赤茶けた大地、暗い緑色の石垣、絹雲が出た青空と三層になった画面の真ん中に、黒い背広のダンカンが重苦しい表情で立っている。インパクトのあるオープニングで、これは傑作かなと思う。くせのある役者を仕切れていないところがあったし、観光映画的な冗漫さもあったものの、保険金めあての自殺ツアーという設定が強力なので、焦点がぼやけず、最後までパワーを維持する。
ダンカンが圧倒的にいい。むっつり押し黙り、だらしない客たちを威圧する。缶けり遊びの鬼に見立てられているが、あれこそ生きている超自我だ。彼だけ死ななければならない理由を明らかにしなかったのは正解だと思う。
自殺に追いこまれるだけあって、一癖二癖ありそうな面々をそろえているが、左右田一平と村野武範は邪魔だった。
一人だけ、間違ってツアーにはいってきた美つきの大河内奈々子は物足りない。運転手と不倫のバスガイドの春木みさよはもうけ役。
ファブリスがパルマの手前で、追いはぎもどきの自由主義者に金貨を無心されるところからはじまる。ジーナはもうサンセヴェリナ公爵夫人で、パルマ宮廷に勢力をはっている。モスカ伯爵の18世紀人的な愉快な陰謀は描かれず、人のよさそうなオヤジにしか見えない。ワーテルローやナポリの武勇伝は言及されるだけだし、オール・イタリア・ロケをうたうには、箱庭的である。
ジェラール・フィリップは箱庭の中でそれなりに輝いているのだが、洒落者の印象が強く、ファブリスの血の気の多さというか、無鉄砲さがもう一つ出ていない。ジーナのマリア・カザレスの気品は、最近の女優では絶対に無理だ。クレリアのルネ・フォールの溌剌とした気品も、ブリジッド・バルドー以前だからありえたと思う。
ラスト、パルマ大公は冒頭に登場した自由主義者のテロに倒れ、暴動が起こるという19世紀的な展開になる。原作のモスカ伯爵の差配する18世紀的なパルマとはずいぶん違う。
アメリカ映画なので、ユロがヒューロットになり、オルタンスがホーテンスになっている。ジェラルディン・チャップリンのユロ夫人が息を引きとるところからはじまる。後事を託された従妹ベットは、再婚を申しこまれるかと胸をときめかすが、女中頭になってくれと男爵に言われて、がっくり。原作をずいぶん変えていて、時代の重苦しさがまったくなく、皮肉な風俗喜劇の部分を柱に話を単純化しているが、これはこれで立派にバルザックだ。
ジェシカ・ラングのベットは、すかっとした姐御肌で、怖いが、愛すべき人物になっている。ホーテンスのケリー・マクドナルドはフランス人形のような美貌で、着飾っているが、貧乏くささが隠し味になっていて、品がない。敵役として実にはまっている。
冒頭、白い十字架が延々とつづき(さりげなくダビデの星の墓標がまじる)、老境にはいったライアン二等兵とおぼしい老人が家族とともに墓参に訪れる。「シンドラーのリスト」のラストそっくりで、あざとい。
しかし、その後の30分間のオマハビーチの場面は、評判どおり、すごい。Dデイものはもちろん、戦争物でこういう画像ははじめてだろう。鉄のバリケードに機関銃弾がカンカンあたり、水にもぐっても、銃弾が泡を引いてつらぬき、血が煙のように拡がる。海兵隊員はまたまく間に死傷し、波打ち際には内臓のはみだした死体が山をなす。これがオマハビーチの実際の状況だったのだ。
この後、中だるみがつづくが、せっかく見つけたライアン二等兵(ディモン)が、戦場の兄弟を捨てて帰れないなどとかっこいいことを言ったために、ミラー大尉の部隊は、橋の守備隊に合流して、ドイツ軍の戦車隊を待ち伏せる破目になって、後半の山場。
独仏語が堪能ということから、測量班から連れてきたアパム伍長(ジェレミー・デイビス)は、ずっと足手まといになるが、途中の陣地をつぶした際、両手を上げて出てきて、必死に命乞いするドイツ兵を放してやるよう、ミラー大尉を説き伏せる。このドイツ兵は戦線に復帰して、戦車隊の歩兵に加わっている。ドイツ兵はアパムの目の前で仲間と格闘し、ナイフで殺してしまう。胸にゆっくり押しこまれていくナイフは怖い。アパムは階段でガタガタ震えているだけだが、ラスト、再び捕虜になり、命乞いするドイツ兵を彼は自ら射殺する。インテリの弱さを描くのは結構だが、この映画には余計だった。
布装の本が出てきて、扉を開くと題名、さらにページを繰ると、タイトルバックの文字が印刷された状態で出てくる。いかにも文芸大作。主人公の内面をモノローグで説明するのも古めかしいし、赤っぽく変色したカラー映像も時代を感じさせる。
しかし、堂々たる展開に引きこまれて、すぐに気にならなくなった。ジェラール・フィリップのジュリアン・ソレルはすばらしい。野心のギラギラした輝きがあるのだ。
レナール夫人のダニエル・ダリューはブルジョワ夫人の気品と自己抑制を見せるが、いったんジュリアンを愛するとと、大胆な所行におよぶ。まさに女である。ジュリアンに射たれてからの献身ぶりも切ない。
一方、マチルダのアントネラ・ルアルデイの向う気が強いながらも、にじみでる気品に嘆息。こんな女優はもういないだろう。
第一次大戦の塹壕戦からはじまる。鉄条網の後で恐怖に目を見開く兵士は、後に戦争神経症になり、自殺するセプティマスだ。
一転して、平和なダロウェイ邸の朝。病み上がりの夫人が、久しぶりのパーティの準備にわくわくしている。着る予定のドレスの繕いをしながら、結婚前の日々の思い出にひたっていると、インドに行っていたかつての婚約者が訪ねてくる。彼女にふられてから、人生を投げてしまったらしい。
彼が帰った後、黄色い羽飾りのついた帽子をかぶって、散歩に出るが、夫人の脳裏に想い出が次々と去来する。このくだりは本当に美しく、幸福感にみちているが、花屋で注文している時、パンクの音が轟き、歩道でセプティマスが恐怖に立ちすくむのを目撃する。
パーティのシーンは風俗劇的なおかしみがある。すらっとした、黒髪の美しい娘だったサリー(リナ・ヘディ)が、太った田舎くさい成金夫人(サラ・バデル)となって再登場したり。
医師のブラッドショー卿から、強制入院させられそうになったセプティマスが、飛降り自殺したと知らされると、夫人は二階の自室にいき、窓の外を見つめながら、いっとき、死を思う。死の思いを振りきり、生に踏みとどまるまでの心の動きを、ほんのわずかな表情の変化で納得させる。「若きパルク」を思わせて、感動的ですらある。この映画はレッドグレイヴの代表作にとどまらず、映画史に残るだろう。
子供の目線でということなのだろうが、すべてアップ画像で、ひどく疲れる映画だ。日本でもフランスでもヒットしたそうだが、どこがいいのか。
ママが交通事故を起し、重体に陥る。同乗していたポネットも軽傷を負い、左手首にギプスをはめている。退院の日、若いパパは車の中でママを馬鹿となじる。ポネットは「馬鹿じゃないもん」とかばうが、パパはママが死んだことを告げる。
パパは仕事があるので、ポネットを伯母の家にあずける。年の違わない従姉兄がめんどうをみてくれるが、ポネットは母親が恋しく、一人で墓にいく。
後半、従姉兄といっしょにあずけられた寄宿保育園が舞台になる。離婚した母子家庭やユダヤ人の子供もいて、恋人がいたら独身じゃないとか、世界はカトリックとユダヤ教の二つからできているとか、とんちんかんなことを喋りあっている。
神様にお祈りしても、ママが返事をしてくれないとポネットが言うと、ユダヤ人の子に相談すればいいと知恵をつけてくれる子供がいる。アダムもイエスもユダヤ人だからだというのだ。ユダヤ人の子は「神の子」(私生児)で、ポネットに神様と話せるようになるテストをしてあげるという。飛石を飛べるとか、他愛もない遊びなのだが、フランスの子供はこういう話をしているのだろうか。
ママの声が聞えないのは、のどが悪いからだといって、のど飴をくれた子供がいる。ポネットは保育園を抜けだし、一人で墓までいき、素手で棺を掘りかえそうとするが、子供の手では埒があかない。泣いていると、黒いコートに黄色いスカーフのママ(マリー・トランティニャン)があらわれ、優しくポネットをさとす。母に手を引かれ、帰っていくが、ちょっとした隙に母が消え、むかえに来た父親と出会う。
一度も姿を見せなかった母親が最後に出てくるところが、この映画の味噌なのだろう。
地味だが、傑作である。第一回セザール賞をとり、昨年の東京映画祭の女性映画特集のオープニング作品だそうだが、こういう作品がノーチェックだったとは。
プロバンス地方の農家が舞台で、夏休みからクリスマスまでを描く。小学生から乳飲子まで、七人の子供をかかえた母親と暴君の父親の話かと思ったら、どうもおかしい。父親には別に本宅があり、新しく買った農地に妾とその子供を住まわせ、働かせているのだとわかってくる。住いはみすぼらしく、中にトイレもない。トラックで野菜をとりにきたり、給料をもってくる若い男たちは本妻の息子で、母親は給料から食費を引かれ、ほとんど手元に残らない。本宅の方で手が足りなくなると、手伝いにいかせられるが、近所の人に聞かれたら「従弟妹」と答えろなどといわれる。
父親はアルバイトの女子大生にちょっかいを出すなど好色なくせに、恐ろしく嫉妬深く、母親が手伝いの男に冗談を言っただけでアバズレ呼ばわりする。それでも、母親は黙々と働いている。
母親は戦争孤児で、16歳の時にすでに妻子のある父親と知りあい、ずっとこういう関係がつづいている。歪んだ関係だが、主演のドミニク・レイモン(ジュリエット・ビノシュを地味にした感じのスイスの舞台女優)の存在感で、こういうのもありかなと納得させるものがある。
耐えに耐えつづけた母親だが、父親が一番上の娘に手を出しかけたことで、切れてしまう。クリスマスの日、学校からガスストーブを借りてきて、TVを買うために父親がおいていった金でご馳走をそろえ、パーティを開く。「このパーティ、お金がかかったろ」と長男が聞くと「クリスマスだからいいのよ」と答えるが、その夜、子供たちを二階の一室で寝かせ、ストーブを消して、ガス心中をはかる。しかし、明け方、窓の外に雪が舞っているのを目にすると、母親は心中を思いとどまり、窓を開け、子供たちを起して外に遊びにいかせる。
心中は日本にしかないといわれていたが、フランスにもちゃんとあるではないか。しかも、日本でもよくありそうな動機だ。
エパンチン将軍邸にムイシュキン公爵があらわれるところからはじまる。顎髭をもじゃもじゃはやした剽逸な物腰と、純真なきらきらした目、子供のような明るさは、バフチーンの描きだしたムイシュキン公爵そのものだ。ナスターシャとガーニャ(ミシェル・アンドレ)の縁談をめぐる滑稽なやりとりもバフチーン的だし、後半の展開も原作のカーニバル性を引きだしている。
この作品が作られた1946年は、まだバフチーンの仕事が知られる以前だったはずだから、こういうドストエフスキー解釈は物議をかもしたのではないか。
ナスターシャのエドウィージュ・フィエールが最高にすばらしい。大輪の牡丹のような気品あふれる色香と、堂々とした物腰にため息が出た。
アグラーヤのナティエはかなり見劣りがしたが、フィエールのナスターシャがすばらしすぎたせいかもしれない。
ウッディ・アレンが声をあてた主人公の働きアリのZが精神分析医の長椅子でぼやくシーンにつづいて、巣を上から下までダイナミックにパンしていく。
声優に一流スターを配しているが、キャラクターをスターにあわせて設定してあるところがみそで、本人の顔を思いうかべながら見ると面白さが倍加する。
Zはバーをお忍びで訪れたはねっかえりの王女様(シャロン・ストーン)に一目ぼれし、もう一度会いたいばかりに、閲兵式に出る兵隊アリの幼なじみ(シルベスター・スタローン)に一日だけ代わってもらうが、そのままシロアリの攻撃に出撃する羽目になる。軍は全滅し、Zだけがもどってくるが、どういうわけか英雄あつかいされ、王女と再会をはたす。しかし、働きアリであることがばれ、王女を人質に巣の外に逃亡する。バーで酔っぱらいから聞いたインセクトピアという昆虫の桃源郷を目指し、王女も不承不承ついていく。インセクトピアはゴミ捨て場のことで、さまざまな昆虫たちが遊び暮しているが、追手に見つかり、王女を奪いかえされる。
王女を助けるためにZは巣にもどるが、巣では平民と女王を皆殺しにし、兵隊アリと王女だけで理想の国を造ろうとする将軍(ジーン・ハックマン)の計画が進んでいた。
仲間を助けるためにZが英雄的な活躍をみせてハッピーエンドだが、お約束にしても、渋い味のある絵柄とスターならではの存在感で、見ごたえのある作品に仕上がっている。
TVでさんざんおなじみのオウム真理教荒木浩広報副部長の三年間を追ったドキュメンタリーだ。撮影がはじまったのは兇々しい一連の事件の後で、破防法の団体請求という残務整理の時期である。荒木氏が副部長(部長はいるのだろうか?)に抜擢されこと自体、今からふりかえるとオウムの残務整理のためだったのかもしれない。
荒木氏を被写体にする以上、純真無垢な若者が、悪逆非道なマスコミと警察と一般市民に迫害されながら、必死に耐えるという構図は約束されたようなもので、事実、その通りに進んでいき、マスコミも警察も一般市民も、予想どおりというか、予想を超えた凶暴さ、悪辣さ、品の悪さを発揮する(本当にひどくて、ついオウムに同情してしまう)。
もし、破防法棄却の時点でカメラを止めていたら、客観的であろうとする監督の意志にもかかわらず、オウムの法難を描いたプロパガンダ映画になっていたかもしれない。しかし、その後もカメラは回りつづけ、丹波で病床に伏す祖母に会いにゆく荒木氏を追い、彼が祖母の家から田舎のひなびた駅にもどり、ローカル線に乗りこんで車窓から田園風景を漫然とながめるところでようやく終る。
この結末で「A」は Aumの映画ではなく、Araki氏の映画になったわけだが、この作品はマスコミ報道が隠してきた一面を暴いたものの、別の一面を隠す結果になったと思う。残務整理の時期だったから成立した作品だという点は押えておくべきで、それは上祐氏を主人公にした「J」というドキュメンタリーを想像してみればわかる。
この作品を製作し、公開する上で、相当な苦労があったことは容易に推察できるが、なにはともあれ、こういう作品が撮れて、公開できたのだから、今の日本は捨てたものではない。
二度目だが、雅さ、ノンシャランさがたまらなく心地よい。現実と夢の交錯が本当にうまい。書割の安っぽいセットがうまくはまっているし、ところどころでロケがはさまるのがリズムを作っている。CGでガチガチに作ったら、この洒落っ気は失われてしまうだろう。
初公開時のプログラムが8000円で売っていたが、マルティヌ・キャロルの修理工の娘をさしおいて、ジーナ・ロロブリジーダのアラブの美女の絵がカラーで表紙になっていた。画面で見るよりはるかにきつい顔に描かれているが、あれが当時の洋画ファンの憧れの女性像だったのだろうか。
いかにも売れない役者で安く作ってるなという出だしで、『グレムリン』に似ているなと思ったら、監督はジョー・ダンテだった。
ハイテク企業に買収された玩具会社が、軍用チップを使って兵隊人形を作るという発端。三ヶ月と期限を切られたので、ろくにテストをせずに出荷し、トイザラスのような大手に圧迫されている個人経営の玩具屋で大騒ぎがおこる。
エリートのレンジャー部隊が悪玉で、ゴーガナイトと呼ばれる異形の怪物たちが善玉。ゴーガナイトたちはレンジャーに負けるようにプログラムされているので、隠れるしかない。問題児あつかいされて、大人はおろか、クラスメートからも信用されない少年がただ一人真相を知るというおなじみの展開だが、あこがれの女の子が途中から仲間になってくれるので、深刻にはならない。
まあまあかなとたかをくくって見ていたが、パラボラアンテナの下になって助かった怪物たちが、母なるゴルゴンディアにむけて模型の船で旅立つラストは感動的だった。
埋葬の場面からはじまる。いかにもインテリという感じの中年男女がずらっとならび、頭のよさそうな女性が弔辞を読んでいる。精神分析の大家とその弟子たちらしい。
参列していた一人が主人公のリヴィエールで、マスコミで売れっ子の精神分析医で、法外な料金を取っているのに、派手な生活で家計は火の車と陰口をたたかれている。弔辞を読んでいた女性は元妻、その再婚相手も同門の分析医らしい。
リヴィエールのもとにはイザベル(パリロー)という行き遅れた金持の娘が通い、転移のまっさいちゅう。エドワール(ティムシット)という患者もいて、こっちは妻を殺したと告白する。リヴィエールは最初はとりあわないが、エドワールは新聞を見ればわかるとかさんざん挑発し、彼を心理ゲームに引きずりこんでいく。エドワールはイザベルがたびたび話題にしていた結婚相手だったし、不慮の死をとげた師(短時間セッションをやっているところからすると、ラカンを暗示か)の患者でもあったらしい。
どこへ引っぱっていかれるのだろうと固唾をのんで見ていると、エドワールはリヴィエールが金に困っているのを見透かして、イザベルの遺産を餌に、彼の分析者の欲望を刺激して引きずり回し、ついには自分を殺させ、その罪をイザベルになすりつけさせる。
リヴィエールは警察で自殺したイザベルの遺産を相続し、若い同門の分析医のナタリーと結婚するが、すべてはエドワールの仕組んだとおりだったという苦い結末。
パズルとしてよくできた映画だが、こういうものをおもしろがる人間は限られているだろう。