1909年、福岡生まれ。批評家、小説家。1974年没。京大文学部中退。リベラル政治家から翼賛運動、さらに東条内閣への抵抗から割腹自殺をとげた政治家、中野正剛のもとで文化活動に従事し、治安維持法下、共産党幹部の転向があいつぐ時期にはレトリックと笑いによるしたたかな抵抗を提唱した。日本敗戦後、レトリック論を『復興期の精神』として上梓し、一躍、新時代の旗手となる。岡本太郎、埴谷雄高らと「夜の会」を結成してアヴァンギャルド芸術を主導する一方、中野の遺児たちが起こした真善美社の顧問となって、埴谷の『死霊』や安部公房の『終わりし道の標べに』などの重要作品を世におくりだした。
花田は「有機物から無機物へ」、「鉱物主義」などのスローガンでアヴァンギャルド芸術の理念を説明したが、これはブルジョワ的観念論から唯物論への転換を説くマルクス主義芸術論とかさなるものがあった。はたして、花田は1948年に日本共産党に入党。平和路線をとる所感派に属し、「新日本文学」の編集長となる。しかし、プロレタリア文学論を主張する旧ナップ派と対立して、後に解任。1961年には党を除名される。
映画、ラジオドラマ、演劇など、当時のニューメディアにいちはやく注目し、はなばなしい活動をおこなったが、これは吉本隆明との論争の一因ともなった。1950年代後半からは『小説平家』、『鳥獣戯話』、『室町小説集』など、転形期の人物像を描いた小説、戯曲をつぎつぎと発表し、多才ぶりをしめした。
『花田清輝著作集』(未来社、1963-66年、全 7巻)と『花田清輝全集』(講談社、1977-80年、全15巻 補巻 2巻 )がある。