井上ひさしに『頭痛肩こり樋口一葉』から、『イーハトーボの劇列車』、『泣き虫弱虫石川啄木』と書きつがれた評伝劇がある。作家の伝記に材をとった戯曲は昔からあったが、井上は作品のモデルとおぼしい人物や事件を舞台に登場させ、芝居に仕組むことにで、単なる伝記にとどまらない、作品批評の部分にまで踏みこんだ演劇をつくりだしたのだ。
もちろん、モデルさがし自体は不毛としかいえない。一般にはモデルから作品が作られたと考えられがちだが、本当は作品からモデルが作られるというべきであり、「事実」と称するものは評者の思い込みの反映でしかないからだ。しかし、井上はモデルを意識的にフィクション化することで、作品と時代の接点を照らしだす強力な光源とすることに成功した。
どこまで井上の仕事を意識したかはわからないが、『坊っちゃんの時代』につづいて刊行された関川夏央原作、谷口ジロー画の『坊っちゃんの時代 第2部 秋の舞姫』(双葉社980円)は漫画による作家論というべき作品であり、井上の評伝劇同様、成功をおさめている。
『坊っちゃんの時代』では「坊っちゃん」のモデルとなった明治の青年たちと漱石の交友が描かれたが、『秋の舞姫』では「舞姫」のモデルとされるエリーゼ・ヴァイゲルトが中心となる。
重要なのはヱリスことエリーゼが、漫画の登場人物として、フィクション化されていることである。現実のエリーゼ・ヴァイゲルトが 1888年 9月12日に横浜港に降りたったのは実証された事実であるが、関川は彼女と若き日の二葉亭四迷と出会いを仕組み、さらに草創期講道館に集った青年たちをからませる。もちろん、スリの名人の仕立て屋銀次や、姿三四郎のモデルの西郷四郎も大活躍するし、「杉野はいづこ」の広瀬中尉や晩年の清水次郎長まで登場して、ほとんど吹きよせの趣向である。
実際の彼女の滞日生活は、鷗外の親族との話し合いに終始したひどく寂しいものだったらしいが、極東の地まで愛する男を追ってきた気丈なドイツ女性をこうしたさまざまな虚構の出会いの渦中に置くことで、「舞姫」を生んだ明治という時代の一断面がくっきり浮かび上がることになる。
それはどんな時代か?
青年たちが真剣に天下国家を憂えて悲憤慷慨し、ヤクザ渡世まてもが「ジョーヤクカイセー」を考えて外人への乱暴をさしひかえる近代国家日本の少年期であり、一口にいうなら、『姿三四郎』の時代である。
井上の戯曲が家族劇的な結構を取り、あくまで家族内の葛藤の中から作品の成立を見ていったのに対し(だから、芸術座で上演されたりもする)、関川は同時代の青年たちの交友を視野の中心にすえる。青年誌という発表媒体を考えてのことでもあろうが、従来、等閑視されてきた鷗外や二葉亭四迷の壮士的側面に光をあてるという副産物を生んだ。たしかに、当時の若いインテリは、憂国の情を共有していたのである。
だが、家庭外のつきあいを主としたために、鷗外の葛藤の核心であった家庭内の問題は十分に描かれたとはいいにくい。鷗外と二葉亭四迷こと長谷川辰之助の対話は立派に漫画の表現となっているが、鷗外とその母の場面は説明に終っているような印象を受けた。もともと、鷗外の態度も煮えきらず、絵にしにくい場面ではあるが、長谷川との場面くらいよく描けていれば、「舞姫」論として立体的になっていたと思う。
しかし、鷗外の文業からいえば、「舞姫」は決して第一のものではない。鷗外の本当の仕事は『澀江抽齋』にはじまる史伝三部作であり、そこには新興国家日本で立身出世した軍医総監森林太郎ではなく、江戸文明の夕映をふりかえる文人鷗外がいる。
それは漱石にもいえることであって、彼の最高の達成は『明暗』や『道草』など三角関係の泥沼を描いた晩年の心理小説にあるのだ。
漫画という媒体で漱石や鷗外に迫るには、もう少し時間が必要なようである。