郡上一揆は藩主の金森家を改易に追いこんだことで知られているが(『妖星伝』にも出てきたはずだ)、犠牲も大きかった。一揆は村々で語りつがれ、死罪になった指導者を祀る神社ができていて、郷土の誇りになっているという。この映画は郡上市が町をあげて製作した市民映画だそうで、東映系で封切りしたものの、自主上映が中心らしい。たまたま浅草にかかっていたので見たが、正攻法の歴史劇に仕上がっていた。日本映画としてはかなりよくできた作品である。
郡上藩は藩主が幕府の役職に就いたために、財政難におちいり、年貢を
この話はすぐに村々に伝わり、あっと言う間に連絡網ができて、郡上八幡城下に筵旗を押し立てて農民が強訴に押しかける。エキストラを大量動員しただけに、さすがに迫力で、城代家老は江戸に事情を説明するという書き付けをわたす破目になる。
もちろん、藩側は検見取撤回を約束したわけではなく、農民側もそれは承知の上だ。果たして、翌年、ふたたび検見取がもうしわたされ、農民たちは歩岐島村四郎左衛門(林隆三)を帳元に、抵抗運動を組織し、唐傘連判状をつくって団結を確認する。事態打開のために出訴することになり、四郎左衛門がみずから出むいて、定次郎(緒形直人)をリクルートする。定次郎は娘が生まれたばかりだが、父、助左衛門(加藤剛)から村のためにつくす男になれと教育されていた彼は江戸出訴人のグループにくわわる。
藩側は出訴にあわて、公事宿に宿泊している農民を一網打尽にしようとするが、定次郎は間一髪で逃げ、病気で臥せっていた善右衛門(山本圭)、別の宿に泊まっていて難を逃れた喜四郎(古田新太)とともに、老中・酒井左衛門尉の登城を待ちうけ、死罪覚悟の駕籠訴におよぶ(善右衛門と喜四郎は羽織を着ているが、定次郎は着ていない。百姓の間の身分差か)。
公儀の応対は意外に温情的だったが、定次郎たちはろくな詮議もなく、公事宿に宿預けの身になり、一夏を蛇の生殺し状態ですごす。秋になり、三人は処分保留のまま郡上に帰され、庄屋の屋敷にお預けになる。郷里では唐丸籠の定次郎たちを農民たちが平伏して迎え、「駕籠訴様」の尊称で呼ばれるが、お上にはむかった者として、妹の縁談が流れるあたりは、今も昔も日本である。
長期にわたった江戸出訴の費用をまかなうために、醵金を集めるが、庄屋平右衛門(前田吟)の手引で藩側が帳元善四郎の家に踏みこみ、帳簿を奪ってしまう。急を聞いて農民が押しかけ、大騒動になるが、証拠を押さえられた以上、一揆側は万事休すである。
定次郎は禁を犯して再び江戸に向かう。4月2日、一揆側はついに目安箱に訴状を入れる箱訴に踏みきり、定次郎と喜四郎はそれを見とどけた後、町奉行所に駆けこみ訴えをする。
公儀の処分にさからったわけで、前回と違い、処分は苛烈をきわめた。訴人たちは伝馬町の牢にいれられ、一揆首謀者を白状させるために拷問を繰りかえされた。喜四郎は悶死し、定次郎の父、助左衛門、帳元の四郎左衛門も捕らえられて伝馬町の獄舎につながれた。
この年の12月25日、ついに処分がくだされた。一揆関係者十数名が死罪になり、定次郎、善四郎は郡上でさらし首にされることになった。処刑直前、農民たちは金森家が改易になったことを知らされる。
最後の場面は川の畔で定次郎らがさらし首にされる、竹矢来をへだてて農民が詰めかけるが、その中には妻(岩崎ひろみ)と娘もいた。
最近の研究を参照し、農民側の組織力、経済力、教養をきちんと描き、従来の貧農史観をひっくりかえしている点に注目したい。多分、この通りの展開だったのだろう。
古田の喜四郎がよかった。「真情あふるる軽薄さ」でも、一人気を吐いていたが、この映画では鬱勃とした情念をもてあました反骨漢を演じて、主役を食っていた。
映画館におりる階段の踊り場に、撮影に使った史実通りの「唐傘連判状」と、出演者・スタッフの唐傘連判状風寄せ書きが展示してあったが、客席はガラガラだった(400収容の客席ががらがら。10人いなかった!)。東京でロングランという実績をつくるために、保証金を積んで上映をつづけているのかもしれない。
気候が厳しく、高地の岩塩と低地の穀物の交易で生計をたてているドルポを舞台にした物語である。ヤクの大群が砂煙を蹴立てて山道をおりてくる冒頭のシーンで、ゾクゾクっとした。
秋の刈りいれを前に、キャラバンが岩塩を仕入れて村にもどって来たのだが、リーダー(長老)のラクパは近道を試そうとして遭難し、骸となっての帰還である。妻のペマ(ツァムチョエ)と息子のツェリン(ワンギャル)は泣くが、父親で村の長老のティンレ老人は、キャラバンのナンバー2のカルマ(キャップ)が仕組んだと決めつけ、彼を面罵する。ティンレの一家は代々キャラバンのリーダーをつとめる家柄で、数代前にカルマの一家といざこざがあったらしい。
仕入れてきた岩塩を低地に運ぶキャラバンを仕立てなければならないが、新しいリーダーは衆目の見るところ、カルマしかいないのに、ティンレ老人は孫のツェリンに嗣がせるのが筋だと言いはる。10歳の子供にリーダーがつとまるわけはなく、ティンレ老人は次男で出家して画僧となっているノルブ(ニマ・ラマ)を訪ねていき、還俗させようとするが、キャラバンの経験がなく、性格の大人しいノルブは引き受けるとはいわない。
ティンレ老人はそれでも折れず、自分がキャラバンを率いると言いだし、村はカルマを推す若手グループと、ティンレ老人を推す老人グループに割れる。もちろん、老人が少数派だ。
老人グループは占いにしたがって出発日を決めるが、カルマはそんなに遅くては雪に遇うと主張し、占いを無視して出発する。取り残されたティンレのグループは占い通りに四日遅れで村を出る。嫁のペマと孫のツェリン、急遽、僧院からもどってきたノルブがくわわったのが唯一のささえだ。
ティンレはカルマのグループに追いつくべく、皆を叱咤するが、四日分の距離にくわえて、老人が若者にかなうはずがない。追いつくどころか、雪にあったら、キャラバンは全滅だ。ティンレは湖畔の近道をとることにする。真っ青な湖を眼下に見おろす桟道をヤクを連れて、一列になって進んでいくのである。このシーンも、冒頭に匹敵する迫力だ。
幸い、ヤクを一頭失っただけでキャラバンは難所を通過し、カルマのグループについに追いつく。両グループは再会し、いっしょにキャンプを張るが、ヤクをもう一日休ませるというカルマを尻目に、雪が来ると予感したティンレはすぐに峠越えにかかる。
果たして峠で天候は急変する。ティンレのグループはカルマたちを救い、ようやく和解する。その夜、カルマとペマは結ばれ、ティンレはカルマを次のリーダーとして認める。「長老は反抗するくらいでなければつとまらない。わたしがすべて占い通りにやってきたと思うのか?」というティンレの言葉がかっこいい。
キャラバンの一部始終をみていたツェリンはやがて伝説的なリーダーとなり、その生涯を描いた仏画が紹介されて、映画は終わる。
ヒマラヤの風景もさることながら、骨太なドラマが感動的で、今年最高の一本だ。音楽もすばらしい。
監督・脚本のヴェリは「セブン・イヤーズ・チベット」のユニット・ディレクターをつとめた写真家だが、1980年代から夫人とドルポに長期滞在し、研究と撮影に従事しているという。20年近いドルポの人びととの交流がなければ、こういう映画は撮れなかっただろう。
「スタートレック」ファンをからかった映画くらいのつもりで見たが、いい作品だった。「オースティン・パワーズ」とは格が違い、笑えるだけでなく、泣かせてもくれる。だてに一流の役者を使っているわけではない。
1979年に大ヒットし、4シーズンつづいたSFドラマ「ギャラクシー・クエスト」は放映終了後も人気が衰えず、コンベンションは大盛況。プロテクター号の5人の乗組員を演じた役者は、この20年間、コンベンションの出演料で生計をたてていたが、自尊心を逆撫でされる仕事だけに、仲は悪い。
サーミアンという宇宙人がTV電波を傍受し、「ギャラクシー・クエスト」を真に受けたいたことから、話がこじれてくる。侵略を受けたサーミアンはプロテクター号そっくりの宇宙船をつくるが、平和で純真な宇宙人なので、戦い方がわからず、プロテクター号のタガート船長ことネズミスに助けをもとめるという設定。
ネズミスは他のクルーを呼びよせるが、所詮、役者、うまくいくはずがない。すべては芝居であったことをサーミアンたちの前で告白させられる破目に陥るが、みじめさの極で反撃に転ずる。ここからが泣かせる。プロテクター号のことなら、出演者よりもよく知っている地球のファンが、インターネットで連絡しあって、エンジン室に向かうルートを教えたり、謎の秘密兵器の使い方を教える趣向が楽しい。
20年前のSFドラマという設定なので、安あがりなSFXしか出てこなかったが、最後の最後で予算をふんだんに使った大技を披露する。監督はファン心理をよく知っている。
評判倒れの映画。炭鉱育ちの少年がバレエに引かれ、王立アカデミーを目指す話で、「ブラス」と「ロケット・ボーイズ」を見た後では、二番煎じの印象をまぬがれない。受験の旅費をつくるために、バレーに反対していた頑固な父親がスト破りに加担しようとする。労組の活動家の兄は泣いて止め、仲間の募金で旅費ができるくだりが見せ場だが、また例のパターンかと鼻白む。
マッチョな炭鉱町でバレーに理解を示してくれるのは、ゲイ気味のクラスメートしかいなくて、ラストのデビュー公演の場面では、ちゃんとゲイに育って客席にすわっているところが笑わせる。
主人公の踊りはみごとだが、曲芸的になっているところもある。主人公を育てるバレー教師(ウォルターズ)にもう一つひねりがあってよかった。
レッドフォードの映画だけに、例によって贅沢かつ丁寧なつくりだが、今回は中だるみがなかった。ただ、味は薄めで、中だるみのあった「モンタナの風に抱かれて」の方が余韻が残る。
一人でコースに出た老ゴルファーが心臓発作を起こし、亡くなるまでの一瞬に回想した子供時代の話という体裁をとっている。
ジョージア州サヴァンナ。町の英雄だったゴルファーのジュナ(ディモン)は、町一番の富豪の娘、アデール(セロン)と婚約するが、その直後に第一次大戦に出征。勲功をあげて凱旋するが、戦争神経症にかかり、行方をくらます。10年後の1928年、故郷にもどってくるが、ゴルフとは無縁の荒れた生活をはじめる。その翌年には大恐慌がはじまる。語り手は金物屋の息子だが、店は倒産し、父親は道路掃除夫になる。
アデールの父親は理想のゴルフコースをオープンが、大恐慌で最初から閑古鳥が鳴き、自殺においこまれる。出資した町の有力者たちはアデールにコースを売却するように迫るが、彼女はゴルフ場以外の全財産を売り払って作った一万ドルを賞金に、エキシヴィジョン・マッチを開催すると言いはる。町の有力者たちはあきれるが、彼女は二人のチャンピオンに直談判し、出場の約束を取りつける。
地元代表として、ジュナを引っ張りだすために、彼女はあばら家に乗りこんでいく。キャメロン・ディアスだったらあけっぴろげの艶笑譚になるところだが、セロンだとほどほどのところで止まる。レッドフォード映画ということもある。
ジュナは出場を承諾し、夜、闇に向かってボールを打つ。すると、帽子を阿弥陀にかぶったバガー・ヴァンス(スミス)があらわれ、5ドルでキャディを引きうけようと申しでる(キャディは参謀のようなもので、普通は賞金の一割が取り分だそうだ)。ジュナを崇拝する語り手は、キャディ見習を志願する。
いよいよエキシヴィジョンがはじまる。南部中から観光客が集まり、サヴァンナの町はゴルフ景気にわく。ニューヨークからスポーツ記者もやってくる。
最初のラウンドは調子が出ず、午前中のうちに12打も差をつけられる。ジュナはバガー・ヴァンスに助言をもとめるが、禅問答のようなことしか言わない。午後、バガー・ヴァンスの言葉に導かれて無心の境地にはいり、奇跡的なショットを連続させる。
翌日の三ラウンド目、ジュナはホールインワンを打つ。ニュースはたちまち町中に伝わり、恐慌で自信をなくしていた住民がコースに殺到する。
最終ホール、夜の闇がおりようとする中、ジュナはタイの二位につけるが、ボールをわずかに動かしてしまったために、みずからペナルティを申告する。優勝の見こみはなくなったが、タイにつけるかどうか。最後のショットの直前、バガー・ヴァンスはキャディを辞めるといいだし、語り手を後任に推薦し、飄々と姿を消す。
東洋神秘主義の匂いがすると思ったら、原作の解説によると、『バガバッド・ギータ』を下敷きにしているという。ジュナはアルジュナで、バガー・ヴァンスはクリシュナというわけだ。絵解きすると、白ける。
ブータンのチベット仏教寺院で暮らす少年僧たちの生活を描いた映画である。カップとはサッカー・ワールドカップのカップであると同時に、衛星放送を見るのに必要なパラボラアンテナのことでもある。
監督が由緒のある活仏だということが話題になり、筑紫哲也のニュース23に出演したが、パンフレットを見ると、あの子も活仏、この子も活仏、活仏総出演の映画だった。チベット仏教の社会の場合、インテリというと僧侶、それも活仏になってしまうのだろう。
もっとも、どの少年僧も生き仏にはとうてい見えない悪ガキで、僧坊にはサッカー選手のポスターが一面にはってあり、夜になるとワールドカップを見るために寺を抜けだしてTVを見せる店にいく。
中国から逃げてきたばかりの叔父と甥の新米僧侶のエピソードが一方の柱だが、もう一つの柱はワールドカップの決勝戦をなんとかして見ようとTVを借りる工面をするエピソードだ。やっと金を集めてTVを借りにいくが、決勝戦は特別料金だといわれ万事休する。決勝戦のことしか見えなくなっているウゲンは、新米僧が大事にしている腕時計を質草にしてしまう。
やっとTVを寺に運んでくることができたものの、ウゲンは腕時計をとりあげたことが心にとがめ、試合に集中することができない。厳格一方と思われた先生がお金を出してくれて一件落着するが、最後の最後に思いやりの大切さに気がつくところがいい。「おまえは商売が下手だな。いい僧侶になるぞ」という先生の最後の台詞に心の豊かさを感じた。
ブータンの国教はドゥック派だが、人口的にはニンマ派が優勢だそうで、撮影に使ったチョクリン寺も出演した僧侶たちもニンマ派だが、ゲルク派の寺という設定にしてあって、僧侶たちは黄帽をかぶっていた。ニンマ派ではまずいのか。
軽妙なテンポ、人を喰った展開で、どんどん引きこまれていく。カット割が多いが、スピード感と才気で圧倒し、ぼやき調のナレーションでくすぐるというように緩急自在。こうなればリズムに乗るしかない。
アントワープのダイヤモンド会社に、見るからにユダヤ人の恰好をした一行が訪れ、何回もチェックを受けて中にはいる。はいってからも、廊下を歩き、エレベーターに乗り、降りて角を回り……という一部始終をマルチスクリーンのモニターTVが執拗に映しだす。ところが、部屋に招じいれられたとたん、変装をはずし、銃をつきつけて、68カラットのダイヤを強奪する。
一味がロンドンにはいってからが本篇。大粒ダイヤモンドをめぐって、ギャングが三つ巴、四つ巴の争奪戦を繰りひろげるが、その一方、ジプシー(字幕ではパーキー)青年ミッキー(ピット)がからんだ八百長ボクシングのストーリーが進行する。故買シンジケート、素手で殴りあう裏ボクシング、質屋を経営する黒人チンピラ、キャンプ場にたむろする、ユダヤ人にあこがれる宝石商、元KGBの変態ロシア人といった一癖も二癖もある連中が駆引をくりひろげる。差別ネタの危ないギャグもスリルを高める。死体を豚の餌にするという処理法はコロンブスの卵だ。
これだけハチャメチャなストーリーなのに、ちゃんとおさまるところにおさまるのだから、名人芸というしかない。
おもしろいという評判だったが、『101』を見ていないので、前篇にひっかけたギャグがわからなかった。グレン・クローズが悪役を楽しそうに演じているのはわかるけれども、これだけでおもしろがらせるほどの作品ではない。
条件反射教育で、動物愛護の精神を植えつけられたしたクルエラが、ビッグペンの鐘の音で元にもどり、また白地にブチの毛皮のコートを作ろうと暗躍をはじめる。ジェラール・ド・パルデューが豹柄の毛皮のパンツをはいた毛皮デザイナーに扮して、クルエラの手下になるのだが、こっちはあまり楽しそうではなかった。
クルエラは日本でいえば野際陽子の役だろう。グレン・クローズはすっかりアメリカの野際陽子になってしまった。
ロビンソン・クルーソーものだが、無人島で生きのびた男が救助されてめでたし、めでたしで終わるのではなく、無人島に漂着するまではどんな人生を送っていたのか、救助されてからの人生はどうなるかまでを視野にいれた、大人の映画になっている。この長寿時代、無人島の三年間は長い人生の一エピソードにすぎないのだ。
船が難破したのなら、船に積んでいた生活必需品も流れつくが、飛行機ではそうはいかない。まして、旅客機遭難では、無人島に一人漂着という状況は作りにくい。FedEXの貨物飛行機に目をつけたのはさすがである。もっとも、国際宅急便ではたいしたものは積んでいない。クリスマス・プレゼントのがらくたばかりなのだ。南の島でスケート靴が一番役に立ったというのはおもしろい。シナリオ・ライターはさぞ頭をしぼったのだろう。
ヘレン・ハントとの悲恋は過不足なく描かれているが、手堅すぎて、おもしろ味みに欠ける。
1970年代ロックの自伝的バック・ステージもの。監督・脚本のキャメロン・クロウはもともと「ローリング・ストーン」誌の人気ライターだったそうで、この映画の通り、15歳からプロとして活躍しはじめたという。
ロックに関心がなく、当時のヒット曲がなつかしいわけでもないが、ゴルディ・ホーンの娘のケイト・ハドソン(ポスターの女性)がヒロインという興味で見た。
15歳のウィリアム(フュジット)は、大学でウーマンリブを講じる母親(マクドーマンド。ジェーン・フォンダそっくりのメイク)と二人暮らし。母と折り合いの悪かった姉は家を出ていく時に、「自由はここにある」と言って残していったLPでロックに目覚める。
学級新聞の記事を「クリーム」の編集長のバングス(ホフマン)に送ったところ、執筆を依頼され、取材のために意気揚々楽屋にはいろうとするが、ガキあつかいされて入れてもらえない。新進バンド、スティルウォーター(架空のグループ)がちょうど楽屋入りしたので、ドア越しに率直な感想を怒鳴ったところ、ギタリストのラッセル(クラダップ)に気にいられ、出入自由になる。
「クリーム」の記事に「ローリング・ストーン」の編集者(テリー・チャン)が目をとめ、まさか15歳とは思わず、執筆を依頼してくる。ウィリアムはバングス(「ローリング・ストーン」のスター・ライターだったが、辛口批評が災いして追放された)のアドバイスではったりをかまし、スティルウォーターのツアーに同行取材することになる。
ロック=不良と決めつける母親からは「電話は1日2回、麻薬はダメ!」と釘をさされるが、ロック・グループのツアーだけに、ツアー・バスにはグルーピーの女の子が同乗してきて、麻薬あり、乱交あり、内紛あり、レコード会社の策謀ありで、15歳でこんな世界を体験したら、さぞわくわくしたことだろう。
楽屋でよく見かけたペニー・レインと名乗る女の子と、ツアー中に親しくなる。彼女はグルーピーではない、アーティストに霊感をあたえる存在だと言うが、実際はラッセルのぶら下がりで、彼の恋人がやってくると、ていよく追いはらわれてしまう。ペニー・レインは別のホテルで自殺をはかり、ウィリアムは助けにかけつけて、つきっきりで介抱する。
ようやく記事が出来あがるが、暴露的な内容だったので、編集部からの確認の電話にバンド側はすべて否定。最初の仕事はボツになる。
ウィリアムはラッセルに二重に裏切られて傷つくが、ラストはハッピーエンドにおさめていて、後味がよい。
肝心のペニー・レインの存在感が今一つなので(ゴルディ・ホーンのオーラは受け継がなかったようだ)、ウィリアムとラッセルの友情ばかりが印象に残る結果となった。その点は物足りないが、いい作品であるのは間違いない。
ツアーは途中からレコード会社差し回しの小型機で移動するようになるが、あわや墜落という事態になり、グループの面々が死ぬ前の懺悔をはじめる場面は笑えた(助かった後の気まずい顔!)。ロック・ミュージシャンといえども、キリスト教の文化が染みついているわけだ。
ジュード・ロウ主演の吸血鬼ものだが、思い切ってモダンで、スマートな作りにしてあり、細部までよく考えぬかれている。
朝霧に濡れた森の大木の枝の間自動車がはさまっている。警察がクレーン車で自動車をおろしていると、ドアから血がしたたり、グリルシュ(ロウ)の手の甲に落ちる。ドライバーは女性で、スピードの出しすぎの事故で片づけられる。さりげない謎かけが洒落ている。
地下鉄の駅構内。飛びこみ自殺をはかるマリア・ヴォーン(フォックス)をグリルシュが止める(マリアはあまり美人ではない)。数日後、グリルシュはマリアと再会し、自宅に誘う。ベッドで高まったところで首筋に噛みつき、血が飛びちる。
死体の処理は手慣れている。シーツの下に敷いた防水シートごと死体を包みこみ、自動車に乗せて、海に捨てにいく。包みをかついで、遠浅の海岸の沖に放置してくる。潮が運びされば、完全犯罪である。
後半で説明があるが、グリルシュは恋する女性の血液中に生じる愛情物質を生命の糧にしている。単に血を吸っただけでは駄目で、ナンパをしては、女性を夢中にさせ、ベッドで殺しているのだ。
だが、死の瞬間には恐怖と憎悪の物質が生じ、それがグリルシュの体内に蓄積して、結石を作っていく。
マリアは右手と左手で同時に違う文字を書く特技をもっていて、グリルシュの前で右で I love you 、左で I hate you と書いてみせるのは意味深長。
ここから本篇。蒸気機関の博物館。ヒロインのアン・レヴェルズ(レーヴェンゾーン)は子供たちに展示物を説明してやっている。グリルシュはアンを勝手にスケッチして気を引き、まんまと食事に誘う。彼は結石を専門にする外科医で、仕事場を見せてアンを安心させる。アンはエンジニアで、ヘルメットをかぶって、現場でてきぱき指図する男まさりの女性だが、患者の少女にやさしく語りかけるグリルシュに引かれていく。
一方、マリアの死体が違法操業の漁船に引きあげられ、ヒーリー警部(スポール)がグリルシュの身辺を調べはじめる。アンをどう籠絡するかというストーリーと、警察の捜査が平行して進んでいく。
執拗に食いさがるヒーリー警部を振りきった後、グリルシュはアンにすべてを告白し、君だけは殺せないと言う。血が吸えず、飢えで悶え苦しむグリルシュ。グリルシュは自己愛を克服できるのかと引っぱるが、終わり方はホラーもどき。
レーヴェンゾーンは細面なのに、眉の太い、野趣のある顔。繊細な美貌だが、角度によって、福笑いになる。この土俗味が映画の奥行を深くしている。
一度決まった日程をプリントの状態がよくないと延期し、気を持たせての再公開。評判もよかったのだが、どうということはなかった。
初公開の時からいいとは思わなかったが、1970年代の高揚した状況が引いてみると、暗く、じめじめしていて、汚い。今見るのはつらいものがある。
母親役のエレン・バースティンが女優で、学園紛争ものの映画に出演しているという設定は、いかにも1970年代である。
文芸座の特集で「バウンスkoGALS」との二本立てで見た。どちらも1996年頃、話題になったコギャルと援助交際をテーマにした映画だが、向いている方向は対照的である。
それはちょうど風俗嬢をテーマにした「トパーズ」と「愛の新世界」の関係と平行している。「愛の新世界」は性風俗という、当時目新しかったスパイスを効かせているものの、1970年代的感性でまとめた「青春映画」だったが、「トパーズ」は風俗嬢という現象の背後に潜んでいたかもしれない新しさを掬いあげようとした「思想映画」だった。
「バウンスkoGALS」はコギャル版「愛の新世界」であって、よくも悪くも「青春映画」の域を出ていないが、「ラブ&ポップ」は「トパーズ」同様、旧来のドラマツルギーを捨てて、新しさに果敢に挑もうとしている。その分、映画として危なっかしいが、破綻すれすれの危うさが魅力でもある。
水にコギャル姿のヒロインが浮かんでいるオープニングは美しい。背後から光。夢の中だ。
目が覚める。日曜朝の一家。父親(森本レオ)はHOゲージの線路を居間いっぱいに敷き、母親(岡田奈々)は水泳大会の準備に忙しい。
このあたりのディティールは原作にないが、貧しさや愛情への飢えから売春に走るというおなじみのパターンを否定した原作の主旨にそったものだ。
渋谷で四人で集まり、水着を買いにいく。トパーズの指輪が欲しくなり、援助交際を決心するという展開は原作通り。
カメラは四人組をローアングルから狙うが、アンドロイドを思わせるプラスチックな質感で、すこしも肉感的ではない。
仲間由紀恵は最近、天然ボケで売っているが、この映画の中では姐御株で、一人だけ、大人の顔をしている。
平田満のマスカット男は落差が迫力。
ウエハラは優柔不断なくせに図々しく、ズルズルした感じがよく出ている。
キャプテンEO(浅野)は人形にモザイクがかかり、会話の一部がピー音で消されている。せかせかした感じがいかにも。
当時最新風俗だったコギャルを描いているが、中味は古いタイプの青春映画である。「愛の新世界」同様、いかにも全共闘世代のオヤジの作った映画で、手がたいけれども、猥雑で、肉感的で、熱気がある分、古くさく感じる。「ラブ&ポップ」の孤立していて、プラスチックで、クールな印象とは対照的。
地方在住の帰国子女のリサはアメリカにもどって勉強しようと、一年かけて35万円ため、やっと出発の運びになる。パンツと制服が高く売れるらしいとマスコミが騒いでいるので、東京で降りて、ブルセラ・ショップに売りに行ったところ、思いがけず高値で売れる。欲を出して企画もののビデオの撮影にいくが、やっと貯めた金をとられてしまう。飛行機のチケットの有効期限は明日までなので、一晩で滞在費と入学金を作らなければならない。
リサはビデオの撮影からいっしょに逃げたラク(佐藤康恵)から、援助交際の元締のJONKO(佐藤仁美)を紹介される。リサ、JONKO、ラクが欲望の渦まく渋谷・六本木界隈で一夜の冒険をくりひろげる話を軸に、コギャルとコギャルに群がる男たちのエピソードが満艦飾でちりばめられる。
JONKOとインターナショナルを熱唱するヤクザの親分(役所広司)。ブルセラ店長の元フーテン女(桃井かおり)、便器掃除が趣味の変態役人(塩谷俊)、留学生崩れの中国人(朱迅)と、癖のある面々が登場して、退屈しない。
JONKO(鈴木仁美)は目に力があり、売春の相場を下げたといって脅しにかかるヤクザの親分に申し開きをする場面は迫力があり、役所広司を食っていた。
鈴木仁美は、ちょうど今、テレビ朝日でやっている「R-17」でJONKOの五年後のような役(後輩の女子高生を仕切っている編集者)をやっているが、「R-17」と較べてさえ、「バウンスkoGALS」は古い。たまたま桃井かおりも教師役で出ているが、この映画のブルセラ店長などより、はるかにアナーキーで、危険である。全共闘オヤジの限界だ。
スターリングラード攻防戦をスナイパー同士の一騎討ちを通して描く。
主人公のヴァシリ・ザイツェフ(ロウ)は実在の人物で、同市の英雄記念碑には今でも巨大なレリーフが飾られ、歴史博物館には愛用のライフルが展示されているという。対するケーニヒ少佐(ハリス)はロシア側には多くの記録が残っているものの必ずしも一致せず、ドイツ側には記録がない。伝説上の人物なのだろう(階級闘争を暗示する名前からして怪しい)。
雪の森で牛を囮に、狼を待ちぶせている場面からはじまる。銃をかまえる少年は幼い頃のヴァシリで、目覚めると成人したヴァシリが貨物車に乗っている。スターリングラードに向かう新兵でいっぱいだが、民間人が何人か同乗していて、ヴァシリは本を読むターニャ(ワイズ)に目をとめる。
ヴォルガ河畔に着くと、新兵は舟艇に詰めこまれ、対岸のスターリングラードに運ばれていく。渡河がはじまるや、ドイツ軍機の編隊が来襲し、機銃掃射をあびせかける。たまらずに川に飛びこんだ兵がいると、上官が射殺する。この迫力、「プライベート・ライアン」の上陸シーンの向こうを張ったというだけのことはある。
ヴァシリは無事上陸したものの、新兵には二人に一丁しか銃がなく、ザイツェフは弾だけわたされ、丸腰で突撃させられる。退却しようとすると、督戦隊が後ろから機銃掃射を浴びせるので、前に進むしかない。赤の広場は一面死体が折り重なり、足の踏み場もない。
ヴァシリは死んだふりをして、横たわっている。残敵狩りのドイツ兵に殺されるのを待つしかないが、政治将校のダニロフ(ファインズ)の乗った装甲車が近くで横転したことから運が開ける。ダニロフを助け、狙撃の腕を見せたことから、ヴァシリは狙撃部隊に編入される。
フルシチョフ(ホスキンス)がスターリングラード司令官に就任すると、ダニロフは英雄を作って、戦意を高揚させることを提案する。ダニロフはヴァシリの記事を大々的に書き、彼を英雄に仕立てあげる。
ドイツ軍は放置できなくなり、ベルリンの狙撃学校の教官のケーニヒ少佐を前線に呼び、ヴァシリとの一騎討ちがはじまる。
ここからが長い。スターリングラード戦の帰趨を狙撃兵が左右したのは事実にしても、狙撃兵同士の一騎討ちを見せ場にするのは苦しい。
前半に較べると、後半は緊張感に欠けるが、唯一の見どころはターニャとヴァシリのロマンス。二人が愛しあうシーンは異様に生々しく、緊迫感がある。
ターニャはモスクワ大でドイツ文学を学んでいるインテリで、前線に志願してきたが、ユダヤ系である。同じユダヤ系のダニロフはターニャに引かれ、危険のすくない通信隊に引きぬくが、彼女がヴァシリに恋をしていることがわかると、嫉妬からヴァシリを追い詰める記事を書く。最後にダニロフは共産主義は嘘だったと告白するが、共産圏の実状をよく知っているヨーロッパの観客は、こういうエピソードがないと納得しないだろう。
ハッピーエンドで終わるが、ターニャを助ける必然性はあったのだろうか。
プルーストの映画化なんてうまくいくはずはないと思ったが、なかなかよかった。「スワンの恋」よりずっとにいい。
オデット(ドヌーヴ)とジルベルト(ベアール)の母子を軸に、シャルリュス(マルコヴィッチ)、サン=ルー(パスカル・グレゴリー)、アルベルチーヌ(キアラ・マストロヤンニ)を配する。オデット−ジルベルトを軸にし、二大女優をすえたのは正解だと思う。
しかし、この映画の一番の功績はフランス貴族の生活を動く絵で見せてくれたこと。以前、「マリ・クレール」で、プルーストゆかりの品々を紹介する連載があったが、グラビアよりも映画の方がはるかに情報量が多く、なるほど、なるほどの連続だった。
作品としての完成度はともかく、世紀末から両大戦間のフランス小説に興味のある人には必見の映画だ。