この本源的な受動性を知っているがゆえに、「無盡燈」の小説家は自分の元を去ろうとする弓子を責めることができない。
「ぼくはのつけから、弓子については、堕落といふことがかんがへられない。弓子の生理の中には、堕落といふ觀念がぜんぜんはひつて來ないやうなぐあひだね。あの肉體がモラルを生きてゐるやうなものだね。どうして大した權威なのだよ。そして、當人は自分の權威には氣がつかないで、なにか他の權威をもとめさがしてゐる。そして、それがなかなか見つからないので、迷つてゐる。貪婪だよ。何でも食つてしまふのだ。ぼくもそろそろ食はれかけて來たらしい。さういふ弓子に惚れてゐるのだから、ぼくの惚れ方は抜きさしならないのだよ。」(「無盡燈」)
最初、彼女の「權威」は前夫の弁護士だった。彼が「權威」でなくなった時、小説家が新たな「權威」となったが、今、彼女は別の「權威」を探そうとして、老作曲家に恋文を書いたり、あろうことか「必勝」という文字を紙いっぱいに書きつけてさえいた。「必勝」とは巷を跋扈する国家主義を「權威」として立てるに等しい。日本という国土が国家主義に蹂躙されたように、惚れた女も国家主義という「權威」に自分をささげようとしているのである。これこそ朱熹が警告した昏昧雑擾ということだろう。小説家ははじめて彼女に手をあげる。
それにしても、この女人の倒れてゐるところはあまりに暗かつた。その手に燈を挑げもたせなくてはならない。そこに一燈がともれば、火は女人から女人へと、つぎつぎに移されて行き、傳へられて盡きず、いつか女人といふもののすがたを分明に照らし出すかも知れない。維摩が女人にむかつて無盡燈の法門を說いたのは、けだしゆゑあるのだらう。しかし、わたしにはとても維摩の器量は無い。そして、わたしの火はたつた一本の、燃えのこりの、痩せた蠟燭でしかない。その蠟燭も心ぼそくゆらぎながら、あはや盡きやうとしてゐる……(「無盡燈」)
小説家が弓子の姿に、国家主義に蹂躙された当時の日本を重ねて見ていることは明らかだ(「世の中の狂ひかけて來たのにしたがつて、どうも女房の調子がをかしくなつてゆくやうであつた。」)。彼は「抜きさしならない」惚れ方をしている弓子に責任と無力とを感じるのと同じように、日本という国にも責任と無力とを感じているのである。彼は韜晦の姿勢をとっているとは言い条、あくまで「理」を奉ずる士大夫であり、士大夫としての責任がふしだらと見えかねない弓子の肉体にも「權威」を見いださせ、さらにはその語り口にユーモアを生みだしているのだ。「無盡燈」という短編の眼目は、このユーモアにあるだろう。
ここで石川の最初の小説、「佳人」を思いだしてもよい。東京近郊に仮寓する主人公の青年は、周囲から「キチガイ」呼ばわりされながらも、臍(世界の中心)探しに明け暮れている。
武藏野では一點に立つて隈なく見はるかす高みとてはないにしても諸君の立つ任意の地點がをりをりの展望の中心になりうるであらう。しかしこの土地ではそのやうな地點をさへどこに見出さう。どの點に立つて見てもひとはいつも片隅にしかゐない。この行儀の惡い腹の上に臍――たはむれにさう呼んだのだが――を探すことは容易なわざではない。第一そんなものがあるかどうかも判らないながら、わたしはぜひそれを探し出して見ようと夢中になつて……だがいつたいどうしてかかるばかばかしいことを思ひ立つたものだらう。元來山川草木には無綠のわたしなのだから、もしそれが退屈しのぎの氣まぐれであつたとしたらばやがてますます退屈になるほかはなかつたはずであるのに、この探索のあひだわたしは憑かれたもののやうに變化もない土地の上を馳せめぐり、いかなる崖のふち杜のはづれでもまだ見殘してゐた場所があるといちいちそこに行つてみづから展望をたしかめ、そしてすぐ失望して立ち戻つて、やはりいたづらなる跋蹤をつづけたといふのはどうしたことであつたか。(「佳人」)
中心を欠いた風景のとりとめのなさが、「わたし」という主体のあやふやさと表裏することは見やすい。「わたし」は田野をかけめぐりながら、世界の臍だけでなく自己の臍をもさがしもとめているのである。だが、「わたし」は外にばかり眼を向けて、すこしもそれに気がつかない。朱熹は自己探求をわすれたいたずらな理の探求を「昏昧雑擾」と斥けたが、「わたし」が迷いこんだ迷路もまたそれにあたるだろう。
やがて、思いがけないきっかけから「わたし」は自己の内部に目を転ずる。「わたし」が自己の内部に見いだしたのは空虚──がらんどう、まったくの無であった。無であれば、死ぬほかはない。「わたし」はこの観念に憑かれ、今度は「死を意識しつつ死ぬ」ことをもとめて狂奔する。自己の本体が死だというのはあまりにも危険な観念である。だが、死の内包という事実、自己が無をかかえこんで存在しているという事実に、「わたし」の生命力はかえって異様に昂ぶり、入水したものの、蚊・虻・蚋の大群に遭遇して思わず知らず岸辺にかけあがってしまう。この一途さは偏狭固陋というほかないが、そのあげく、「歩く一夜芙蓉の花に白みけり」の句が口をついて飛びだす。生命を賭した自己探求の試みを、「わたし」は自ら一場の詠嘆として詠み流してしまったのである。
何といはう、わたしはただくち惜しかつた。この叛逆、この輕薄。わたしの生命を隙間もなく打ちこんでゐたはずのこの一夜をつい鼻の先に節をつけて唄ひ散らしてしまはうとは。今こそ精根が盡きはてて、またばつたり倒れた。(「佳人」)
しかし、いくら地団太ふもうと、「わたし」という主体の本性をずばり指さすのはこの句であり、この句を思わず発したという事実なのである。もちろん、「わたし」もそれに気づいていて、だからこそ、鏡の中の自分の間の抜けた顔にあいそをつかすように、句に映りでた自分の生命力の旺盛さかげんにうんざりするのだ。この物語は「わたしはわたしはと、ペンの尖が堰の口でもあるかのやうにわたしといふ溜り水が際限もなくあふれ出さうな気がする」と書きだされているが、その「わたし」とは「歩く一夜……」という凡句が照らしだした「わたし」にほかならない。「わたし」という主体は「臍」でも「空虚」でもなく、この句の中に姿を映していたのである。
「佳人」は格物致知、あるいは反身窮理の方法を小説において実現した最初の達成である。小説家石川淳はこの「叙述」(石川はなぜか「佳人」を小説と呼ぶことを避けている)の実践の中から誕生したといって差し支えない。分身、鏡、夢、言いちがえのテーマは石川が好んでたちかえるところであるが、それらはいずれも主体の裡なる秩序を映しだす半身のテーマの変奏であって、わが身にたちかえるための手妻なのだ。主体と理とはそれら半身を仲立ちにして照らしあい、自己として認識されるのである。自己は自己として独立して存在するわけではない。自己はいかなる意味でも実体ではなく、つねに他との関係においてしか存立しないのだから。石川はそのような自己の他律性を、朱熹とともに思考しているのである。
「理」と半身にともなわれた自己を考察するには、ラカンの鏡像段階の理論が手がかりになる。
ラカンは生後六ヶ月に達した幼児が鏡に映った自分の姿を「自己」と認めてびっくりし、大喜びしてこの像に固着する事実に注目し、鏡像段階の理論を提唱した。知られるように、生後間もない幼児には自己という観念はおろか、自他の区別もなく、自分の身体はもとより、呑みこんだ乳、排出した糞便、乳房に代表される母親の身体といった身の回りのあれこれがぐるぐると渦巻く混乱のただ中にいる。メラニー=クラインが示したように、幼児は寸断され四分五裂した身体感覚の中に投げこまれているのであり、それはちょうど「衣装」の主人公の不安に通ずるものがある。
わたしのやうな不器用者が著るものとしては、洋服が一番よいと云ふのは、和服で外を歩くと蛇のごとくうねり始めるにつれてくるくると胴がよぢれ、自然足がこちらを踏んで亡靈に後髮を引き廻される人のやうにきりきり舞をさせられた揚句、つひ街頭で裸になり首も手も足もばらばらに宙に飛び失せる惧れがあるからで、かうしてネクタイでぎゅつと頭を撃止め、革紐で腰の蝶番を緊めつけ、跳ね出さうとする足の指を靴の中に押しこんでおけばどうやら娑婆の人間らしい形を保つてゐられようと云ふもの、現に今、死の十二時過ぎのこの築地の渡し場の冷たい腰掛の上で河面を掠めて來る寒風に吹きさらしになつてゐるのは或る女を待ち合はせるためにほかならない。(「衣装」)
「わたし」は飛び散りそうな自己の統一を「衣装」によってかろうじて維持しているが、ラカンによれば、この服の原型は鏡に映じた自己像だという。生後六ヶ月から十八ヶ月の間の幼児は、鏡に映った自分の姿を見て大喜びするようになるというが、それはこの段階にまで発達した赤ん坊は、鏡像を自己の像と認める能力を獲得したからである。赤ん坊は自己が一つのまとまりをもった存在だとはじめて気づき、鏡の中の自己像に固着することで、自他未分の混沌を収給する端緒をつかむのである。鏡の中の自己像を核にして構成された原初的な自我は、鏡像が名前に、名前が「わたし」という一人称に交替するにつれ、ラカンが「大文字の他者」と呼んだ言語・「掟」・象徴的秩序の中に深くはまりこんでいき、恒常的な自我として構成されていくのである。ラカンはこの共同主観的な自我形成の運動を「図式L」と呼ぶ図によって示している(図1)。
この理論が決定的な重要性をもつのは、想像的関係と呼ばれる自我aと「小文字の他者a'」の関係(両者の同一性は主体の空想の中でしか保証されない)が、鏡の中の自分を発見して大喜びする幼児期の一段階をすぎたあとも、自我の基層に、終生存在しつづけるからである。自我は確固たる実体などではなく、「大文字の他者」(言語・「掟」・共同主観・象徴的秩序)が、非人称的な主体(エス)に疑似餌としてあたえた「小文字の他者a'」を仲立ちとして、いわば「小文字の他者a'」を半身とすることによって、その照り返しで浮かびあがってくるにすぎない。鏡像段階の発見とは、自我の幻想性とその根本的な不安定性の発見なのである。
「衣装」の「わたし」は服を奪われることで惑乱の極におちいるが、代わりにあたえられた菜葉服をまとうことで、鏡の前の赤ん坊そのままの喜びをあらわす。
全く黃昏の部屋の中に菜葉服を取り上げたいまのわたしは遊山に行く子供のやうに胸のときめきを抑へがたく、しかもその服から誂へたやうにぴつたりからだに合つたのみならず、ばらばらになりがちの首手足をもまづ繋ぎ止めてゐる賴もしさに「ああ」と叫びを發したのであるが、もはやわたしの「ああ」には沈欝の色の影もささず、これは歡喜に滿ちた金色の樂器の音であらうか、全身がぴかぴか光る喇叭になつたやうな浮かれごこちで、忽ちわたしは天井の低い室內からはちきれ、窮屈に露地の奥から迸しつて、かすかに潮の香の漂ふ街中へ飄々と飛び出してしまつたのだ。(「衣装」)
ラカンは図式Lを説明して、こう言っている。
人間がたまたま象徴的秩序について考えることになると、彼はまず自分の存在のなかに捉われてしまう。彼が自分の意識によって自分の存在を作りあげたという錯覚は、彼が主体としてこの秩序に入ることができたのは彼の同類(この場合、自己の鏡像)との想像的関係に特有の裂目を通してであるという事実に由来するのである。しかし、彼は言葉という根源的な通路をとおる以外にこのなかに入ることはできない。これはつまり、われわれがこれによって幼児の遊戯のなかに発生論的な契機を認め、しかも完全な形式では主体が絶対者としての「大文字の他者」に話しかけるたびに、言いかえるなら、それが主体を料理するのと同じ仕方によって、主体自身を無力にするような「大文字の他者」としての「大文字の他者」に呼びかけるたびにいつも新しく生まれてくるものと同じである(「「盗まれた手紙」のゼミナール」)
ラカンの図式Lは自我が幻想だということを語っているだけではない。自我の図の四隅の中の一隅にすぎないが、人間は「図の四隅に引っぱられているもの」であって、他の三項もまた自我同様、人間を構成する本質的な契機だということを示しているのである。わけても重要なのは「大文字の他者」と呼ばれる言語・「掟」・共同主観・象徴的秩序の機能である。幼児や分裂症患者の混沌たる身体感覚におびやかされた人称化以前の主体は、「大文字の他者」から自己同一化の対象をあたえられることによって、はじめて人称的な自己として構成されるからだ。佐々木孝次氏はラカンの原図を書きかえて、主体の位置に「気」を、「大文字の他者」の位置に父ならぬ「世間」をあてている。日本的情況にあっては、父の機能(禁止・去勢)をはたしているのは「世間」の眼だというのである。いずれも佐々木氏の創見である。われわれもまた佐々木氏にならって、ラカンの図式Lを書きかえてみることにしよう。図2は石川における「気」と「理」の関係を示したものである。この図は非人称的な「気」の主体が、「理」から「理」を象徴する半身をあたえられることによって、しかるべき「用」、「役」、「分」をわりつけられた自己として構成される経路を一挙に示している。さらに図3は「紫苑物語」を、図4は「普賢」を示したものである。
図自体の説明は必要あるまい。なぜこんな言わずもがなの図を作ったかといえば、半身というシニフィアンの運動をあぶりだすためである。宗賴の半身は歌から知の矢、殺の矢、魔の矢、千草、平太と移っていき、「普賢」の主人公ではクリスティヌ・ド・ピザン、ジャンヌ・ダルク、ユカリ、綱と転じていく。
重要なのは、この半身の運動には二つの段階があるということだ。すなわち、半身のみが交代して自己が変化しない段階と、半身の交代とともに自己が変化する段階である。宗賴でいえば、歌から知の矢への交代が前者にあたり、知の矢から殺の矢、殺の矢から魔の矢への交代が後者にあたる。また、「普賢」の「わたし」でいえば、クリスティヌ・ド・ピザン、ジャンヌ・ダルク、ユカリの間を右往左往している間は前者で、小説の最後で綱を救いだそうと心を決める段にいたって、ようやく自己があらためられる。
この二つの段階のちがいはなにに由来するのだろうか? 宗賴は歌の道を捨てて弓矢の道(知の矢)を選んだが、その動機は父の加えた朱筆にあった。二通り可能な言いまわしのうち、宗賴が迷いに迷った末これだと決めた言葉を、歌道を奉ずる家の長である父は彼が捨てたことばに直してしまった。直されてみると、捨てた表現の方がまさって見えなくもない。熟考に熟考を重ね、命がけで下した選択が、こうも簡単に迷いに引きもどされるとは、歌道はなんと曖昧な道だろう。そのようなものに生涯をかける値打ちがあるのか。そうだとしたら、歌の家の長とは畢竟「おちつきはらつた道化」ではないのか。それが自分にわりつけられた未来の顔なのか。
だが、自分が納得したどうかにかかわらず、先達の批評を受けいれる──古典主義とはそういうものだ。また、そうしてこそ、対象との自己満足的な一体感(ラカンが「想像的関係」と呼んだもの)を克服して、「掟」を内面化することができるのである。もし父の朱筆が気にいらないというのなら、朱筆を受けいれた上で、父以上の歌詠みになるべく精進すればよかっただろう。ちょうど、弓やの道において弓麻呂をしのごうとしたように。しかし、宗賴は歌を捨てた。実は捨てたのではない。逃げたのである。逃げたからこそ、彼は遠国の山野まで歌道の幻を引きずっていき、歌というシニフィアンに支配されつづけたのである。
「普賢」の「わたし」にも同じことがいえる。「わたし」は世のため人のための菩薩行と称してクリスティヌ・ド・ピザン伝の筆をすすめているが、なにやかやと思いは乱れて、原稿はさっぱりはかどらない。
……垂井茂市の身柄は喜劇役者の世話でともかく淺草の小屋へ、その間例のお組の病にからまる紛糾をのぞいてまづすらすら事がはこんだのは今こんな世間ばなしにあきあきしてゐるわたしにとつて何よりといふべく、これでやつと書きかけのオルレアン軍記について考へるひまができたわけであるが、早くも眼のまへに浮ぶのはジャンヌ・ダルクの顔、ユカリの顔、(ここで白狀しておくが、私の夢みるジャンヌ・ダルクの顔はいつもユカリの顔なのだ。)ああ、ユカリ。ユカリといへば……だが、何をいはう、タクシイはもう虎の門に著いて、あるビルディングの前にとまつてゐた。(「普賢」)
歌を清算せずに弓矢の道にはいった宗賴が歌の亡霊につきまとわれたように、ユカリへの思いにふんぎりをつけぬまま、海彼の巾幗詩人よ、聖女よといったところで筆は宙におどり、ユカリそっくりのジャンヌの顔を虚空になぞるほかはない。「わたし」はやがて要望の無惨にかわりはてたユカリと再会し、ようやくこう告白する。
今こそはつきり底を割つてしまへばそもそもわたしが心にもなく歷史の反故の中からクリスティヌ・ド・ピザンのやうな皺深き老女の殘骸をペン先にからげてみたのはジャンヌ・ダルクに引懸かりをつけよう魂膽であり、そのジャンヌ・ダルクとの結綠といふのがじつは噓のかたまりで、十年以來夢うつつに心を惱ませる姿を前に綿綿とかきくどかうとした癡情の沙汰にほかならず、それとてもつまりは肝腎のユカリの正體がもやもやと雲に包まれてゐたためであらうか、此の如き事情ではわたしの文章は初めから出來上る日のないことにきまつてゐたやうなもので、そえゆゑにこそ書かずにはゐられぬ羽目に落ちたのだといふたぐひの辯解は……(「普賢」)
「わたし」にとって書くとは自己愛的な循環の中で、半身の間のどうどうめぐりを繰りかえすことでしかなかった。結局、「わたし」はユカリに固着しつづけ、ユカリという半身に支配されつづけたのだ。同様に、「知の矢」の段階の宗賴も、歌の道を本当の意味では断念してはおらず、弓矢の道に入ってなお、歌という元のシニフィアンに支配されつづけていた。だが、「殺の矢」の段階にはいった宗賴は異なる。「知の矢」(「歌」)は「殺の矢」という新たな半身に完全に置き代わってしまい、宗賴はこの新たなシニフィアンが支配する世界に足を踏みこむことになるからだ。
支配的なシニフィアンの交代が起こるかどうか──ラカンはこの二通りの運動を、夫々「換喩」、「隠喩」として定式化している。たとえば、辞書で「巾幗」という語が「閨秀」という語を指さし、「閨秀」という語が「閨房」という語を指さすというような際限のないシニフィアンのたらいまわしを、ラカンは「換喩」の運動と呼ぶ。これに対し、「弓矢」という語が完全に「歌」に置き代わってしまい、「歌」ではなく「弓矢」という語が対象の意味を支配するようになることを、「隠喩」の運動と呼ぶ。この分割は、宗賴と「普賢」の「わたし」の場合にも適用可能だ。図で示せば、こうなる(図5)。
図中「母の欲望」とは、主体が根源的にかかえている欠如をあらわす。それが「
ここで対照として、「大津順吉」の場合を見よう。順吉は早く母を亡くし、祖母の手で育てられ、当然、祖母に強く固着している。その彼が教会で教えられた「妻にする決心のつかない女を決して戀するな」という格率にしたがって、二度、すこぶる不熱心な恋をする。第一部で登場する混血の少女と、第二部の主題となる下女の千代との恋である。不熱心だというのは、ともかくも駈けおちするとまで思いつめているはずの千代に対してすら、こういう煮えきらない態度でしか向かえないからである。
私はいつか、段々に千代を愛するやうになつて行つた。不機嫌な時に千代と話をすると、それが直ぐに直る事がよくあつたのである。(「大津順吉」)
結局、彼は千代を母代わり、祖母代わりにしていたにすぎない。千代のために責任をとる、家を出ると息まきながら、祖母に看護される時の「自分」と、千代を求める時の「自分」、さらに混血少女の前で気おくれする時の「自分」は、いずれも去勢を回避した「自分」であって、本質的に異なるところがないのだ。もし、母=祖母を断念した上で千代なり混血の少女なりに向かっていたなら、順吉は夫々しかるべき「自分」の形を得ていたかもしれない。だが、彼は彼女たちに対しては妙に醒めていて、そういうありうべき「自分」を「痴情に狂った猪武者」と感じたり、ハイカラすぎると感じてしまうのである。彼は畢竟、子供としての「自分」にしかリァリティを感じないである。裏返せば、母=祖母への固着はそれほど強固なのであって、「世間」の代表者ともいうべき友人の手紙に「だうしてもいちばん不幸なのはおばあさんだ……」とあるのに涙ぐみ、出奔を簡単にあきらめてしまうのも当然と言わなければならない。
順吉の後身が「和解」の小説家だとすれば、祖母の子供としての父を発見した時、「調和的気分」の端緒がえられたのも道理である。順吉を翻意させたのが父の家長としての権威ではなく(家長としての父に対しては、彼は意地になるだけだ)、祖母を引きあいにだした友人の手紙だったように、小説家と父との和解もまた祖母の前でなされるほかはないのだから。志賀はいかなる「掟」も、象徴的秩序も、すべて嘘としか見えないほど徹底して自己愛的な世界を描いたのだ。私小説は父との相克を追及するとしながら、その実、父性を徹底的に無視していたのである。
すでに見たように、石川の小説は宋学の思考をその根幹とするが、では、石川は「南総里見八犬傳」ばりの道学の絵解きを書いたのだろうか?
もちろん、「八犬傳」を単なる道学の絵解きと断ずることはできない。近年再評価が著しいように、馬琴は道学のあからさまなプロパガンダと見える結構を自他への口実にして、その実、倒錯した幻想を喜々としてくりひろげているからだ。馬琴の小説は、内容においては道学そのものだが、叙述の表層においては道学へのあからさまな離反を志向しているのである。
石川の小説は「八犬傳」のような意味で道学的ではないし、また反道学的でもない。馬琴は結果としてはどうであれ、執筆の動機としては仁義八行の徳目の宣揚を念願して八犬士を構想したはずである。「八犬傳」は儒教道徳を内容としようとした点において道学的であったが、結果的には、物類相関のグロテスクな空想を跳梁させた点において反道学的となった。
石川の小説はこの二点において異なる。石川的な小説が朱熹の体系に負っているのはその形式であって、仁がどうの義がどうのという内容においてではない。いや、むしろ、仁義道徳という徳目については拒否的ですらあって、登場人物にはことさら道家の言を語らせ、道学者流の道徳を批判していもいる。石川の小説は内容的には反道学的なのである。多くの評者が石川を道家の徒と早とちりするゆえんだが、そのことは石川的小説が形式においても反道学的であること、まして道家的であることを意味しない(註2)。
ここで注目したいのは、盛大介が展開する二つの道徳という説である。大介は生活を捨てても追及すべき目的とはなにかと訊かれて、「それは道徳です」と答えている。
「しかし、じつはいひやうがなかつたのでした。ぼくがまだそれを探りあてるに至らぬことはもちろん、第一はたしてそれは
道德 と呼ばれるべきものかどうか不明なのです。まだ名のない法則、人間がこれからわからうとする法則……今、ぼくは道德 といひました。あなたがそれを實名として理解してゐるものの呼稱を、ぼくはかの遠い法則の假名としてここに借用しました。あるひは、われわれの無名の法則とわれわれの有名の道德とは、紙一重の差かもしれません」(『白描』)
彼はさらに語をついで、「無名の法則」とはラプラスの「魔が秘蔵すると傳へられる玄妙の宇宙式」だと言っている。
一見すると、彼が批判する「有名の道徳」が既成の儒教道徳で、「無名の法則」が道徳を否定した道家流の天衣無縫の生き方と見えるかもしれない。だが、「われわれの無名の法則とわれわれの有名の道徳とは、紙一重の差かもしれません」とあるように、両者は決して対極のものとして対比されているわけではない。「無名の法則」もまた人間がしたがうべき法則であり、「道徳」であることに変わりはないからである。大介は「道徳」そのものを批判しているのではなく、「玄妙の宇宙式」を根底とする新たな「道徳」を立てるべきだと主張しているのである。
この主張の背景にあるのは、またしても朱熹の思考である。そもそも「法則」を「道徳」と同一視すること自体、きわめて道学的な発想と言わねばならないが、「玄妙の宇宙式」を「道徳」の根底にすべきだという定式はさらに道学的である。
先にふれたように、朱熹の体系にあっては「理」は、道家の説く「道」のような宇宙の法則であると同時に、礼楽にその最高の表現を見る人間社会の秩序であるとされた(「礼楽者天理之節文」「論語集注」)。「理」は自然的側面と社会的側面という二つの顔をもつ、二面的な存在なのだ。朱熹はこの「理」の二重性を統一するために、「所当然之則」、「所以然之故」という階層構造を提唱した。
天下の物にいたっては、すなわち、必ず各々そうである所以の原因(所以然之故)と、そのまさにそうであるべき所の規則(所當然之則)とがある。いわゆる理である。(「大學或問」)
朱熹の体系では、礼楽として確立された漢民族の伝統的な社会規範(「先聖之道」)と、森羅万象をつらぬく宇宙の法則とが「天理」の名のもとに統合されたが、この時用いられたのがまたしても「所以」の論理である。「気」の離合集散する根拠、「所以」として「理」という実体が想定されたように、現実の倫理規範(所当然之則)を規範たらしめる根拠、「所以」として、宇宙法則(所以然之故)が立てられたのだ。現象の根拠、未発の本体である「理」が、それ自体、已発の層(所当然)と未発の層(所以然)とを持つことになったのである。巧緻な思弁と言うほかはない。
大介の「有名の道徳」「無名の法則」という二重構造が、朱熹のいう「所当然之則」、「所以然之故」という「理」の二重性を踏まえることは見やすい。さらに「虹」では対照的な二人の主人公──小助と久太──を登場させて、久太に「有名の道徳」「無名の法則」の別を言わせている。
小助は三代つづいた絨毯問屋の当主で、人間の「生活の場」である絨毯を世界中すみずみにまで敷きひろげたいと念願している。彼が既成道徳、大介のいう「有名の道徳」を体現していることは明白だろう。これに対して、久太はいかにも石川ごのみの無頼漢である。彼は父を殺し、母を犯し、サギ、強盗、脅喝、誘拐とあらゆる悪徳をくりひろげ、浪費はしほうだい、念願するところは一夜の歓をつくす夜会で地上をくまなく覆うことだ。しかも、あると見えた莫大な財産も燃え残りの朽葉だけ、その住むところも、つかの間、空にゆらぎ立つ虹である。水平と垂直と──およそ共通点のない二人だが、久太は小助の妻の組子を奪い、夜会の出席者の前で公然と犯してしまう。
妻を犯された小助は、「生活の場」を暴力で踏みにじられたと憤るが、久太は組子は暴力で奪ったわけではない、不倫と見えるこの関係は、宇宙の法則に則ったものだと答える。
「かういふ關係は宇宙的な性質のものといへるでせう。したがつて、そこには必然に太陽のエネルギーがはたらいて來るでせう。」(「虹」)
それは大介のいう二つの道徳でも同じである。大介自身、はじめは「薄紙一枚」の差のつもりだったが、画家として表現をつきつめるにおよび、両者は危機的な分裂を露呈する。
かつて、ぼくは足の裏にふれてゐる薄紙の感觸と、地べたのそれとを、同時に具體的にかんじてゐました。薄紙に立ちつつ足はまだ地べたと綠がありました。ところが、突然その間の差が數億里になつたのです。ああ、何が紙一重であるか……ぼくは薄紙の上に
道德 とともに遥かに飛び去らうとしつつ、もう一人のぼくは無道德きはまる痴者として地べたに取り殘されました。(『白描』)
宇宙の法則(「無名の法則
」)というものはある。だが、その法則は人間などには洟もひっかけず、まして、「有名の道徳」に代わる条理を人にあたえてくれるわけでもないのだ。「有名の道徳」を捨てて、宇宙の法則につこうという者は、寄るべない「無道徳きはまる痴者」として、不条理のうちに生きるほかはない。だが、大介はこの「無道徳きはまる痴者」として振るまいつづけることに耐えられず、死を選んだ。久太も自ら選んだ虹を「人間のゐない土地」、「鑛物」と呼び、それが人間的秩序を超えた次元であることを強調する。石川にあっては「所当然の則」と「所以然の故」は一致しないのだ。なぜか?
この問いは、朱熹では、なぜ一致したのかと逆に考えた方が早い。朱熹が現にある人倫の秩序(「所当然の則」)の根底を、宇宙の法則(「所以然の故」)が支えていると考えることができたのは、歴史的な変革の時間を切り捨て、時間を永遠のくりかえしと見なしたからだ。朱熹の精緻をきわめた体系では、王朝の交代はあっても易姓革命にすぎず、現にある社会の秩序は宇宙の秩序に裏打ちされて、永遠につづくことになる。ちょうど水銀の川が循環し、宝玉の日月星辰が燃えるという始皇帝の地下宮殿のように。あるいは、観覧車の上からながめた巷のけしきのように。
ふたりを乗せて、觀覽車ははまはりはじめた。おもちやのやうな仕掛でも、それはともかく宙をまはつた。目の下に池が見え、町が見え、そこにむれつどふひとの黑いあたまが見えた。その黑いあたまの一つに荒貝がゐて、いつ破裂するか判らないダイナマイトをふところに、ここか、そこか、港のどこかに、機をねらつてひそんでゐるやうであつた。いづれ平板もこのおなじ巷の中にもどるといふ。またいつかはブラ半も出獄して來るだらう。いや、その出獄を待つまでもなく、ブラ半の代りはぢきにあらはれるだらう。リャク傳の代りならば、げんにくさるほどある。ばか丁寧にも、ゲタ哲の代りにさへ事は缺くまい。役者はいつも無數の代りをそろへて、何のことはない、いつも世は元のままではないか。ダイナマイトが破裂しないかぎり、その破裂がたつた一つだけで消えてしまふかぎり、世は元の杢阿弥だらう。巷のけしきはさしあたり太平樂をきはめてゐた。(『白頭吟』)
ダイナマイトが破裂しない限り、そしてそれがただの一発で終ってしまう限り「世は元のまま」で、歴史的な変革の時間は動きだしはしない。石川は真理の表徴を朱子学的な永遠の秩序──天理──の中にではなく、偶然と死にさらされた歴史的時間の中に見ているのである。
なぜそんなことになるのか? 朱熹は「所以」の論理によって、物事の根底まで考えた。現にある秩序の根底に、宇宙の永遠不変の秩序を見いだしさえした。しかし、それは根底までしか考えなかったということでもある。朱熹の思考は象徴的秩序、人間を人間たらしめる秩序の根底を見いだしたところで停止してしまったのである。では、朱熹が根底だとする「所以然の故」に「所以」の論理をつきつけたらどうなるか? 根底以前のもの──無底が黒々と口を開くにちがいない。
無底とは、たとえば、『荒魂』の佐太の出てきた穴である。「秩序に反して、鬼子は穴の底から這ひあがつて來た」といわれる佐太には、人倫秩序も言語も道徳ももとより一切およばない。外から見ればその姿は千変万化し、内から気を発すれば「やる」も「よこせ」もただ一種の気合ですむという。間引きされた嬰児である佐太は、鏡像段階もなにもなく、いわばむきだしで根源的な欠如状態をさらしているのである。象徴的秩序の側からいえば、佐太とは歩く特異点であり、生の連続にうがたれた底無しの穴なのである。
だが、『狂風記』のヒメも言うように、「死があればこそ生がある」。永遠不変の「理」にわりつけられた「気」、時間性も死への可能性もふくまない「気」は、生命的実体とは言い条、決して本源の生命ではありえない。まして、佐太のような「バケモノ」の発する気合とは別物である。佐太の気合を気合たらしめているものは、何か別物なのだ。
「缺陷。缺陷があればどうしたといふんだ。ひとはそこから花を咲かせるほか缺陷を處理するすべはないんだ。シモンズだかだれだか、だれでもいい、紙にぱつと花が咲くやうに書けといふ。豚になめられたやうに萬遍なく出來上がつてゐる人間にそんなみごとな藝當ができると思ふのか。抜目のない人間なんかこはくも何ともない。花の咲き出るやうなあなが眞黑にあいてゐる人間がこはいんだ。」(「普賢」)
「缺陷」、人間に「眞黒にあいたあな」からこそ、花は咲き出るのだという。もちろん、ひとたび咲き出た花は散って、枯れるほかはない。花とは有終的時間であり、死へと向かう時間なのだ。ここに語られているのは生命にはちがいないが、ただし死をかかえこんだ生命である。「気」と「理」という二つの実体で整序される以前の、死の可能性の中で反り身になって耐えている生命、死へ向かう時間そのものであるような生命が指さされているのである。それはまた、佐太や久太の「バケモノ」のような生命でもある。
このような本源的な生命からするなら、日常的な条理をわりつけられた生命は、明るく見えても見かけの明るさにすぎず、その正しさも見かけの正しさにすぎない。久太は小助の妻の組子を犯して歓喜の太陽の叫びをあげさせるが、小助がつめよると、こういなしている。
「罪。もし罪をさがすとしたら、それは暗いところに、不便なところにあるでせう。すなはちあなたの側の、見かけのあかるさの中にありさうですね。あなたが組子を抱いたといふことは、あるひは組子が罪を抱かされたといふことになるかも知れません。ぼくたちの結合に依つて、組子はあなたの力の閉鎖から脱け出して、一足とびにあかるいところに翔けあがつて來ました。さつき、あなたもさだめしお聞きになつたでせうが、組子はじつにみごとな歡喜のさけびをあげましたね。あれは太陽を讃へるうつくしい歌ですよ」(「虹」)
「力の閉鎖」とは単に小助の絨毯世界を評した言葉ではなく、朱熹の精緻な体系を評した言葉であるかもしれない。石川は朱熹の体系に、朱熹自身の「所以」の論理をつきつけることによって、「理」と「気」の秩序に亀裂を入れた。その亀裂は剥き出しになった死の可能性であるが、しかし、花という有終的な時間を咲き出させてもいる。「気」、あるいは「理」は、この有終的な時間にもとづけられて、はじめて「気」であり「理」でありうるのだ。
石川は朱熹がついに体系にふくめることのできなかった、生まれて死ぬという有終的な時間を、花の形で小説に導きいれた。虹に乗って去っていく久太を、石川は花とともに描いている。
「もしだれかがぼくの行方をきいたとしたら、ぼくといふ人間はそもそもこの地上に存在しなかつたのだと考へて下さい。」
とたんに、久太は虹に乗りうつつた。小助はそこに、ちらりと、額に角のあるこどもの顔を見た。コスモスの花がゆれた。太陽が照り海が照りかへすはげしい光の中に、コスモスの花は空いちめんにひろがつた。小助はくらくらとして目をつぶつた。そして、すぐ目をあけたときには、久太のすがたは見えず、虹は消えてゐた。(「虹」)
石川の小説が高度の思弁性にもかかわらず観念の絵解きで終らないのは、生まれて死ぬという具体的な時間を押えているからである。花の知慧とは咲いて散ることだ。語るべき思想をかかえて右往左往することは文字のけがれでしかない。問題は言葉をもって花の知慧を生ききることだ。石川の小説がつねに新たな生へのうながしであるのは、この知慧を身をもって生きているからなのである。