萩原朔太郎はぎわらさくたろう

加藤弘一

生涯

 詩人、批評家。1886年11月1日、群馬県前橋北曲輪町に生まれる。父、密蔵は群馬県立病院副院長をへて開業した高名な医師。虚弱な体質だったこともあって、祖母と母親に溺愛して育てられた。学校は休みがちだった。

 前橋中学時代から短歌をはじめ、校友会誌「坂東太郎」に作品を掲載する。17歳の時、「明星」に投稿した短歌が採用され、新詩社社友となる。

 医業を嫌い、1907年、熊本の旧制五高の英語文科に進むが、翌年、落第して、岡山の旧制六高に移る。内田百を幹事とする句会にくわわるが、すぐにやめる。六高も一年で落第。慶応を出たりはいったりし、東京音楽学校を受験しようとするが、どれもうまくいかず、マンドリンとオペラに熱中して鬱を晴らす日々だったらしい。

 前橋の父の家にもどった後、マンドリン熱が高じて「ゴンドラ洋楽会」や「上州マンドリン倶楽部」を組織する。音楽関係の会は、39歳までつづいた前橋時代の活動の拠点となる。

 1913年、北原白秋の主宰する「朱欒」に掲載された室生犀星の「小景異情」に衝撃を受ける。明治の新体詩運動以来、口語体の詩が試みられてきたが、流麗な韻文でなければならないという無意識の縛りがあった。「小景異情」はこの先入観を打ち砕いた作品で、萩原は自らも韻律にこだわらない口語体の詩を堰を切ったように作りはじめる。室生犀星と文通をはじめ、翌年、山村暮鳥をくわえて人魚詩社を設立。室生は生涯の友となる。

 1917年、第一詩集『月に吠える』を刊行。口語詩を確立した記念碑的な詩集だったが、当時は民衆詩派が流行していたので、外など一部の識者に評価されるにとどまった。

 萩原は理論家でもあって、三木露風流の韻律を重んじた観念的象徴詩に対して論争を挑み、後に『詩の原理』としてまとめられる長大な詩論の執筆にとりかかる。萩原の詩論は、観念や韻律から詩の言葉を解放し、自立させようとするもので、自分の文学史的位置を成殻に把握していたといえる。1923年、『青猫』と『蝶を夢む』を刊行。プロレタリア文学全盛の中、芸術至上主義の第一人者と見なされるようになる。

 1925年、ずっとやっかいになっていた父の家を離れ、妻子とともに上京し、田端に住む。当時の田端は文化住宅の立ちならぶハイカラな住宅地で、芥川龍之介や室生犀星がいた。安部公房や澁澤龍彦の生まれた家もあった。翌年には馬込に移るが、ここも作家や文化人が集まっていた。自宅でダンスパーティーを開くのが流行していたが、これが離婚の遠因となる。

 1928年、『詩の原理』を刊行。翌年、妻がダンスパーティーで知りあった男と出奔し、離婚。幼い子供を前橋の実家にあずけ、東京と前橋を往復する生活をはじめる。この頃、江戸川乱歩と親しくなる。1930年、父の死にともない、母と妹をともない、最終的に東京に居を移す。

 1934年、『氷島』を刊行。漢語を多用したごつごつした文体で、飛行機や軍艦、デパートを歌い、現代詩への道を開く。同年、「四季」が創刊されると理論的指導者としてむかえられ、「文學界」でも時評を執筆し、詩壇を指導する。 1936年、『郷愁の詩人与謝野蕪村』を刊行。日本浪曼派にくわわり、日本主義への傾斜を深める。時局に迎合したという批判もある。

 1942年5月11日、肺炎で死去。56歳だった。

作品

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