『父親の名』

加藤弘一

1.

 われわれは先に石川淳の小説を文体の水準で検討し、それが「気」の充満し流動する領域で、「天地自然の道」ともいうべき陰陽論の秩序につらぬかれていることを見た。石川の小説では、この別天地を舞台に、人も物も等しく「気」の主体として放恣な運動をくりひろげているのである。

 ここで眼を物語の水準に転じよう。すると、人・物の運動を方向づける秩序は、陰陽論の二元的な原理、すくなくとも道家的な陰陽論の二元的な原理だけではないことがわかる。

 たとえば「善財」である。主人公の宗吉は娼婦に身を落した初恋の女、伊那子を追い求めるが、彼女をわがものにしようとする刹那、木戸の幻が立ちはだかり、「自分で自分の胸をついたやう」にはね飛ばされてしまう。娼婦である婆須蜜多女は善財童子を離欲の境涯にみちびいたが(「離欲無著境界三昧」)、伊那子は宗吉にとって禁じられた女、触れてはならない女なのである。

 この禁止は道家的な陰陽論や作中でたびたび言及される『華厳経』に由来するものではない。道家の「天地自然の道」の観点からいえば陰陽はおおいにまじわるべきだし、『華厳経』の観点からいっても「婬慾もまた道なり」だからだ。なぜ宗吉の運動は伊那子の手前ではじき飛ばされなければならないのか? なぜ彼は伊那子に手をふれることができないのか? ここにはあきらかに仏老の教説とは別の秩序、別の条理が介在している。

 人によってはそれはカトリシズムの秩序だというかもしれない。なるほど、一時期の石川の小説は「焼け跡のイエス」「処女懐胎」「雅歌」等々というように聖書の章句を題名に冠し、「聖書伝説の世界」(野口武彦)へのあからさまな接近を見せていた。「最後の晩餐」の主人公の一太などははっきりカトリック教徒とされ、やはりカトリックだった祖父から受けついだ十字架を時計のように引きだしては、自己の位置を確かめることを日課としているほどだ。

 ただし、祖父はあたかもそこに一太のいはゆる「すぐれた人間」の方向にのぼつて行かうとするところの、おのれの善根の目盛を讀みとるやうなふぜいであつたのに反して、孫は次第に「いやしい人間」のはうに成りさがつて行くところの、おのれの惡行のかずかずをそこにみとめ、みづから責めようとする態度にちかかつた。(「最後の晩餐」

 将校として中国戦線での日本軍の残虐行為の一端をになった一太にとって、十字架は「罪の觀念上の目方」を確かめる計器であり、その「目盛」はまぎれもない現実として彼に迫っている(「犯すべき罪の目方は際限なく伸びつづける鎖と見え、罪は手にふれうる悲しみとおもはれた。」)。だが、この罪の重さの自覚にもかかわらず、あるいはそのゆえに、彼は自暴自棄になって強盗殺人を犯した夜、あろうことかあっさり自裁してしまう。しかも、驚くべきことに、自分で自分を裁くことが傲漫だという認識は彼の脳裏にはまったく浮かんでいない。「最後の晩餐」とは言い条、これはカトリシズムとはまったく無縁の世界である。十字架は一太にとって自己を律する「目盛」ではあっても、畢竟、神の愛の象徴ではなかったのだし、その罪観念にも自分で自分を裁く傲漫の罪はふくまれていなかったのだから。

 老荘の言が引かれる場合も同様である。『六道遊行』の小楯は、時の壁を超えて二十世紀に玉丸という子供をもうけるや、その子の成長をきづかって奈良朝と現代の間をしきりに往復する。なるほど、「無用の手を加へて玉をそこなふな。おぬしは玉丸の光を見つけて、名馬を相した伯樂のつもりではあらうが、伯樂こそ馬にはいらぬものと知れ」というように、『荘子』の章句を借りて玉丸の教育に意見をするが、「甘やかされる」、「駄目にされる」は、社会の価値基準を前提にしてはじめて言えることで、道家はそのような価値基準そのものを超脱する立場を選んだはずである。真に老荘の徒であるならば、甘やかされるも駄目にされるもないはずなのだ。いや、そもそも真に老荘の徒であるならば、「民を愛するは民を害するの始めなり」(『荘子』徐无鬼篇)であって、わが子を愛するということ自体がありうべからざることなのである。

 仏典や聖書、老荘の衣装こそまとってはいるが、宗吉や一太、小楯の運動を方向づけているのは、まったく別の秩序、別の条理であって、彼らはそれにしたがって自らを律し、自らの血につらなる者を愛しているのだ。しかも、その秩序、条理は木戸や十字架、木の根という具体的な物の形をとって、まさに物質の手ごたえをもって、宗吉や一太、小楯の前にあらわれている。それは条理、秩序とは言い条、抽象的な無形の理法にとどまってはいないのだから。

 この条理はもっと別の形をとってあらわれることもある。物の運動が条理そのものを描きだすという形で、つまり物の運動を介することで石川的空間に姿をあらわすのだ。すでに見たように、石川の小説では道具は石川的人物の意志にこたえて、しばしば超現実的な働きをしめす。『狂風記』の安樹は何よりも愛する「カー」について、こう言っている。

 「車に乗れば車はひとりで勝手に飛ぶ。ぼくはどうもしない。またそれがどうならうと知つちやゐない。誇張していへば、ハンドルに手をふれない。いや、誇張でなくて、手をふれないことがげんにある。そこにゐるぼくは座席にわすれられた人形にひとしい。人形がなにを知つてるものですか。結果として、車が人でも物でも引きつぶすといふことはありうる。ぼくが首の骨を折るとか崖から落ちるとかといふこともまたありうる。すべての考へられる危險をふくめて、ぼくは車まかせですよ。」(『狂風記』

 道具まかせなのは『荒魂』のガンの名人、ハンタも同じだ。「タマがひきおこす事件については、想像力はガンに一任してある」というように、彼のガンは人為をすててすべてを託せば、持ち主の意を察して超現実的な働きを見せるのである。だが、いくら超現実的だからといって、この働きは決して勝手気ままなものではない。石川の小説ではカーはあくまで「カー」としての定義の限りで、ガンもあくまで「ガン」としての定義の限りで、驚異的な性能を発揮するからである。それは人の作った道具に限らない。山のような自然物であっても、山は地より高いという「山」の定義にしたがって、その不思議な風景を切りひらいていくのである。つまり、石川の奔放な奇想と見えるものは、カーにはカーの、ガンにはガンの、そして山には山の役割を、いささか過度に発揮させることにもとづいている。石川的超現実を生みだすのは役割性の過剰な実現であり、もしこういってよければ意味作用の一人歩きなのである。決して自然による言語秩序のアナーキーな混乱ではなく。

 おそらく、この間の事情を端的に示すのが、石川の頻用する「わりつける」という動詞である。石川の物語で活躍する人・物には、いつもあらかじめ「用」「役」「分」「形式」「仕掛」が「わりつけ」られている。いささか現実離れした話が語られるからといって、登場人物・事物を現実を超越した純粋なエネルギーの化身だとか、作者の主張を仮託された寓意的な存在だとか勘違いしないようにしよう。石川が登場させる人・物は「気」の生命力をはらみながらも、しかるべくわりつけられた「用」「役」「分」「形式」「仕掛」によって、あらかじめ運動の方向が設定されているのだ。もしそこに意味が賦されているとしても、その意味は作者の思想や個人的思いいれなどといったものではなく、語の意味にもひとしい中立的、社会的な意味なのである。

 結婚には一般にさうあるべき生活形式があたへられてゐる。解放式にしろ、閉鎖式にしろ、どうも氣をゆるしては飛びこめない、そのお定まりの形式に生活を割りつけるといふ約束は、いつたいだれがきめたことだらう。……神でもなく惡魔でもなく人間でもないやうな、穢れし靈かなにかが、蜘蛛などの網をかけて獲物を待つやうに、かういふ仕掛を編み出したにちがひない。(「處女懷胎」

 安見子がのぼりかへして行くとたんに、この坂の下にはそれを追ふことを禁ずるやうな透明な格子が立ちふさがり、また安見子のはうから十一郎の側に格子をくぐり抜けてきたためしは無かつた。おそらく空間の構造は至るところこのやうに格子の網目仕掛になつてゐるのだらう。そして、人間も馬も自轉車もつねにそれを見ることなく、格子の網目のあひだに出入し、あちこち驅けめぐつて自由らしくまた柔軟らしく振舞つてゐるつもりなのだらう。……これが人間の運動のかならず突きあたるところだとすれば、十一郎と安見子との交渉の土壇場はこの網目にからまつてゐるのだらう。(「さらば垣」

 器の用は器みづから知る。すでにその用あれば、器は山にうづもれることなく、谷の水の里にながれ海に出るやうに、またおのづからながれ出る。……われらが大神につかへるすべはただ一つ、山の材をもつて手づから器をつくり、器の用をあらはすことぢや。(「八幡綠起」

 「形式」「用」「格子」「網目仕掛」──「気」の主体に「わりつけ」られたこうした人間的条理の網目は、「気」のエネルギーの背後に、その「運動のかならず突きあたるところ」として存在し、実在の事物と同じ資格、同じ存在性をもって主人公の眼前に出現する。その意味で、石川の小説にでは条理は一つの実体といわはなければならない。

 なぜ、抽象的な条理が一つの実体としてあらわれるのか。朱熹は「中庸」首章の「天命之謂性」を註して、こう言っている。

 命とは命令のようなものである。性とは理である。天は陰陽五行をもって万物を化生する。気は形をとり、理もまたこれに賦する。ちょうど命令がくだされるようなものである。ここにおいて人と物との生は、各々その賦されたところの理を得ることによって、健順五常の德をなす。これがいはゆる性である。……人と物とが各々その性の自然に循うならば、その日用事物の間に各々行うべき路がある。(「中庸章句」

 道家の宇宙生成論に対抗する形で形成された朱熹の体系では、道家の説を踏襲し、万物は「気」というガス状の物質が離合集散して誕生したと考られえている。もちろん、「気」の離合集散がまったく自発的に行われるのだとすれば、気一元論となり、道家の宇宙論と異なるところがなくなるだろう。それでは、先聖の道という礼楽の秩序を奉ずる儒家の本旨とも反することになる。

 朱熹の朱熹たるゆえんは、道家的な「気」の造化の背後に、その存在理由、そのあるべき姿を定めた「令」(命令)として、「理」という先験的な秩序を想定したところにもとめられる。朱熹によれば、「気」が凝って人・物となるとき、そこには必ず「理」がわりつけられる(賦される)のであって、天の命令としての「理」なくしては「気」は造化の働きをおこなうことができず、人・物も生ずることがない。そうであれば、人・物には棚田に月が映ずるように、必ず「理」が宿っているが、人・物に宿った「理」を特に「性」と呼ぶのである。「性即理也」とあるように、「性」は「理」と一致する。

 宋学の「理」が道家の「道」と最も異なるのは、あくまで背後の存在だということだ。「中庸」に引く「鳶飛戻天。魚躍于淵。言其上下察也」という詩について、朱熹はこう註している。

 子思はこの詩を引き、化育が流行し、上下がはっきりしているのは、すべてこの理のあらわれであることを明らかにしたのである。いはゆる「費」ということである。しかし、それがそうである根拠(所以然)は見聞のおよぶところでなく、いはゆる「隱」である。(「中庸章句」

 鳥が空を飛び、魚が淵に遊ぶという自然の秩序だった姿は、「理」のあらわれ(「用」)ではあっても、「理」そのもの、「理」の本体ではない。「理」は秩序だった自然の背後に隠れていて、自然はなぜかく秩序だっているのか、その根拠、その所以を問うことによってはじめて見いだされるというのである。

 朱熹はさらに社会秩序(先聖の道)は、聖人が天理にしたがって制定したものであって、自然の秩序と一致すると考える。社会秩序と自然秩序の一致という主張は、すでに「論語」に「為政以徳。譬如北辰居其所。而衆星共之。」とあるように、儒教の伝統の一部と言っていいが、朱熹は「気」の哲学を援用することで、この比喩を単なる比喩以上のものとする。それは個体差の概念にかかわる。もし、すべての人間が天理の反映である「性」を賦されているのだとすれば、個体差などということがありうるだろうか? 棚田に月が映ずるように、ひとしく「理」を宿しているのに、人はなぜ聖人もいれば、愚者もいるのか? 朱熹の答は明解である。

 性と道とは同じであるが、稟けた気は異なることがある。だから過不及の差がないわけにはいかない。聖人が人・物の行うべき所のものによって、これを品節して法を天下に行うことを「教」といふ。禮樂形政の類のようなものがこれである。(「中庸章句」

 朱熹は個体差の原因を「気」の不純に求める。天理の反映である「性」といえども、「気」に賦されることなしにはあらわれようがないが、聖人のように純な「気」を稟けた者は「性」をまったき形で輝かすことができるのに対し、不純な「気」を稟けた者は内なる「性」を人欲に蔽われており、天理にそった生き方をすることができない。そこで、聖人は氣稟の程度に応じた法(礼楽刑政)を天下に定めて、「気」の混濁した者にも本来の純なる状態に復帰することができようにしたというのである。もし天理と自己の本性(「性」)とが一致しないように見えるとすれば、それは稟けた「気」が不純だからであって、聖人の定めた教えを学び、不断の修養によって「気」を純化すべきだと考える。気質の蔽が除かれれば、必ず天理そのものである「性」が輝きでるからである。

 朱熹はまたこうもいっている。

 明德なるものは人が天から得た光明燦然たるもの(虛霊不昧)で、万物の理法を具え万事に応ずるところのものである。ただ、稟けた気によって拘束されたり、人欲によって蔽われた場合は、時によって暗くなることがある。しかし、その本体の明はいまだかつて息んだことがない。(「大学章句」

 「虚霊不昧」という語は、『華厳経』や『大智度論』に見える如来蔵説からとられた言葉だという(島田虔次)。如来蔵説では一切の衆生は胎内に嬰児を宿すように、如来となる種を宿していると考えられているが、朱熹はこの仏教の神秘主義を天理におきかえ、ともすれば厳格な教条主義と誤解されがちな宋学に空につきぬけるような楽天性と生命の躍動をあたえた。「處女懷胎」の貞子が宿したイエスも、キリスト教的な愛の象徴表現と見るより、如来蔵説を受けた朱熹の幻視の流れで見るべきである。

 IHSそれは貞子の生理の中からではなくて、どこから光り出たのだらう。たしかに、それは貞子の內にはらむものにちがひなかつた。今や貞子の胎內のこどもであつた。あはや吹き去つて行く風のうちに、一瞬にしてさつと消えた三箇の、横文字の、くろぐろと打つた刻印に於て、たま消えるまでにせつなく、瞳にしみて、貞子の懐胎をそこに見た。(「處女懷胎」

 貞子の肉体から超越的なものの光が輝きでたように、「無盡燈」の弓子の肉体からも、「權威」「モラル」が光りだしている。弓子の夫である小説家は、彼女をこう評している。

 「ぼくはのつけから、弓子については、堕落といふことがかんがへられない。弓子の生理の中には、堕落といふ觀念がぜんぜんはひつて來ないやうなぐあひだね。あの肉體がモラルを生きてゐるやうなものだね。」(「無盡燈」

 実際の彼女は若い男友達と夜ごと遊び歩き、二人目の夫である小説家の元をも去ろうとしているが、小説家は彼女は「肉體がモラルを生きてゐる」と断定する。そのモラルとはどんなモラルなのか? 彼は「わたしが惚れたのは、弓子の肉體の抵抗である」と書く。物質に抵抗する彼女の肉体の強烈なすがたがこの上なく美しいというのだ。

 この衣裝にかぎらず、今やなにを著てもかならず美しくしか見えないだらう弓子のすがたが、窓硝子ごしに、まのあたりに迫つて來た。……すがりつかうとする衣裝を刎ねかへして、いはば決してそのやうな親和を受附けまいとするために、弓子の肉體は猛烈ないきほひで、ほとんど胸がはだけ裾がひるがへらうとするほど、すさまじく格鬪してゐる。著てゐるものが突き放され、すべり落ちて、弓子が白晝の街頭であやふく裸身にならずにすんだのは、わづかに一本の帶がそれをきゆつと食ひとめてゐたからだらう。わたしは弓子の裸身のみごとなことをつとに知つてゐた。しかし、ここに見る弓子の、衣裝に抵抗する肉體の、たたかひのすがたは、裸身よりも一段と立派であつた。(「無盡燈」

 彼女の肉体の発する「猛烈ないきほひ」、衣装との間で切り結ぶ「格鬪」は、「気」の解放であり、「気」の自然の肯定であるが、しかしその力のほとばしりは、ただちに「モラル」という秩序に回収される。その肉体の格闘、その気迫のよってきたる所以として、「モラル」という精神の姿勢が読みこまれ、また「純潔」という価値が立てられるのだ。衣装と必死の気合で格闘する弓子の肉体は、そのような「モラル」が輝きでるくらい純粋だというわけである。

 道家の気哲学は人間概念を解体して、身体を「気」という自然へ解き放ったが、朱熹が完成した道学の体系は一度は解き放たれたこの自然を、天理という宇宙秩序と礼楽形政という社会秩序の二つの秩序によって挟撃し、名教の道という通路に引き入れたといっていい。朱熹は人間の自然化をはかった道家の気哲学を換骨奪胎したのである。

2.

 朱熹は「気」の陰陽論的な運動法則を、社会的な秩序と類比関係にある限りでの宇宙法則と同一視したが、石川はこの点において朱熹を踏襲しているといって差し支えない。「気」の主体にわりつけられた石川的な「形式」「用」「格子」「網目仕掛」は、なによりもまず社会的な秩序に属すものだからである。

 「八幡縁起」の木地師一統の祖である石別は、手ずから造った細工物に生命の息吹(気)を吹きこみ、器みづからに器の「用」を発揮させる。器が器の「用」を発揮するとは、山から里へと移動していき、器として万人に使われることをいう。なるほど、器に里へと移動する力をあたえたのは石別の氣合であって、その限りで「気」の支配は貫徹されているといえよう。しかし、器の「用」に目を向けるなら、自然とは別の他者の存在に行きあたらざるをえない。いくら石別が細工物に渾身の気合をこめようと、他者に「器」として認められなければ、それは器ではないからだ。逆にまったく手を加えない自然物であろうと、人に「器」として認められ使われるなら、それは器なのである。つまり、器はどこまでも社会的な存在であり、器の「用」とは自然における規定ではなく、社会における規定なのだ。そこには自然ではなく、他者が介在している。

 中村雄二郎はこう述べている。

 ここに瀬戸物の器があって、一目見るなり私はそれを灰皿だと思う ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 。この瀬戸物の器をつくったのはではない。……そういうかたちにつくったのは焼物師であろう。だが、そういうかたちを灰皿のかたちとしたのはその焼物師ではなく、また多くの焼物師たちでもなく、灰皿を使う者たちから成る(人々)である。それを灰皿の形ときめたのはではないから、その限りでその人々 ヽ ヽ は他者である。……たしかにそれを灰皿の形ときめたのはわれではないが、それを一目見るなり(私)が灰皿だと思ったのは、実はが、それを灰皿のかたちと見る人々 ヽ ヽ まなざしのなかで生まれ、育ったからである。の目がそれを灰皿のかたちと見る人々 ヽ ヽ の目と同化し、そういう(人々)の目に参与していたからである。したがって、その人々 ヽ ヽ とはわれを含んだ われわれ ヽ ヽ ヽ ヽ の目(共同主観)なのである。(『哲学の現在』

 「私」が物をどう見ようと、感じようと、考えようと、「われわれ」の物の見方、感じ方、考え方──すなわち共同体のエートス、掟──と無関係でいることはできない。無関係どころか、前者は後者によって根拠づけられ、基礎をあたえられているのである。中村もいうように、斬新で独自で自由な創造といえども、「共同主観が形成した規範的・惰性的な意味の層」を土台とすることではじめて可能になるのだ。いや、そもそも「われ」は「われわれ」に支えられ、拘束されることで、はじめて「われ」なのである。生まれた瞬間から物心ついている者などいはしないのだから。

 条理の裡に生きるのは、石別の一族だけではない。石川の登場人物たちは、ひとしなみ条理、「掟」にしたがって生きており、しばしば桎梏となってさえもいる。だが、「掟」、条理が桎梏であるといっても、それは同時に石川的人物の自信を保持するものであって、生存の保証をあたえるものでもあるのだ。

 『六道遊行』の小楯のようにことさら老荘の章句をもてあそぶ者も、条理によって拘束・保持されていることでは他の石川的人物と異なるところがない。彼は二つの時代を行き来して、わが子であり、「わがこころの白玉」と呼ぶ玉丸の成長を見守るが、そこには歴然たる境界がある。

 「おれはわがこころの白玉を遠い世界の生死の海に投げこんで、その浮きつ沈みつ、行方も知れずながれてゆくのを、岸に立つてぢつと見てゐる。岸は絕壁だ。かなかとこなたとを分かつ境はきびしい。絕壁を越えて、かなたの海へと、おれのからだがざんぶり飛びこむことは許されない。境をやぶれば、おれといふものは木つ葉みぢんに砕け散るだけだらう。わづかに、おれは境の岸とすれすれに立つ。それからさきには一足も踏み出せない。」(『六道遊行』

 小楯は時の壁に隔てられているがゆえに、玉丸が大観園ともまごう環境の中で甘やかされ、スポイルされていくのを拱手傍観するしかない。時間移動という荒唐無稽な設定にはじまる小説であれば、作中の約束事は作家の任意にまかされているはずだが、小楯を二十世紀の現実から隔てる境界をあえて設けるのでなくては、石川的小説は成立しないのである。

 侵犯した結果が「木つ葉みぢんに砕け散る」惨事に終るのは、小楯をさえぎる時の境界だけではない。「さらば垣」の十一郎は「透明な格子」を突き破ったことによって、「結晶が破裂するいきほひ」で血しぶきをあげ、死体として地べたに倒れふすし、「マルスの歌」の歌の「わたし」は、もう少し分別があって、「いざ起て、マルス、勇ましく……」という殺気だった歌声のあふれる軍国の世相を脱出するにあたり、天明狂詩というもう一つの条理に身を託して事なきをえたにしても、彼の妻はより本能的でより無防備であったために、架空の自分を演じて場あたり的に自他の目をくらましたあげく、自殺の演技が真に迫りすぎて本当に生命を断ってしまうことになる。「掟」、条理からはなれるとは、石川的人物にとって自己の生存を危険にさらす致命的な行為なのである。

 「掟」、条理にからのがれられないとすれば、そこに囚われた存在に徹することで、逆に「掟」、条理を内側から突破するという選択肢もありうる。「紫苑物語」の宗賴の場合である。

 彼は都の歌の名門に生まれ、幼くして抜群の歌才をあらわしながら、腑でをたたき捨てて武の道に進んだ。歌の家にあって歌を捨てるとは父に対する裏切りであり、家門への反逆である。勅選集撰者の地位をうかがう父はこの反逆児を見限り、取引きの道具に使う。宗賴は権門のやっかい者の姫をあてがわれて、遠国へ国司として下される。彼が家を捨てたなら、家もまた彼を捨てたのである。

 都を離れ、任国へ下ることで、彼は生まれ育った家から解放されたのだろうか? 彼は毎日憑かれたように狩りに明け暮れるが、いくら必殺の矢を放っても、その矢は獲物を射通したと見えた瞬間、獲物もろとも「白日の宙に消え」てしまうのだ。だが、ある日、ふとしたことから彼の矢は獲物の血に染まる。彼はようやく悟る。歌道の家の「掟」が、弓矢の道に励む彼をなお歌の幻の裡に閉じこめていたことを。

 なぞは歌にあつた。おもへば、都から遠くあらあらしい天地の中に突きはなされて來て、はしるけもの飛ぶ鳥を追つて驅けめぐりながら、この一年のあひだ、いつたいなにを追ひなにをもとめてゐたのか。あらたに見つけた自然の豐饒と荒涼とのさかひに身を置いて、手の中の弓はじつはわすれられたにひとしく、このときおのづから發したものは矢ではなくて歌、ただしすでに禁じてゐた長歌短歌のたぐひとはちがふもの、まだいかなる方式も定形も知らないやうな歌が體內に湧き廣がり音にたたぬ聲となつて宙にあふれ、そのききとりがたい聲は野に山に水に空に舞ひくるつた。狩りに憑かれたといふことは、すなわち歌に醉つたといふことにほかならなかつた。わすれられた弓から、こころなき矢が飛んで、獲物もろとも、歌聲のただよふかなたに消え去つたとしても、不思議とはいへまい。(「紫苑物語」

 「殺の矢」を体得するまでの宗賴にとって、鳥もけものも畢竟詠嘆の対象でしかなく、弓矢といえども歌と異なるところはなかった。彼は世襲歌人というわりつけを激しく拒絶しながら、自分がすべてを歌作の材料に切りつづめてしまう歌人の眼──歌道という条理、共同主観性──に囚われつづけていた気づかなかった。彼にとっては才能さえが拘束である。「うまれぬさきの世からうまくつくれるにきまつた歌を、どうしてこの世のかぎりつくりつづけなくてはならぬのか」。近代の詩人なら、その天分は「天才」という個人に属したが、宗賴の歌才は家に属するのだ。歌を捨てたあとも、父の体現する歌の家の「掟」は依然として宗賴を保持し、拘束しつづける。「歌は抑えやうとしてもあひかはらずしぜんにくちびるにうかびがち」なのである。

 「紫苑物語」は従来象徴主義の詩学との関係で論じられ、現実社会ともこの国の近代文学ともなんらかかわりをもたぬ孤高の達成と言われてきた。しかし、見られる通り、この中編小説の主題は父との、あるいは「掟」との相克にあり、詩的言語との格闘にあるのではない。宗賴と比較すべきなのはランボーやマラルメ、ヴァレリーではなく、「大津順吉」や「和解」の主人公であろう。もちろん、父を「敵」と呼ぶ宗賴の父子対立は、志賀的なそれとは位相を異にするが。

 「和解」の小説家は父との不和をこう語っている。

 自分は父に對してずいぶん不愉快を持つてゐた。それは親子といふ事から來るのがれられないいろいろ縺れまじつた複雜な感情を含んでゐたにしろ、その基調はなほ不和から來る憎しみであると自分は思つてゐた。自分は口でそれを話す時は比較的簡單な氣持ちで露骨に父を惡く言つた。しかし書く場合なぜかそれができなかつた。自分は自分の仕事の上で父に私怨を晴らすやうな事はしたくないと考えへてゐた。それは父にも氣の毒だし、なほそれ以上に自分の仕事がそれで汚されるのが恐ろしかつた。(「和解」

 父の影に支配されていた宗賴同様、「和解」の「自分」もまた父の存在につきまとわれている。しかし、前者が「掟」、条理という位相で父とかかわり、対立していたのに対し、後者が父と葛藤するのは「情」、気分という位相においてである。石川的な家が「掟」の場であるとするなら、志賀的な家は「情」の場、気分の場なのだ。この相違がもっとも明瞭となるのは、両者が夫々つきとめる父の正体においてである。

 宗賴にとって父は歌の一門の長という権威のもとに朱筆をふるう、「おのれを迷はせにかかつて來るもの、たたかひを挑んで來るもの」であった。父は条理の体現者としての限りで「敵」なのである。歌道の条理をぬけたなら、伯父の弓麻呂が新たな武の「掟」の権威者として彼の眼前に立ちはだかり、彼の技量を嘲笑うだろう。そして、弓麻呂を倒した先には平太というもう一人の「掟」を負ったものがいる。平太は「ぢぢいも彫つた。おやぢも彫つた。そして、今ではおれの番ぢや」と、里(共同体)の人々の安寧のために崖に仏を彫りつづける。彼は世襲の仏師として「掟」そのものに同化しているのである。一門という共同体を捨て、世襲歌人というせせこましいわりつけを拒否することから、おのれの生を切り開きはじめた宗賴(「とたんに、あやしい鏡に照らし出されたやうに、宗賴は何倍かにふくれあがつた未来のおのれの顔をそこに見たとおもつた。おちつきはらつた道化。宗賴は声をはなって泣いた」)にとって、このような男の存在が許せるはずがない。彼にとって平太は、たたき捨てたはずのかつての自分なのである。平太の生存を認めることは、自分自身の存在に朱筆を入れられるに等しい。これ以上の屈辱があるだろうか。平太こそ「おのれを迷はせにかかつて來るもの、たたかひを挑んで來るもの」の最たるものなのである。

 「敵」といわれる石川的な父の正体は、たとえ戯画化したような筆致で描かれるとしても、「掟」を負った権威者であった。では、ものものしげに描かれる志賀的な父とは、何ものなのだろうか? 「和解」の小説家は父との対立を主題にした長編小説の構想を、次のように語っている。

 自棄に近いその靑年が腹立ちから父に不愉快な交渉をつけて行く。父は絕對にこの靑年を自家の門から入れまいとする。その他いろいろさういふ場合父と自分との間に實際起こりうる不愉快な事を書いて、自分はそれを露骨に書くことによつて、實際にその起こる事を防ぎたいと思つた。……そしてその最後に來るクライマツクスで祖母の臨終の場に起こる最も不愉快な悲劇を書かうと思つた。どんな防止もかまはずはいつて行く興奮しきつたその靑年と父との間に起こる鬪爭、たぶん腕力ざた以上の亂暴な爭鬪、自分はコンポジションノ上でその場を想像しながら、父がその靑年を殺すか、その靑年が父を殺すか、どつちかを書かうと思つた。ところが不意に自分にはその爭鬪の絕頂へ來て、急に二人が抱き合つてはげしく泣き出す場面が浮んで來た。この不意に飛び出して來た場面は自分でも全く思ひがけなかつた。自分は涙ぐんだ。(「和解」

 あの重苦しい存在だった父という人は、祖母の臨終にのぞむや、「自分」と「抱き合つてはげしく泣き出す」はずだというのである。父と言い、家父長と言い条、彼もまた、祖母の子供にすぎない(「或る朝」では、「自分」は家族たちから「お祖母さんの子供」と呼ばれている)。このような認識をもたらしたのは我が子の死である。死別の悲しみは「父」である「自分」の寄るべなさを呼びおこすが、同時に、あの父という男の寄るべなさも明るみにださずにはおかない。「和解」は父という男を自分と同じ位置に引き下ろすことによってはじめて可能となったのである。

 一言でいうなら、石川的な父が制度としての父、形而上的なあるべき父であるなら、志賀的な父は生身の父、形而下的な現にある父である。「紫苑物語」は父子関係という現実に対して、「和解」や「大津順吉」とは正反対の方向から、しかし同じ切実さにおいて、切りこんでいたのである。両者は無関係どころか、表裏の関係にあると言わなければならない。

 石川にこの特異な位置を可能にしたのは、言うまでもなく、朱熹の理気二元論の思考である。朱熹のドグマを適用するなら、父子関係といえども情緒性を剥奪されて、圧倒するかされるかという「気」の力関係と、父の代表する「理」に対して主体の質点をどうとるかという運動系の問題に還元されずにはいないからだ。すなわち、「きもちといふ不潔なもの」をはらいおとしたところの「觀測ノート」(「無盡燈」)である。

 だが、このような力業にはある種の無理がつきまとわざるをえないだろう。たとえば朱熹は『孟子』の「人ニワカ に孺子(幼児)の将に井に入(墜)ちんとするを見れば、皆述易惻隠の心有り。……惻隠の心は仁の端なり」(公孫丑章句)を解議して、「惻隠情也。仁性也」と言っている。井戸に落ちようとしている子供を見て、可哀そうだ、助けてやろうと気持ちが動くのはあくまで現象面の出来事(「情」)で、天が人にわりつけた「仁」という本性(「性」)のあらわれであっても、「仁」そのものではないというのだ。体用の別でいえば「仁」が体で「惻隠」が用、未発已発の別でいうなら、原因である「仁」が未発、そのあらわれである「惻隠」の心が已発ということになる。しかし、なぜ、「惻隠」の心とは別に、「仁」の存在を想定してなければならないのか? 宋学の最初の本格的な批判者となった伊藤仁斎が「道は行う所を以て言う。活字也。理は存する所を以て言う。死字也」(『語孟字義』)としたのも、ゆえないことではない。仁斎をついた東涯は、戯画的な筆致をもって、こう書いている。

 譬へばすなはち炎々の光いまだ著はれずして、炎々の理、いまだ燒かざる薪に具はる。殷々の理、いまだ撞かざるの鐘に涵む。故に朮易惻隱の心いまだ萌えずして、朮易惻隱の體、いまだ孺子を見ざるの先に存す。(『古今學變』

 堀川の儒者ならずとも、日本人の素朴な生活実感からすれば、朱熹の理気の説は言語遊戯以外の何ものでもないだろう。昭和の批評家なら「美しい「花」がある。「花」の美しさといふ様なものはない」と言うところだ。小林秀雄もまた「悪の華」という「比類なく精巧に仕上げられた球体」から実感に回帰した常識家である。

 だが、素朴な実感に安住する限り、自己を自己たらしめている条理、「掟」は見えてこない。燃えあがる以前の炎を見、鳴りだす以前の鐘の音を聞き、「美しさ」そのものをもとめるのでなければ、そして宗賴のように「まだいかなる方式も定形も知らないやうな歌」と格闘するのでなければ、実感ということ自体、「理」、「掟」が原本的な所与からつくりだした一つの抽象だということに、気がつきもしないだろう。石川は実感をたたきすてて、「理」そのものを追いつめようとするのだ。

 「理」という実体の導入は、現にあるものとあるべきものとの対立を生みだすが、石川の小説はまさにこの対立を軸に展開される。たとえば、女性についていうなら、「普賢」の綱対ユカリから『天門』の組子対房子にいたる「色の女」対「恋の女」の対立であるが、この対立は自己そのものをも分割せずにはおかない。現にある自己とあるべき自己、「用」としての自己と「体」としての自己、已発の自己と未発の自己の分割である。ここに、石川の「半身」のテーマが生まれる。石川的人物は、いたるところで自己の半身さがしをおこなっている。完結した最後の小説、『天門』の東吉はこういっている。

 「おれは半端な人間だ。うまれたときからかうなんだ。おれの半分は今ここにゐる。あとの半分はどこにゐるのか。いつどこで、そいつにめぐり逢へるか。まつたく見當がつかない。おれが生きてゐるのは、そいつをさがすために旅をしてゐるやうなものだよ。」(『天門』

 だが、自己の「あとの半分」をさがすといっても、それは瞑想的な内奥の探求という方向をとらないし、見出される半身も想像的な満足をあたえるような充実したイメージではない。東吉は、宗賴が「敵」をもとめてひたすら外へ突きすすんだように、街を歩きまわり、人とあい、俗塵紛々たる陋巷にわけいっていく。そして、小説の最後には「逃げる。逃げてゆく道に果樹園の夢の花も見えない。逆に夢から自分を追ひたてるほかなかつた」と書かれるように、恍惚に誘う「果樹園の夢」はくずれさり、彼は不断の運動、自己を超えでていく運動そのものへとなげかえされる。

 自己の本性(「性」)をもとめて、不断に外へ向かうこと──これは朱熹の実践論でもある。

 朱熹の実践論は古来論議を呼んだ「大学経」の一句、「致知在格物」にくわえた独創的な解釈にしめされている。彼の註にしたがえば「格、イタル也」で、「知をイタすは物にイタるに在り」、すなわち天理を窮めるには広く具体的な事物を考究し、そこにあらわれた「性」を一つ一つたんねんに窮めていく必要がある、というのである。朱熹の学問が理学と呼ばれるのはこの点においてである。

 だが、博捜の末に窮められる「理」とは、また、あらかじめ自己にそなわり、自己を自己たらしめている「理」でもある。すでにそなわっているものを、なぜ外にもとめる必要があるのだろうか? 外物を仲立ちとすることなく、吾心の裡なる「理」を直接に見いだし、現実の心をあるべき心たらしめていことする立場もまたありうる。この立場に即するなら、外界の事物を媒介に天理にいたるという朱熹の格物致知の方法は無意味なばかりか、注意を内なる真理からそらし人を迷わせる謬説といわざるをえない。ここから、朱熹の格物説を「支離」と非難する学説が引きだされる。心学と呼ばれる陸九淵、王守仁らの学説がこれである。

 王守仁は「心は虚霊不昧にして衆理そなはり万事出づ、心外理なく心外事なし」と主張し、「格物」の「格」は「正す」、「物」は外界の事々物々ではなく、心の裡なる意念の動きだと釈義する。すなわち、「致知在格物」とは「知をきわめるにはことただすにあり」であり、意念の動くごとにこれを正していけば、天理は吾心に実現されるというのである。このような何よりも主体の自律性を重んじる立場からすれば、朱熹の実践論は他律を根本としており、外物にふりまわされる危険性を内包していると言わざるをえないだろう(註1)。

 形のない秩序(「理」)を幻の鳥獣や木戸、格子構造の空間といった外物として提示する石川の小説が、「支離」を物語上の動因としていることは見やすい。石川の主人公は幻の鳥獣や、イエスに変ずる乞食少年にきりきりまいさせられ、文字どおり支離滅裂な行動をとるからである。

 だが、「支離」だからといって、ただちに自己を外物の裡に見うしなうと決めつけるわけにはいかないはずだ。実は朱熹はこのような批判を予想し、「大学或問」において、あらかじめ答えているのである。すなわち、彼は「心に求めず迹に求め、内に求めず外に求める。これは聖賢の学を浅近支離に陥しいれることではないか」と自問し、こう切りかえしている。

 人が学問を爲す理由(所以)は心と理だけである。心は一身をつかさどるが、その本体は虛靈であって、天下の理を管するに足りる。理は万物に散在するが、その用は微妙であって実は一人の心を外れることがない。內外精粗をもって論じるべきではない。(「大學或問」

 心と理とは別々のものではなく表裏一体の関係にあり、心の探求は、即、理の探求であって、理の探求もただちに心の探求である。とすれば、内か外か、形があるかないかとこだわるのはおかしなことだ、というのである。朱熹はさらに「格物致知の学と、世にいう博物洽聞の学の相違はどこにあるか」と問いを立て、こう答えている。

 これは自分自身に反って理を窮める(反身窮理)ことをもって主とする。彼は外にしたがって多を誇ることをもって務めとなす。必ずその極を究めるにあたっては、ますます博く知ることをもってますます明るく、その実を覆えさないにあたっては、ますます多くを識ることをもって心はふさがる。(「大學或問」

 自己探求の緊張を維持する限り、事々物々はすべて自己の本性をかえりみる契機となり、知識のための知識に陥ることも博学に埋没することもない、というのだ。注目すべきは「身に反りて」(反身)という表現である。それは、朱熹における自己が、他との関係において存立しているということであり、それゆえ他を鏡とし、他からの照らし返しを受けるのでなければ、自己は際限なく肥大していき「偏狭固陋」に陥らざるをえないということでもある。朱熹は、聖人という特異点は別にするなら、自己の実践的な他律性を認めているのであって、彼の立場からするなら、自己の自律性を強調するあまり自己の絶対視にかたむく陸九淵、王守仁らの主張は、仏老の教説に淫するに等しい。

 だが、外物(他者)を鏡とするという以上、自己の裡なる秩序はつねに他を媒介としなければ見いだすことができず、それゆえ、他の裡に自己を見うしなう危険は依然として内包されている。「支離」への傾斜は朱熹の実践論における構造的な弱みなのである。

 この朱子学と陽明学の対立は、『狂風記』第三十節に、クーデタをたくらむ鶴巻軍団の二人のイデオローグ、鶴巻小吉と森山石城の議論として、作中に中心紋のように埋めこまれている。鶴巻軍団のクーデタ計画は旧来の体制の復活をめざすものだが、その際、小吉は「天地自然の理を人文の場に移して考へ」るべきことを説く。

「日月の運行には宇宙を構成する物理法則がはたらいてゐるわけだから、人間の國には基本として人間の法則がなくてはならない。過去はかう、現在はかうと、ここまでは尋常の講義ですね。しかし、人間の國は現在のままでいいかどうか。これは義理にもいいとは申しあげられない。」(『狂風記』

 小吉が主張する復古とは、天地自然の理を人間社会に実現し、がたぴしした社会を本来の姿に戻すことである。そのためにはまず、法則を探求すべきだというのだ。これが朱熹の祖述であることはいうまでもない。一方、「顯幽道」の提唱者、石城は自分の提唱する「道」とは世界観というほどの意味だが、「みなさんのうちにひそんでゐる(もしくはねむつてゐる)本然のたましひが目をさま」すことで納得いくだろうと説く。何のことはない、法則探求などは余計ごとで、体験学習一本にしぼれということだ。当然、石城の主張はこう締めくくられる。

 理論なんぞといふあさはかな後世の作り物をあてにはしない。教をぶつつけに身心にたたきこむ。劍です。劍をもって直接に教へます。(『狂風記』

 石城の「顯幽道」は、内容については平田神学を戯画化しているが、方法においては陽明学である。
Copyright 2001 Kato Koiti
This page was created on Nov11 1995.

前へ石川淳を読む次へ
ほら貝目次