65席の映画館に移ったが、オバサマ族で意外にこんでいた。映画評ではたたかれていたが、延々と部屋がつづく邸内や絢爛豪華な舞踏会の場面など、見どころが多い。ロシア・ロケが一番の売りだ。
良くも悪くもエキゾチシズムが売りだし、レヴィンの兄役以外、国際キャストで固めていて、まったくロシア的ではない。ソフィー・マルソーは物憂げな表情で黙っていれば、ロシア貴族に見えないこともないが、喋るとパリの下町娘の地が出てしまう。なぜよろめいたかを、子宮がどうのこうのというナレーションですませたのは苦しい。
エンターテイメントとしてはまとまっているが、物足りない。アンナの困った部分をちゃんと描いているし、レヴィンの出番を省略しなかったのはいいが、エンターテイメントでは意味はなかったかもしれない。
舌を巻くほどよくできた話。原作も傑作。
サーの称号をもつ初老の出版エージェントが、アクションものばかり書いていた旧知のフランス人作家から原稿を託される。チュニスを舞台にしたラブ・ストーリーで、従来の粗雑な作品とは違う傑作に仕上がっている。
出版エージェントは原稿を出版社にわたす前にチュニスに飛び、昔の恋人の妹に会って、ヒロインのモデルが自殺した恋人で、作家が彼女をレイプしたことを確信する。彼は小説をレカミエ社に売りこみ、注目を集めるように工作する一方、その作品とそっくり同じ作品が1940年に出版されていたという「事実」を周到にでっちあげる。
倒述ものの範疇にはいるので、謎解きではなく、でっちあげがいかに完璧に行なわれるかがサスペンスになる。主人公の計算通りに事態が展開していく場面が圧巻だ。レカミエ社が裁判で持ちだした「交通事故で意識不明になった直後に元の本を読んだために、無自覚のうちに自分の創作として書いてしまった」という主張に不安になった作家は、自宅の書斎を探し、疑惑の元になった本を発見する。作家は自殺する(レカミエ社、ゴンクール賞と実名を出しているが、いいのだろうか)。
自分の記憶が信じられなくなるというラストは悪魔的というしかない。すべて逆算して組み立てられたにしては、完璧にできあがっていて破綻がない。
唯一の不満は、昔の恋人そっくりに成長し、主人公に言い寄ってくる姪が映画的に生きていないことだ。恋の思い出を描かなかったのは見識だが、それなら姪のあつかいを考えるべきだった。
久しぶりに見たが、ベアトリス・ダルはすばらしい。切れる時は怖いが、ゾルグをまぶしそうに見上げる表情はたまらなくかわいい。
インテグラルを見たのは二回目だと思うが、やはり無駄が目につく。最初のバージョンでは、何気なくはさまれたショットが生きていたのだが、説明的になったために、沖をゆく帆船や、メリーゴーラウンドのショットなどが死んでしまった。ベティが告訴され、作家志望の警視にゾルグが慰められるシーンとかも余計だ。
二度目だが、男の子が生まれなかったばかりに、三〇年近く暮らした屋敷を出なければならなくなった後妻と娘たちの話なのだということがわかっているので、細かいニュアンスが読みとれて、一層おもしろい。妹たちのめんどうを見るつもりでいた異母兄が、意地の悪い兄嫁にあれこれいわれて、わける財産の額をどんどん切り下げていく冒頭の場面は笑える。脚色の勝利だろう。
三人の娘はベストの配役で、別の女優がやったら映画の性格が変わってしまうのではないかとさへ思える。お婿さん候補の方は、代わりがいそうだが。
カポーティーの自伝的小説にもとづく、愛すべき小品。
主人公の母親の葬儀の場面からはじまる。教会の二階が黒人席になっていて、南部の話だというのがわかる。
主人公の父親は悲しみから生活が荒れ、家の中はめちゃくちゃ。主人公は父親の従姉妹に預けられるが、その直後、父親は自殺同然の自動車事故で死んでしまう。孤児となった主人公はオールドミスの姉妹と、自分をインディアンと思いこんでいる黒人の召使のキャサリン(ネル・カーター)に育てられる。姉妹の妹(シシー・スペイセク)の方は父親の事業を継いで、男まさりに切りまわしている町で有数の実業家だが、姉(パイパー・ローリー)の方は家に引きこもったメルヘン・オバサンで、ジプシーに教えてもらった水腫薬を作って、通信販売している。
主人公はメルヘン・オバサンと波長があい、キャサリンと三人で野原に薬草採りに出かける。メルヘン・オバサンは草をわたる風の音を、死んだ人々が話しかけているのだと言う。
妹が姉の水腫薬を事業化しようとしたことから、騒動がはじまる。妹はシカゴから化学技師(ジャック・レモン)を連れてきて、工場を作ると言いだすが、姉は薬の作り方を教えず、主人公とキャサリンを連れて家出する。
三人は野原で見つけた樹の上の家(といっても、床がはってあるだけ)に住みつく。妹にいわれて保安官がむかえに来るが、三人は帰ろうとしない。
息子夫婦にボケあつかいされている元判事が加わったり、主人公の親友のプレーボーイが応援したり、15人の父なし子をつれた女巡回説経師のシスター・アイダ(メアリー・スティーンバーゲン)が合流したりで、ちょっとした叛乱になる。
保安官補が威嚇射撃した弾が主人公の方にあたり、血を見たことから、姉妹が和解し、騒動がおさまるが、姉が脳溢血で急死し、主人公は町を出て、作家になる決心をする。
「ハックルベリー・フィン」に通ずるドライな抒情があり、アメリカの霊性を感じた。事業しか生きがいのない寂しい妹と、メルヘンに生きる姉の対比がおもしろい。パイパー・ローリーは最高。
18世紀、英国。女囚の娘として生まれ、娼婦となり、愛をえた女の一代記。19世紀以降だと、偽善がどうのこうのとせこくなるが、18世紀の話だけに、裏はあって当たり前という腰のすわったところがあり、骨太のおもしろさがある。
牢獄のような孤児院。汚い子供たちが寝ている。修道尼が一人の女の子をかかえて連れだす。女の子は暴れるが、きれいな服に着がえさせられ、黒人の紳士(モーガン・フリーマン)に引きわたされる。彼女はフローラ(アイリング・コーコラン)といって、死刑になった女囚、モルの産んだ娘で、黒人の紳士はヒブルといって、モルが奉公していたオールワージー夫人(ストッカード・チャニング)の命令で引きとりに来たと告げる。ヒブルは母の残した回顧録を道々、フローラに読んで聞かせるが、彼女は憎たらしいくらい反抗的で、回顧録にもそっぽをむく。
好色な神父に抵抗したモルは、慈善家のマザワッティ夫人に引き取られる。夫人はモルに目をかけ、実の娘と同じようにかわいがる。実の娘二人は、男たちの注目を集めるモルをいじめるが、彼女に感化されて、貧民街にほどこしにいく。だが、二人は貧民街で襲われてしまい、いたたまれなくなったモルはオールワージー夫人の娼館に世話になる。下働きをしていたモルは、従僕のヒブルが娼婦と密会しているところをかばい、彼と親友になる。
モルは客をとることを断りきれなくなり、娼婦になる。オールワージー夫人は、彼女に子供ができたことにして、客の恐喝をはじめる。
生活が荒れ、客に相手にされなくなったモルを指名する男があらわれる。彼はフィールディングという貧しい画家で、彼女をみすぼらしい貸間に呼ぶが、絵のモデルにするだけで帰す。
そんな時、オールワージー夫人の娼館が警察の襲撃を受ける。子供ができたと恐喝された男たちのたくらみで、夫人は牢獄に入れられ、モルは負傷し、フィールディングにかくまわれる。
フィールディングに看病されたモルは彼と愛しあうようになる。彼は両親の家に彼女を連れていくが、そこは豪壮な邸宅で、彼は酒造業で財をなした一族の御曹司だった。両親の反対にもかかわらず、二人は結婚し、女の子が生まれるが、フィールディングは結核で死に、モルはフローラをやしなうために、彼が残した絵を売りに出る。
街路で女泥棒と、それを追いかけてきた自警団に出会うが、女泥棒が落としていった金を拾ったばかりに、女泥棒と間違えられてしまい、リンチにされそうになる。そこへオールワージー夫人がヒブルとともに通りかかり、娼婦にもどるなら助けてやるという。
モルは新大陸に娼館を開くという夫人に従うが、フローラをむかえにやると、貸間の一帯は火事になり、行方がわからないという。後ろ髪が引かれるまま、船出するが、船は新大陸に到着間際、難破する。
ここでヒブルとフローラの旅も終わり、思いがけないハッピーエンドがまっている。
生一本の女を演じるロビン・ライトがすばらしい。精神性という点ではマデリン・ストーと似ているが、ストーはお姫様が似合う女優で、こういう底辺からはい上がる役にはあわないだろう。実直なヒブルのモーガン・フリーマンもいい。こういう役は他の役者では考えられない。オールワージー夫人のストッカード・チャニングは、絵に描いたような悪女で、これも余人に代えがたい。
美人バイオリニストと舎弟企業をやっているヤクザの関係が、トップ屋殺しや孤児院の卒業生のつながりを通じてあきらかになっていく前半はよかったが、十年前の実父殺しの真相がわかってしまうのが早すぎるし、その後は情緒過多でくどい。財閥の御曹司と結婚する妹をスキャンダルから守るために、死ぬつもりで親友の仇をとりにいくという結末はアナクロだし、なかなか死なないで、焼津まで逃げて、愛する女の腕の中で息絶えるというラストには頭が痛くなった。
実直で忠実な番頭役の中村はいい味を出していたが、あとはすべて類型の類型。川井郁子は見るからにタカピーで、守る必然性があるとは思えない。
設定を現代に移しているが、原作の大時代的なところを逆手にとって、おもしろい作品に仕上げている。アン・バンクロフトとロバート・デ・ニーロの怪演にささえられるところが大きいが、ディケンズの物語の力も効いている。
モーターボートで干潟にスケッチに出かけた少年が、海の中から飛びだしてきた赤い囚人服(!)の死刑囚(デ・ニーロ)に脅され、食べ物とカッターをもってこさせられる。アナクロな出だしだが、両親に早く死なれ、姉と姉の同棲相手の漁師に育てられている孤独な少年という設定と、メキシコ湾岸のゆったりとした景観があいまって、妙に説得力がある。
ディンズムア夫人の荒れはてた屋敷(!)に呼ばれ、エステラと出会うシーンも、変に説得力がある。婚約者に裏切られて、気がふれたという噂の主の庭にはいっていくと、パーティの準備をしたまま、何年もたってしまったテーブル(ボロボロのテーブルクロスがかかり、埃にまみれた皿やグラスがならんでいる)が置き去られている。
ちょっと考えれば、おかしいのだが、廃墟美はなかなかのものがある。
厚化粧に皺だらけのディンズムア夫人は「ベサメ・ムーチョ」のレコードをかけ、60年代ファッションで妖怪のように踊りまくる。あの無残な皺をさらすとは、さすがアン・バンクロフト。
グィネス・パルトロウは宿命の女としては、アクがなく物足りないものの、ベテラン二人の怪演がすごすぎるから、バランスがとれているかもしれない。
映画内のスケッチはフランチェスコ・クレメンテという若い画家だそうだが、アルカイックな感じで悪くない。
彗星が衝突するまでの一年間の話である(発見した時点からいうと2年ちょっと)。ヒロインのTVレポーターは財務長官辞任の理由が「ELE」にあるところまでつきとめるが、「ELE」を女性の名前と誤解し、下半身スキャンダルと思いこむ。大統領がみずから口止めにやってくると、カマをかけて会見の第一質問権を手にいれたものの、ELEが生物大絶滅の頭文字だと知り愕然とする。
彗星の軌道を変えるために米露のチームが出発するが、彗星を大小二つに割っただけで、衝突軌道からそらすことはできなかった。100万人の選ばれた人間を収用する作業がはじまり、いろいろある。
見ている最中はおもしろかったが、時間がたつにしたがいどんどん色あせる。
ヒロインのジェニーをやったティア・レオーニは成功願望にとりつかれている女を嫌みなく演じ好感がもてたが、好感で終わるあたり、シャロン・ストーンにはなれない。
大統領のモーガン・フリーマンははまり役。この人は今、一時期のショーン・コネリーの位置にいる。
彗星に着陸し、核爆弾をしかけて脱出するシーンは地味。「2061年宇宙の旅」からすると、もっと派手に作れたはずだ。ビルを呑みこむ巨大津波が大西洋岸から内陸部を襲うシーンは見せ場だが、驚きはない。
離婚増加に業を煮やした天使ガブリエルが、理想のカップルをゴールインさせるべく、男女二人の天使を地上に派遣する。女の方はホリー・ハンター(!)。コメディもできたのか。
二人が指定されたのは、大富豪のわがまま娘と小説家を夢見る掃除夫。掃除夫はわがまま娘の父親の会社に勤めていたが、リストラで解雇。抗議にいった席にわがまま娘がいあわせたことから、誘拐する破目に。婚約者の歯医者に重傷を負わせて、暇をもてあましていた娘は誘拐されて大喜び。頼りない誘拐犯にあれこれ伝授。二人が結ばれないと天国に帰れない天使二人も側面から援助。
このちぐはぐなカップルが結ばれるまでを描くロマンチック・コメディだが、キャメロン・ディアスの魅力で、近来まれな楽しい作品に仕上がっている。隠れ家の近くのレストランで、二人で歌うシーンは最高。
刑務所から出てきたばかりで、職のないインディアンの青年が生命と引き換えに、彼にとっては大きな金額を手にいれ、最後の三日間、家族を懸命に喜ばせようとする。
モハベ砂漠のはずれのゴミ捨て場に、キャンピングカーをならべた吹きだまりの一角があり、そこにインディアンやカリビアンが方を寄せあって暮らしている。暑さでだるい雰囲気は『デッドマン』と似ているが、現代の話なので、もろに希望がない。
急に大金を持ってきた夫を妻(カリロ)は信用せず、黒人の神父に相談するし、かつてのワル仲間は一口乗せろとか、金を貸せとかまつわりついてきて、妻に乱暴しようとする。
彼の生命を買ったのはマーロン・ブランド扮する金持で、ビルの地下に拷問室を作っている。ブランドの部下が彼を監視していることがわかると、画面はいよいよ重苦しくなる。
死の前日、彼は息子にインディアンとしての誇りを伝える。夜、妻をレイプしようとした相棒を殺し、明け方、迎えの車に乗って死におもむく。大した金額ではないだけに、後味が悪い。
MITの数学の授業。教授陣が二年間考えたという問題を廊下にはりだすと、何者かが解いている。授業で呼びかけるが、謎の天才は名乗り出ない。もう一問、はりだすが、今度は掃除夫の青年が答えを書いているところを見つかる。フィールズ賞受賞者の教授はラマヌジャン以来の天才を発見して興奮するが、彼は孤児で里親の間を転々として育てられ、ちょっとしたことで暴力沙汰を起こす。セラピーを受けさせるが、彼は事前にカウンセラーの著書を読み、弱点を突いて、ことごとく怒らせてしまう。
このどうしようもない問題児が、ロビン・ウィリアムスの精神科医と、ハーバード大学の才媛のガールフレンドとの交流で、成長するというお話。前半はスリリングだったが、後半は底が割れてしまった感がなくもない。
ボストン南部のアイリッシュの多い貧民街の仲間がおもしろい。主人公の成長で一番大きかったのは彼らとの友情ではなかったかという気がする。二十才の誕生日に、仲間が贈ってくれたポンコツ自動車で、スタンフォードに移ったガールフレンドを追いかけていくという結末だが、まとまりすぎている。
「タイタニック」とアカデミー賞を争った作品だが、出来はこっちの方が上だ。猟奇殺人もののとくいなエルロイの同名の小説が原作だが、猟奇色はすくない。ロスアンジェルス市警の腐敗に三人の刑事が、結果として、立ち向かうことになるが、腐敗の奥の深さがだんだん明らかになっていく際の足元が崩れていくような恐怖感がすごい。
三人の刑事が平行して描かれるが、大学出のエリートで、出世のためなら同僚を売ることまで平気なエド・エクスリーが主人公であることがわかってくる。彼は単純な出世主義者でも、四角四面の原則主義者でもなく、正義の実現のためのかけひきを心得ていて、市の上層部に迫って、最後に筋を通す。これがアメリカのエリートなのか。
一癖も二癖もある警察関係者のほか、ゴッシプ新聞の記者(ダニー・デビート)や、ヤクザも出てくるが、みんなそれぞれの物語をかかえていそうな厚みがある。
男っぽい話の中で、キム・ベイシンガーの娼婦が紅一点で輝いている。仕事中のキラキラした美しさと、プライベートの時の盛りを過ぎた女の顔の対比がぞくぞくするくらい魅力的だ。
墓地の上であぶなっかしく綱渡りをするサーカス芸人のショットからはじまる。綱を踏みはずして死んだ仲間の葬儀で、芸人たちはピカソの道化師のような物悲しい表情である。綱渡り芸人は、穴に降ろされた棺の上までくると、薔薇を一輪、また一輪と落とす。真紅の花は棺にあたって、砕ける。
痛ましい光景の中で、喪服のジャン・レノが「この町で死ぬことはないだろ、墓地が一杯なんだから」と不謹慎なことを言う。彼の妻は心臓病で、先立った娘の隣に埋葬してほしいと望んでいるが、墓地にはあと三人分の余地しかない。隣接する土地を持っている地主が教会に売ればいいのだが、いわくがあるらしく、頑として売ろうとしない。
ジャン・レノは妻のはいる墓を守ろうと、余命いくばくもない病人を片っ端から見舞ったり、事故が起きてはと勝手に交通整理したり、困ったオヤジぶりを発揮する。
役者はみな貧相なイタリア人の顔だし(特に妻の魔女顔)、画面も昔のイタリア映画のような濁った色調だが、台詞は英語、誇張の仕方は外国人から見たイタリア人という感じ。過去の誘拐事件がからんできて、殺人まで起きる。
後半はかなり無理のある展開なのだが、ジャン・レノの一途さで、ぎりぎりのところで哀愁のこもった喜劇として成功している。
伝説のロードムービーだが、なるほど、みずみずしくて、最近の考えすぎの作品とは出来が違う。
アメリカ案内の本の取材に来たドイツ人のライターが、ニューヨークの空港の窓口で子連れのドイツ女性と出会う。ドイツの空港のストでアムステルダム経由便しかないので、英語の通訳をしてやったところ、ホテルの世話も頼まれ、あげくに恋人とのごたごたから、娘のアリスを連れて先にアムステルダムに行くことになる。エンパイアステートビル展望台が出てくるのはご愛敬か。
アムステルダム空港の近くに宿をとるが、母親は来ない。警察に預けようとするが、生意気なアリスがしょんぼりするのをほっておけず、「お婆ちゃんの家」に連れていくことにする。
アメリカ案内の仕事が駄目になり、所持金も乏しくなっているのに、住所も姓もわからず、家の前で撮った写真と子供の曖昧な記憶だけを手がかりに、レンタカーでドイツ各地を漫然と探して歩く。この浮遊感と主人公の開き直ったような静けさがたまらなくおもしろい。
ルール地方で目指す家を見つけるが、イタリア人が住んでいて、前の住人はわからない。ついに主人公はアリスを警察に連れていくが、彼女はすぐに逃げだしてきてしまい、二人で主人公の両親の家に行こうということになる。しかし、フェリーで彼女を保護した警官と乗り合わせ、祖母の家が見つかったことと母親が帰国したことを告げられる。主人公は微妙な立場におかれるが、あいかわらず飄々としているのはさすがである。
最近のヴェンダースお得意のハイテク近未来もの。暴力映画で当てたプロデューサーが、二人の暴漢に襲われるが、暴漢の方が殺され、プロデューサーは失踪する。映画会社は離婚するつもりだった妻が引き継ぎ、刑事がプロデューサーの行方を追う。
という話に、FBIが街中に監視カメラを設置する実験を密かに進めている話がからむが、監視者の前にTV画面がずらっとならぶという仕掛は凡庸。ごちゃごちゃして、例によって考えすぎ。
冒頭のシーンで頬に怪我をするスタント・ウーマンが、訴えないことと引き換えに、プロデューサーから女優デビューのチャンスをあたえられる。いい芝居をするのだが、映画が製作中止になったために、デビューは幻に終わる。彼女が失踪したプロデューサーとの接点になるが、二流っぽさの魅力がある。
原案のデラコルタは「ディーヴァ」の原作者で、オペラへの愛があふれた楽しい映画。
ベネズエラのカラカス。花嫁のアナは結婚式から逃げだし、マリア・カラスのポスターだけをもってパリへ。ベネズエラ出身の女の子たちが共同生活している部屋に転がりこみ、アルバイトをしながら、亡命ロシア人の老先生、グレゴリエフ(ドブラーヌ)に声楽のレッスンを受ける。
グレゴリエフ先生のアパルトマンの前のカフェで、ゲイで星占い師のアルマンに部屋を移りたいと相談すると、今日、見つかるといわれる。ちょうど、やはりレッスンを受けている女性精神分析医のアルカニー(ディディ)がきあわせていて、アルマンの占いの通り、彼女のアパルトマンに移ることになる。
TVで映画監督のイタロ(リュイス・オマール)が「シンデレラ」の主役のソプラノを探していると知り、売こみのためにパーティにいくが、ビデオ作家を目指すセレステ(ドンバール)に「金髪でなければ駄目」と嘘をつかれて、意気消沈。
それでもテープを送るが、テープを聞いたイタロはアナの声が気にいり、助手に探させるが、ちょうど不法滞在がばれ、警察に追われる身のアナを見つけることができない。しかも、魔女顔のセレステがいろいろ妨害し、すれ違いがつづく。アナはアルマンの申し出で、偽装結婚をすることになり、結婚式の日、ついにイタロと出会い、主役の座をいとめる。
アナのアリアドナ・ヒルのさわやかな魅力がこの映画の成功を決めた。彼女なしには考えられない作品だ。
意地悪をつづけるセレステは、からっとしたキャラクターなので、後味がいい。ロメール映画の常連だというが、まったく記憶にない。
精神分析医のアルカニーのキャラクターはおもしろい。レズを自覚してうろたえたり、ブードゥー教の呪術師のトゥトゥに呪術をならったり、呪術にかかって、突然、アメリカにいったり、笑わせてくれる。
救いのない映画。
バンリューと呼ばれるパリ郊外の低所得者向け団地で暴動が起こる。きっかけはアラブ系青年に対する警察の暴行だったが、団地は機動隊の制圧下におかれ、制服警官と私服刑事とマスコミがうようよし、一触即発の状態。
ここに暮らすユダヤ人のヴィンス(カッセル)、ボクサーを目指す黒人のユベール(クンデ)、アラブ系のサイードの午前10時から翌朝の午前6時までのチクチクするような20時間を追うが、三人とも本当に貧相顔をしていて、目つきが凄い。団地の荒廃ぶり、住民のすさみ方、警察の横暴など、陰々滅々の映像がつづく。
夜、借金を取りたてに、三人はパリ中心部に向かう。金を借りているアステリクスはオートロックの豪華なアパルトマンに住んでいるが、ロシアン・ルーレットで借金を踏み倒そうとする。結局、終電に乗り遅れ、金のない三人はパリを徘徊し、パーティを開いていた画廊にはいりこむが、場違いなために追い出される。
三人は車を盗もうとして、ホームレスの男と知りあう。エンジンをかけたところで警官に捕まりそうになるが、ホームレスが警官をおしとどめてくれたので、逮捕をまぬがれる。
三人は始発でバンリューにもどるが、駅を出たヴィンスとサイードはパトカーに連行される。遅れて出たユベールはピストルをかまえて仲間を助けようとするが、撃ち合いになり、三人は射殺される。
オープニングが凄惨。銃をかまえたマックス(カソヴィッツ)に、ヴァグネル(セロー)が早く撃てとせっついている。カメラが引くと、台所の隅に追い詰められた血塗れの老人の姿があらわれる。ピンク色のはげ頭に鮮血が筋を引き、あえぎながら命乞いをしている。マックスはついに引き金を引く。
ヴァグネルは先祖代々、殺人を請け負ってきた職人だが、技を伝えるべき息子がいない。マックスはヴァグネルのスーパー強盗を目撃し、彼の部屋をさぐろうと忍びこんだところを銃で撃たれ、警察につかまってしまう。ヴァグネルは損害賠償を放棄する代りに、マックスを無理やり殺人の弟子にしてしまう。
ヴァグネルはいろいろ講釈を垂れるが、老いのために技がにぶっている。精神的に追いつめられたマックスは、落ちこぼれで学校にいっていない13歳の友人、メディ(ベノーファ)を仕事に引きこむ。ヴァグネルは怒り、メディの射殺を命じるが、マックスは引き金を引くことが出来ない。ヴァグネルはマックスをまず射殺し、メディに銃口を向けるが、メディも彼に銃を突きつけていた。
ヴァグネルはメディの冷静さにほれこみ、技を教えこもうとする。メディはTVゲームで育った世代で、夜、自宅にもどると、母親をこともなげに射殺する。この平静さは怖い。
ラスト、TVのニュースは、メディが学校に押しいり、自分を校門から締めだした担任と校長を射殺し、自殺したと報じ、教育評論家のおきまりの分析を流す。
子供殺しの高額の料金を聞き、メディが「先生はおまえなんて一文の値打ちもないと言ってたよ」と驚くとか、理屈で作っている部分がかなりあるが、メディの無表情はすごい。インテリの芸達者二人は子役に食われている。
オープニングがおもしろい。戒厳令下のクリスマス。産気づいた娼婦を病院に連れていくため、売春宿のオカミは閑散とした街路で、車庫にもどるバスを強引にとめて乗りこむ。娼婦はバスの中で男の子を産む。従来の馬鹿馬鹿しいエネルギーだけでなく、ストーリーテリングの魅力が新鮮だ。
18年後、赤ん坊は青年に成長し、イタリア領事の馬鹿娘に片想いをしている。電話ではとりあってくれないので、強引にアパルトマンにいったところ、馬鹿娘が銃を発射したために、警察沙汰になる。彼は年配の刑事と格闘中、銃が暴発し、若い刑事を下半身不随にしてしまう。
4年後、出所すると、馬鹿娘はすっかり改心し、身障者になった元刑事と結婚して、孤児院を運営している。元刑事は身障者のバスケットボール・チームにはいり、国民的英雄になっている。
刑務所にはいっている間に、娼婦だった母は、取り壊し寸前の家と,わずかな現金を残して死んでいる。彼はヒロインの孤児院にボランティアとしてはいりこみ、墓地でたまたま知りあった、年配の刑事の浮気妻とねんごろになる。
二重の三角関係がどうなるかが後半の焦点で、アルモドバル流の情念の激しさと、物語のおもしろさがないまぜになって、意外な結末に転がっていく。
アルモドバルは一皮むけたと思う。リベルト・ラバルはアントニオ・ヴァンデラスと雰囲気がそっくり。あれがアルモドバルのヒーロー像なのだろう。
ヒロインがフランチェスカ・ネリだとは、最初、気がつかなかった(馬鹿娘ぶりが堂にいっていた)。改心した後の知的な情念は、まさに彼女だ。