石川淳の小説には「気」が氾濫している。「けはひ」「けしき」「氣合」といった漠然とした情趣をあらわす言葉はもとより、「いぶき」「ふぜい」「かをり」「いきほひ」「血氣」「殺氣」「元氣」「妖氣」「陰氣」「粛殺の氣」と「気」にかかわる語彙は枚挙にいとまがない。しかも、ただ頻用されるだけではなく、叙述のここぞという決め所は「……けはひであつた」、「……けしきであつた」のように、「気」にかかわる表現で押えられている。この偏愛は、もはや趣味の問題で片づけるわけにはいかない。ことは石川的叙述の本質にかかわる。
しばらくして、もののうごきがしづまつて、蠟燭がまたともされたとき、二箇のはだかは下半身を毛布にうづめたままあふむけにならんで寢てゐた。ヒメはたばこのけむりを吐きあげて、げんになにほどのことがおこつたとも氣にとめないけはひであつた。(『狂風記』)
そのひとの背はアディユともいはずにわたしのはうに向けられて、それはもう永劫に決してこちらへはふり返らないであらうけしきであつた。(「黃金傳說」)
キューロットに長靴をはいたその脚のかたちはきりつとして男の子のやうであつたが、まつしろなレースの襟から拔けだした顔はゆたかに花の色をたたへた。さういつても、あらあらしい氣合である。(「鷹」)
いずれの女主人公ものほほんと描写されるのを待っているような手合いではない。きつい香気をはなつ花々のように、生命力の発露そのものである「けはひ」「けしき」「氣合」を全身から発散させ、いまにも紙の中から飛びだしてきそうな力感にあふれている。彼女たちはなによりもまず、「けはひ」「けしき」「氣合」といった「気」を発出する主体としてあらわれる。石川の叙述では彼女たちがどんな顔をしているか、どんな服装をしているか、いや、どんな心理状態にあるかよりも、どんな「気」を発しているかの方に重点がおかれる。まるで、叙述の焦点は対象そのものではなく、そのやや手前、彼女たちの身体から放散してただよう「けはひ」「けしき」「氣合」に合わされているかのように。
「気」を通して描かれるのは、個々の人物だけではない。人物と人物の関係もまた、「気」系の語彙によって叙述されるのだ。
佐太は屋根のはうに氣をとられてゐたが、ひとのけはひにふつと風見の鳥から目をうつして、そこに照子を見た。ぢつと見たまま、ものもいはない。照子はまともに見かへして、無言でせせら笑つて、このあらくれ男のつらを草履で踏んづけるといふきあいであつた。(『荒魂』)
「ぼくはあなたを愛してゐます」
息のあへぎがそつくりでて、いつそあらあらしい聲であつた。貞子は垣根のそばに押しつけられたかたちで、足をとめたまま、何とも答へようとしなかつた。德雄は狂ほしく光つた眼のいろではあつたが、指ひとつうごかさうとはしないで、ただうごくことを知らず、そこへ突つ立つてゐて、いつまでも立ちつくすけはひが强く迫つた。(「處女懷胎」)
照子の意志、德雄の欲望は抽象的なもの、内面的なものとしては書かれていない。それは「けはひ」「氣合」という具体的な力として佐太に、貞子に襲いかかる。彼らは獲物に手をのばすように、「気」を差しのばすのである。「氣合」「けはひ」という表現のほとんど触覚的な具体性は、彼らの意志、欲望に生理的な次元の存在性を獲得させているといってもいい。石川の叙述には、このように心理的であると同時に生理的でもある「気」が充満しているのだ。そして、先回りしていっておけば、そのような「気」を発する主体としての石川的人物は、意識の水準だけではなく、身体性の水準でも照明を受けることになる。
もちろん、「気」にかかわる表現は石川の発明ではないし、「気」の心身両面性も石川の叙述だけに見られる特徴ではない。「気勢を上げる」「気が進む」「気落ちがする」「気がくさる」「気が重い」「気がねする」等々、日常語には「気」をめぐるおびただしい言いまわしがあり、そのどれもが心身両面にわたる意味の広がりを有している。
日常語の「気」系の言いまわしについて先駆的な解明をおこなった木村敏は、次のように述べている。
気はもちろん身体を離れては考えられず、精神や心のように身体と対立的に考えられたものではなくて、あくまで身体の状態と一体になって変化するものである。身体の調子のよい時には、周囲の様子とはあまり関係なく気が軽く、気が浮き浮きして、何事につけても気が進み、気乗りがするものであるのに反して、身体の不調なときは賑やかな集まりの中でも気が重く、気が沈み勝ちとなり、気が引きたたない。(中略)このような意味での気は、もちろん各人に固有な個別的現象であるけれども、こういった場合でも、気の浮き浮きしている人のそばにいると自分まで気が軽くなり、気の沈んだ人の前では自分の気までくさってくるというように、気はいつの場合にも、自分と他人とを一つの共通の場所で気持ちを通じさせる媒体としての働きをもっている。(『自覚の精神病理』)
実際、「気まずい思いをする」という時、表情にこそあらわさなくともわたしの身体は「気まずい」構えをとっているわけだし、また「気まずい」のは一人わたしだけではなく、その場のみなが「気まずい」思いを共有し、さらに言えば、その場の雰囲気自体が「気まずい」色に染められているわけであろう。「気」にかかわる言いまわしは、心身相関的な広がりだけでなく、個人心理をこえた外部的・普遍的な広がりをもそなえているのである。
木村はこのような両方向への広がりの起源を、「気」が本来もっていた太古的な宇宙論的性格に求めている。知られるとおり、「気」は道家学派を中心に育まれた哲学概念であり、中国の伝統的な宇宙論では森羅万象の根源と考えられていた。後に朱熹の体系に多大の影響をあたえる『淮南子』は、宇宙の生成をこう記述している。
道の元始たるや、虛霩が生まれた。その虛霩に宇宙が生まれ、その宇宙に元気が生じ、その元気に重層のさかい目がたった。
澄みかがやけるものは、高くたなびいて天空となり、濁りしずもるものは、凝滞って大地となった。淸妙たるものの集合するは、たやすく、重濁するものの凝固するは、困難。さてこそ天がまず完成し、地はおくれて成った。
天と地との精気は重合して陰陽をつくり、陰と陽との二精気は団集して四時をつくり、四時それぞれの精気が散布して万物をつくった。(『淮南子』天文訓 戸川芳郎訳)
万物には、もちろん、人間も含まれる。人間は天地の「気」を受けて化生し(「天の気が魂となり、地の気が魄となる
」(『淮南子』精神訓)、行住座臥天地に瀰漫する「気」を呼吸によってとりいれながら、「気」の海である天地の間を生きる。「気」は森羅万象を形成もすれば、賦活もする生命的実体として考えられていたのである。
論旨の関係上木村はそこまで言っていないが、日常語における「気」系の表現は、こうした宇宙論的性格を非個人性・偏在性として受けつぐ反面、生命的実体としての性格をほとんど失ってしまったのではないだろうか。なるほど、「気が重い」「気がとがめる」「気がたつ」など、「気」を主格にたてた表現では、わたし自身の意識が重くなったり、疚しくなったり、波だったりするというよりも、その場の「気」が重くなったり、疚しくなったり、波だったりする影響をこちらの意識がこうむるという意味あいが強い。その限りでは、「気」は木村の指摘するとおり、非人称主語に相当すべき超個人的な主体であるだろう(木村は暗に西田哲学の用語を用いて「気の場所」といっている)。だが、それは逆にいえば、「気」が対象として措定できる存在ではなくなったことを意味する。日常語における「気」は、もはや実質的な存在性をうしなって、「こと」や「もの」と同列の形式名詞になったのである。「気がめいる」時の「気」も、「気がはやる」「気が晴れる」時の「気」も等しく「気」とだけいわれること、つまりは前後の語にまったく依存するところまで無内容化していることは、その証左といえるはずだ。現代日本語の「気」は、ドイツ語の Es や英語の it ほどではないにしろ、相関物の存在を問題にされない程度には形骸化しているのである。
石川における「気」系の表現は、こうした日常語的な「気」の言いまわしの地層を突きぬけて、中国的宇宙論の「気」概念に直接汲んでいる。「明月珠」の主人公である老書生は、早朝の空き地でおこなう深呼吸の功徳を、どうかの語彙をそのまま借りてこう報告している。
そのとき、明けはなれようするかなたの空から、風ともつかず光ともつかず、靑、白、赤、三絛の氣がもつれながら宙を飛び走つて來て、あたかもたれかが狙ひすまして虹の絲を投げてよこしたやうに口中にすいすいと流れこみ、つめたく舌にしみ咽喉に徹るとともに、體內にはかに涼しく、そこに潛んでゐたもやもやが足の裏から洩れ散つて行く。すなはち、仙術に謂ふところの太素內景の法である。(「明月珠」)
「もやもやが足の裏から洩れ散つて行く」というくだりは『荘子』の「眞人の息は踵を以ってす
」(「大宗師篇」)を踏まえるが、もちろん、この一致だけで石川の「気」が中国的宇宙論における「気」に直結すると断定することは出来ない。第一、この「明月珠」という短編は仙人譚のパロディとして仕立てられており、にわか仙人を気取る主人公は雲ならぬ自転車をあやつることさえおぼつかず、『荘子』の引用は誇張法とも受けとれるからだ。
しかし、「気」を「靑、白、赤、三絛の氣」と名ざした箇所は、単なる誇張法として読みすごすわけにはいかない。ここには、日常語の「気」とは別次元の「気」が片鱗を見せているからだ。すなわち、それと特定することができる実質的な存在性をそなえた実名詞としての「気」である。
そもそも、「けはひ」「けしき」「氣合」等々と千変万化すること自体、石川の叙述における「気」が形式名詞ではありえず、実名詞であることを示すものだ。「處女懐胎」とのクライマックスでは、「気」の諸相は次のように区別されている。
貞子は突然いそぎ足に門の中に驅け入らうとした。もう靑葉のいろから拔け出して、あからさまな日の下に、まつしろな裳をひらひらさせて、風ににほふほどに、つと驅け出して行くのが、さすがに若い娘の、いろつぽいふぜいでもあり、しかしまた永遠の旅人なんぞの、かりにくぐつた門の內、家の中にはとどまらないで、そこを突きぬけて、もつとさきの、遠いはるかな道のはうに走りつづけてゆくといふけはひでもあつた。とたんに德雄は猛烈ないきほひでほとど血相かへて、あとから走りかけた。(「處女懷胎」)
間近に見る肉的な貞子のうしろ姿は「いろつぽいふぜい」と言われ、彼方をさらに彼方へ駈けさろうとする霊的な彼女は「遠いはるかな道のはうに走りつづけてゆくといふけはひ」、必死に追いすがろうとする德雄の地上的な執念は「猛烈ないきほひ」と言われている。「ふぜい」「けはひ」「いきほひ」──さわれば手ごたえがありそうなこの三態の「気」の形姿を書きわけることによって、世俗的なもの、天上的なもの、肉欲的なものという女性の音域があますところなく照明されている。そして、このように「気」の様態を描きわける文体が、「處女懐胎」という霊的なものと肉的なものの相互浸透を暗示する題名を冠された作品の主題と密接な関係にあることは見やすい。
孟軻はこういっている。
君子の性とする所は、仁義禮智にして心に根ざす。其の
色 に生ずるや、卒然として面に見 われ、背に盎 れ、四體に施 れ、言 はざるも喩 る。(『孟子』盡心章句上)
近代的解釈をとる岩波文庫版『孟子』は、「盎於背」を「背にあらわれ」と読むが、ここでは「盎、豐厚盁溢之意」と注する朱熹にしたがって、「あふれる」と読んでおきたい。「卒然」は、やはり朱注にしたがえば、「清和潤澤之貌」、清々しく和やかでうるおいのある顔立ち。君子は仁義礼智をその本分とするが、この四徳を十分涵養すれば、生命力は充実しておのずから面ざしにあらわれ、背に汪溢し、四肢にみなぎって、何も言わずともこの人こそまことの君子と誰にでもわかる、というわけである。
ここには孟軻独特の生命論的形而上学の一端が見やすい形で語られている。四徳の涵養という倫理上の目標は、近代的な思考が考えがちなように純精神的な問題に局限されることなく、「気」という地平において身体的領域へ、さらには宇宙論的領域へとおしひろげられていくのである。いわゆる「浩然の氣」の説も、この延長線上にある。
我善く吾が浩然の氣を養ふ。敢えて問ふ。何をか浩然の氣と謂ふ。曰く、言ひ難し。その氣たるや、至大至剛。直を以て養ひ
害 ふことなければ、則ち天地の間に塞 つ。その氣たるや、義と道とに配す、是れ義に集 ひて生ずる所の者にして、襲ひて取れるに非ざるなり。行ひ心に慊 からざることあれば、則ち餒 ふ。(『孟子』公孫丑章句上)
朱熹は「氣、即所謂體之充者」と注し、「餒ふ」についても、「餒、飢乏而氣不充體也」と、徹底徹尾、身体性の次元で釈義している。しかも、浩然の気は「至大至剛」であるがゆえに、そのまま「天地の正氣」だと言われる。倫理的理想の実現に邁進することによって充実した生命力は浩然の気として全身からあふれだし、天地に充満し、宇宙に遍在する根源的な生命力と貫通する。だが、心に疚しいところがあれば生命力はとどこおり、気は萎縮して自分一個の肉体をさえ満たすことができない。「蓋天地之正氣而人得以生者」とするところに、人間的秩序と宇宙的秩序を一つかみに把握する朱熹の面目は躍如としている。倫理性の基礎づけを目指す点、あくまで儒家であるが、このような思弁自体はすぐれて道家的だと言わなければならない。事実、朱熹の体系は邵康節を代表とする宋代道家の圧倒的影響下で形成されたが、近年の研究によれば、孟軻の思想自体、彼が斉で接した陰陽家に影響されるところが大であったという。
石川の叙述における「気」系の表現が、このような伝統に竿さすことは明らかだろう。たとえば、「気」につらなる名詞こそ用いられていないが、以下で語られているのは、まぎれもなく主体の生命の発露としての「気」にほかならない。
ふりあふぐと、しかし、ハンモックは半月なりに中空にかかつて、そこに宙釣になつて足をぶらぶらさせてゐる少女の、キューロットにぴつたり合つた長靴が蒼ずむまでにあやしく光つた。長靴の艶は內側からみがき拔かれたふぜいで、そこに少女の皮膚がにほひ出てゐるやうであつた。(「鷹」)
久しぶりに見る夫人の顔は見ちがへるほど黑く、田園の日ざしの烈しさが頬にほてつてゐる。その頬には肉が硬く張りきつて、畑のほこりがうすく燒きつけられてゐるが、しかし磨き拔かれた生地の肌の色艶は、うはべの日燒けを透かして一そうごまかしなく、光り出したかのやうである。(「雪のはて」)
「光る」「みがき拔く」「光り出す」という視覚にかかわる動詞と、「にほふ」という嗅覚にかかわる動詞が交錯して使われている。五官の交錯は日本の近代作家の文体にあってめずらしい技法ではないが、石川的叙述の場合、「気」という座標軸が一本とおっているために、単なる譬喩表現をこえた厚み、広がりを生みだしている。
岩波古語辞典の「にほひ」の項は、次のような目ざましい語源説をしるしている。
にほひ《ニは丹で赤色の土、転じて、赤色。ホ(秀)はぬきんでてあらわれているところ。赤く色が浮き出るのが原義。転じて、ものの香りがほのぼのと立つ意。》
同書の四段活用動詞「にほひ」の項では、語義として六項目を立てるが、嗅覚的な「匂ふ」はようやく第五項として掲げられているにすぎない。すなわち、「にほふ」の原義は視覚的に浮きでる事態をさし、嗅覚にかかわる用法の方が実は隠喩法だったのである。「気」にかかわる表現同様、石川の叙述における「にほふ」もまた転義の歴史を遡行することによって、語の歴史的な厚みをそっくりかかえこんでいるのである。
さらに言えば、「みがき拔く」「光り出す」が単なる「みがく」でも「光る」でもなく、「みがき(拔く)」「光り(出す)」のように、持続の相、生成の相をふくんだ複合動詞で用いられている点も見すごせない。「にほふ」(「丹秀ふ
」)は、「にほひ出す」とするまでもなく、そもそもから発出、発現する動勢をはらんでいたが、「みがく」「光る」の場合、「拔く」「出す」と複合することで、生命力の不断の湧出、発散という「気」の様相を点出するにふさわしい表現にきたえあげられたのである。まことに石川淳の文章は実体としての「気」を中心軸に展開されていると言わなければならない。
では、実体としての「気」を叙述の中心とすることによって、何が可能になったのだろうか? どんな地平が開かれたのだろうか? この問題について、おおよそ三つの視角から見ていきたい。
第一は身体の析出という視角である。
形式名詞としての「気」、「気に病む」「気がかり」「気がせく」等と言われる時の「気」の表現は、焦点を意識と身体の相関面にあわせている。気が病んだり、気がかりだったり、気がせいたりするのは、後で立ちいって見るように、身体から働きかけられた意識にほかならない。身体は自分の身体でありながら、漠然とした主客分明ならぬ「気」と連続することによって、他者や環界からの諸々の力の作用を意識に一方的におよぼすのである。「気」は確かに力として作用するが、しかし、それは不透明な身体というベールの向こう側に隠された何ものかなのである。
だが、実名詞としての「気」の場合は、大きく事情が異なる。具体的な力として特定できる「気」、そのつど「けはひ」「けしき」「氣合」と千変万化する「気」は、発するのも感受するのも具体的な身体でなければならない。意識の底に沈澱していた暗い身体はここにはっきりと浮上し、主題化される。表現の焦点は心身相関面から身体そのものへと移され、能動・受動の両面で他者や環界と連動する主体としての身体が前面に踊り出る。そこから、次のような魅惑的な光景が出現する。
軒にはためいて、近くに雷が落ちた。一しきり雨の音が强くなり、やがてそれが次第にゆるやかになり、立ち消えて行くと、たちまち雲からはじけ出た靑空に赫と湧きひろがる日の光が硝子戶いちめんに照りつけて來て、もう廊下はまばゆい正午であつた。光は烈しく室內に突き入り、殘酷に薄墨の影を切り裂き、牡丹圖も櫻の板も彫刀も、可憐な意志も、小さい身がまへも、すべてが明るい波になぶられ、きらめく塵の中に浮きたつて、くらくらとした少年の體はつい廊下に泳ぎ出てゐた。金吾は硝子戶をあけ放つて、大きく胸を張つて呼吸し、ちょつと籘椅子に腰かけたが、すぐ立つて歩きはじめた。今は何をするよりもかうしてゐる自分がいらだたしいほど愉しかつた。(『白描』)
「明るい波」「きらめく塵」は金吾を、そしてわれわれを酔わせる。たっぷりとした「気」の浮きたつような律動は「可憐な意志」「小さい身がまへ」と呼ばれる身体のつかえをときほぐし、とろかしていく。金吾の身体が大きくゆらぐとき、われわれの身体も素描的に大きくゆらいで、何か大きなもの、明暗の鼓動にかよう輝かしい「気」の動きを感得する。そして、「浮きたつ」「泳ぎ出る」という諷喩的な所作は、「明るい波」という主導的なイメージを装飾音のように横切り、身体に水の量感を甦らせる。「気」の手ごたえは水の抵抗感との類比で感受されるのである。
「身体は、心臓が生体に栄養をおくり賦活するように、世界を生気づけている」という意味のことをいった人があるが、実にこの光景の瑞々しさは金吾の身体感覚の新鮮さから発している。対象を実体的な「気」としてとらえるとは、皮膚感覚、運動感覚、筋肉感覚、内臓感覚といった広義の触覚を全開した身体で、つまりは全身でとらえることに外ならない。
敬子はテラスの端に出て、背を向けて立つた。今、やうやくおとろへかけた日ざしは茂みにしづもり、雲の低い沖から吹きつける風に追はれて、鳶色の影が乾いた芝生に這ひのぼつて來た。そして、今まで吸ひこんだ晝の光線をほのかに吐き出してゐる衣裳の白さに、その短い裾のはためきに、肌とおなじ色にぴつたり貼りついた靴下のなめらかさに、もう少女ではなく、みごとな成熟にはじけ出ようとするところの、女の肉體が切實に息づいてゐた。(『白描』)
敬子は、そして敬子の衣装は、ようやくほてりのさめかけた黄昏の気を呼吸している。しだいに濃くなっていく暮色の中で彼女の身体は白くほのかに浮きたち、場にみなぎる「気」の律動はこの情景を不思議になまめかしく、肉感的なものにしている。実体としての「気」の主題化は身体の主題化と表裏の関係にある。「気」の現存がくっきりと夢見られるとすれば、それはまた、その「気」を呼吸し享楽する身体がくっきりと夢見られるということでもある。
第二はアニミスティックな空間の発見という視角である。
先に見たように、中国的な宇宙論における「気」は森羅万象を生成するとともに、不断に万物を賦活し、生気づけるような生命的実体であった。石川における「気」系の表現は、このような反近代的・太古的な「気」の相貌を全面的に継承している。石川の叙述では「気」を呼吸することによって、あらゆる物体が生気を受け、躍動しはじめるのだ。右に引いたくだりでも、「今まで吸ひこんだ晝の光線をほのかに吐き出」すことで、敬子の白い衣装はそれ自体の生命を帯びはじめていたが、『白頭吟』冒頭に語られる白い障子は、やはり暮れなずむ「気」の中で呼吸することによって、今にも笑いはじけそうな稚気を放っている。
あたらしい障子の、太い棧いつぱいにぴんと張つた紙が、一日ぢゆうたつぷり吸ひこんだ晩秋の日の火照りをたたへて、夕ぐれにも白く光つた。庭から見ると、綠をめぐつて締めきつた障子の內部には、ほどなく夜のあかるい燈を待つまでのあひだ、ひとが笑をこらへてかくれてゐるやうであつた。(『白頭吟』)
石川の叙述に照明されると、ただの障子さえ人肌のぬくみを帯びる。もちろん、世の中にはこうした措辞を単なる擬人法と分類して事おわれりとする人もいるかもしれない。しかし、「紫苑物語」に登場する矢は生物/無生物のどちらなのだろうか。
この日の唯一の獲物であつた小狐も、二人の雜色も、むくろは地に置き捨てさせて來たが、すべてそのけしきは目にのこらない。谷川のせせらぎもここまではきこえない。ただ煮にあるかぎりの矢が突然ことごとく血を欲して、ひそかにうなりをたて、あるじの手を待ちかねてゐるやうであつた。まさに必殺の矢の氣合とききなされた。(「紫苑物語」)
すでに気合を発し、持ち主をせきたてる矢であれば、この矢が獲物を追って稲妻のかたちに飛んだとしても奇異に思うはずもない。「気」の充溢する石川的空間では、「気」にあづかる限りのものはすべて生き物なのである。矢だけではなく、弓も。そして、自らの用を知って「おのづから流れ出る」と云われる「八幡縁起」の器、『荒魂』の百発百中のガン、「片しぐれ」の持ち主の指を追いかける指輪や金を吸いこむ高利貸しの金庫等々、枚挙にいとまがない(この点については後でさらにふれよう)。しかし、生命を帯びた道具の活躍となれば、『狂風記』にとどめをさす。ここには自動車、猟銃をはじめとして、傘、マント、ペン、シャベル、車椅子と、おびただしい道具=生物が登場し、人間にまじっててんやわんやの大騒動をくりひろげる。ヒメも言っているではないか。「使ひこんだ道具なら、よく主人の氣を知つて、そのくらゐのはたらきは見せもするでせうよ」と。
けれども、アニミスティックな空間がその全貌を明らかにするのは、道具のような人工物ではなく自然物、それも大地が人間の言葉を受けて動きだす時である。王位を纂奪した巫祝、荒玉の祀りにこたえて、地形は盛りあがり、丘となって生長をはじめる。
七日めに、丘はすでに小山と見えた。成長は日ごと夜ごとにやまない。若竹のやうにぐんぐん伸びあがつて、そのいきほひは次第に增すばかり。すさまじいまでのけしきを空に切りひらいて行つた。三七二十一日めには、それはまさに山であつた。(「八幡綠起」)
「丘」は「小山」「山」と単純に伸びあがっていくのではない。「丘」から「小山」、「小山」から「山」と、有形名詞から有形名詞へ移行するのに、「いきほひ」「けしき」という「気」系の語彙を経由している。「小山」は「いきほひ」となることによって、「山」となるのだ。これら無定形な力動を指さす語をくぐることによって、山の生長は見えない次元にまでその奥行きを拡大する。ぐんぐん伸びていくのはただの土くれではなく、「山」という言葉に導かれた大地のエネルギーだという印象は決定的なものとなる。
こうしてまさに意志あり生命ある神山が誕生するが、忘れてならないのは、この山は荒玉という人間の言葉に感応して盛りあがったということだ。
「山を討つには山、神をおさへるには神ぢや。われらの神、今あらたにこの國土に立つて、山のいただきは天にもそびえたぞ。」(「八幡綠起」)
道具とその持ち主との「気」の結びつきは先に見たとおりだが、無生物は勝手に生動するのではなく、意志的なものの呼びかけ、語りによって、はじめて生きはじめ、動きだすのである。つまり、アニミスティックとは言い条、石川の叙述は決して怪力乱神を語っているわけではない。遍満する「気」の海に浮遊しながら、人は物に感じ物は人に感ずる。どのような不思議が現じられようとも、そもは明晰な言葉の所産であって、自然の勝手にゆだねられているわけでもなければ、超自然的なもの、超人間的なものが介入しているわけでもない。宗賴の弓、ハンタや安樹のガンが百発百中なのは、彼らの意志がタマや矢にまっすぐ伝わったからにすぎない。「気」への遡行という一事を別にすれば、どこにも非合理なもの、人間的秩序を超えたもののつけいる隙はないのだ。
この国の文学の伝統に照らすなら、これは異例のことである。石川の小説の超現実性はしばしば「雨月物語」や泉鏡花の一連の怪談を引きあいに語られるが、「雨月物語」の怪異も鏡花の幻想も、ともに非合理なものの形象化であり、情や執着、妄執といった人間性の暗黒面に根ざしている。宮木は、なるほど貞女の鑑ではあるが、勝四郎の前に亡霊としてあらわれたのは狂おしい愛執に衝きうごかされたからである。勝四郎の側にも後ろめたさがあって、われわれは彼の後ろめたさを共有するからこそ、宮木の幻を受けいれ、陶酔の瞬間を持つのだ。「雨月物語」の妖異の花は、捨てられたものの怨念と、捨てたものの罪責感に深々と根をおろしていたのである。また、詳しく立ちいることはしないが、鏡花の奇想にリァリティをあたえているのも、知らぬうちに禁忌を犯したのではないかという不安の感覚であって、「高野聖」の禽獣に変えられた男たちの姿にリァリティがあるのは、そうした禁じられた衝動への訴えかけがあるからにほかならない。
これは「雨月物語」や鏡花に限らない。この国の文学の伝統に流れつづけてきた幻想の水脈は、「源氏物語」から「遠野物語」にいたるまで、禁圧されたもの、意志の力ではどうにもならぬものを水源に、禁忌侵犯のあやうさと魅惑とを二つながら滾々と湧出させてきたのである。
石川の場合は対蹠的である。邪しまな情慾をいだいたために、あさましい姿に落された「高野聖」の男たちを笑いのめすように、石川的叙述に登場する凶暴な少女たちは鷹に、蝶に、カラスに、いとも身軽に、喜々として変身する。変えられたのでも、変わってしまったのでもない。かくなりたいと望んだからかく変じただけの話だ。小狐が乙女に化け、弓に変身するのと、大地が丘となって山と伸びあがるのとどこに違いがあるだろう。
われわれはここで、第三の視角、生命力の肯定から石川の小説を語らなければならない。
生命的実体としての「気」を叙述の中心軸にすえることは、同時に生命力を全面的に肯定することを意味する。「気」の遍満するアニミスティックな空間を、「気」を不断に呼吸する身体的存在として動きまわる石川淳的人物は、一挙手一投足に、生命は善である、欲望は正しいと宣言しているのである。「気」を主題化するとは、生命力を主題化することにほかならない。「気」を描くとは、変貌しようとする意志、変貌しつつある意志を描くことなのである。石川の叙述にあっては、意志=生命力の強度が第一の問題であって、一般的な小説で重視される世態、人情、思想にかかわる価値判断はすべてひとまず白紙にもどされる。この切断によって別天地が切りひらかれているからこそ、強大な生命力を体現すれば醜よく美に変ずるのである。たとえば、「紫苑物語」のうつろ姫はこう描かれている。
燃えるばかりの燭の光の中に、宗賴はこの一年のあひだ見ることをおこたつた姬のはだか身を一目で隈なくそこに見た。これが姬か。たしかに姬ではあつた。みにくい顔はあくまでもみにくく、赤黑い肌はあくまでも赤黑く、みだらの性はあくまでもみだらのままに、しかしこの煮にあるかぎりのほとんどすべての男の精根を三百六十五夜手あたりにむさぼり食らひ、存分に食らひふとり、增長の絕頂、みがきぬかれ、照り出されて、みごとにうつくしい全體がそこにあつた。(「紫苑物語」)
善悪もまたそうだ。宗賴の支配する時空では、通常の意味での善悪の秩序は遮断されている。彼は乱心悪行のかぎりをつくし、ゆえなく屍の山をきづいて領国中をおそれおののかせるが、「守は朝ごとに陽根をふるひおこして、さはやかに打つて出られます」と感嘆される意志=生命力の前では、「ひとびと、これを荒ぶる神の憤怒とあふいで、ただ畏れ、をののき、この世をば死の世と觀念するばかり」なのである。
興味深いのは、滑稽な副旋律をかなでる藤内という脇役である。彼は目代として、宗賴の下で諸事一切をとりしきるが、ひそかに国守の地位をねらい、権門の娘であるうつろ姫の夫の座にすわろうと画策してる。ところが、この男、野心だけは一人前だが、男として用をなさず(「このちび筆をもつて、ほかならぬ姫のお相手に、戀の手習がかなひませうか
」)、練りに練ったはずの謀事を実行にうつすことができない。ここに変事がおこる。宗賴の出奔とともに、役に立つはずのないものが役に立ったのだ。姫と契をむすんだ藤内は勇躍一味の者を呼びあつめ、檄をとばす。「威令おもおもしく、貫禄おづからあらはれて、つねの藤内とは見えなかつた。意外な閨の上首尾よりも、このはうが不思議のやうであつた」云々。
見られる通り、藤内に主人としての権威をあたえたのは身体的な充実である。生命力を全面的に肯定するとは、身体の存在を全面的に引き受けることを意味する。もはや身体は精神とは別のものではなく、否定されることも、ことさら称揚されることもない。否定されたり、称揚されたりする身体は精神と対立的に立てられた身体だからである(「肉体」派や、三島由紀夫における身体がそうである)。「気」の海においては、身体はそのまま精神であり、意志は「気」の動勢として現実化される。孟軻もいう通り、精神の様態は「卒然として面に見われ、背に溢れ、四体に流れ、物言はざるも人自ずから喩る」ということになる。石川の小説でおなじみの巨根の系譜はここに淵源する。巨大な力=意志を持つ者は巨大な器官をそなえているというわけである。この系譜につらなる一人である『荒魂』の潮弘方は一度は無力感に崩れかけるが、クーデタにかけた思いを梃子に、次のように甦る。
耳に鳴る歌聲にさからひ、鈴の音を振りはらつて、腰をのばし、胸をそらし、肩を張つて、老人……いや、老人どころか、一瞬に跳ねおきて、顔の皺はすでに消え、色艶にくいほどわかやいで、白髮きらきらと太く、つねよりも一きわ血氣に燃える潮弘方がそこに立ちはだかつた。ぶるつと一ふるひすれば、著たものはおのづから脱げ落ちて、新聞週刊誌の寫眞のごとき見てくれのポーズではなく、あからさまの筋骨は壯者をしのぎ、肉づきあくまでもたくましく、踏ん張つた兩足のあひだに、陽根は鬪志にふくらんで空ざまにうそぶいた。(『荒魂』)
まことに潮弘方は「潮」のように引いては満ちる生命の振幅を体現する人物であった。石川はどこかで、心理描写を「心理的大福帳の帳尻合はせ」と斥け、人物を「一箇の物體」として記述すべしと語っていたが、潮のみならず、石川的人物はすべて「気」の水準で生命力の進退消長を観測され、記録されているのである。
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