トランスナショナル・カレッジ・オブレックス 『量子力学の冒険』

加藤弘一

 数年前、フーリエの冒険というめちゃめちゃ面白い本が出た。内容的には大学教養過程程度の数学の本なのだが、書いたのは「トラカレ」という語学学校の生徒たちで、「なぜ千差万別な音声が、言葉として聞き分けられるのか」という興味から、数学についてまったくの素人が、音声分析の武器であるフーリエ級数にいどむというものだった。

 そのメンバーが、今度は量子力学についての本を出した。『量子力学の冒険』である。

 一般向けの量子力学の解説書というと、譬え話や発見の裏話をちりばめた本と相場が決っているが、この本は違う。プランクの公式にはじまり、シュレディンガーの波動方程式にいたるまで、量子力学の数式を素人が悪戦苦闘しながら、おいかける本なのだ。その意味で、まさに「冒険」である。

 なぜ、彼らは数式にこだわるのだろうか? 量子力学は、日常経験の類推を跳びこえた世界で、数式でしか表現できないからである。

 専門家の書いた解説書を読めば、光は波の性質と粒子の性質の両方を持つくらいの知識を仕入れることはできる。原子核の周りに、綿菓子のようにフワフワただよう電子の分布図もおなじみである。しかし、「波」であるとか、「粒子」であるとか、「綿菓子」であるとかいったイメージは、数式を日常概念に仮になぞらえた譬え話にすぎず、そんな譬え話が無意味であることは、60年にわたる論争の歴史からも明らかだろう。数式を使わずに量子力学について語ろうというのが、そもそも背理なのだ。

 著者たちは、ロシア語や韓国語、スペイン語、タイ語を体にしみこませるのと同じように、量子力学の言葉である数式の海に果敢にダイブしていき、量子力学誕生のドラマを内側から追体験していく。それはほとんど感動的ですらあって、「ああ、こういうことだったのか」と、長年のもやもやが晴らされることも少なくなかった。

 超電導フィーバー、ホーキングの宇宙論の流行と、いつの間にか「量子力学」という言葉は、身近なものになった。言葉として身近なだけでなく、CDやビデオ・ムービー、パソコンなど、量子力学を応用したハイテク製品もごく当り前になってしまった。だが、「量子」という言葉は、あいかわらずブラック・ボックスで、何とも気持ちの悪い状態がつづいている。本書は『フーリエの冒険』よりは、格段に歯ごたえのある本だが、ぜひとも紙と鉛筆を用意し、手を動かしながら読んで欲しい。日常概念では類推のしようのない世界が、片鱗なりと実感できるからだ。

(Jan 1992 「エスタミネ」)
Copyright 1996 Kato Koiti
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