。
最大の相違点は同祖論をとりさげ、語彙借用論になっていることである。旧大野説ではアジアのどこかに日本語とドラヴィダ語の共通祖語が話されていた地域があり、そこから西進して南インドにいたったグループがタミル人になり、東進して日本列島にいたったグループが日本人になったとしていたのに対し、現在の大野説は縄文後期の日本へ、活発な交易活動をおこなっていた巨石文明期のタミル人がやってきて、米作と米作に関係する語彙を伝えたとしている点だ。
そうあらためたのはタミル語と日本語で並行するとされる語が米作と精神生活にかかわる語彙(イネ、アハ、コメ、ハタケ、タンボ)に集中しているからである。距離的には揚子江流域の米作地帯の方が近いが、米作にかかわる中国語の語彙と日本語の語彙との間にはどうこじつけても類似が認められないという以上、この説は無視できない。
本書では300語近いタミル語と日本語の並行例をあげている。小泉氏は大野説が理由なしに多対多の音韻対応を設定していると批判しているが、本書では基層のポリネシア系の言語の影響で、タミル語の発音が変化したとしている。
大野説の当否をいうには個々の単語について検証するところからはじめなければならないが、素人目から見ると、本書の議論はかなり説得力があると思う。
新大野説についての専門家の批評を望む。
「一語の辞典」というシリーズの一冊である。まず、カミの語源から神の古層をさぐり、仏教輸入とその後の神仏習合によるカミ観念の変容をたどり、江戸時代の宋学と国学による神仏の分離、さらにその帰結である明治の廃仏毀釈に説きおよぶ。
ここまでは大項目主義の百科事典の一項目を本にしたような、体系的にして簡潔なまとめ方で、クセジュ文庫を思わせるが、その後が違う。「カミの輸入」という章がきて、カミ観念が実は稲作とともに日本列島にはいってきたものではないかという、大野氏オリジナルの説を展開しているからだ。
稲作伝来というと、常識的には朝鮮半島ルートと江南ルートだが、大野氏はカミの対応語が朝鮮語にも中国語にもないという理由で、南インドからの直接ルート説をとる。もちろん、『日本語の起源』などで説いている日本語のタミル語語彙借用説が背景にある(大野氏は日本語・タミル語の同起源説はもうとっていない)。
大野氏がカミの対応語とするのは古代タミル語のkoman(超能力をもつ者、統治者)である。この語はkon(神、王)とko(山、天、雷光、帝王、偉人、父)に淵源する。古代日本語のカミとかなり重なる。
古代インドの祭儀を研究している河野亮仙氏の神観念の研究を紹介しているが、ドラヴィダ系の神と日本古代のカミは確かによく似ている。照葉樹林文化という共通の基層があるにしても、その域を越えているかもしれない。大野氏のタミル語語彙借用論は再検討されるべきだと思う。
廃仏毀釈で打撃を受けた明治の仏教は『歎異抄』によって救われた部分が大きいが、『歎異抄』の近代性は親鸞の一面をあざやかに照らしだす反面、親鸞の信仰の古代的・中世的な性格を隠しもした。中世の再評価とともに『歎異抄』批判が出てくる所以である。
本書もそうした研究動向に棹さす一冊だが、『歎異抄』は分析家唯円の編集の産物で、念仏三昧の神秘体験を理解できない彼は「親鸞の内的な心の流れをせきとめ、削りとってしまった
」、「可能性における悪のみを問題にしている『歎異抄』は、罪の大転換のために必然とされた善知識と懴悔の問題に、一言半句もふれてはいない。気がついたとき殺人を犯してしまっていた人間の戦慄の感覚が、そこではまったく欠けているからだ
」と批判し、ついには唯円をユダになぞらえている。
大筋はその通りだと思うし、親鸞の「海」のメタファーに着目した点も鋭いが、ひっかかる部分もある。唯円と『歎異抄』の近代性を批判しながら、著者もまた近代性の枠内にとどまっているような印象があるのだ。それは「古代的な世界に由来する「ひとり」の光景
」に接近するのに尾崎放哉や山頭火の句作を援用するあたりにも感じられるが(あれはあれで近代の産物だろう)、もっと顕著なのは聖徳太子信仰と親鸞のかかわりを無視した点においてでである。
『歎異抄』に改竄される前の親鸞をつかむには中世の闇の中に一度、深く身を沈める必要があると思うのだが、どうだろうか。
87歳で起稿して12年間書きつぎ、完結を目前にしながら、著者の死で未完に終わったというギネスブックものの小説である。世評が高く、作品の出来については心配していなかったが、枯淡の世界を500ページもつきあうのはつらいと思い、手が出ないでいた。
だが、杞憂だった。枯淡どころか、 もぎたての水蜜桃のように瑞々しい少女小説(!)だったのである。
著者の分身とおぼしい主人公は15歳で九州から東京に勉強に出てきた女学生であるが、偶然が重なって巣鴨のとげ抜き地蔵のそばにある一学年一クラスだけの小さな女学校にはいる。巣鴨は今では「お婆ちゃんたちの原宿」だが、当時は郊外の田園地帯で、森が鬱蒼と茂り、女学校も森の中にあった。
ほとんどの生徒は寄宿生活を送っていたが、主人公は郷里の父親の命令で本郷にある叔父の家に世話になっている。彼女は毎朝本郷から巣鴨まで一時間半かけて板橋街道(今の白山通り)を肥車の列とすれ違いながら通学したが、この学校は普通の女学校ではなかった。島崎藤村、北村透谷、若松賤子が教鞭をとっていたといえば見当がつくだろう。主人公が入学したのは文学史に名高い明治女学校だったのである(本作の時期には透谷と若松は世になく、藤村は小諸に移っていたが、生徒の間でささやかれる学園伝説の中では健在だった)。
日露戦争直前のあわただしい世相を尻目に、森の中で別天地のようにいとなまれる学園生活が中心になるが、物心両面で学校を支える旧幕臣系の人々や花柳界の出の叔父の妻の縁者、さらに造り酒屋をやっている郷里の一族の歴史もたっぷり描かれていき、年代物のワインのように、口あたりこそ柔らかいものの、こくのある芳醇な味わいが身体にしみてくる。作品に酔ったといってもいい。
後半、主人公の先輩にあたる園部はるみがクローズアップされる。彼女は東北の山林地主の娘だが、彼女の縁談にまつわる行き違いを描いたくだりはジェーン・オースティンを思わせる。イギリスのジェントリーにあたる階級が日本にもあったのか、それとも野上の魔術か。
物語性の豊かな作品だけに、未完で終わったのは惜しいけれども、大団円を自分で考える楽しみもある。
野上彌生子の代表作二編をおさめた中編集である。
「大石良雄」は新解釈の忠臣蔵で、大石内蔵助は穏やかな生活を愛する家庭人だったが、急進派の義士や武士の本分にこだわる怖い奥さんにせっつかれて、しかたなく山科の家をたたみ、江戸に向かったとする。
発表当時はだらしのない蔵助像が評判になったそうだが、珍解釈もふくめてさまざまな忠臣蔵があふれている現在では別にどうということはない。ただし、最近の時代小説とは違って小説として手がたく、しっかりした普請である。
「笛」は早く夫と死別し、女手一つで二人の子供を成人させた主人公の寂しい晩年を描いた作品。長年住みなれた家からは娘夫婦に追われ、結婚の決まった息子からは別居を言いだされて、彼女は生きていくはりあいを失う。ずしりとくるが、後味がよくない。
『踊る大捜査線』のヒット以来、刑事物のTVドラマや映画は警察のキャリア制度や点数主義をおちょくるのが定番になっているし、昨今、次々と明るみに出た警察の不祥事は一部の事情通しか知らなかった警察の実態を国民の目の前にさらした。
警察の内情がこれほど表に出てきたことはかつてなかったと思うが、依然として暗闇に包まれている部分もある。公安警察である。
オウム事件以来、公安警察の活動がマスコミで取りあげられるようになり、『A』というドキュメンタリーではいわゆる「ころび公妨」の一部始終がビデオに記録され、一般公開されてしまったが、この程度では公安警察の表面をかすったにすぎない。実際、マスコミの一端に連なっていると、公安がらみの怪しげな噂が耳にはいってくるのである。
公安警察に関する本はこれまでも公刊されていたが、立花隆の本を除くと、性格的に問題のある左翼人種や元公安関係者の書いたものばかりで、文章の醜悪さは仕方ないとしても、基本的なバランス感覚が欠落しており、眉に唾をつけながら読む必要があった。
本書はきちんとした文章の書けるジャーナリストの手になるもので、広い視野とバランス感覚をそなえているという印象を受けた。長さの制約から、もどかしい部分もあるが、記述は簡にして要をえており、格好の概説書となっている。
キャリア制度のおちょくりはマンネリになってきたから、刑事物の次のトレンドは公安になる可能性もないではない。ドラマになりそうな材料の宝庫だから、どこかでやらないだろうか。
四年前、NHKで放映された「新・電子立国」を本にしたシリーズの第一巻である。番組の方は「アポロ13号」のCGの製作現場の話からはじまったが、本では定石どおり、ビル・ゲイツとポール・アレンの高校時代の話からはじめ、マイクロソフト帝国の成立をたどる。
本にしてしまうと類書とさしてかわらなくなるが、IBMがPCを出すにあたり、デジタルリサーチでなく、マイクロソフトを選んだ経緯を、伝説や脚色、当事者の自己弁明を排して検証しようとした点が番組の見せ場だった。キルドールが受けた最後の取材となったインタビューは活字では迫力が今一つだが、番組では割愛されていた背景事情がわかった。
もちろん、真相は藪の中だが、もしIBMがデジタルリサーチを選んでいたとしても、マイクロソフト帝国は成立していたのではないかという気がする。キルドールは天才的なプログラマーだったが、経営者ではなかったのである。
「新・電子立国」の第二巻で、日本の製造業をささえる縁の下の力持ちというべき機械組みこみコンピュータをとりあげる。NC旋盤や放電加工機、刺繍用の工業ミシンで概略を説明した後、炊飯器のプログラム作りと自動車のエンジン制御の誕生をルポルタージュしている。シリーズ中でも、この回はよかったが、文字で読んでもおもしろい。
「新・電子立国」の第三巻。パソコンソフトの歴史をあつかっているが、このあたりは多少知っているだけに、疑問に思う点がいくつかある。
一太郎がトップになったのはATOKの構文解析がすぐれていたからだと書いているのはおかしい。確かに現在のATOKは評価が高いが、ATOKがよくなったのは紀田順一郎氏らのATOK監修委員会が注文をつけるようになってからで、Dos時代のATOK8まではバカ変換の代名詞だった。構文解析がいい加減なだけでなく、学習するそばから忘れていった。当時、VJEなどは辞書を書き直して単語を学習させていたので、使いこむにしたがい賢くなっていったが、ATOKは辞書の一番後ろの一時学習領域に直前に使った単語を書きこむだけだった。領域がいっぱいになると古い単語から消していったので、学習結果が蓄積されず、ATOKはサル以下だとか、さんざんに言われたものだった。また、コーディングで勝手なことをやっていたらしく、他のソフトとの相性が悪く、BBSは怨嗟の声であふれていた。
Dos時代は一太郎は使いたいがATOKは嫌だという人が多く、一太郎で他のFEPを使うための裏技やフリーソフトがもてはやされたものだったが、最近はATOKは使いたいが、一太郎は嫌という人が増えていて、ATOKが単体で売られている。批判を真摯に受けとめ、バカの代名詞だったATOKを現在のレベルまで育てた経営陣の姿勢を評価すべきではなかったか。
「新・電子立国」の第四巻。番組は五年前の製作なので、任天堂の話が中心になっている。コンピュータ・ゲームの元祖の「スペース・ウォー」やアタリも登場するけれども、任天堂帝国の前史という位置づけに見えてしまう。
任天堂はよく「カルタ屋」と揶揄されるが、任天堂に取材にいくと、カルタのコレクションを見せられるのだそうである。本書はそれを逆手にとって、今日の任天堂商法のルーツがカルタ商法であることをみごとに論証している。脱帽である(番組にあったろうか?)。
番組での一番の見ものは山内社長がコンピュータ・ゲームに著作権はないと発言していたビデオテープを発掘してきて、その後の著作権ビジネスとの矛盾を白日のもとにさらした条だった。こんなことはNHKにしかできない。本書には取材の困難もふくめて背景事情が書いてあり、興味深かった。
「新・電子立国」の第五巻。冷戦たけなわの1950年代にアメリカが構築したリアルタイム防空システムと東京オリンピックの速報システム、そして新日鉄君津製鐵所の三つの巨大プロジェクトを取りあげている。ルポルタージュとしても、歴史の掘りおこしてとしても、シリーズ中、もっともおもしろい。
日本はソフトに弱いというのがこのシリーズのテーマになっているが、巨大システム作りに限っていえば、実は日本の集団主義は向いているという指摘がおもしろい。開発にかかわる人間が増えれば増えるほど、能率が落ちていく現象を「人月の神話」というが、日本ではこの神話は成立しないらしいのである。
なぜ日本で「人月の神話」が成立しないかを、君津製鐡所を材料に詳しく検証しており、なるほどと思ったが、昨今の事件から考えると、こうした集団倫理や労働意欲は今は昔かもしれない。
「新・電子立国」の第六巻。
前半では第一回に放映したコンピュータ・グラフィクス、後半ではシリーズ放映中に一大ブームとなったインターネット(というかWWW)をテーマとしている。
偶然のとりあわせに見えるかもしれないが、かつて一世を風靡した「マルチメディア」という言葉を間におけば、それなりの必然性はある。つまり、マルチメディアの代表がコンピュータ・グラフィクスであり、実現された形がインターネット(WWW)だというわけである。
もちろん、これは誤解にすぎないのだが、たまたまジム・クラークという格好の人物がいたために、一本の筋が通ることになった。ケガの功名である。
シリコングラフィクスとネットスケープというジム・クラークの二度の成功物語が語られるが、両者とも今は生彩がないし、ジム・クラーク自身、三度目の成功を夢見て、ネットスケープから離れてしまった。ネットスケープをノックアウトしたマイクロソフトも、分割の危機にさらされている。
たった五年なのに、大昔の話を読んでいるような気がする。