室生犀星むろうさいせい

加藤弘一

生涯

 1889年8月1日、金沢市裏千日町に生まれる。本名、照道。父小畠弥左衛門吉種は元加賀藩士、妻を亡くして隠居の身で、64歳だった。母はるは女中。生後すぐに赤井ハツに預けれレ、私生児として彼女の籍にはいる。ハツは「馬方お初」と渾名される莫連女で、不義の子を謝礼付きで引きとる商売をしていた。義理の兄と姉がいたが、成人後、姉は娼婦に売られている。ハツは雨宝院の住職、室生真乗と内縁関係にあったが、7歳の時、寺を継がせるために真乗の養嗣子にする。9歳の時、実父が亡くなると、生母は小畠家を追いだされ、行方不明になる。

 13歳で義母に高等小学校を中途退学させられ、地方裁判所に給仕として勤めはじめる。金沢で盛んな俳句の手ほどきを受け、文芸に興味をもつ。

 1909年、裁判所を辞め、地方新聞社を転々とした後、上京。詩がぼつぼつ雑誌に載るようになったが、金がなくなると金沢の養父のところにもどる生活を繰りかえしていた。1913年、北原白秋が主宰する「朱欒」に毎号載るようになる。無名時代の萩原朔太郎から手紙をもらい、親交を結ぶ。

 1917年、養父が死去。翌年、遺産で『愛の詩集』と『抒情小曲集』を自費出版。一部で注目される。

 1919年、佐藤春夫の成功に触発されて、「幼年時代」を発表。つづく「性に眼覚める頃」、「或る少女の死まで」で評価され、一躍流行作家になるが、1922年、幼い長男を失い、スランプにおちいる。

 1934年、養母ハツの荒くれた人生を題材にした「あにいもうと」を発表して、第一線に復帰。市井鬼ものとよばれる猥雑なエネルギーにあふれた、一種のピカレスク小説を次々に書く。

 戦争が激化するにしたがい活躍の場がなくなり、戦後も雌伏をつづけたが、1955年、随筆『女ひと』で文壇に復帰。1957年には『杏っ子』、1959年には晩年の傑作『かげろふの日記遺文』を書く。

 1962年3月26日、肺ガンで死去。73歳だった。

作品

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