アメリカでこけて制作費も回収できないとか、さんざんな悪評を聞いて、見るのが億劫になっていたが、おもしろいではないか。傑作だ、とあえて言おう。「レオン」ほどではないが。
確かに、エジプトの砂漠の遺跡にグロテスクな宇宙船が降りてくるファーストシーンはともかくとして、つづく23世紀のシーンは気恥ずかしくなるくらいちゃちだし、どこかで見たような宇宙船も飛んでいる。「こんな未来は見たことない」というコピーで宣伝していたが、SFXに関する限り、焼き直しばかりだ。ガジェットだらけの主人公のアパートメントはオリジナルだが、冴えているとはいいにくい。ヒトラー風のメイクのゲーリー・オールドマンもどうかと思う。
しかし、ミラ・ジョコヴィッチのリールーが逃げだすシーンから、ベッソンの映画になる。超高層ビルの外壁に追いつめられたリールーは、空中自動車がビュンビュン飛びまわる空間に身を躍らせる。この時の心細い表情は切ない。
コーベン・ダラスのタクシーの後部座席に彼女が降ってくるのだが、パトカーが横づけし、逮捕されそうになった彼女が必死に助けを求める表情にズキンときた。彼女は「レオン」のナタリー・ポートマンと同じ目をしている。
五千年間の人類史を吸収するためにコンピュータの百科事典を見つめる彼女が「War」の項目に出くわした時の表情も忘れられない。
フレンチコミック風の歌舞いた映像に目を奪われると、この映画のよさはわからない。カラフルでゴテゴテした映像の底流に、血を流している魂の音楽が流れている。
「ラヂオ」とあるので昔の話かと思ったら、現代の話だった。93年初演の戯曲の映画化だそうで、新人の脚本を深夜枠で生放送するという設定のバックステージもの。
評判のいい作品だが、最初は快調なものの、中だるみが苦しい。多分、舞台はおもしろいのだろう。主演女優がごねて、熱海のパチンコ屋につとめる主婦が外人になり、ニューヨークのやり手女弁護士になり、舞台がシカゴに移り、ダムが決壊し、ついには恋人が宇宙パイロットになって、宇宙で遭難するというように、話が際限なくふくらんでいくおもしろさは、制約の多い舞台では映えるが、時間・空間が自由になる映画では不自然さが目立つ。マシンガンの音が急に必要になったので、警備員になっているかつての効果マンを探しだし、音作りを教えてもらうという見せ場も無理がある。映画向けに脚本を練りなおすべきだったと思う。
ただ、アルトマンの映画のように、一癖ある登場人物を描きわける手並みはみごとで、周り中にぺこぺこしているプロデューサーの西村、生真面目な駈けだし脚本家の鈴木京香、軽い編成の布施明、警備員になっているかつての効果マンの藤村俊二、変に屈折して意固地な声優の細川俊之と、印象的な面々が脳裏に浮かんでくる。
日本では未上演だが、「レディース・ルーム」というロスアンジェルスの女子トイレを舞台にした芝居があって、ロミーとミッシェルというお馬鹿な二人組が主役を食うほどの評判をとったという。それをあてこんで、二人を主役にしたこの映画ができたらしい。ミッシェル役のクードローは「レディース・ルーム」初演以来、ずっとこの役をやっているとか。
元の芝居を見ていないのでわからないが、二人が高校時代からみそっかす同志の親友だったとか、ケバい服装で田舎町で浮いていたとか、ミッシェルが脊椎矯正のために鉄輪を首にはめていたとかの肉づけは、高校の同窓会に錦を飾ろうと無理をするというストーリーにあわせたような気がする。
ロミーのお馬鹿ぶりは、配車係で働いている場面で十分わかる。長蛇の列が出来ているのに、たまたまやってきた高校時代のクラスメート(煙草の紙を発明して億万長者になっている)から高校の同窓会があると聞くと、待っている客を尻目に、ミッシェルに電話をかけて、同窓会の話をはじめる。長話になるんだろうな。現実には絶対出会いたくないタイプの女だ。
ロスで都会的に変身した自分たちを、馬鹿にしたクラスメートに見せて留飲を下げたいと思うが、所詮、ロミーは配車係、ミッシェルは失業中、しかも男はいない。これでは見かえせないので、シェープアップと男探し、職探しをはじめるが、二週間では無理。
そこで、ポストイットを発明して億万長者になったことにして、キャリアウーマン風に装い、ツーソンの同窓会に乗こんでいくが、脇役にされたミッシェルが腹を立てて、二人は仲違いする。
ポストイットを発明したという嘘はもちろんばれて、二人は笑いものにされるが、そこでめげないのがロミーの偉いところ。キャリアウーマン風の黒の衣装から、ケバいいつもの服に着替え、二人で会場に堂々ともどってくる。ヴォーグの記者をやっているクラスメートが助け船を出してセンスを誉め、かつてミッシェルに恋していた冴えない男が、タイヤの発明で億万長者になり、ヘリコプターで登場して、ハッピーエンド。
ギャグがよくわからないので、おもしろさはもう一つだし、仲直りした二人が億万長者と三人で踊るシーンはとってつけたような印象がある。
しかし、ミラ・ソルヴィーノはお馬鹿な役がよく似合う。煙草の紙を発明したもてないクラスメートのガラファアラも印象的。
パニック映画だが、意外な拾い物。「ツィスター」よりまし。
ロスアンジェルスに火山ができて、溶岩流が美術館や住宅地、病院を襲いそうになり、OEM局長のトミー・リー・ジョーンズが陣頭指揮で食い止める。ヒロインをはじめとして、地味な役者を使い、SFXを充実させたが、これがうまくいっている。
地質学者でヒロインのアン・ヘイチは線の細いジョディ・フォスターという感じだが、出すぎないのがいい。主人公の娘のギャビー・ホフマンは「フィールド・オブ・ドリームス」に出ていた女の子だそうだが、これから伸びるだろう。
陰謀史観マニアのタクシー運転手、フレッチャーが、実は秘密機関から逃げだして記憶を失った暗殺要員だったという話。「ロング・キス・グッドナイト」から日にちがたっていないので、新鮮さはない。
彼は秘密機関の存在に気づきかけた判事の暗殺を命じられるが、判事の娘のアリス(ジュリア・ロバーツ)に一目ぼれして殺せなくなり、洗脳して殺人マシンを作る機関の内情をうちあける。判事は別の暗殺要員に殺され、死体が隠される。記憶を失った彼は、恐怖心から陰謀史観マニアになり、司法省の弁護士をやっているアリスを蔭ながら見守っている。しかし、秘密機関は彼が発行しているニューズレターから彼を発見し、魔の手をのばしてくる。アリスも巻きこまれるという、予想通りの展開。
考えすぎの脚本で、ごちゃごちゃしていて、頭が痛くなってくる。途中で帰る人がけっこういた。
主人公は「ライ麦畑でつかまえて」(有名な暗殺犯はみんな家に持っていたという説があるらしい)を手元におかなくてはいられないようにプログラムされていて、要塞化した部屋を逃げだした後、本屋で「ライ麦」を買うと、バーコードリーダーから情報がいって、たちまち秘密機関の知るところとなるというエピソードは、大真面目に作ってあるが、あまりにも無理。
これだけ駄目な脚本で、大統領を暗殺するために、訪問先のトルコで人工地震をおこすなんていうよた話がはいっていても、予算をつぎこんで大スターをそろえると、最後までどうにか見ることのできる作品になる。
傑作。封切時に見ればよかった。
貧しく死んだゴッホ以降、美術界は天才を見逃しているのではないかという強迫観念にとらわれている、という皮肉なナレーションの後、公園(タイムズ・スクェア)の段ボール箱から出てくるバスキア。街を歩いてはスプレーで落書きし、ランチではいったダイナーでは、テーブルの上にソースをのばし、フォークでスケッチを描く。そこへ、やはり貧乏芸術家が集まってきて、コックはにらみつけ、追いだそうとするが、ウェートレスのジーナがとりなしてくれる(クレア・フォラーニがいい味を出している)。バスキアは彼女をクラブに誘うが、彼女はあんな子供のいくところといなす。
しかし、バンドの仲間とクラブに出演していると、心細そうな顔をした彼女が一人ではいってくる。彼が声をかけると「はじめて来たの」と打ち明ける。彼は外へ出ようといい、タクシーをひろおうとするが、彼では止まらない。彼女がタクシーを止めて、彼女の部屋へ。
無名時代のバスキアは最高にチャーミングで、ジーナも輝いている。画廊に電気工事の作業員として仕事にいき、相棒(ウィレム・デフォー)に画家だと自己紹介すると、相棒の方は彫刻家だという。今年で40になるが、売れなかったおかげで成長できたという。それが負け惜しみくさくなく、飄々としていい感じなのだ。成功法を伝授してくれる貧乏芸術家仲間もおもしろい。
アンディ・ウォホールに葉書大の絵を10ドルで売りつけたあたりから運が上向きはじめ、美術評論家のルネが記事を書いてくれたことから、あっと言う間に注目を集め、売れっ子になる。
売れだすと、チャーミングな魅力はなくなり、貧乏芸術家仲間ともまずくなり、ジーナともわかれる。売りこんでくれたルネとも仲違いし、画廊もつぎつぎと代えていく。孤独になったバスキアの唯一の友人はアンディ・ウォホールだったが、世間は「バスキアは利用されている」と噂する。
バスキアの伝記的事実を、辛辣なTVインタビューの収録場面で伝える趣向はうまい。「黒い画家」といわれて、「黒以外も使う」といなし、「黒人ではなく、ハイチとヨーロッパのクレオールだ」と答える。父親が会計士で中流家庭の出身なのに、なぜゲットーにいたのかという意地悪な質問には、「でも、街のみんなぼくの落書きを楽しんでくれる」と答える。
白髪で、いつも白い服を着ているウォホールはデヴィッド・ボウイが演じているが、なよなよした独特のしぐさを再現している。ああいう人だったのだろう。
ウォホールの死にショックを受けた彼は、夜なのに母親の入院している精神病院にいくが、門のところで追いかえされる。朝の街路を、胸をはだけたパジャマ姿で茫然と歩く姿は痛ましい。
二本立ての二本目に見た。途中、頭痛がはじまったが、おもしろくて最後まで見通す。デヴィッド・ヘルフゴットという実在のピアニストの数奇な実話で、サンダンス映画祭グランプリ受賞。
デヴィッドはオーストラリアの貧しいポーランド系ユダヤ人の家庭に生まれ、独学で音楽を勉強した労働者の父親に、幼児期からピアノをしこまれ、神童の評判をとる。彼のピアノにほれこんだ音楽家が無償で教授を申し出る。父親はラフマニノフのピアノ協奏曲三番を教えろと言い張るが、音楽家は難曲すぎると拒絶。
アイザック・スターンからアメリカ留学の推薦を受け、教会や市長がパーティを開いて費用を募金するが、父親は急に心変わりし、家庭を崩壊させる気かと反対し、留学をやめさせてしまう。星一徹風の頑固オヤジかと思ったが、単なる偏執狂のエゴイストではないか。
十七歳の時、ロンドン王立音楽院から留学の話がある。父親はやめさせようとするが、デヴィッドは勘当覚悟でイギリスにゆく。
音楽院でも頭角をあらわし、学内コンクールの決勝に勝ちのこる。彼は父親のいわくつきのラフマニノフのピアノ協奏曲三番を猛練習し、決勝でみごとに弾きこなすが、拍手をあびながら、倒れてしまう。
廃人同様になって帰国し、実家に電話するが、父親は勘当した息子を許さない。
一転して、精神病院。中年になったデヴィッド(映画冒頭のシーンで、閉店したレストランを訪ねてきた頭のおかしな男だ)。
ボランティアでピアノを弾きに来ている女性の楽譜をめくってやる。彼女は楽譜が読める患者に興味を持ち、名前を聞く。彼女は驚いて言う。「コンクールであなたのピアノを聞いた。わたしはファンだった」。
彼女はデヴィッドを引きとるが、家は散らかし放題、教会でオルガンを弾いていると乳房をさわってくるようになり、古ピアノのついた下宿にやっかいばらいする。家主は音がうるさいので、夜はピアノに鍵をかける。ピアノを弾きたくてたまらない彼は、雨をついて出歩き、閉店後の後片づけをしているレストランにやってくる(冒頭のシーン)。
次の夜、営業時間にレストランにやってきた彼は、追いだされそうになるが、ピアノを弾きはじめると、超絶的な腕前に客は喝采をおくる。彼はレストラン専属のピアニストになり、レストランの二階に住むようになる。
ウェートレスに友人の星占い師を紹介される。星占い師は子供が独立して悠々自適の未亡人だが、裕福な投資コンサルタントと再婚が決まっている。別れ際に、デヴィッドは彼女を離そうとせず、結婚してくれという。デヴィッドとの相性をコンピュータで調べると、あまりにもぴったりなので、彼女は彼と再婚する。リサイタルの成功。
傑作だと思うが、オーストラリアの映画には繊細な神経をもった芸術家や子供が精神を病む映画が多い。しかも、みんな実話だ。
マッチョな土地柄なので、繊細に生まれつくと不幸になるのだろうか。
ゴージャスでポジティブな映画。「アニー・ホール」を越える傑作ではないか。
ウッディ・アレンの映画には屈折がつきものだが、前作あたりから、アレン自身が演じる男の屈折に限定され、作品としてはまっすぐになってきている。照れ隠しのひねりはあるが、今回もまっすぐな映画で、しかも多彩な人物をあたたかく描きわけている。陳腐な言い方だが、「成熟」したのだろう。
ミュージカル・シーンは、50年代風のロマンチックでなめらかな作りだが、宝石店のシーンでわざとドタドタしたり、葬儀場でゴーストたちに踊らせたり、ひねりが効いている。
語り手はDJというニックネームの女子大生。彼女の母親(ゴルディ・ホーン)は大金持ちに生まれたことを恥じて社会活動に熱心。作家の前夫(アレン)と別れて、四人の連れ子のいる弁護士(アラン・アルダ)と再婚するが、前夫は女に逃げられたといっては泣きついてくる(笑)。
連れ子の一番上はコロンビア大の学生で、弁護士志望のホールデン(エドワード・ノートン)と婚約中のスカイラー(ドリュー・バリモア)。母親が誕生日に呼んだ仮釈放中のチャールズ・フェリー(ティム・ロス!)に熱いキスをされて夢中になり、一時、婚約を破棄する。
二番目はリベラルな家族の中で唯一共和党支持のスコット(ルーカス・ハース)。ラストで脳の血行障害とわかり、治療を受けると民主党支持に転向。
三番目と四番目は二卵性双生児で、ナタリー・ポートマンとギャビー・ホフマン。
前夫が恋する人妻にジュリア・ロバーツ。自分は知的だと思っているが、本当はスノッブで凡庸な美女という役柄はそのままではないか。彼女が歌うシーンもあるが、下手。本当に下手らしい。
ニューヨークが舞台だが、ジュリア・ロバーツと出会うヴェネツィア、前夫が住んでいるパリが登場。ラスト、一家はパリでクリスマスを過ごすが、またしてもふられた前夫がしょんぼりあらわれる。ゴルディ・ホーンは彼を励まし、ポン・ヌフの下の河岸で踊るが、このラスト・シーンは最高。ゴルディ・ホーンはここを見せ場にするためにおさえていたのか、魅力全開。宙を飛ぶ踊りはロマンチックだし、「永遠に美しく……」よりも若返った印象がある。
ハイジャックもの。意外によかった。
凶悪犯を満載した囚人輸送機に、仮釈放になるニコラス・ケイジが同房で糖尿病もちの黒人服役囚と同乗するが、周到な計画でハイジャックされてしまう。主犯のジョン・マルコビッチはスキンヘッドに冷たい目で、堂にいっている。
最初にニコラス・ケイジが妊娠中の妻を酔漢からかばって殺してしまったこと、そして、刑務所内でいかに模範囚だったかが説明される。この説明で、途中、着陸した空港でおりられたのに、インシュリン注射を二時間以内に受けないと死んでしまう親友の囚人と、レイプされかけた女看守のために飛行機にとどまった必然性を納得させようというわけだが、御都合主義であることにかわりはない。作り物だから、うるさいことは言わないが、二つ理由を用意したことことからすると、脚本家も自信がないのだろう。
地上で追跡の指揮をとるのはジョン・キューザックで、生意気な指揮ぶりに、たたきあげの麻薬取締官との間で確執があるのはお約束。
途中の空港で30人を殺した連続殺人鬼がレクター博士のようにマウスピースをかまされ、車椅子に拘束された状態で運ばれてくる。誰かと思ったら、スティーブ・ブシェミ。
砂漠の廃空港で飛行機を乗り換える計画だが、車輪カバーにはさまった死体を投げ落とすことを命じられた主人公が死体のシャツに目的地を書いて投下したことから、州兵が空港に急行。囚人側が待ち伏せて、全滅しかけるが、主人公とキューザックの活躍で盛りかえす。
輸送機は囚人たちを乗せてまた飛び上がり、ラスベガス上空に。ここまで、ハイジャックものにしては低予算だという印象だったが、ラストのラスベガスのメインストリートに胴体着陸するシーンに、集中的にお金をかけたらしい。
マルコビッチはそれでも逃れ、消防車を奪って逃げ、ケイジとキューザックは白バイで追跡。このあたりにくると、もう満腹だが、アメリカの観客は貪欲だ。
ミロシュ・フォアマンの映画なのに、公開されたことすら知らなかった。日本ではラリー・フリントの知名度が低いので、あたるはずはないが、いい作品である。見ることができて、ラッキーだった。
「ハスラー」の社主で、たびたび訴訟沙汰をおこしてきたラリー・フリントの一代記で、密造酒を弟と売りあるいた貧しい少年時代のシーンのあと、ストリップ(「エキゾチカ」そっくりのシステム)を売り物にした場末のナイトクラブ「ハスラー」のオーナーになるが、広告がうてないので、「ハスラー」の会報という形でヌード満載のパンフレットを作る。この会報があたり、「ハスラー」を創刊するや、たちまち大雑誌に成長し、シンシナチに本拠をおいた総合出版社として発展する。フリントは大富豪になるが、猥褻な写真と下品な挑発に世間の風当たりも強く、次々と裁判を起こされる。
映画はフリントを中心に、クラブ時代のストリッパーで、ラリーの妻になるアリシア(ロック歌手のコートニー・ラブ)と、最初の裁判の弁護を引き受けて以来、ラリーの盟友となる弁護士のアラン・アイザックマン(ノートン)の二人をからめて描く。
カーター大統領の妹で熱烈な福音主義者のジーン・カーターに籠絡されて、宗教がかったり、ジョージア州の裁判所を出たところで狙撃されて下半身不随になり、痛みをおさえるために、妻ともども麻薬中毒になるが、フリントは脊椎の手術で復活する。
車椅子で社に復帰すると、エイズに侵された妻はつまはじきされている。重役たちに妻と握手させるシーンは泣かせる。
TV伝道師をマンガでからかったことから、訴訟になり、最高裁までいく。最高裁
で勝訴するところで終わるが、「ハスラー」のような雑誌でも、誇り高く作り、堂々と弁論する姿はかっこいい。
封切時にはどうせげてものだろうとパスしたが、正解だった。まさにげてもの。
予告編を見た時は「耳なし芳一」と勘違いしているのではないかと思ったが、子供の誕生日に、父親が顔に筆で名前を書く風習があるとか、確信犯的にめちゃくちゃをやっている。
おもしろければめちゃくちゃでもかまわないが、つまらないのである。アジア・バロックをねらったらしいが、ヒロインの清原諾子(ナギコ)は中国系のビビアン・ウーで、緒方拳とジュディ・オングの間に生まれたという設定。叔母さんが吉田日出子で、京都のしもた屋に暮らしている。
緒方拳は売れない作家で、出版社の社長のヨシ・オイダにおかまを掘られることで、生計を立てている。オイダの出版社は家内工業的だが、ヒロインが成人する頃には、香港に移り、小さなビルの書店兼出版社になっている。
諾子の恋人はオイダのホモの愛人でもあって、彼は自分の身体に諾子の原稿を書かせる。オイダは出版を決めるが、愛人を殺し、皮をはいで、表装して自分用の本にする。諾子はオイダに復讐するために、さまざまな男の裸に原稿を書き、オイダに送りつける。
ブトウ風の白塗りした身体に書きつけた文字は美しくないし、書いてある文句も馬鹿げている。
シャンテ・シネ3と予告されていたが、ヒットしているのか、2に移っていた。はたして満員の盛況。メイル・ストリップの話なので、若い女性が多いのは当然として、中高年もずいぶんはいっていた。失業の話だというのが口コミで広まっているのか。
1970年ごろにできた、ヨークシャーのシェフィールド製鉄所の開所式を伝えるニュース・フィルムからはじまる。最新設備をそろえた工場を誇らしげに紹介するが、「その25年後」というテロップがはいって、本編がはじまる。
解雇された鉄鋼労働者のガズ(カーライル)が、息子のネイサン(スネーブ)と元同僚でふとっちょのデイブ(アディ)と、廃工場にH型鋼を盗みにはいっている。H型鋼なんか盗んでもしょうがないのだが、警備員に扉を締められ、川をわたって逃げる破目に。川に浮いた廃車の上に乗り、H型鋼を橋にしようとするのだが、息子がわたったところで、鋼材は落ちてしまう。廃車の屋根の上で戸惑っている間の抜けた顔がなんともおかしい。
ガズは離婚しているが、養育費が払えず、別れた妻から息子に単独親権を設定すると通告される。せっぱつまって、デイブを誘ってメイル・ストリップのチームを作ろうとする。元の上役で、やはり失業中のジェラルド(ウィルキンソン)を無理やりひっぱりこむ。
ジェラルドは再就職が決まるまで妻に失業したことを隠そうとしているが、妻はカードで買い物をしまくるので、ついに差し押さえが来てしまう。管理職のプライドどころではなくなる。
デイブは太っていることを気にしていて、ラップを腹に巻くなどのダイエット法も効果がでず、途中で抜けるが、浮気の疑いを晴らすために、急遽、出演する。
ガズは舞台がはじまる直前、おじけづいて出場を拒否するが、息子から軽蔑されて心を決める。
失業して誇りを失ったといっても、三人ともまだまだかかえこんでいるものがあって、裸になりきれない。ガズは息子、デイブは妻、ジェラルドはプライドのために裸になるのだが、このあたり階級社会なのだろう。
演出は洒落ていて、チームにゲイのカップルが誕生するところなど、さりげなく描いて、おかしみを引き立てている。
やっと見ることができた。ヴェネツィア映画祭金獅子賞ということだが、女の子の心理をいとおしげに撮ったいつもながらのロメール映画で、特別、光っているとは思わない。期待が大きすぎたか。
ヒロインは二〇代後半のOLで、ロメールにしてはやや年齢が高め。ヴァカンスの近い七月二日、いっしょに二週間のアイルランド旅行をすることになっていた女友達から行けなくなったという電話があり、今年の夏はどうしようかと悩む。家族や友達に困った、困ったと愚痴るのだが、この会話がなんとも理屈っぽくておもしろい。一人旅は嫌と言うので、友人が団体旅行を勧めると、馬鹿にしないでと怒りだす。フランスでは団体旅行は馬鹿にされているらしい。
シェルブール出身の友達が帰郷するからついてこないかと誘ってくれて、出かけていくが、食事の席で肉は嫌だと言いだし、議論になる。ここも理屈っぽく、楽しんで議論している風でもないが、険悪になるわけでもない。フランス人はこうなのだろう。
友人が五日でパリにもどると、彼女もいっしょに帰ってしまう。知らない人の間でひとりになるのは嫌なのだそうだ。
ボーイフレンドが山の避暑地にいるので出かけていくが、彼はホテルにいず、荷物を預けて一人で散歩する破目になる。夕方、やっと会えるが、もうたくさんとそのままパリに帰ってしまう。
お上りさんしかいないヴァカンス中のパリをつまらなそうに散歩していると、旧友に出会い、ビアリッツの別荘を貸してもらうことになる。
ビアリッツは海辺の保養地で、海岸は芋を洗うような混雑だが、スウェーデン人の若い女性と知りあう。彼女は活発な性格で、アヴァンチュールにも積極的だが、ヒロインはついていけない。
一人で散歩していると、ベンチに老女が集まって、傾きかけた日射しをあびながら、ジュール・ヴェルヌの「緑の光線」の話をしている光景に出くわす。太陽が水平線に没する時、ごくまれに緑色に輝くことがあり、その光をあびると、他人の心が読めるようになるのだという。一人だけ混じっていた老人が、それは科学で説明できると講釈をはじめる(またしても、理屈っぽい!)のだが、ヒロインは心を引かれ、夕方、日没を見にいく。緑の光線は見ることができなかったのだが、ゆっくり沈んでいく太陽は神秘的である。
「獅子座」の女の子版かなと思ったが、ざわざわした日常の中で、特権的な時間を見つける。「レネットとミラベル」に通じる作品である。
「六つの教訓話」の第二作。1963年に作られたモノクロの作品だが、公開は1974年。
パリの学生の主人公が遊び人のどら息子の友人と、その恋人のシュザンヌの間にはいってふりまわされる。シュザンヌは昼間は働き、夜学でイタリア語を勉強している地味な女の子で、主人公はちょっと下に見ている。どら息子ははじめから遊びのつもりで、お金をたかったり、いいようにあしらっているが、最後はいい男を見つけて結婚し、落ち着いてしまう。主人公は自分はガキだったと気がつく。
パッとしない女の子をヒロインにする点が後年のロメールを予感させるが、ずんぐりむっくりだし、ブスだし、もてない女特有のくどい感じがそのまま出ていて、映画に魅力をあたえるところまでいっていない。ソルボンヌの学生生活を一筆書きしているところはおもしろい。