第二次大戦中、ナチスの収容所で爛れた愛欲生活を送っていた親衛隊将校マックス(ボガート)とユダヤ人少女ルチア(ランプリング)が四半世紀たって再会する物語である。マックスは過去を隠してホテルの夜勤の受付係に、ルチアは世界的なオペラ指揮者の夫人になっている。二人は魔に魅入られたように求めあい、過去の倒錯した生活が甦ってくる。
記憶ではもっと華麗な映画だったはずだが、見直してみると、冷たい雨に降りこめられたような暗く重苦しい画面が延々とつづき、『魔笛』と収容所の場面だけが輝かしい。音楽が鳴り響くのもこの二ヶ所だけだ。薄い胸をあらわにしたルチア(エリカ)が親衛隊の制帽をかぶり、「Wenn Ich mir was wunshendurfte」を歌う場面は圧巻。
ルチアは夫と贅沢な暮らしを捨ててマックスのもとに走り、二人だけの世界に閉じこもって退行していく。『流されて』でも同じ世界を描こうとしたが、これほどの説得力はなかった。
親衛隊の残党がこっそり集まっているとか、ウィーンの饐えた雰囲気がいい。シャーロット・ランプリングの薄青い目がどんどん狂っていき、動物のようにしゃがみこみ、ジャムを舐めまわすようになる条は鬼気迫る。
二人の若者、エンコルピオとアシルトが美少年のジトーネを追って、爛熟の絶頂に達していたローマ帝国を遍歴する物語をフェリーニが絢爛たる映像美で描いた映画だ。
昔、名画座を追いかけて何度も見たが、ほとんど忘れていた。ところどころ、公衆浴場とか、ガレー船、半陰陽の神の子、ミノタウロスの迷宮の場面などを憶えていた。「フェリーニのローマ」とごっちゃになっている部分もあった。
舞台は2000年近く前だが、今、見直すと、60年代だなと思う部分があちこちにある。エンコルピオとアシルトが争う美少年のジトーネは、まさに60年代のフラワーチルドレンの顔。地中海世界の遍歴はヒッピーの放浪生活のようでもある。70年代のアングラ芝居に通じる部分もたくさんある(アングラがこの映画の影響を受けたのだろうが)。
原作は筑摩の重たい世界文学全集でしか読めなかったが、最近、岩波文庫から新訳が出たようだ。
前日、電話で確かめたら、立ち見が出ても切符は売りますと怖いことをいうので開映1時間前にいくが、すでに一階まで長蛇の列。それでも、後ろの中央寄りの席を確保できた。客はどんどんはいってきて、立ち見が50人は出たと思う。壁際にずらっと並んだだけではおさまらず、中央通路にチラシを敷いてオバサンがすわりこんでいる。吸われたから言うわけではないが、お祭りみたいでわくわくする。
やっと開映。冒頭、マーセラスをジャック・レモン、オズリックをロビン・ウィリアムズがやっている! 豪華キャストと聞いてはいたが。この映画自体、一種のお祭りなのだろう。
父王の亡霊との出会いの後、クローディアスとガートルードの婚礼。鏡張りの大広間に礼装した貴族が並び、紙吹雪が舞う。このおめでたい席からカメラがパンすると、隅に黒ずくめのハムレットが端然と立つ。ここまであざといと、見事でさえある。
映像は異様にくっきりしていて、台詞の発音も端正で、きりっとしている。隅から隅まで神経がゆきとどき、左右対称の均斉美がピシッと決まっていて、どこにも文句のつけようがない。お金がかかっているし、才気ばしってもいる。
もっとも、四時間二〇分、退屈しなかったかわりに、感動もしなかった。神経症的で、心の深い部分に降りてこないのだ。一九世紀に見立てたのもうまくいっているとは思わない。オフィーリアに拘束衣を着せたり、水療法でホースで冷水を浴びせたりと、狂気を締めだしたビクトリア朝の狭苦しさを思わせるところがある。
もう一度見たいとは思わないが、お祭りと割りきれば、見てよかったと思う。
クレイ・アニメのシリーズ「ウォレスとグルミット」の短編三本と初期ショートショートを集めた上映。
休暇でどこに行こうか考えている時に、たまたまチーズがきれたので、チーズで出来ているといわれる月への旅行を思いつく。地下室でロケットを作り、チーズをのせて食べるクラッカーを一抱えもって、いざ出発。庭がぱっくり開くのはサンダーバードのパロディだが、導火線で点火するのは笑える。
月に着くと、ウォレスは石筍のような突起を切りとり、輪切りにしてクラッカーにのせ食べるがどこのチーズに似ているか思い出せない。
月には自動販売機のような番人ロボットがいて、ウォレスが食べ残したチーズを接着剤で元どおりに貼りつけていく。ウォレスたちの荷物を調べたところ、スキーの案内をお腹にいれて、スキーに憧れをもつ。
番人ロボットに追われて、ウォレスたちはロケットで逃げ帰ろうとするが、番人ロボットはスキーをやりに地球に行きたいので、ロケットに乗ろうとする。燃料が爆発し、ロボットは手すりだけをもって、吹き飛ばされてしまう。しかし、二本ある手すりをスキーにして、ロボットは月の斜面でスキーを楽しむ。
グルミットの誕生プレゼントをはりこみすぎたために、貯金が底をついたウォレスは下宿人を置くことにする。早速やって来たペンギンは、グルミットの部屋を占領し、ウォレスの世話を焼いて、グルミットのお株を奪ってしまう。仲間外れにされたと思ったグルミットは家出する。
グルミットを追いだすと、ペンギンは本性をあらわし、グルミットのプレゼントに買ったNASA開発の自動歩行ズボンをウォレスにはかせ、博物館のブルーダイヤを盗ませる。グルミットはペンギンの悪だくみに気づき、ウォレスと協力してペンギンを捕まえる。最後の模型機関車を使った追っかけがすごい。
ウォレスとグルミットが窓拭きサービスをはじめ、お客の毛糸屋の女性と飼い犬に同時に恋をしてしまうが、毛糸屋には裏があり、羊の誘拐事件に巻きこまれてしまう。技術的には前二本よりも進んでいるが、話はいまいち。
CMとショートショート集(プログラムに載っていたのとは違う作品)。ペシミスティックな大人向きの作りで、トーンが暗い。動物園の動物たちがインタビューされ、生活に疲れた庶民のように答える短編はおもしろい。
1839年 8月、ニューイングランドの海岸線で、水の補給に接近したスペイン船籍の奴隷船、テコラ号が沿岸警備艇、ワシントン号に拿捕される。テコラ号は積荷の黒人奴隷によって乗っ取られており、白人は舵取のために生かしておいた二人しか残っていない。
シンケをリーダーとする39人の奴隷たちはニューヘイブンの監獄につながれ、海賊と殺人で起訴されるが、肌には入墨の痕があり、アフリカ生まれの可能性があった。もしアフリカ生まれなら、正当な防衛権の行使となり、無罪放免となるはずだった。奴隷解放論者のタパンと、タパンの援助で新聞を発行している元奴隷のジョッドソン(フリーマン)は、奴隷船の黒人たちのために奔走をはじめる。
若い弁護士、ボールドウィン(マコノヒー)と、アフリカ生まれの黒人で英国軍人のコヴィの尽力で、悲惨な奴隷航路の実態があばかれ、いったんは無罪となるが、内戦をほのめかす南部選出の上院議員の横やりで、再選の迫ったヴァン・ビューレン大統領は最高裁に上告させる。
最後はアダムズ元大統領(ホプキンス)の名演説で、シンケたちは無罪になり、合衆国の費用でアフリカに帰される。
こういう秘話を映画にした意義はわかるが、「シンドラーのリスト」の寡黙な迫力から較べると、俗受けをねらったとしか思えない作りになっている。奴隷商人の要塞から奴隷船に押しこめられた大西洋横断の場面は、男性コーラスで厳かにしたつもりだろうが、逆効果でしかなかった。
法廷劇の趣向もどうかなと思う。航海日誌から半数の奴隷を海に捨てた問題をめぐって検察側と議論になるが、英国海軍の将校の証言を待つまでもなく、食料が足りなくなったための口減らしだくらい、誰にだってわかる。
獄につながれた黒人の一人が、聖書の挿絵を何度も見て、イエスの物語を読み解き、つづく場面で、船のマストが十字架に重ね合わされる部分もわざとらしかった。
「フェーム」を監督したデビー・アレンがスピルバーグに持ちかけた企画だそうだが、人選を間違ったとしか思えない。
はじめてオリヴェイラの魅力がようやくわかった。「みずみずしさ」を言う人が多いが、諦念を通して情の深さを描く洗練がこの監督の身上なのだ。
前半は映画の撮影の合間に、80歳の老監督マノエル(マストロヤンニ)とポルトガル女優のジュディット、ポルトガル俳優のドゥアルテ、フランス俳優のアフォンソの四人が車でポルトガル北部のスペイン国境地帯をドライブし、老監督が若い日の思い出を甘美に語り、ジュディットの気を持たせるようなことをしきりに言う。こういう役をさらっとできるのはマストロヤンニだからこそだ。
後半はアフォンソの父親の生まれた村に着き、伯母(イザベル・デ・カストロ)と対面する。アフォンソの父は14歳で村を出て、スペインを通ってフランスに来た移民で、アフォンソはフランス語しかできない。伯母はポルトガル語の話せない彼を甥として認めようとしないが、しだいに心を開いてきて、最後の墓参りではしっかり手を握りあい、弟といっしょに再訪することを約束する。二人は顔も似ているし、本当の伯母と甥に見えてくるが、伯母の方はオリヴェイラ組の一人だから、もちろん違う。
前半の老監督と若い女優の優雅な恋愛遊戯と、後半の伯母と甥と故郷の土地(伯母夫婦が死ねば、「世界の始まり」にもどってしまう)への愛着は対照的なようでいて、情の深さと諦念といういう点で通底している。
顔をはりかえる手術で刑事とテロリストが入れ替わるという無理のある話なのだが、主演の二人の演技力と、監督の演出力で、なかなか面白くしあがっている。飛び立とうとするジェット機を捕まえてしまう最初のクライマックスや、海底の秘密の監獄島で、受刑囚が時期に感応する靴を履かされているという趣向もあって、完全にマンガである。
トラボルタが刑事、ケイジがテロリストだが、逆でもよかったろう。ケイジの愛人で、未婚の母のジーナ・ガーションが収穫。
ブラナーが RTCの仲間を使ってつくった「ハムレット」のバックステージもの。
駄目チーム奮闘ものでもあって、一年間、仕事のない状態がつづいている役者が、エージェントのオバサンに頼みこみ、もっと売れない役者を集め、故郷の村の教会で合宿して「ハムレット」を上演しようとする。エージェントの事務所で面接をやり、一癖、二癖ある役者を九人採用するが、ガートルードはゲイのオヤジだし、アル中男や、やたら口うるさい爺さん、近眼の若い未亡人等々で、一波乱も二波乱もあるぞと思わせる。
案の定、トラブルつづきだが、しだいに友情が育ってきて(口うるさい老優とゲイの俳優が親友になり、ゲイの生き別れた息子を手紙で公演に呼んだり)、地主にレンタル料をふっかけられて追いだされそうになると、メンバー一同が醵金して公演にこぎつける。
ところが、公演前日、主人公にSF映画の仕事がはいり、スケージュールの関係で一度も舞台に立たずに出発しなければならなくなる。仕事にあぶれるつらさを知っている役者仲間だけに、気落ちしながらも、主人公を送りだすシーンは泣かせる。主人公と恋に落ちかけているオフィーリア役の女優だけ、彼を引き止めるのもリアリティがある。
主人公の妹が代役で立つが、SF映画のプロデューサのオバサンがお供を引きつれ、客席にあらわれる。代役の妹が最初の台詞につまっていると、出発したはずの主人公が客席から登場し、舞台をひきつぐ。実は彼はSF映画を断り、舞台にもどってきたもの。プロデューサは自分をふった役者の舞台を見に来たという次第。
プロデューサはメンバーの中から代役を見つけ、ついでにデザイナーも引き抜いて、ハッピーエンド。
予想通りの展開だが、売れない役者の悲哀がモノクロームの画面からただよってきて、とてもよかった。
1979年に上演された舞台のビデオ版だが、NHK的な記録ではなく、スタジオで俯瞰をふくむさまざまな角度からの映像で構成している。スタジオ外のカットも挿まれている。
19年前に初演を見ようと思えば見ることができたのだが、今、見てよかったと思う。当時、舞台を見ていたら、「やっぱり安部公房は古い」で片づけていただろう。
安部が実際に見た夢をもとにしているというが、マイム芸で人間が異形の存在に変身するという前衛劇っぽい作りで、土着回帰がトレンドだった70年代の演劇シーンでは浮いた存在だったはずだ。流行からはなれた今だからこそ、作品として見ることができたのだ。
貝殻草の匂いをかいだ男が夢の中で贋魚(ニセザカナ)になり、その贋魚が人間になる夢を見るという入り組んだ構造で、夢が覚めようとするたびに、鞭を振り上げた山口果梨が「でも、夢は覚めない」と一喝し、夢がつづいていく。この少女は安部公房の小説には出てこないタイプで、石川淳の小説、特に「鷹」のヒロインに似ている。
人間離れした体術は確かに夢の中の生き物のようで、『家畜人ヤプー』を連想した。
最後は贋魚は空気に溺れて死んでしまい、鞭の少女も網に捕らえられてしまうのだが、現実を侵食していく夢の力が舞台にみなぎっていて、これは救いのメッセージといっていい。
黒木瞳の阿部定である。そそられる組み合せだが、監督はなんと大林宣彦。はたしてエロスとは無縁のコミカルな阿部定物語ができあがった。
定は14才の時、浅草の旅館で慶応ボーイにレイプされるが、旅館の女将の甥で、慶応の医学生だった岡田が手当てをしてくれた。定は岡田を慕うようになるが、彼はハンセン氏病にかかり、密かに瀬戸内海の島の療養所に送られる。娼婦になった定は二度と会えない境遇となった岡田をひたすら思いつづけたという(この秘話は原作・脚本の西澤裕子が、別の取材で瀬戸内海のハンセン氏病の施設を訪れた際に聞いたそうである)。
岡田のエピソードの後、娼婦になって各地を転々とする定をコミカルに描いていく。中原中也の詩をあしらい、映像の遊びをたっぷりいれるのは大林流だが、「失楽園」を期待して来たオバサン族には不評らしく、途中で帰る人や客席で「つまんないねぇ」と私語する人が続出。
映画の半ばで、定は名古屋の高校の校長の立花(当時の新聞によると大宮)にひろわれ、小料理屋を出すことになる。準備のために龍蔵(吉蔵のこと)の料理屋に奉公にいくが、ここからおなじみの物語をドキュメンタリー調で追っていくが、逸物とドーナツで輪投げをするとか笑わせる場面がはいっている。
原作・脚本の西澤は定の心と身体の分裂と、その分裂を引き起こした龍蔵に対する無意識の憎悪を描きたかったそうだが、出来あがった映像はそんなドロドロした世界とは無縁で、虚無的な笑いに満ちた映像詩になっている。黒木瞳はあっけらかんとはじけていて、イメージ一新。こういう阿部定もありかもしれない。
アカデミー賞を11部門もとった上に、興行的にも大当たりした話題の作品。
映画的には古いのだが、実物大の船を作ってしまった破天荒さと、あからさまな階級社会を絵として見せたことで、新しい・古いを越えた迫力だ。
額縁の部分に登場する 101歳になったローズは、1933年の「透明人間」のヒロインを演じたゴロリア・スチュアートが演じている。生還後のローズは 20年代に映画女優として活躍したという設定にぴったりで、皺にも品がある。
黴菌恐怖症で差別主義者で口の悪い小説家(ニコルソン)が難病の子供をかかえて生きるウェートレス(ハント)に恋をし、いい人になる話。
結末はわかっているが、あざとい芝居で笑わせるジャック・ニコルソンと、ひたむきな演技が泣かせるヘレン・ハントのコンビですばらしい作品に仕上がっている。二人のアカデミー賞の主演男優賞と主演女優賞のダブル受賞は納得。
とにかく二人がうまいし、自分が恋におちいっていることに気がついた後のニコルソンは絶品。ニコルソンに人間味をとりもどさせるきっかけをつくった隣家のゲイの画家(グレッグ・キニア)と、その親友の画商(なぜかキューバ・グッディングJr.)もうまい。
フランス中世の町の広場の火刑のシーンからはじまる。アヴェロスのアリストテレス論を翻訳したかどで学者が著書もろとも火あぶりになったのだ。「青い瞳」と呼ばれる学者の息子(エジプトの俳優がやっている)は類を恐れ、コルドバ宮廷で侍医・大法官としてつかえるアヴェロスのもとに逃れる。
「青い瞳」が主人公かと思ったらそうではなかった。アヴェロスの娘と恋仲になるカリフの次男やジプシーの姉妹が登場し、群像劇となる。悪役として、若者を洗脳してテロリストにしたてるカルト教団のような集団が登場する(イスラム原理主義に対する風刺か)。
カリフは原理主義一派が民衆に歓迎されているのを重視し、、理性と寛容を説くアヴェロスにしだいに距離をおくようになる。カリフはついにアヴェロスを追放し、著作を焚書にする。
師の著作を守るために弟子たちが総がかかりで筆写し、一部を「青い瞳」がフランスに、一部をカリフの長男がエジプトに運ぶ。フランスに向かった著作は失われてしまうが、エジプトには無事到着し、当地の学者の書庫におさめられる(エジプトの映画なので脚色があるのかもしれない。史実はどうだったのか)。
歌あり、踊りあり、チャンバラありの大活劇である。珍しい時代をとりあげているという意味でもおもしろかったが、当時のアンダルシアで大きな役割を果たしていたはずのキリスト教徒やユダヤ教徒が一人も出てこないのはおかしい。エジプト映画の限界か。
傑作! 見ているうちにノルアドレナリン過剰になる。すごすぎて、健康に悪い。
CGでタイトルバックにギラギラ発光する狼男が出てきたと思ったら、これもドーベルマン神話の一つで、教会で洗礼式をうけた赤ん坊のドーベルマンが、早くも拳銃を手にするという冒頭の場面につながる。
教会の映像がめくれあがると、失踪してくる現金輸送車に向けてサングラス、黒の革ジャンのドーベルマン(カッセル)が銃をかまえ、ロケット弾で吹っとばす。傍らには愛人のナット・ラ・ジターヌ(ベルッチ)。ドーベルマンは松田優作+アントニオ・ヴァンデラス。ナットはシャロン・ストーン風で、顔のしかめ方が下品で、ぞくぞくする。
ギンギンに格好をつけた映像だが、ヴァイオレンスが突出していて、一瞬の弛みもない。最後の最後まで全力疾走するみごとさ。
オートバイで追跡してきて、犬を射殺した警官を疾走する車内にひきずりこみ、ヘルメットの中に手榴弾をいれて放りだす。
オカマは実は弁護士志望の妻子ある青年で、両親の家で暴力刑事(カリョ)に襲われる。先手を打って娼婦をしていたと告白するが、刑事は赤ん坊を人質にとり、手榴弾で遊ばせて脅し、ドーベルマン一味が川辺のディスコに集合することを吐かせる。
クライマックス、オカマは純白のドレスで髑髏の入口のディスコに繰りだし、警察が急襲。壮絶な撃合いに。仲間は射殺されたり、捕縛されるが、ドーベルマンはオーナーの手引きで隠し部屋に逃れる。しかし、ベニスを撃たれた相棒が失血死し、監視カメラでナットが暴力刑事にいたぶられるのを見るにおよび、隠し部屋を出て、彼女をとりかえそうとする。カーチェイスの末に、暴力刑事の顔を爆走する車から道路に擦りつけて殺し、仇をとる。
ラスト、森の中で生き残った仲間が殺された相棒を弔うが、続編を作るということだろうか。
悪い評判ばかり聞いていたが、意外におもしろかった。
原作とまるで違うとか、矢野さんが怒って試写会にいかなかったとか言われているが、ハイスクールの同級生三人が軍に志願するという設定は変わっていない。出だしはまったく天真爛漫なハイスクールもので、アメリカ的な生活様式が世界中を覆っているという原作の中華思想は受け継がれている。
マニアがこだわる細部はかなり違う。原作は空挺部隊を雛型に機動歩兵部隊を描いていたと思うが、映画では海兵隊がモデルになっている。パワード・スーツやカプセル降下も出てこないし、敵対する宇宙人は蜘蛛型から昆虫型に変わっている。
一番違うのは、軍国主義的な未来社会がなぜ成立したかという、ハインラインお得意の歴史的考察がばっさり削られ、軍国主義を風刺するようなスタンスで映像化されていることだ。歴史は絵になりにくいし、今どき軍国主義を肯定するような映画が作れるわけはないのだが、ハインラインの信奉者は怒るだろう。
ただ、これでも十分戦意高揚効果はあって、自衛隊の勧誘に使おうと思えば使えると思う。
夫婦愛がどうのこうのと聞いていたが、これは心中映画ではないか。
白血病で余命いくばくもない妻をかかえたやり手刑事の西が、現場を抜けて見舞いにいった留守に、銃をもった犯人があらわれ、同僚の堀部を撃って半身不随にする。
責任を感じた西は地下街で犯人に飛びかかり、無理な逮捕を試みる。自分は殴られただけですむが、若い刑事一人を死なせ、もう一人も負傷する。
西は警察を辞め、半身不随になった堀部と、死んだ刑事の妻につぐないをしようとヤクザから高利の金を借りて、進退きわまっていく。ついに彼は銀行強盗をしでかし、堀部と若い刑事の妻に大金を残し、自分は妻と二人で車であてのない旅に出る。この追いつめ方は、まるで近松である。
道行の美々しい詞章のかわりに(西もその妻もほとんど喋らない)、堀部が描いたという設定の絵が挿入される。全編青を基調とした冷え冷えとした画面に、華やかで静かな色彩が咲きほこる。頭の代わりに女陰のような花がついている動物たちは、彩り鮮やかではあるが、去勢不安を秘めているかのようだ。
ブツブツ切れたシーンのつなぎ方は『この男凶暴につき』を思わせるが、今回は情念はなく、死という現実がちらちらする。
岸本加世子はほとんど台詞がなく、出番も多くはないが、確かにヒロインになっているし、妻に逃げられ、自殺未遂する堀部(大杉漣)もすばらしい。
西にパトカーに偽装する盗難タクシーを提供する解体屋のオヤジ(渡辺哲)が笑いを一人で引き受けているが、ヘラヘラして、平気で秩序を踏みにじる存在感が救いになっている。
遅刻して、最初の部分を見逃したが、アイヴォリーの映画にしては画面がくっきりしすぎていて、衣装の色がやけに安っぽく、俳優のアラもわかってしまい、あんまり美しくない。ジェファーソンが恋をするコズウェイ夫人のグレタ・スカッキの厚化粧は痛ましい。
しかし、これでよかったのだ。
この映画はフランス革命の四年前に、初代のフランス駐在アメリカ公使としてパリに着任したジェファーソンの目から見たアンシャン・レジームを描いていて、フランスで作られた大革命ものには出てこないようなシーン(輪になった手をつなぐメスメルの怪しげな治療や市場の人形劇でコケにされるマリー・アントワネット、修道院に預けられた娘たちのポルノの回し読み、オペラ座のトルコ人、ギロチンの模型にはしゃぐラ・ファイエット公爵周辺の開明派貴族等々)がたくさん出てくる。
フランスを斬るだけではすまない。ジェファーソンは長女(パルトロゥ)と、料理を学ばせるための黒人奴隷の従僕を連れてきているが、次女が故郷のモンティチェロで病死したために、三女をおつきの黒人の15歳の下女のサリー(ニュートン)といっしょにパリに呼び寄せる。
従僕と下女は兄妹で、ジェファーソンの妻が持参金の一部としてともなってきた黒人奴隷なのだが、妻の父親が奴隷の女に産ませた子供で、妻の異母弟妹にあたるのだ。あろうことか、ジェファーソン自身もサリーと関係してしまい、子供までできる。それに勘づいた長女はカトリックに改宗して、修道院に残ると言いだすし、ロンドンから彼に会うために渡仏してきたコズウェイ夫人は彼を振って、二度と会おうとしない。
サリーの兄は、フランス革命の影響で自己主張が強くなり、賃金を要求しろと妹をたきつける。板挟みになって悩むサリーの繊細さは悪くない。
アイヴォリーのコスチュームもので、出来もいいのに、ミニシアターでひっそり公開とはおかしいと思ったが……。
もっとも、最後でジェファーソンを救ってはいる。アメリカに帰任が決まったジェファーソンに、サリーの兄はフランスに残ると言いだす。フランスは奴隷禁止なので、無理に連れもどすことはできない。ジェファーソンは長女を証人にして、二年以内に彼を解放し、サリーとその子供は自分の死後、解放すると聖書にかけて誓う。ジェファーソンはその誓いを守り、国父の権威は一応保たれる。
コズウェイ夫人に「外国人にはわからない。アメリカ人でも、南部で生まれた者以外はわからない」とつぶやくシーンや、長女が自分と血のつながった黒人奴隷に囲まれて暮らすモンティチェロの生活を呪うシーンは重い。東部のインテリが南部人を馬鹿にする理由がすこしわかった気がする。
フランス古典主義時代の名女優、マルキーズを描いた歴史映画。時代考証に凝っていて勉強になった。
リヨンの市場でストリップまがいの踊りを見せ、客をとっていたマルキーズ(マルソー)はドサ回り時代のモリエール一座の花形喜劇役者、グロ・ルネ(ティムシット)に見そめられ妻になる。モリエール一座はパリにもどり、王弟殿下専属劇団となるが、マルキーズは初舞台でとちったので幕間の踊りしか出番がない。しかし、王弟殿下が天真爛漫に踊るマルキーズに目をとめたのが縁で宮廷に出入するようになり、ルイ十四世(レルミット)からもかわいがられる。
マルキーズは喜劇専門のモリエール一座ではぱっとしないが、そこに野心満々のラシーヌ(ウィルソン)が近づいてくる。彼はマルキーズの才能を見抜き、彼女にあてて『アンドロマック』を書く。マルキーズは夫のルネと恩のあるモリエール(ジロドー)を裏切れず、悶々とする。ラシーヌは業を煮やしてルネを毒殺してしまう(これは史実ではないだろう)。マルキーズは『アンドロマック』に主演し、舞台は大成功をおさめ、マルキーズは悲劇女優として名声を博する。フランス文学史おなじみのエピソードである。
しかし、成功もつかのま、マルキーズは舞台で倒れ、付人に役を奪われてしまう。マルキーズは付人が演じる舞台を見て、狂乱のうちに死をむかえる。
野心にとりつかれた女の出世と蹉跌の物語のように思うかもしれないが、ベルモン監督はマルキーズを野心と無縁な天真爛漫な女に描いた。腐敗のきわみのルイ十四世の宮廷の中で彼女だけが無垢なのだ。ソフィー・マルソーのための映画といってもいいかもしれない。
シリーズ中、一番気色悪い! 第一作にならぶ出来だと思うが、怖いというより気味が悪いのだ。エイリアンのビチャビチャ、ドロドロはともかく、バイオテクノロジーでリプリーが再生されるが、実はたくさん出来そこないが出ていて、リプリーと対面するシーンはおぞましい。リプリーの遺伝子を受けついだニューボーン・エイリアンは妙に人間の面影があって、気持ち悪いことおびただしい。冷凍睡眠中の労働者をさらってきて、エイリアンの宿主にするという設定も鬼畜だ。
鬼畜だらけの映画の中で、ウィノナ・ライダーはヒューマニズムあふれるアンドロイド役で得をしている。彼女がアンドロイドだとわかると、人間はあんなに優しくないよなとみんな納得していたのが笑える。
白一色の雪原をフィリダ・ローの老婆が思いつめた表情で歩いてくる。このタイトルバックでまずまいってしまった。傑作の予感がビンビン響いてくる。
やがて町があらわれ、寒々とした家並みが見えてくる。フィリダ・ローのたくましさとは逆に、エマ・トンプソン(短髪!)は呆けたような顔でベッドで寝返りを打っている。室内のそこかしこには夫とおぼしい男の写真(素人写真ではなく、芸術写真だ)が飾ってある。だんだんと彼女が夫を失ったばかりだということがわかってくる。
フィリダ・ローは気落ちした娘を力づけ、もう一度写真家として立ち直らせようと来たのだ。
この母娘を軸に、高校生になる息子が、通学途中にたまたま出会った娘(アーリーン・コックバーン)に引かれて学校を休み、一日デートするエピソードと、二人の老婆が隣町に葬式に出かけるエピソードが平行して語られる。囲碁のように、ぽつんぽつんと置いた石が離れたままで関係を形成し、静かにドラマを醸しだしていく。
元はリックマンが演出して好評を博した舞台だというが、この作りは戯曲というより小説である。母と娘の対立だけを取りだせば西欧的なドラマなのだが、他の二つのエピソードが置かれると、べケット以降の世界になる。
雪に覆われた寒々としたスコットランドの風景、特に真っ白に凍りついた海の景観がこの映画の基調を作っている。きわめて映画的な映画である。元がどんな舞台だったのか、想像がつかない。