これはペネロペ・クルスの映画である。ロマンチックな現代のお伽話で、いろいろ無駄なところがあるが、彼女の魅力でもっている。
ブラジル北東岸の港町、バイアに生まれたイザベラは、生まれつき乗り物酔いがひどいために、家に閉じこもりがちで、料理が上手になる。美しい娘に成長した彼女は、トニーニョ(ベネチオ)と結婚し、二人でレストランを開く。イザベラの料理とトニーニョの陽気な歌で店は繁盛し、イザベラのもとには彼女の腕前に感心した世界各地のシェフの名刺が集まる。
イザベラは乗り物酔いのために女性上位でなければ駄目で、トニーニョは不満から浮気に走る。それを知ったイザベラは海の女神、イマンジャにケーキをささげて愛の終りを祈り、自立した女になろうと、サンフランシスコに旅立つ。幼なじみの女装ゲイのモニカ(ペリーノ)の部屋に転がりこみ、働き先を探すが、どこも相手にしてくれない。ようやく料理学校の講師の職につくが、いい香りに誘われて、町中から男たちが押し寄せ、クラスは大盛況。
香りにつられた一人にTVプロデューサーのクリフ(フェアースタイン)がいた。彼はイザベラとモニカのコンビで料理番組を企画するが、これが大当たり。
一方、バイアの町ではイマンジャの呪いで魚がとれなくなり、レストランも閑古鳥が鳴くありさま。トニーニョはモニカを連れもどすために、コーラス・グループにはいって、サンフランシスコに向かう。
トニーニョがイマンジャの呪いを乗り越えて、愛を取りもどすことができるかどうかが後半の見せ場である。
神を憎むことで神の存在を生々しく感じるというカトリック文学特有の論理をなぞった映画。ていねいな作りだが、レイフ・ファインズナレーションが女々しく鬱陶しい。
空襲下のロンドンが舞台で、親友の外交官の妻と不倫関係におちいり、わかれた小説家(ファインズ)が、彼女の新しい不倫相手を想像し、悶々とする。外交官に探偵を雇うように勧め、彼が断ると、勝手に探偵社にいき、彼女の調査を依頼する。
彼女が訪問したカトリック神父が浮気相手ではないかとうじうじ妄想するあたりもあきれたが、彼女が死病をかかえており、余命いくばくもないとわかると、夫の申し出を受けて看病のために同居する。夫と間男の献身もむなしく、彼女は神に召され、小説家は神に対する憎悪を綿々と書きつづる。
女性に受けて、ロングランになったということだが、こういう映画が当たることからすると、時代の閉塞状況はまだまだつづくのだろう。
伝説となったベルリンのオリンピック・スタジアムでのパフォーマンスの記録映像からはじまる。ベルボトムのジーンズで、見るからに70年代。マイク・スタンドを持ちあげ、どなりまくって、聴衆を挑発する。イエスをおちょくった一人芝居らしいが、ヤジで騒然となる。
タイトルの後、ヘルツォークがかつて住んでいた、貧乏な芸術家のための下宿屋を再訪する。今は広々としたきれいな住居になっているが、半世紀前は小さく区切って、多くの家族がひしめく下宿屋だった。キンスキーは近くの屋根裏部屋に枯葉を腰の高さまで敷き、裸で生活していたが、ヘルツォークが13歳の時、この家に越してきて、一時、同じ屋根の下に住んだのだという。幼いヘルツォークはキンスキーの奇行と集中力、猛練習を目撃した。二日間、風呂場に閉じこもり、叫びつづけながら、風呂桶や便器を粉々に壊したなんていうこともあったという。
ヘルツォークは映画の道に進み、28歳の時、「アギーレ」ではじめてキンスキーと組む。脚本を送って数日後の深夜、キンスキーから電話がかかってきて、意味不明の言葉を延々とわめきちらした。30分くらいたって、ようやく彼が脚本に感動しているとわかった。
ヘルツォークは「アギーレ」を撮ったペルーを訪れ、今はガイドをやっているゴンザレスというインディオと再会する。
「アギーレ」はわずか37万ドルで作り、完成後も長くお蔵入りの状態だった。
最初のシーンは氷河の上を豚の大群が移動し、それが数千人のインディオを連れたスペイン軍に変わるというものを予定していたが、脚本段階でカットされる。キンスキーはそのシーンがなくなったのに、半トンもの登山用具を買いこみ、撮影現場にもちこんだ。
「アギーレ」の映像が挿入されたが、昨秋、ドイツ文化センターで見たビデオ版と色が違う。ビデオ版は全体に白っぽかったが、フィルムで見るとこってりと色が乗っている。ビデオはやはりダメだ。
冒頭の山下りのシーンはマチピチュで撮ったという。
キンスキーは自分が中心でないと不機嫌になり、注目を集めるために事件を起こした。
立ち木を伐採する際、労働者が毒蛇にかまれたことがあった。彼は自らチェーンソーで脚を切断し、一命をとりとめたが、彼が話題の中心になるや、キンスキーは怒りだし、狂乱の一場を演じた。
エキストラのインディオがぎゅう詰めになっている納屋に三発銃を撃ちこみ、一人のインディオの指先を吹き飛ばしたなんていうこともあった。
ゴンサレスも兜の上から剣で殴られ、傷が今でも残っている。
撮影終了間際、カメラ助手を馘にしろとまたぞろ難題をふっかけた。無視すると、自分が帰ると言いだし、荷物をまとめはじめた。ヘルツォークはピストルをつきつけ、あくまで降りるというなら、おまえを殺してから、自分も死ぬと迫った。さしものキンスキーもおとなしくなり、最後のイカダのシーンが撮れた。
映画完成後、キンスキーはライフルで脅されながら撮影したと、尾ひれをつけて記者に吹聴した。
次は「ヴォイツェック」。撮影にはいる前、「ノスフェラトゥ」の撮影が長引き、消耗しきった状態でやってきたが、それがかえってよかった。
ヒロインのエーファ・マッテスは優しくしてもらったと、うっとりと語る。
撮影終了の日、彼女は悲しくなって、一人だけ早く引きあげたが、キンスキーが追ってきて、彼女の肩を抱きながらホテルに帰った。カンヌで彼女が主演女優賞を受賞した時、キンスキーは心から祝福し、二人でホテルまで歩いた思い出を語った。
「ヴォイツェック」を見逃したのが悔やまれる。
「フィッツカラルド」で競演したクラウディア・カルディナーレも優しい人だったと絶賛する。
「フィッツカラルド」は当初、ジェイソン・ロバーズ主演で、助手をミック・ジャガーがやることになっていた。撮影がはじまった直後、ロバーズ急病のために中止の危機に直面するが、キンスキーが映画を救った。
教会の鐘楼の上で、オペラハウスを建てると宣言するシーンのロバーズ+ジャガー版が残っていて、キンスキー版と対比する形で挿入された。
ロバーズ+ジャガー版は、ドン・キホーテとサンチョ・パンサを思わせるユーモラスなタッチで、エキセントリックなキンスキー版とはまったく別物である。別の「フィッツカラルド」もありえたわけだ。
船の急流くだりの裏話は怖かった。映画でも迫力満点のシーンだったが、特殊効果でそう見せているだけだろうと思っていた。ところが、低予算だったので、そんな余裕はなかった。
船を急流に逆らって、ウィンチで遡行させていったところ、ワイヤーが切れ、船が傾いてしまった。ヘルツォークはこの機会をとらえて、決死の撮影を強行する。
キンスキーも参加するが、船が岩に激突した時には真っ先に逃げだした。カメラマンは衝撃で九メートルも飛ばされ、手を負傷した。カメラは最後まで放さなかったが、レンズが飛びだしそうになっていた。
キンスキーは例によってトラブルメーカーで、インディオのリーダーはあの狂った男を殺してやると申しでるが、ヘルツォークは止める。しかし、すぐに止めたことを後悔する(笑)。
キンスキーは自伝でヘルツォークを口を極めて罵ったが、罵倒語を考えるにあたってはヘルツォーク自身が協力し、二人で頭をしぼったという。「読者は悪口を期待しているから」と協力を求めたキンスキーもキンスキーだが、自分に対する悪口を考えたヘルツォークもヘルツォークだ。
ヘルツォークがキンスキーと同じ穴のむじなであることはだんだんわかってくるが、きわめつけは最後に披露するノートだ。豆粒のような細かい字で、ノートがびっしり埋めつくされている。ヘルツォークの方が狂っているかもしれない。
文部大臣が非難したために、かえって客がはいったそうだ。見る気はなかったのだが、あんまり評判になっているので見た。損をした気分だ。
最初の30分間は悪くない。修学旅行のバスの車内にガスが吹きだし、いつの間にかバスガイドと運転手がガスマスクをつけてたり、孤島の廃校で生徒たちが目覚めると、マシンガンをかまえた自衛隊員に取り囲まれたりと、たたみかけていく。馬鹿にされていた中年教師(北野武)があらわれ、騒いだ生徒をナイフを投げて一発でしとめる。キャピキャピ・ギャルがコミカルに殺人を説明するビデオもうまい。
生徒たちは武器と食料のはいったナップザックをわたされて、深夜の島に一人一人送りだされていくのだが、この後がいけない。ハードボイルドな殺しあい部分と、愛と友情のドラマ部分がばらばらなのだ。
大喜びで殺人をおかす奴もいれば、世をはかなんで心中するカップル、友情を信じて屋内に立てこもるグループもいていいわけだが、最初に分類ありきという印象が強い。
希望をあたえたつもりかもしれないが、終り方は反則。白々しい。
パリで亡命生活を送るポーランド貴族の寒々としたサロンが映しだされる。壁に貼ってあるのはナポレオンの版画か。
画面は一転し、リトアニアの春たけなわの田園。陽光があふれ、緑したたる大地を大学を卒業したばかりのタデウシュ(ジェブロフスキ)が馬車を駆って、伯父の邸に帰る。居間にはいると、ヒロインのゾーシャ(バフレダ=ツルシ)が着がえているところで、彼女はタデウシュの視線を避け、フランス窓から花の咲き乱れる庭に逃げだす。ゾーシャは輝くばかりに美しい娘で、自然美と女性美の氾濫にいきなり酩酊させられる。
物語はポーランドの第三次分割(1795)後の親ロシア派でタデウシュの属するソプリツァ家と、独立派のホレシュコ家の因縁話で、1792年に城にたてこもってロシア軍と戦ったホレシュコ卿を、ヤツェク・ソプリツァが射殺し、家を断絶させた事件が、ホレシュコ家につらなる伯爵(コンドラト)とソプリツァ家の対立に影を落としている。ホレシュコ家の居城を成りあがりのソプリツァ家が奪おうとする話を軸に、ナポレオンのロシア侵攻前夜にあたる1811年から13年のリトワニア情勢が描かれる。
ゾーシャの出自と、ポーランド独立のために奔走する流浪の司祭ローバクの正体が伏線になっていて、結末で謎が明らかになる。
登場人物が台詞をいきなり朗々と高唱するので面食らったが、原作の叙事詩の詩句をそのまま使っているためだった。ポーランドの国民文学だそうだから、そのまま使うしかないのだろう。
悲劇の主人公のような位置にいる伯爵が、スケッチの得意な芸術家肌の温厚なオヤジとして描かれるあたり、18世紀的であるが、伯爵にソプリツァ家との確執を説く硬骨漢の召使は19世紀的だ。
ローバクの煽動で時期尚早の蜂起に走り、多くの犠牲を出して、ロシア軍守備隊を降伏させる。小競り合いとはいえ、18世紀の戦争がよくわかる。集団戦でも決闘の延長で、様式化されているのだ。
蜂起に加担した男は、農民もホレシュコ(小貴族)もワルシャワ公国へ亡命を余儀なくされるが、ナポレオンのロシア遠征にしたがう10万のポーランド軍の一員として、故郷にもどってくる。ホレシュコたちは美々しく着飾って、オモチャの兵隊のようだ。タデウシュは再会したゾーシャと結婚式を挙げる。
ゾーシャはローズマリーの冠をかぶり、民族衣装で式に臨む。「質素な民族衣装」を村人たちは賞賛するが、華麗で、美しさに息を呑む。
物語はここで終り、ふたたびパリの寒色の亡命生活の情景にもどる。ナポレオンの敗退でリトアニアはロシアに占領され、ホレシュコたちはフランスに亡命したのだ。あんなに颯爽と活躍した人々が、異国のサロンで生気をなくして寄り集まっている姿は痛ましい。
ネブラスカ州の片田舎で起きた実際の事件にもとづく映画。
ゲイの従兄のトレーラーハウスに転がりこんでいるティーナ・ブランドン(スワンク)は性同一性障害で、自分が女であることに違和感をおぼえているが、金がないので手術できず、髪を短く刈り、ブランドン・ティーナを名乗って、男になりすますしかない。田舎町の頑迷さを思い知っている従兄は、オカマがばれると殺されるぞと警告するが、ブランドンは隣町のフォールズ・シティに繰りだし、中世的な魅力で、たちまち女たちの人気者になる。
ブランドンはキャンディス(ゴランソン)、ラナ(セビニー)、ジョン(サースガード)、トム(セクストン)らのグループと意気投合し、タイヤ・スキーのような度胸試しに自分から挑んで、男たちからも一目おかれるようになる。ブランドンはキャンディスの家に泊めてもらうが、彼女は未婚の母で、赤ん坊と二人で暮らしている。
ブランドンは裁判所の召喚をすっぽかして、ラナをデートに誘う。デート前にブリーフの中にナプキンを重ねていれて股間をふくらませたり、張形を用意したりと、準備が大変だが、無事、女だと気づかれずにセックスをすませて、有頂天になる。
翌日、ジョンにうながされるまま、デートの顛末をうれしそうに語るが、その夜、仲間たちを乗せた車を運転している時に、パトカーに追われる。ジョンは振りきれと命令し、ブランドンは砂地を飛ばすが、崖に転落する直前でパトカーに回りこまれ、つかまってしまう。
免許証で女であることがばれ、裁判所に出頭しなかった件で留置所に拘留される。面会に来たラナにブランドンは自分が性同一性障害であることを告白する。
ラナとキャンディスは彼女が女であることを抵抗なく受けいれるが、ジョンとトムはパニックにおちいり、リンカーンの町まで足を伸ばして、彼女が女であることを確かめる。
保釈されて出てきたブランドンをジョンとトムは乱暴する。ブランドンは殴られ、レイプされながらも、必死に男としてふるまおうとする。こんなこと、なんでもないよなと同意を押しつけてくるジョンに、目を腫らした顔で、なんでもないと答えるが、それでは結局すまず、ブランドンと、彼女をかばおうとしたキャンディス母子は二人に殺される。
遅れた田舎者に殺された性の殉教者という作り方も可能だったと思うが、あえてそうせず、男のマッチョな世界を守ろうとする共犯関係に注目したところに、巧まずしてリアリティが生まれた。
スワンクはシガニー・ウィーバーを小柄にした感じで、好きなタイプではないが、男になろうとするブランドンをスカっと演じていて、アカデミー主演女優賞は当然だと思う。
遺伝病で失明しかけたセルマが、息子の失明を食いとめるために、チェコスロバキアからアメリカにやってきて、板金工場で働き、手術費用を貯めている。12歳になれば手術ができるので、それまでに2000ドル貯めなければならないが、もう少しのところで、セルマは失明状態に陥る。
彼女はミュージカル映画の大ファンで、町の公民館で素人劇団のミュージカルの主役に選ばれるが、失明して役を降ろされそうになると、ミュージカルなんか好きではなかったと悪態をつくような意地っぱりのところがある。
ここでおぞましい悲劇が起こる。彼女は息子といっしょに警官の家の庭先のトレーラー・ハウスに住んでいるが、警官の妻は浪費家で、警官は金策に困っている。妻に情けないところを見せたくない彼は、セルマのわずかな蓄えを奪い、それをセルマに責められると、セルマに銃を持たせ、のしかかって、自分を撃たせる。セルマが自分の金を奪い、殺したように見せかけたのだ。
警官は変態的としか言いようのない悪辣さだが、彼との約束を守り、汚名をかぶるセルマも変態的だ。
強盗殺人犯にされたセルマは、病院にやっと貯めた1200ドルを届け、つかまるのを承知でミュージカルの稽古場に出かけていき、果たして逮捕される。
ここまででも、十分陰々滅々だが、裁判になると、さらにひどい。死刑判決がくだされるばかりか、(ドヌーブ)が奔走して再審請求にもっていくものの、手術のために病院に預けた金を弁護費用にあてることがわかると、再審を断り、死刑が確定する。
死刑執行場面はおぞましい。「デッドマン・ウォーキング」はまだきれいごとだった。立てなくなったセルマを、木の板に縛りつけ、首に縄をかけ、あっけなく処刑する。
「ザ・プレイヤー」でアクション映画のラストをからかっていたが、こういうものを見せられると、ブルース・ウィリスが助けに飛んできてくれないかと思った。
「踊る大走査線」、「ケイゾク」の延長のオバカ映画だが、意外に面白かった。
フィルム会社が現像タンクに漂白剤をいれると脅されている。要求は金銭ではなく、部課長クラスの社員にストリーキングをさせろとか、モーニング娘の扮装で街頭で歌わせろといった、からかうような内容である。重役(勝部寅之)は公安の不良刑事石巻(伊武雅刀)に個人的に調査を依頼する。
特別監察官室の相川(仲間)は御代田警視正(渡辺)の指示で、石巻をマークしていて、犯人の金品を横領した白州(椎名)と、女装用の遺詔を万引きした秋吉(窪塚)に、不祥事もみ消しと引きかえに、密行捜査を命じる。
二人は石巻が出入しているクラブにゲイのカップルを装って潜入し、オーナーでグラフィック・アーチストの岡部(IZAM)に気にいられるが、岡部はフィルム会社のコンテストで優勝したものの、作品が反社会的という理由で、受賞をとりけされたことがある。脅迫犯は岡部らしい。
ここで、ずっと顔を見せなかった御代田警視正が登場し(ケロイドを負った異相)、岡部が過去に体験した一家惨殺の悲劇が伏線として浮かびあがってくる。
よくできているのだが、「俺たちは天使だ」の萩原健一と水谷豊のコンビを意識したとおぼしい椎名と窪塚がさえない。いや、窪塚はいいのだが、椎名が主役を張りきれていないのだ。IZAMと仲間に完全に食われているし、窪塚にも敗けている。主役がはっきりしないので、騒々しいだけの映画で終わっている。
夜明けの公園の満開の桜の下で、コートをまとった男(浅野)が目覚める。かたわらに女(小泉)がつきそっている。モノクロに近い寒々とした色調がいい。
男は二日酔いのぼけた顔で、女が誰かもわからない。昨夜、いっしょに飲んで盛りあがったことも、北海道につきあう約束も忘れている。彼女はあきれ、失望したといって、彼を残して帰ってしまう。そんなに親しい間柄ではないらしい。
男は澤城といって、コンビニで万引事件を起こし、謹慎中の文部省キャリア官僚。女はゆり子といって、北海道の母(香山)に娘を預けて、東京に出てきたピンサロ嬢だ。
ゆり子は亀の待つマンションに帰り、五年ぶりの帰郷の準備をはじめる。生活の澱のたまった部屋が、小泉にぴったりはまっている。
羽田に着くと、東京で行き場を失った澤城が来ていて、二人で北海道に向かうが、彼はゆり子が誰か、まだ思いだせないでいる。
ピンクの小さなワゴン車を借りて、澤城の運転でゆり子の実家に向かう。殺風景な冬枯の風景がつづき、めったに対向車とあわない。二人は悪態をつきあうだけで、それぞれ自分の思いに沈み、殺伐とした過去が明らかになっていく。
ロードムービーなのだが、澤城の性格が悪い(酒がはいると、もっと悪くなる)せいか、二人とも仏頂面をつづけていて、白々とした空気感は舞台劇を思わせる。
母の再婚先の大きな寺に着くと、ゆり子はこれでお別れといって、澤城を残して山門にのぼっていく。寺は花祭でごったがえし、ゆり子はお邪魔虫である。母は五年も子供を放っておいたことをなじり、義父(高橋長英)も会わせるのは孫のためにならないという。
娘に会えないまま、ゆり子がとぼとぼ石段をおりていくと、澤城が待っていて、二人は車で山奥の温泉場に向かう。
二人とも先が見えたことを受けいれていて、それが「枯れた」印象を生んでいる。「枯れた」ことに甘んじている分には、苦い快さがあって、それが成熟だと言いたいのかもしれない。
拳銃に「モラル」という文字が重なるオープニングにつづいて、「カルネ」をダイジェストした大仰な導入部が笑える(笑ってはいけないのだが)。
「カルネ」は愛人に子供ができて、彼女の故郷のニールにたつところで終わったが、「カノン」はニールの実家にころがりこんだところからはじまる。
ニールは北仏の町で、冬の陰気な空がかぶさっている。オヤジは愛人に金を出させて、馬肉屋をはじめるつもりだったが、愛人は財布のひもが固く、スーパーの食肉売場に勤めるが、仏頂面しかできないので、すぐに馘。老人病院の夜間警備員をはじめる。担当していた患者が死に、ショックを受けた看護婦を送っていくところを愛人の友達に見られ、浮気と誤解される。彼は切れて、胎児のはいった腹を殴りつけ、
拳銃を奪って、家を飛びだす。
彼はヒッチハイクでパリへもどる。手持ちはわずか300フランしかなかったが、愛人が警察に訴えているかもしれないので、友人のところへはいかず、安ホテルに宿を決める。仕事を捜すが、馬肉業界は不況で相手にされない。お得意だった畜殺場にいくが、顔なじみの所長は鼻も引っかけない。おまけに、みじめったらしい娼婦に引っかかり、手持ちは11フラン20に。
カフェにはいり、ワインを二杯飲むと12フラン請求される。アラブ系のマスターの息子になじられ、思わず「雑種野郎!」と罵倒する。マスターはライフルをつきつけ、彼を追いだす。
ここまで追いつめられたら、妄想に逃げるしかない。拳銃には三発弾がはいっているから、所長を殺して自分も死のう、いや、カフェの父子の方が先か。
施設に収容されている娘に会いにいき、エッフェル塔にいくと連れだす。安ホテルの部屋に連れこみ、娘をレイプし、射殺するが、これは妄想。
ニールはもちろん、パリでも寒々とした光がつづいていたが、ここではじめて、ホテルの外の風景に春のあたたかい陽光がさす。希望はなにもないのだが。
オヤジの妄想力と存在感はあいかわらずだ。続篇はつくられるのだろうか。
フランスの不良少年の話なのだが、妙な既視感があった。日本のチンピラ映画を見ているようなのだ。
Sはオルレアンのパン職人見習いだったが、勤務態度が悪いと馘になり、ガールフレンドの金を盗んで、マルセイユに流れていく。酒場で知りあった不良に誘われて空巣に加担し、「目」と呼ばれるチンピラの子分になる。「目」の部屋に転がりこみ、ジムでキック・ボクシングの練習をしながら、「目」の兄貴分が飼っている娼婦の運転手兼ボディガードをはじめる。
Sは、週一回、「目」の祖母の世話をしにいく。「目」の祖母は年金生活者だが、スペイン内戦に国際旅団の女兵士として従軍した過去がある。Sと「目」の祖母の間に心の通いあいがうまれる。
だが、仲間とともに空巣にはいったところを警察に踏みこまれ、窓から逃げようとして、「目」を地面に突き落としてしまい、仲間から追われる破目に。
異郷で金に困り、追いつめられたSは、年金を下ろしてきた「目」の祖母を襲う。Sだとわかった「目」の祖母の驚き。Sは逃げだすが、仲間に見つかり、喉を切られる。
再びオルレアンのパン工場。Sは一命を取りとめ、パン職人にもどって真面目に働いていた。「目」の祖母に盗った金を郵送するところで終わる。
S自身寡黙だし、映画も贅肉を削ぎ落とした簡潔な表現で、目を釘づけにする。S役のデュヴォシェルは『ケス』の主人公を思わせるところがあって、いかにも下層階級という目をしている。
隕石衝突で地表が荒廃し、恐龍の群が「生命の大地」と呼ばれる理想郷をもとめて大移動する全編CGアニメ。6500万年前のユカタン半島に落ちたやつではなく、その前の小規模な隕石ということだろう。三葉虫が滅んだ二億五千万年前の絶滅も隕石のしわざだという証拠が見つかったそうだから、隕石はしょっちゅう落ちているのだ。
ドラマ部分ははじめから期待していなかったが、CGアニメもお粗末。予告編でさんざん流したアラダーの卵が転々としていくくだりはまあまあが、その後がひどい。隕石落下後の火災は簡単にしか描かれないのに、緑ゆたかだった地上はあっさり殺風景になっている(1時間22分のうち、1時間は手抜きである)。
出エジプトを下敷きにしたのかなと思っていたら、冒頭、主人公のアラダーになる卵が母のもとから捕食者に奪われ、川に落ち、流れていくうちに翼竜にさらわれ、キツネザルのコロニーに落ちる。アラダーはキツネザルの一家に育てられることになる。まるっきりモーセではないか。
もっとも、ディズニーであるから、アラダーはモーセのような厳格なリーダーにはならない。キツネザルの一家を背中に乗せて、荒廃した地上をさまよっていた彼は、家父長的なリーダーに率いられて「生命の大地」に向かう草食恐龍の群に合流する。アラダーは落ちこぼれそうな老婆のプテラノドンとトリケラトプスを気づかうやさしい青年恐龍で、規律を強制するリーダーと対立するが、リーダーは意地を張り通したために肉食恐龍に殺され、アラダーが新しいリーダーとなって、群を「生命の大地」に導くのだが、肉食恐龍を悪者と決めつけ、排除するあたりはディズニーの限界だ。
南北戦争秘話で、舞台は中立を保った内陸のミズーリ州とカンザス州である。
中立というと平和な印象を受けるが、南軍派・北軍派の勢力が伯仲していたから「中立」にならざるをえなかったので、正規軍の戦いならまだしも、ジェイホーカーズ(北軍ゲリラ)とブッシュワッカー(南軍ゲリラ)の戦いは隣人どうしが血で血を洗うボスニア的状況を呈したという。『奪われた大陸』で、南北戦争に巻きこまれたチェロキー国の悲劇を読んだばかりだが、白人開拓者も安閑としていられたわけではなかったのだ。
主人公のジェイク・ロデル(マグワイアー)は北軍派の多いドイツ系移民の息子だったが、アメリカ人であろうとするあまりに、ごりごりの南軍派になる。彼は親友のジャック(ウーリッチ)とともにブッシュワッカーに身を投ずるが、仲間からはドイツ野郎と偏見をもたれている。
ゲリラ部隊の戦い方や、暮らし方、装備は、独立戦争時のゲリラ部隊を描いた『パトリオット』そっくりだ。
冬になり、ゲリラ部隊は小グループにわかれて、潜伏することになる。ジェイクとジャックはジョージ(ベイカー)と、彼の黒人奴隷ダニエル(ライト)の四人で、森の中にアジトを作り、冬ごもりをはじめる。食事は近くのエヴァンズ牧場が面倒を見てくれることになる。
食事をとどけに未亡人のスー・リーがたびたび訪れ、一冬の間にジャックと恋仲になる。春が近づくとともに、北軍派が活発に動きだし、スー・リーがアジトに来ている間に、エヴァンズ農場が襲われる。四人は救援に向かうが、ジャックが腕に重傷を負う。ジョージは南軍キャンプから医者を連れてくるといって、出ていったきり、もどってこない。ジャックは死ぬ。
ジェイクはスー・リーをブラウン農場に預け、ダニエルとともゲリラの集結地に向かい、ジョージと再会するが、南軍の敗色は濃く、指導者のブラック・ジョン(カヴィーゼル)は追いつめられていた。
ついに、ブラック・ジョンは野盗化したグループも含めて南軍ゲリラを結集し、悪名だかいローレンス虐殺事件を起こす。北軍の隙をついてローレンスの町を襲い、男を片端から撃ち殺し、略奪を働いたのだ。ジェイクは食堂の主人を助けたばかりに、幹部のピット(マイヤーズ)からにらまれる。
南部の大義に疑問を持ちはじめたジェイクとダニエルは、ゲリラの中で完全に浮いてしまい、ジョージのとりなしでかろうじてことなきをえていたが、北軍正規部隊との戦闘のどさくさにまぎれて、ピットはジェイクとダニエルに銃を向ける。ダニエルを救おうとしてジョージが死に、ジェイクは足に重傷を負う。
ダニエルはジェイクを連れて逃れ、ブラウン農場にかくまわれる。傷をやしなう間、嘘のような平穏な日々が訪れる。スー・リーはジャックの子供を妊娠していたが、事情を知らない農場主夫妻はジェイクを父親と思い、正式な結婚を勧める。ジェイクとスー・リーは引かれあっていたことに気づく。
出産後、二人は幌馬車を仕立てて西部を目指す。ダニエルは奴隷として転売された母親をテキサスに捜しにいくが、別れの時、「ジョージは親友だと思っていたが、彼が死んだ時、はじめて解放されたと思った」ともらす。