登山家、ハインリヒ・ハラーの回想記にもとづく映画。中国占領下のチベットではロケができないので、地球の真反対のアンデスの奥地にポタラ宮とラサの街並を作ったとのこと。よくできていて、言われなければわからない。
ハラーがラサに辿りつくまでが長い。はしょってもよかったのではないか。望遠鏡を通してしか下々と接触のない十代のダライ・ラマはハラーに関心をもち、宮殿に招いて映写室の建設を依頼する。ダライ・ラマ役のジャムヤン・ジャムツォ・ワンジュクの笑顔に打たれた。魂の高貴さとはこういうことを言うのか。あの笑顔だけでも見た価値があった。
チベットを裏切った若い大臣と、ハラーを助けた元国防大臣は中国系と日系の俳優だが、それ以外はすべて素人のチベット人だという。みな堂々としたものである。ダライ・ラマの母は一四世の実の妹(ジェツン・ペマ)だそうだが、威厳と気品があり、田中眞紀子あたりとは次元が違う。若い娘の仕立屋(ラクパ・ツァムチョエ)ははつらつとしているが、集会で発言する場面になると完全に現代娘の顔になる。新しいチベット人の世代が出てきているのだ。
長距離列車に若い女が乗っている。フラッシュバックでロンドンの学生時代の情景がはさまる。学生時代の彼女、アニー(ステッドマン)は右頬に湿疹ができているうえに、しゃべり方が脳性麻痺のようにおかしく、最初、同一人物とはわからなかった。共同で借りる部屋にはじめて出向き、二人のルームメイトに挨拶するが、この二人もしゃべり方がおかしい。妙に力んでいて、つっかかるようで、発音も変。聞いていて、不快になる。ロンドンの学生は、ああいうしゃべり方をするのだろうか。
列車がロンドンに着くと、ルームメイトの背の高い方のハンナ(カートリッジ)がむかえに来ている。学生時代のようなひっつめ髪ではなく、服装はシックで、しゃべり方もしっかりしている。案内した自宅もお金がかかってそう。キャリア・ガールとしていっぱしやっているわけだ。
旧交をあたため、翌日、新しい家の下見をするというハンナにアニーがつきあうが、その間に学生時代に情景がはさまる。アニーにはじめて言い寄ったのは、リッキーという太った学生だが、しゃべり方が完全に脳性麻痺だし、ずっと目をつぶっていて、不気味である。デートを誘われて断ってしまうと、リッキーは翌日から大学に出てこない。ロンドンから離れた海辺の彼の家に二人で訪ねていくと、祖母が出てきて、海岸にいると言う。海岸でであった彼は、はっきりいって、おかしい。
「秘密と嘘」の場合、里子に出した娘が黒人との混血だったというショッキングな設定だったが、今回の場合、まとめようとしたら小さくまとまりかねないので、あえて観客の神経を逆なでするような要素をほうりこんだものか。
家を案内した不動産屋が、ハンナのセックスフレンドで、アニーともつきあった調子のいい男だったり(アニーのことは覚えておらず、彼女は傷つく)、もう一人のルームメイトと公演ですれちがったり、共同生活していた部屋を見にいくと、リッキーが浮浪者のように座りこんでいたりと、シンクロニシティがつづく。
ブロンテの「嵐が丘」のページを開いて、指でさした言葉で恋を占う遊びが何度も出てくるが、シンクロニシティをテーマにしたというわけではなく、脚本のない作り方をカバーするものだろう。
地方都市を舞台にしたモノクロの映画で、「六つの教訓話」の一編。
パスカルの故郷であるクレルモンの教会のミサからはじまる。一人の女子学生が説教に聞きいっている。金髪をカチューシャでまとめた、彫りの深い、清楚な横顔が、主人公の視線で凝視される。彼女は後にフランソワーズという名前とわかり、主人公と結婚することになるが、正面から見ると、俗っぽい印象だ(横顔の清楚さと正面からの俗っぽさという二面性が伏線になっている)。
原付き自転車で帰っていく彼女を、主人公は車で追いかけるが、地方都市の狭い道路のために見失ってしまう。
主人公は技師で、南米や北米各地に長くいて、最近、フランスにもどり、タイヤ会社に勤めるようになったが、同僚にはなじめないでいる。クリスマス休暇にスキーに誘われるが、断ってしまうが、書店でリセ時代の友人、ヴィダルとばったり出くわす。
ヴィダルは大学教師をやっていて、クリスマス・イブを恋人のモードの家ですごすことになったからと、強引に彼を誘う。二人だけで会うとセックスすることになるので、いっしょに来て欲しいのだという。主人公は共産主義者で無神論者のヴィダルをミサにつきあわせた後、ともにモードの家にいく。
モードは小児科医で、最近、正式に離婚したばかり。一ヶ月後にクレルモンを離れるという。ヴィダルは主人公の前で、これみよがしに彼女と戯れてみせるが、倦怠期にはいった恋人同士が、第三者に見られていることを刺激剤に使っている風でもある。例によって、パスカルについての議論がはいる。
雪が降りだしたので、離れた町(セラ)に住んでいる主人公はモードの家に泊まることになる。ヴィダルも強くすすめるが、モードの家には客間がなく、モードの寝室に寝ることになる。微妙な場面がいくつかあるが、結局、なにもないまま、朝をむかえる。
なにもないとかえって気まずくなり、主人公は早々にモードの家を出るが、カフェで朝食をとっていると、フランソワーズが原付き自転車で通りすぎるのを目にする。彼はあわてて飛びだし、自転車を止めている彼女に声をかけ、自己紹介する。
その夜、クレルモンから自宅に帰ろうとすると、雪の中を原付き自転車に乗ったフランソワーズを見かける。車で送ることになるが、彼女の住む学生寮の手前で車が雪にはまってしまい、彼は学生寮の空いている部屋に泊めてもらうことになる(ここでもなにもない)。
この夜をきっかけに二人はつきあいはじめる。フランソワーズは学生といっても、特別インテリ臭くもない普通の女の子で、はつらつとしていて、魅力がある。彼はフランソワーズに夢中になり、結婚を申しこむが、彼女は「本当の私を知ったら失望する」といって、なかなか承諾しない。
二人で書店にはいった時、ヴィダルと出くわす。ヴィダルは彼女を知っていて、微妙な雰囲気になる。ヴィダルとなにかあったのかとかんぐるが、彼女は別れた恋人はヴィダルではないという。
五年後、二人は結婚している。男の子が生まれていて、一家で海辺で夏のバカンスをすごしている。海岸に降りようとした時、モードと出くわす。モードとフランソワーズは互いに知っている風だが、フランソワーズは気まずそうで、先に浜辺に行ってしまう。
モードは彼がほのめかしていた「金髪のカトリック娘」はフランソワーズのことだったのかと意味ありげにいう。
モードと別れた彼は、フランソワーズの別れた恋人とは、モードの夫だったかと気がつく。
結婚生活のすれ違いを小粋に描いた映画。主人公のパスカル・オジェはロココ絵画から抜けだしきたような華奢で小造りな美人で、天然ぼけは稲森いずみをおもわせる。ロメールだけあって、人妻でも子供っぽい。
夫(カリョ)を愛してはいるが、友達と遊びたいし、一人の時間もほしい広告デザイナーの彼女は、パリにもっている部屋が空いたのを期に、人に貸さず自分で使うことにする。社交嫌いの夫は彼女が仕事を持つことに反対で、彼女が郊外の家とパリの部屋の二重生活をはじめたことも気にいらない。
夫にあてつけるように、妻子持ちの男とつきあっているが、この男を演じるのはファブリス・ルッキーニで、この頃はまだ安っぽい町のアンチャンである。
夫が嫉妬して、パーティに自分を監視に来たりするのをうるさがるが、実はまんざらでもないらしい。
結婚記念日の夜、パリの部屋で行きずりの男と寝た彼女は、男を帰した後、寝つけなくなって、深夜のカフェにいく。田舎から出てきた孤独な男と話して、彼女は急に夫が恋しくなり、始発電車で郊外の家に帰る。
しかし、夫は不在で、八時をすぎてからもどってくる。夫は問い詰めもしないうちから、彼女の友人の助手と一夜を過ごしてきたことを告白する。浮気ならとがめないと彼女は言うが、夫は浮気ではなく本気だ、別れてくれと言いだす。あっさり離婚になるのだが、皮肉な結末に、困った顔のパスカル・オジェが可愛い。
マイケル・ウィンターボトムの長編第一作。スコットランドのブリストルが舞台で、主人公(ロバート・カーライル)は工房で働く職人で、町のサッカー・クラブの花形選手。サッカー仲間と猥雑な冗談を言いながら、楽しくやっている。デブで口の悪い相棒がいたりして、「フル・モンティ」と似た雰囲気。
この相棒とディスコにいき、長身の娘(ジュリエット・オーブリー)が酔っ払いにからまれているところを救ってやって、つきあいはじめる。彼女は気取ったレストランのウェートレスで、上司と関係があったが、主人公の方を選んで、同棲をはじめる。
オーブリーは、この映画でいきなりヒロインに抜擢されたそうだが、知的な表情と清楚なエロティシズムをあわせもっていて、今後が楽しみ。
いい感じのラブストーリーで、官能的な場面など、随所にオリジナリティが見られ、処女作からすごいと思ったのだが、後半、難病もの(多発性硬化症)になってしまう。
難病ものといっても辛口の展開で、麻痺を止めようと苛烈なリハビリにはげむ場面では、あきらめてしまった患者に「俺を笑うな」と言わせるし、グラスゴーから家族を呼ぶと、両親は心配するが、弟と妹は迷惑そうにしている。
相棒が主人公を罵る場面もすごい。ここまで言うかと心配になる。
ヒロインも聖女ではなく、ストレスがたまってくると、かつて関係のあった上司に抱かれて帰ってくる。「あなたは選択の余地がないから楽だ。わたしはあなたを捨てようと思えば捨てられるから、かえって苦しい」という台詞を言わせる。
ラストは、彼女を自由にしてやろうと愛想づかしをして雨の戸外に追いだすが、彼女は寒そうに背をこごめて、家の前を去ろうとしない。とうとう主人公は不自由な体で外に出て、彼女と和解する。
よくある難病ものにしまいと努力しているのはわかるし、ある程度成功しているが、難病ものの枠は越えられなかったのは残念。
「寅さん」のピンチヒッターとして登場したシリーズの第二作目だが、客席はふだん映画館に足を運びそうにない爺さん婆さんでいっぱいで、「寅さん」と同じ雰囲気。モラトリアム青年が、風来坊のオヤジの生き方にふれて、しだいに成長していくのも、吉岡を前面に出した最後期の「寅さん」そのまま。
鹿児島で客のはいらない映画館をやっている白金(西田)は、姪の結婚式で上京し、トラ箱にお世話になったことから、以前、アルバイトをやっていた吉岡の家に泊めてもらう。
吉岡は秋葉原の電気店に勤めているが、地方支店にまわされることになって、辞めてしまう。次の仕事が決まるまで家族に辞めたことをかくしていたが、ばれてしまい、家を飛び出し、白金のところへいく。
しかし、白金のオデオン座は駐車場にかわっている。奄美大島で仕事をしているらしいと聞き、訪ねていくと、海岸や公民館、学校を会場に上映会を開く「移動屋さん」をはじめていたことがわかり、一向にくわわる。
波止場で知りあったワケありの子づれの若い母親(小泉)とのロマンスが色をそえる。
小泉は島に遊びに来た男の「歌手にしてやる」という言葉を信じて、十六年前に島を飛び出したが、未婚の母になって、東京で苦労している女性の役。両親(父は田中邦衛)は子供の面倒を見てやるといっているが、兄(哀川翔)は可愛がっていただけに、今でも怒っている。小泉は母親役が不自然ではない年令になっているが、娘=妹の面の方がさまになっている。アイドルは脱したものの、女優開眼は半分というところ。
第一作は見ていないのだが、戸越銀座では柴又の代わりにはならないし、いくら南国のおおらかな風土とはいえ、白金が昔、映画館に勤めていた人妻(松坂)と不倫をするのでは国民映画にはならないだろう。
「雪国」と「風の谷のナウシカ」が劇中で上映される。哀川翔がジャリ採掘の仕事をしているのにひっかけて、自然破壊批判をするのは無理がある。山田洋次も模索しているということか。
グラン・ゼコールや陸軍大学校をねらうアンリ四世校の受験準備学級の話。フレンチ・ロリータものを期待した人は肩透かしを食うだろう。
受験生のピリピリした緊張感と、寄宿舎に巣くう右翼的な伝統の中で、四人の若者の早熟な感受性がぶつかり、象牙の駒のようにカチッカチッと音をたてそうな硬質な空気感。ソフィー・マルソーがアグレガシオンを受ける嘘っぽい映画があったが、こちらには本物の手ごたえがある。ラディゲやロートレアモンのような小生意気な若者の伝統は健在だった(!)。
主人公のデルフィーヌは貧しい母子家庭の長女で、幼い弟や妹の世話をしながら、エコール・ノルマルを目指している。図書館でクロードという男のような名前の美しい上級生から声をかけられるが、数時間後、階段に出たところで、彼女が寄宿舎のある上の階から落ちてくるのを目撃する。一階ホールンたたきつけられて、即死。手すりの向こうには、男の姿があった。
クロードの本名はクロディーヌで、女あつかいされることと名家の生まれであることを嫌って、別の名を名乗っていたという。デルフィーヌのクラスの情け容赦のない担任が、かつて受け持ちだったクロードの思い出を生徒たちに敬意をこめて語るシーンはかっこいい。デルフィーヌは「クロード=アクセル」という机の落書きから、クロードが落ちる現場にいあわせた寄宿生はアクセルという名前ではないかと推理し、謎解きをはじめる。男ばかりの寄宿舎にはいっていくが、寮長に追いだされる。
翌日、アクセルがデルフィーヌの家を訪ねてくる。アクセルは自分は職人の息子で、ファシストだと自己紹介する。彼女をパーティに誘い、抱いてほしければあの下級生を誘惑しろとけしかけられる。
下級生は陸軍大学校をめざしているらしく、短髪にして、軍帽をかぶっている。彼女の方から声をかけ、彼に豪華な自宅にまねかれる。姉の部屋を使っていいといわれる。翌朝、ビデオを見ていると、番組の終わった後にクロードのビデオ日記が録画されている。そこはクロードの部屋で、彼はクロードの弟だったのだ。
デルフィーあクロードのビデオ日記を何度も見ているうちに、クロードにとりつかれ、自分を彼女に近づけようとしていく。
最後にクロードの死の真相がわかる。彼女は弟が寄宿舎の右翼青年たちにいじめられている現場に踏みこんでいたのだ。
クロードのソフィー・オーブリとアクセルのメルヴィル・プポーがめちゃくちゃかっこいい。エロディー・ブーシェーズはかつての美少女から癖のある顔になってきた。顔立ちまで中島朋子に似ている?
昔、階段がすり減っていて、今にも崩れそうな浅草の映画館で一度だけ見たことがあるのだが、ほとんどのシーンを憶えているので驚いた。もっとも、ディレクターズ・カットだそうだが、どこが復元されたシーンかはわからなかった。エンジェル(サンチェス,ジェイミー)の故郷の村で歓待されるシーンとソーントンが娼家で負傷するシーンがそうかなと思うが、マパッチ将軍(フェルナンデス,エミリオ)の軍が鉄道の駅で敗退するシーンは見た記憶がある。どうなんだろう。
当時はスローモーションの殺戮シーンやおびただしい血のりがペキンパーの代名詞だったが、今、見ると、その面では陳腐化していると思う。むしろ、殺戮シーンが陳腐化することで、骨太いドラマの骨格がはっきり浮かびあがってきた。
警察権力がならず者を追うのではなく、鉄道会社に雇われた仮出所の無法者が、かつての仲間を追うというアイロニーが基調になっていて、メキシコでは将軍が山賊で、ゲリラが正義に近い。何が正しいのかわからない無秩序な荒野で、自分のプライドだけを基準に生きていく強さが、この映画を古びさせないのだと思う。
メイキングだが、撮影現場の記録フィルムそのものは5〜6分ほどで、あとはスチールにインタビューをかぶせたり、対応する本編の映像をいれて34分にまとめてある。
メイキングと呼ぶには寂しい気もするが、橋の爆破の準備やクライマックスで四人がマパッチのもとへもどっていくシーンの演出風景が残っていたのには感動した。
こういう映像は繰りかえし見たい。早くDVDで発売してほしい。
辛口で華麗な歴史喜劇。傑作である。
ジョージ三世は50歳の時(1788年)、ポルフィリン症と見られる最初の精神錯乱をおこした顛末を描く。
気さくで夫婦仲がむつまじく(15人も子供をもうけた!)、記憶力抜群、唯一の欠点はアメリカの独立を認めず、いまだに「植民地」と呼んでいることだけの王が、青い尿を出すようになって以来、異様に早起きしたり、夜中、洪水が来ると騒ぎ出したり、王妃の美しい侍女のレディ・ペンブルック(アマンダ・ドノホー)を演奏会の会場で押し倒したり、わけもなく怒りだしたりするようになる。ハノーヴァー朝の王としては異例に政務に熱心な王だっただけに、政界は混乱し、皇太子を摂政に擁立する法案が野党から出され、時の宰相ピット(ジュリアン・ワダン)はあわや失脚しかける。
この騒動を新任の侍従、クレヴィル大尉(ルパート・グレイヴス)の目から描くが、もとは1991年に初演された舞台劇だったそうで、構成がきっちりしていて、台詞も練られている。
ピットはレディ・ペンブルックの勧めで、リンカンシャーの農場で精神病院を開いているウィリス牧師を宮廷に呼ぶ。ウィリスは屈強な看護人を引きつれて乗りこんでくる。拘束のためのごつい椅子をもちこみ、王が錯乱すると、有無を言わさず椅子に縛りつける。王に対しては視線を向けないのが作法なのに、ウィリスは容赦なく王をにらみつけ、「王に対して無礼であろう」と言われると、「あなたは王ではない。患者だ」と言ってのける。
ウィリスは、人が狂うのは自分が誰であるかわからなくなるからだという持論を持っていて、他者の視線を向けられたことのない王が狂うのは当たり前だという。
このスパルタ療法を貫徹するために、キューの離宮に治療の場を移し、王を王妃のもとから引き離す。
寂しい離宮に隔離され、ピットが訪れると、急に便意をもよおし、侍従にズボンを下げさせて壁際にうずくまる王の姿が痛ましい。
皇太子摂政法案がいよいよ通るという日になって、王妃はレディ・ペンブルックを離宮にやる。彼女はクレヴィル大尉を色仕掛けで籠絡し、王に採決の件を知らせる。
そこへ大法官があらわれ、王と二人で「リア王」を朗読する。王の精神が正常にもどったことを確信した大法官は、皇太子側への加担をやめ、王とともに議事堂に急ぐ。王がもどったと知らせがはいったとたん、与党も野党も、摂政法案など放り出して王を迎えに急ぐ。そういう時代だったわけだ。
実際はウィリスの療法が効いたわけではなく、一時的によくなったにすぎないのだが、ふたたび王として、家長としての威厳をとりもどしたジョージ三世は風格がある。
見かけない俳優ばかりが出演する精神病院を舞台にした芸術家映画で、案の定、オーストラリア映画だった。「シャイン」に勝るとも劣らない傑作だとおもうが、どうしてオーストラリアはこういう映画が多いのか?
海を望む精神病院が演劇療法をはじめることになり、演出家としてルイス(メンデルゾーン)を雇う。院長もセラピストも看護士も気乗りがしていないが、厚生大臣の肝いりなのでしょうがない。
ルイスは定職をもたない演劇青年で、ルーシー(レイチェル・グリフィス)という法科の学生と同棲している。ルーシーは弁護士志望で、地元の弁護士会でアルバイトをしながら、着々と将来の布石を打っている。ルイスとは対照的なしっかりした娘である。
二人は養豚場の隣の借家に暮らしているが、精神病院の仕事が決まった日、演劇仲間で演出家のニックが居候に転がりこんでくる。
仕事の初日、稽古場に使う建物にいってみると、ロイという患者が待ちかまえていて、「コシ・ファン・トゥッテ」をやろうと言いだす。オーディションもロイが仕切って、ルイスはたじたじ。
六人の出演者が決まるが、元弁護士で口をきかないデブのヘンリー、隔離病棟にはいっている凶暴性のあるダグ、ジャンキーで裕福な親に無理やり病院にいれられたジュリー、恋愛妄想の僻のあるチェリー、黒いおかっぱ頭で自殺僻のあるらしいルース、アコーディオン伴奏の?、そして躁病気味で、オペラ狂いのロイと、一筋縄ではいかない連中ばかり。
患者はみな演技経験皆無で、ルイス自身、演出の経験はないらしい。それなのに、ロイはモーツアルトのすばらしさを語り、「コシ」をやろうやろうと聞かない。看護士もやってみろと言いだし、「コシ」の練習がはじまる。
ルイスは実際の芝居を見せるために、無理をいって参加者を遊園地の野外劇場で上演したニックの「狂人日記」の観劇に連れだす。病院のバスに乗り、看護士の引率つきだが、ダグはマッチを手に入れてしまう。
翌日、稽古場が火事になる。ダグの放火だ。ルイスは馘になり、セラピストがバラエティの指導をすることになる。
患者たちはせっかくはじめた「コシ」をやり遂げたいと言いだす。ジュリーが旧洗濯場を見つけてきて、夜、こっそり集まって稽古をすることになる。ルイスは無給で演出し、ダグの役をやることになる。看護士は見てみぬふりをする。
「コシ」に熱中したために、ルイスとルーシーの仲がおかしくなる。そこにニックがつけこみ、ルーシーを落とせるかどうかの賭を持ちかける。「コシ」の恋人たちのように信頼が試されるわけだが、役を取られたと思ったダグが隔離病棟を抜けだし、ルイスの家にはいりこんできたから大変だ。
ニックと二人でダグを病院に連れていくが、ルイスはダグと間違えられ、強い鎮静剤を打たれて病室で眠る破目に。
これでルーシーとの関係はいよいよまずくなる。晴れの上演の夜、ルーシーはドレスアップして、ニックと弁護士会の集まりに行くからオペラにはいかないと言いだす。ルイスは終わったと思い、ニックにわたしてくれと彼女に掛金を預ける。
旧洗濯場では大臣臨席で、上演がはじまる。院長とセラピストは昼間に稽古していたバラエティショーをやると思いこんでいるが、幕が開くとルイスが参加した「コシ・ファン・トゥッテ」。
これがよく出来ている。ボール紙に切れこみを入れ、丸味をつけた鬘や、四角い枠でひろげたスカート、カラフルなガラクタを集めた舞台装置と、いかにも手作りという感じ。
エンディングでモーツアルトのレコードが止まってしまい、舞台は破綻しかける。ジュリーが機転を効かせ、アカペラで「スタンド・バイ・ミー」を歌い、間をつなぐ。
弁護士会のパーティを早々に切り上げたルーシーもあらわれ、大団円。
ジュリー役のトニ・コレットはエンディングの曲も歌っていて、オーストラリアのポップシンガーらしい。
孤独で虚言癖のあるロイのバリー・オットーはすばらしい。
よくある駄目チーム奮闘ものではあるが、傑作だと思う。
見ると一週間後に死ぬビデオという都市伝説を題材にしたホラー。
謎の死を遂げた高校生の姪(竹内)に呪いのビデオがからんでいると知り、取材をはじめたバツイチのTVディレクターの浅川玲子(松嶋)が、姪が泊まった伊豆の貸別荘で自分も問題のビデオを見てしまう。ポラロイドで自分を写すと、顔が歪んでいるのが不気味(ここが一番怖かった)。
別れた夫、高山竜司(真田)の助けを借りて、ビデオの呪いは、四〇年前に自殺した伊豆大島の霊能者がらみらしいとつきとめる。
霊能者の公開実験の席で、インチキ呼ばわりした学者が悶死している。悶死させたのは霊能者の娘の貞子らしいが、この事件で霊能者は自殺し、霊能者を世に出した学者は大学から追放される。
高山自身、霊能者で、貞子は父親かもしれない学者に井戸に突き落とされ、殺されたことを霊視する。井戸から彼女の骨を引きあげ、供養すれば呪いはとけるのではないかと思いつき、台風の中を漁船で本土にもどる。姪の泊まった貸別荘の地下の廃井戸からついに貞子の骸骨を発見し、呪いが解けたと一安心する。
玲子は一週間をすぎても死なずにすんだが、翌日、ビデオを見て一週間目の高山が悶死する。呪いはまだとけていなかったのだ。やはりビデオを見てしまった息子を助けるために、父親にビデオを見せようと玲子は実家に急ぐ。
おどろおどろしい雰囲気は出ていて、怪談映画としては及第かもしれないが、キャラクターに厚みがないのは不満。松嶋は若すぎて子供を一人で育てている母親は無理。貞子の骸骨を抱き締めるシーンにリアリティがあれば、よくなったろう。
「リング」と同時上映された続編だが、監督が違うので別種の作品になっている。わき役でちょっとだけ顔を出した高野舞(中谷)がヒロイン。
高山(真田)の死因を調べるために行政解剖することになり、彼の医学部時代の友人の安藤満男(佐藤)が執刀することになる。内臓を全部抜かれた真田が幻覚の中で語りかけるシーンは滑稽でもあって、この時点で怪談ではなくなっている。
佐藤と中谷がいい。中谷は存在感がある。生まれ変わったセクシーな貞子との二役は教科書的だが、演出サイドのセンスのせいだからしょうがない。
主役二人がいいので、「リング」よりもはるかによくなりそうと期待したが、後半、遺伝子がどうのこうのと言いだし、「パラサイト・イブ」を思わせる展開になってくる。世界征服の大演説まで「パラサイト・イブ」からもってくることはないだろうに。がっかりである。
女流監督が抜擢されたドリーム・ワークス第一作で、核兵器強奪犯と核兵器密輸対策班の対決を描く。肩に力がはいりすぎで、息をつく暇がなかったが、それでも最後まで引っ張るのは脚本がよく出来ているせいだろう。ヨーロッパ趣味とか、人物の描き方とか、見せ場になりそうな警備列車の虐殺シーンをわざとはずすとか、ヨーロッパの憂愁という少女漫画的な隠し味が混じっているとか、アクション映画にしては毛色が変っている。
アクション映画では非人間的なまでに冷酷でエゴイスティックでマッチョな悪漢が柱になるものだが、この映画ではマッチョで金で動く実行犯は次々と死に、最後に妻と娘を内戦でなくしたセルビアの外交官(マーセル・ユーレス)が核兵器を背中に背負い、憂い顔で、ニューヨークの街を国連本部にむかって歩いていく。アメリカ人に自分と同じ悲しみを味あわせようというわけだ。この趣向は成功していて、一度倒された悪漢がもう一度主人公を追いつめるというよくあるラストをまぬがれている。
ウラルの田園地帯やセルビアの廃墟を描くのはともかく、冒頭の20分間、セルビア語とロシア語だけで通し、字幕で引っ張るのは、アメリカの映画事情を考えると冒険だったろうが、いい味を出している。
核兵器は一発でも爆発するとおしまいと思いこんでいたが、この映画に登場するのは数百キロトン程度の小型原爆で、いとも簡単に爆発させてしまうし、放射能が洩れる(ニューヨークの上空にヘリを飛ばして、放射能で犯人を捜す)とはいえ、背中のバックバッグにいれて持ち歩ける。怖い世の中になったものだ。
もう一つの柱は、若い女性物理学者が領空侵犯で戦争になるかもしれないような決定権をあたえられて悩むというフェミニズム的なテーマだ。ニコール・キッドマンにこういう責任ある立場の女性をやらせるのはミスキャストもはなはだしいが、ジュディ・フォスターかミシェル・ファイファーで、ヒロインの悩みや心細さをきちんと描けば傑作になったかもしれないし、この監督には描くだけの力があると思うが、それではドリームワークスの映画ではなくなる。
産婦人科の待合室。四人の青年がベンチにかけている。退院する一家の父親がどなたが父親になるんですかと尋ねると、父親になる男は死んでしまったと答える。四人はリセ時代の仲間で、麻薬で死んだ親友、トマジの子供の出産に立ち会うために集まったのだ。
23歳になった現在の映像をところどころにはさみながら、5年前のリセの最終学年を群像劇の形でふりかえる。バッカロレアがあるというのに、クラスはまだ受験という雰囲気ではなく、政治活動(共産党、反共産党、フェミニズム)でクラス討論をやったり、デモで機動隊と衝突したり(円形の透明な盾と警棒と防護マスクつきのヘルメットで武装していて、ローマの闘剣士のよう)、クラスメートにちょっかいだしたり、自由にやっているが、落ちこぼれ五人組の破目のはずし方は教師の目にあまるものがあり、目の敵にされている。
英語の助手にロンドンから来た英国娘に音楽家志望が発音を聞いたところ、下宿に来るように誘われ、トマジと行ってみると、不法占拠して住んでいるコミューンで(鍵のかかった玄関扉の横に穴を開け、カーテンでふさいで出入り口にしている)、麻薬が手にはいることから、五人はたびたび訪れるようになる。LSDもここで体験する。
しかし、バッカが近づいてくると、さすがに遊びまわってばかりもいられず、トマジ以外は勉強をするようになる。
コミューンに出入りしているトマジが久しぶりに学校に行くと、悪友仲間からも浮いていて、疎外感から彼は娯楽室で暴れ、備品を壊していく。校長は彼を退学処分にする。一人、学校を出ていく彼を五人組の仲間たちは追おうとはしない。彼に好意を持っているエロディー・ブーシェーズだけが彼を追い、やがて二人は結婚して、今回の出産につながる。
質の高い映画だということは認めるが、散文的すぎて、面白くはなかった。
次男の嫁の誕生日に集まった一家のドタバタを描いた辛口コメディ。
電子関係の会社を経営している次男が地元のTVのインタビュー番組に出るので、母親は知人、友人、親戚、はてはベランダから身を乗りだして、隣家の主婦にまで番組を見ろと触れまわる。母から電話で催促された妹は、庭に出したTVでしかたなく見る。
番組の終わった後、彼女はバイクに乗って冴えないカフェにやってくる。バーテンといわくありげな話をしている。やがて、カフェを経営する兄が上から降りてきて、弟がTVでどんな話をしたか教えろと妹に聞く。
今日は月に一度、家族が集まり、夕食をとる日だったが、次男の妻の誕生日にあたっていて、いいレストランに予約を入れていた。
母親と次男夫婦がカフェにやってくるが、長男の妻は帰ってこない。予約の時間に間にあわなくなり、険悪な雰囲気になる。
そこへ妻から電話があり、もう愛想がつきた、家にはもどらないと言いだされる。長男は隠すが、家族喧嘩になりそうになったので、バーテンが喋ってしまう。一家は予約をキャンセルし、長男のカフェで食事をすることになる。
誕生日プレゼントに母親は犬の引換券、長男は犬の引き縄、次男はネックレスをわたす。実は彼女は犬が大嫌いで、姑の押しつけにつむじをまげる。ネックレスが犬の首輪に似ていたことから、ますます雰囲気が険しくなる。
家族の隠れていた対立や鬱憤が次々と出てきて、あわやというところまでいくが、妹とバーテンの仲が明らかになって、一家に和解の空気が生まれる。
完成度は高いと思うが、せせこましい話だし、人物に魅力がないので、ちっともおもしろくなかった。