アヴェイロンという田舎町で十年がかりで撮影した自然記録映画だが、洒脱な作りで、はからずもドラマチックな生物絵巻になっている。
副題に peuple d'herbeとあるように、昆虫だけではなく、蜘蛛、カタツムリ、蛙なども登場する。地面から見上げた草むらは、教会の円蓋のようだ。
もう一方の主人公は接写で描かれる植物。
微速度撮影でアサガオの蔓が枝に巻きついていく映像に、シャクトリムシが枝を移動していく映像がカットバックされる。時間の尺度が違うだけで、よく似た動き。
豆科の花の蜜を吸うために上体を花の奥につっこむハチ。雄蘂がひょいとハチの尻に花粉をつける。テコの原理で雄蘂が下がるだけなのだろうが、ちょうどハチの尻にあたるので、花の心理を見てしまう。
開花していくアザミの美しさ。
水も主役の一人。きらきら光る水滴。今にもしたたりそうに濡れた茎をテントウムシが走ると、露が燦めきながらおちる。蜘蛛の巣においた露の美しさ。
緑のカーペットのような苔の上で二匹のカタツムリが出会う。人間のように首をよじらせて接吻し、身体を密着させて肉を波打たせる。なんとも悩ましい。
旱魃。干上がり、ひび割れていく地面。
毛虫の群が一列になって、乾燥した大地を行進していく。効果音のせいもあって、列車そっくり。
二つの列がぶつかると大変だ。進路を塞がれた列は、先行する列の隙間を見つけて前進し、先行する列といっしょになってしまう。列の進路が曲り、円環を描き、あちこちに淀みができて、ついには毛虫のかたまりが出来てしまう。
忙しく巣穴の周囲を動きまわるアリの群の上に、突然、巨大な足がドサッと降りてくる。予告編で流れた、博物館の天窓を突き破ってティラノザウルスの骨格標本を踏みつぶすゴジラの足そっくり。実は雉で、尖った喙で地面をつつきまわし、アリの巣をパニックに陥しいれる。ガスッ、ガスッという喙を地面に突きさす音が恐ろしい。
鳥は恐龍の子孫だという説は本当だなぁと思う。
ラスト、リドリー・スコットばりの照明で荘厳に描かれる水中から羽化する昆虫。見とれていたら、蚊だった。ブーンと羽音を残して飛びさっていく。
ハイテクは擬人法とは別の視野を可能にした。『ファーブル昆虫記』の伝統から生まれた、ファーブルとは一味異なる昆虫記である。
今回は浜ちゃんの同期で、出世頭の小林稔侍が営業部長に就任する。入社当時は下宿で同居したこともある友人が上司になっても、浜ちゃんはまったく気にしない。釣り仲間のところへ遊びにいく感覚の浜ちゃん流の営業術も披露する。さすが西田敏行。
鈴木社長の三國は二一世紀の社運を小林稔侍に期待するが、小林は鹿児島の川内に帰ったスタンドバーのあかねさん(風吹ジュン)と再会するや再婚を決意し、会社をやめて登校拒否の息子と甑島に移住してしまう。有島三兄弟記念館を川内市につくる話が、あかねさんとの再会の伏線になる。
小林が大口の成約をとる大会社の会長に中村梅之介(風格!)、丹阿弥谷津子なきあとの社長夫人に奈良岡朋子、浜ちゃんを歓待する取引先の課長に高林淳子など小劇場系をあてるなど、演劇系でかためている。
シャ乱Q主演のアイドル映画。コンサートの場内警備のバイトをやっていた駆出しロックバンドのボーカルのツンクが、もたいまさこにスカウトされ、サクセスするまでのコメディ。
この種の作品にしては割りと評判がよかったが、前半はわざとらしくて、見るに耐えない。演歌界の大御所役の平幹二郎は痛々しい。大御所の一番弟子で演歌スターの陣内はコテコテの悪役だが、見ていてかわいそうになってくる。
後半、同じプロダクションの売れない先輩(尾藤イサオ)のどさ回りにつきあうあたりから持ち直してくるが、ツンクと尾藤の歌のおかげだ。尾藤が歌いはじめると、空を真っ黒な雲が覆い、たちまち土砂降りになるのだが(笑)、この二人の歌には起死回生の力があった。歌手としての力をうまくとりこむあたり、滝田監督はアイドル映画の巨匠なのだろう。
歌謡大賞の受賞式に森高千里が実名で登場するが、はきだめに鶴のオーラを放っていて、瀬戸朝香のオバサンくささとは対照的。
CX製作だけに、ツンクが覆面太郎としてデビューし、サクセスの階段をかけのぼるきっかけになるのは「ヘイヘイ、ミュージック」で、司会はさとう珠緒がそのまま出演。
まったく期待していなかったせいか、おもしろかった。
冒頭の美術館から秘密兵器を駆使して宝石を盗みだす場面と、その後のチープなカーチェイス(軽自動車サイズのキャッツカーは三台のバイクに分解し、追う方は自転車)はちまちましすぎていて、楽しくない。三姉妹のやっている喫茶店の地下がバットケイブみたいになっていたり、バットマンを意識したつくりになっているが、パロディというより安っぽさが目につく。
しかし、ミス王という悪役の中国女(蒋文麗)が登場すると、調子が出てくる。普通、こういう悪役は日本人を使い、中国風のイントネーションで喋らせるのだが、本物の中国の女優を使ったのはよかった。その息子のマッチョで悩める悪役(ショー・コスギの息子のケイン・コスギ)も悪くない。
キャッツアイを逮捕しようとして、直球勝負をいどむ間抜けな刑事の原田喧太は、原田芳雄の息子だそうだ。国際警察のクールな女刑事の山崎直子もはまり役。CX製作だけあって、役者の二世が三人も出ているが、みんな達者だ。
三姉妹では稲森いずみが一番活躍する。ミス王が彼女に化けるシーンでは、デカダンな表情も見せる。内田有紀は自分のことを「ボク」と呼ぶ機械に強いボーイッシュな末娘の役。
杏里の主題歌は、つぶやくような歌い方の新バージョンで、面目一新。
ラストの悪の牙城は CXの新社屋。屋上の銀色の球体まで使っているが、低予算見え見え。
マイケル・ホフマン監督で、映画評もよかったので期待したが、がっかり。
子持ち、離婚経験ありの男女が、馘をかけた重要な仕事のはいった日、子供を野外授業に遅刻させたために、一日中、めんどうを見なければならなくなるというコメディ。
50年代のロマンチック・コメディを意識したそうだが、男女とも携帯電話が鳴りっぱなしの多忙人間で、一日の間の話で、時刻を示しながら進むが、二人とも早口でまくしたてるので、疲れてしまう。ニューヨークをかけまわっていて、移動的にも無理がある。
ミシェル・ファイファーが製作を担当したそうで、化粧するところを見せたり、体当りの演技というところか。
子供の通っている学校がモンテッソーリ学校というのは、なんかあるのか。
「それから」のように才気ばしっているわけではないが、冷え冷えとした老いの予感が伝わってきて、いい作品にしあがっている。編集者として膏ののりきった時期に閑職へまわされた男が、全エネルギーを性愛にふりむけ、死にいやおうなく近づいていく姿が寂漠と描かれている。
出会いの経緯も、閑職への左遷の経緯も省略し、既定事実として描いていく語り口はうまい。主人公の後任のやり手編集長の水口(平泉成)が、1/3ほどのところで子会社へ左遷されることになり、半分ほどのところで癌になり、2/3ほどのところで死んでしまう。死の近い水口を見舞うシーンで、不意に画面を暗くしたのは成功している。あのシーンが転機となり、映画のトーンは一段と蔭りをおび、妻との離婚や、凛子のヲタク的な夫の中傷の手紙というアクシデントに対する主人公の受け身の対応が納得できるものになっている。水口は大きな役ではないが、彼のエピソードが映画の背骨になっている。
役所広司は閑職にまわされた男のすねた表情を時々見せ、「Shall We ダンス?」とまったく違う、アクの強い中年像を作り上げている。黒木瞳は今が華だ。男に愛されて輝いていくが、死へしかゆきつかない女の不毛な美しさに説得力をあたえたのは、黒木の寂しげな表情で、彼女なしにはこの映画は成立しなかったろう。
英語字幕つきの海外版で見る。凛子のニックネームの「楷書の君」は Mrs. Printになっていた。活字のような字を書く夫人という意味だろう。英訳はこなれていて、勉強になったが、ラストの道行にかぶさるナレーションの「レンゲの原」を Field of Lotusにしたのは確信犯か。
ハーディーの「日蔭者ジュード」の映画化。学問の都、クライストミンスター(オックスフォードがモデルだが、撮影はエジンバラ)にあこがれ、学問の道にすすもうとするが、石工で終わり、婚外結婚のために世間からつまはじきされ、ついには子供の自殺にあう男の半生を力強い映像で描いている。これだけ古典的な美しさをもった、堂々たる映画を、長編二作目の若い監督がつくりあげるとは!
冒頭の恩師のフィロットソン先生のクライストミンスターへの引っ越しの場面、つづく麦畑の場面はモノクロで撮られていて、寒々とした感触が印象的。
次の場面では青年になったジュードがあらわれ、村娘にからかわれ、その一人とねんごろになって結婚する破目になる経過が、暖色系の映像で描かれる。
結婚生活は一転して寒々として色調にもどり、雪の朝の豚殺しの場面で夫婦の性格の不一致がはっきりする。大伯母の家にもどったジュードは離婚を考えるが、妻の方が家を出て、両親とともにオーストラリアに移住してしまう。
一人になったジュードは、恩師のいるあこがれのクライストミンスターへ移ることを決心する。大学町に引っ越すといっても、彼は学生ではなく、一介の石工だが、都会の華やいだ雰囲気に画面はにわかに華やかになる。
その華やかさにさらに色を添えるように、従妹のスーとの出会いがある。スーが同じクライストミンスターにいると大伯母から知らされたジュードは、彼女が働く美術工芸の店をおとずれるが、羽ペンで飾り文字を書いているスーのあでやかな姿に気遅れして、自己紹介せずに帰ってくる。
スーはケイト・ウィンスレットで、飾り文字から目をあげる瞬間、輝くばかりに美しい。ジュードが気遅れするのもわかる。
やがて、スーの方から石工の仕事場に会いに来て、交際がはじまるが、煙草をすったり、思想的な議論をしたり、知的でちょっと生意気な娘を魅力的に演じていて、ケイト・ウィンスレットは貴族のお嬢様からちょっと芸域を広げた。
スーは美術工芸の店を馘になり、クライストミンスターから去らなければならなくなるが、彼女と別れたくないジュードは、フィロットソン先生のところに相談にいく。再会したフィロットソン先生は、かつての希望がやぶれ、しがない小学校教師をしているが、助教がちょうどやめたところなので、教師志望のスーを助教に採用してくれる。
ここで映画はまた寒色系になる。スーはフィロットソンの世話で私生活にまでうるさい全寮制の師範学校にはいり、ジュードはその町に移るが、雨の夜、スーが彼の下宿に逃げてきて、それが原因で退学になってしまう。
師範学校を追いだされたスーは、かねて求婚していたフィロットソンと結婚する。ジュードはただ一人の親戚として、結婚式で父親代わりをつとめるものの、二人は愛しあっていて、新居を訪ねてくる彼との時間が苦しいものになる。
スーはフィロットソンとわかれ、ジュードのもとにやってくる。二人は各地を転々としながら生活し、次々と子供が生まれて幸せそうだ。オーストラリアの先妻の両親のもとから、暗い顔をしたジュードの息子を引き取った後も幸せはつづくが、正式に結婚していないことから、教会の仕事を追われたりして、だんだん映画は寒色系になる。
クライストミンスターにもどり、雨の中、夜まで一家で下宿を探し歩くシーンは痛ましい。正式に結婚していないことが障害なのだが、子供にそんなことを話してもわからないので、スーは子供が多いから断られると長男に言う。
翌日、ジュードの仕事が決まり、やっと一息つくが、スーの言葉が引き金になって悲劇が起こる。長男は三人の妹弟を殺し、「ぼくたちは多すぎる」という書き置きを残して、自分も自殺してしまう。青ざめた子供たちの死体のならぶ姿に、スーは精神を打ち砕かれ、迷信深い陰鬱な女になってしまう。輝くばかりに美しく、不羈の心をもったスーが、「あなたの息子がわたしの子供たちを殺した」とまで言うのだから痛切だ。
パリそっくりに作られた月面植民地の話で、新旧の凱旋門と、途中まで作りかけのエッフェル塔が低い建物群の上にそびえる街並みが舞台になる。そこは首に青い痣のある独裁者一族が支配しているが、青い痣の遺伝病の進行を食いとめるには臓器移植が必要で、臓器提供者になるはずの男をめぐって、一族内部の権力闘争がからみ、ややこしく話が転がっていく。最初の方で暗殺されたはずのミッシェル・ピッコリが次の画面では独裁者の大統領として登場し、夢の中の話かなと思っていると、双子だったとわかる。
外国のコミック雑誌のような、ちょっと褪せた色調で統一されていて、チープなムードがあるが、うまく流れに乗れなかった。まったくノリで出来ている映画なので、乗れないのは苦しい。もう一度、見れば、おもしろいかもしれない。
チープな出来にしてはキャストは豪華で、ジュリー・デルピーは娼婦をよそおう女スパイの役。娼婦の時には黒か赤のおかっぱの鬘をかぶって登場。無表情な冷たい顔は山口小夜子あたりを意識したものか。鬘を脱いで地の金髪でパーティの人波の間を歩くシーンなど、華奢な女の子にもどる。ストーリーには乗れなかったが、彼女のコスプレだけは楽しめた。
「プリティ・ウーマン」以来の傑作という評判は当り。おもしろかった。
二七歳までにお互い結婚しなかったら、結婚しようねと約束して、秘かに当てにしていたスポーツ記者の男友達から、結婚することになったと電話があり、ジュリア・ロバーツの料理評論家はずっこけてしまう。
結婚式に出るためというより、男友達をとりかえすために、彼女はシカゴに飛ぶが、相手の女性は二〇歳で富豪のお嬢様。キャメロン・ディアスは陽性の魅力を輝くばかりに発揮していて、これじゃジュリア・ロバーツもあせるなと納得。
ゲイの編集者を贋の恋人にするために呼びつけ、少女漫画的なやりとりがいろいろあり、男友達の上司の編集長に、婚約者の父親で球団オーナーのコンピュータから、婿を馘にしてくれという贋のメールを出すことまでやるが、結局、仲を裂くことはできない。
あきらめた彼女は、やっと素直になって、男友達に真情を打ち明けるが、それを聞いたキャメロン・ディアスは傷つき、式が迫っているというのに失踪してしまう。
球場のトイレでジュリア・ロバーツが発見するのだが、お上品にすましていたキャメロン・ディアスが激しく罵るのは迫力がある。「マスク」の時はただの美人女優かと思ったが、「フィーリング・ミネソタ」のあばずれ女からお嬢様まで、芸域が広い。
ラスト、めでたく男友達は結婚し、その席上、ジュリア・ロバーツはスピーチをするのだが、このスピーチは後味がよい。トップ女優の貫禄だろう。
ゲロゲロ。「狼男アメリカン」という1981年の映画の続編だそうな。邦題の「ファングルフ」は日本で作った造語で、原題は「パリにあらわれた狼男アメリカン」。
雨の夜、オペラ座の前のマンホールから男が飛びだしてくる。男はなにかから逃げているようで、タクシーを呼び止めるが、地下鉄の換気口の上をまたいだ時、地下に引きずりこまれてしまう。なんともチープな出だし。
一転してスペインからフランスへ向かう列車の車中。脳天気で無神経でバカなアメリカの学生三人組が、度胸試しを競いながら、ヨーロッパを旅行している。夜、エッフェル塔によじのぼるが、仲間から臆病と見られていたアンディは、バンジージャンプのゴムを用意して、展望台から飛びおりようとして止められる。
そこに投身自殺をしようとするセラフィーヌ(ジュリー・デルピー)があらわれる。星明りで青く浮かびあがる彼女の横顔は美しいが、身投げをした彼女をバンジー・ジャンプで助けてしまうというお馬鹿な展開。
アンディは地上から跳ねかえってきた反動で、塔の鉄骨に頭をぶつけてしまい、入院している。彼は仲間にセラフィーヌ探しを頼むが、病院の廊下を看護婦の白衣で歩いている彼女を見かける。この一瞬のジュリー・デルピーは美しいのだが……。
パリの街路を自転車で走りまわるジュリーもかわいいし、狼男になってしまったことに気がついていないアンディに、心臓のジュースを飲ませようと、胸をあらわにして迫る姿は痛ましくさえある。
ジュリー・デルピーよ、なんでこんな映画に出てしまったのか。
ラストの自由の女神からバンジー・ジャンプするシーンは悲しかった。こんなことをやっていたら、ナスターシャ・キンスキーの二の舞だ。
意外におもしろかった。TV版は石田ゆり子の持ち味で天然ボケのコメディになっているが、映画版は毒を隠し味にした辛口のコメディで、クスクス笑いで楽しんだ。
TV版は夫以外、すべてかっこよく作ってあるが、こちらは根津甚八の脂ぎった宣伝マン、鈴木一真のイタリアおたくの音楽評論家、ぼけ気味の会長と、伊丹映画なみにデフォルメされている。冒頭、麻也子と会食する醜男の弁護士は石原良純で、くどさにおいて救いがない。
南果歩はけばくて、30代人妻の欲求不満でむんむんした感じをうまく出している。石田ゆり子は清楚すぎるのだが、幅広い視聴者を相手にするTVではしょうがないのかもしれない。
鷲尾いさ子のバーテンの役は映画オリジナルだそうだが、麻也子を相対化するために出したのだろう。麻也子の離婚成立後、麻也子をめぐる三人の男が彼女のバーで愚痴をいうシーンで、彼女が外へ出ていくと、男たちもついていき、深夜のプール彼女につづいて飛びこんでいく。次の場面で、赤ん坊を籠にいれた彼女がバスで麻也子と出会う。父親は誰か、結婚しているのか、未婚の母なんて損ではないのかとたたみかける麻也子に、誰の子供かわらないと涼やかに答えて、にこにこしている。あのプールの場面の後に妊娠したのだろうが、俗物ばかりで、全体に暑苦しい映画が、彼女の巫女的な神秘性で救われた。
この映画には、もう一人、巫女的な女性が登場する。南果歩と水島かおりに不倫指南をする占い師風のエステサロンの店長の余貴美子で、いつもながらの怪演。
ヘミングウェイの若い日の失恋を描いた一種の伝記映画だが、なんだ、これは。
主人公はお祭り小僧で、第一次大戦が最後の戦争になるかもしれないというので、年齢をごまかして看護隊にもぐりこみ、イタリアの前線につくと、頼まれもしないのに最前線の塹壕に出かけていって負傷する。修道院を改造した病院にかつぎこまれると、従軍看護婦とねんごろになり、アメリカに送還されるや、負傷兵第一号としてスターあつかいされる。勲章のダシにされた、死んだイタリア人兵士がかわいそうではないか。
壊疽で片脚切断になるところを、サンドラ・ブロックの演ずる看護婦が、献身的な看護をして助け、二人は恋に落ちるが、彼女は年下のヘミングウェーをガキあつかいしてふってしまい、ヴェネツィア貴族の軍医との結婚を考える。
しかし、ヘミングウェーを忘れられない彼女は、結婚を断って帰国し、湖畔の別荘に訪ねていくが、自尊心を傷つけられて荒れている彼は、彼女を追いかえしてしまう。
主人公がヘミングウェイで、ヒロインが『武器よさらば』のモデルだったという以外はまったく意味のない映画ではないか。アッテンボローは老いたか。
忙しい映画だが、傑作だ。説明らしい説明がまったくないまま、訴訟あり、投獄あり、ルイ十五世と十六世の交代あり、王の密偵あり、アメリカ独立戦争への加担あり、女優との火遊びあり、劇作あり、著作権協会を結成してコメディー・フランセーズの役者との対決あり、コンティ公との交友あり、そして「フィガロの結婚」の初演ありという40歳前後のボーマルシェの超人的な生活が駆け足で描かれる。
ファブリス・ルキーニはフランスの橋爪功だ。早口でせかせか動きまわり、「フィガロの結婚」初演では、不安でいっそうせかせかするのだが、ロココの鋭さと激しさ、楽しさ、軽やかさを全身からあふれさせていて、こっちまでテンションが高くなる。この役ができるのは、彼と橋爪くらいだろう。
視点人物となるのは、ヴォルテールの推薦で秘書となり、後に伝記を書いたギュダンで、マニュエル・ブランは青年のナイーブさを出していてよかった。
愛人のマリーのサンドリーヌ・キベルランは、やけに貧乏臭い顔で、「哀しみのスパイ」と同じ女優とはわからなかった。わざわざ貧相な顔にメイクしたのは、実在のマリーにあわせたのか(歴史上の有名人はあきれるくらい似ていた)。
ロビーでセザール賞の衣装部門で受賞したのを記念して、ボーマルシェとマリーの衣装をロビーで展示していたが、どちらも小柄で170cm前後か。ボーマルシェの衣装はスエードで、裏地とキュロットは麻。マリーの方は絹。キベルランは大柄なグラマーかと思ったが、細く華奢らしい。
バックステージものと刑事ものをドッキングさせている。いつもながらよく考えてあるのだが、伊丹臭が鼻につく。映画の流れが弱く、見ていて楽しくない。身辺警護の刑事のコンビも期待はずれ。
ただし、宮本信子はよい。今までで一番かわいく撮れている。犯人(高橋)を泣きで落とす取り調べ官の名古屋章もいい味を出しているし、江守徹の教団弁護士の爬虫類的気持ち悪さも伊丹映画らしい。
グローブ座で「アントニーとクレオパトラ」に主演するシーンはクライマックスではなかった。TV局の編成局長(津川雅彦)との不倫を教団にばらされて、中年女性の団体客のキャンセルがあいつぎ、窮地に立たされるという設定で引っ張るのは苦しい。
あんまり評判がいいので、すべりこみで見たが、こういう直球映画はかったるい。
冒頭の電波のやかましい地球からどんどん離れていき、それとともに静寂が支配していくシークェンスはおもしろいが、ジョディ・フォスターがポッドに乗ってワームホールに突入し、父親の姿をとった宇宙人と出会うシーンには「2001年宇宙の旅」を思いださざるをえない。「2001年」がそれだけ偉大だったということだが。
クリントン大統領が何度も出てきたり(出すぎ)、ラストのワシントン・スクェアの大群衆の場面では、「フォレスト・ガンプ」の影がちらつく。
唯物論者で、信仰を馬鹿にしていた自信たっぷりのジョディ・フォスターが、最後の査問で、ワームホールの 18時間の体験を幻覚だと認められるように迫られるシーンはかなり見ごたえがあったが、最初の候補からはずされる質問をしたマシュー・マコノヒーに、北海道の基地で「君を失うのがつらかったからだ」と言わせたのが響いて、興がそがれた。信仰の倫理を前面に出していれば、もっと芯の通った作品になっていただろうに。