T.P.T.がソポクレスの「エレクトラ」を、芸術監督デビッド・ルヴォーの演出で上演した(於ベニサン・ピット)。
トロイ戦争から凱旋したギリシア軍の総帥アガメムノン王が、王妃とその愛人によって殺害され、十数年後、今度は遺児のオレステスが姉のエレクトラに助けられて実の母親を殺し、復讐をとげるというアトレウス家の血なまぐさい物語は、古代ギリシアでは、日本での忠臣蔵や本能寺の変と同じくらい親しまれていたらしく、これに題材をとった三大劇詩人、アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスの作品がすべて現存している。
最も古いアイスキュロスについては、復讐の後日譚をふくめたオレステス三部作がそっくり残っており、鈴木忠志の主宰するSCOTが「アトレウス家の悲劇」もしくは「王妃クリュタイメストラ」としてたびたび上演しているし、1990年にはアガメムノンが実の娘、イピゲネーイアを生贄に捧げる発端から、母殺しの罪を犯したオレステスが諸国を放浪した末に、実は神によって助けられていたイピゲネーイアと再会するまでを、現存作品をつぎあわせて延べ十時間の芝居に仕立てたカヴァンダーとバートンの「グリークス」が文学座によって上演されているから、日本の演劇ファンにはすでにおなじみの外題といってよかろう。
T.P.T.は一番奥の席からも俳優のかすかな表情の変化や細かい仕草が見てとれる小さな劇場を本拠にし、密室劇といっていいくらいキリキリ引きしぼった舞台をつくりだすので定評があるが、今回、エレクトラの佐藤オリエこそ絶叫芝居に近い演技をしていたものの、理詰めの言葉と言葉が鍔迫りあう濃厚な時間は、この劇団ならではのものだった。
特に王妃クリュタイメストラを演じた加藤治子はすばらしく、母親の犯した不貞と夫殺しの罪をアルゴスの女たちに訴えるエレクトラの主張をひっくりかえし、一瞬にせよ、あのような夫を殺したのは正義の裁きだったと信じさせる理知的で堂々とした反論は、この芝居の前半の山場をつくりあげた。また、性急に正義をもとめる姉のエレクトラに対し、現実的な女の知恵を諄々とさとす妹のクリソテミスの倉野章子も印象に残った。
だが、こうした台詞のある役者以上に強烈な印象を残したのは、終始、沈黙をつづけたミュケナイの女たち、すなわちコロスである。
ギリシア・ローマの古代劇には、コロスという近代劇の常識ではなんともとらえどころのない役が登場する。コロスはコーラスの元になった言葉で、「合唱隊」とか「唱歌隊」と訳されてきた。英語で「悲劇」を tragedyというが、この語はギリシア語の「山羊の合唱」trago-oideに由来するとされている。酒の神、ディオニュソスの祭の際、山羊の扮装をした合唱隊がささげた歌が悲劇の原型で、その後、独唱者と合唱隊のかけあいがおこなわれるようになり、しだいに演劇としての形を整えてきたものらしい。
コロスはこの山羊の合唱隊の名残りで、独唱者の発展形である俳優たちの芝居を同じ舞台の上で見守り、時には唱和し、時には筋の流れに介入するという重要な役割をはたしているが、近代劇にはこのようなものはない。そもそも近代劇、特にリアリズム演劇では登場人物以外の俳優が、舞台の上にいるということ自体考えにくいが、さらに内面性の問題がある。登場人物が自分自身の内面に向かってつぶやく独白や傍白という技法はキリスト教以降の産物で、ギリシア・ローマの古代劇では、内面へ向かうつぶやきなどは存在せず、コロスに向かっての訴えとなる。独白や傍白になれた近代の観客には、コロスに向かって切々と訴える古代劇は、不自然でわざとらしいものに映る。古代劇を今日、上演する上での最大の問題は、コロスをどうあつかうかにあったといっていい。
しかし、日本ではコロスは決してなじみのないものではない。能や歌舞伎は地謡いという形で、古代ギリシアの山羊の合唱隊にあたるものを保存してきたし、ちょっと突飛に聞こえるかもしれないが、TVのワイドショーに世間代表のような顔をして登場するコメンテーターという人種も、現代版コロスと言えなくもない。実際、日本人の生活感覚からいえば、虚空に向かってつぶやく独白や傍白の方が不自然でわざとらしいのだ。当然だろう。虚空の向うにはキリスト教の神がいる。独白や傍白は告解という習慣の演劇化なのである。「新劇調」や「赤毛もの」といったけなし言葉は、日本人の生活感覚が、西洋近代劇に対していだいた異和感の表現といっていいかもしれない。日本人には神の眼より、世間の眼の方が切実なのである。
事実、「新劇」を批判して登場した鈴木忠志や蜷川幸雄をはじめとする小劇場系の演劇は、能や歌舞伎の様式をとりいれることによって、コロスに代表される演劇の前近代的感覚をよみがえらせることに成功した。鈴木の『王妃クリュタイメストラ』や蜷川の「王女メディア」が世界的に高い評価を勝ちえたのは、西欧がはるか以前に失ってしまったギリシア・ローマの悲劇感覚を、日本の伝統演劇の様式を媒介にして、今日に甦らせたことにあるだろう。
だが、前近代性は両刃の剣である。夫の心変わりをなじるメディアとともに、血を吐きながら嘆き踊るコリントの女たち、あるいはクリュタイメストラの亡霊とともに、オレステスの母殺しの罪を言いたて、異形の風体で舞台の上をはいずりまわるエリニュスの女神たちは、見る者の心身を揺り動かし、強烈な演劇体験を迫る。『王女メディア』と『王妃クリュタイメストラ』は、間違いなく、今日、世界最高水準の舞台だが、あまりにも情緒的すぎないだろうか。
わたしがそう考えるのは、アイスキュロスの「アガメムノン」や、ソポクレスの「オイディプス王」には、コロスの情緒的ならざる面、すなわち裁判における陪審員のような面が見られるからだ。
T.P.T.の上演ではカットされていたが、ソポクレスの原作には次のような朗唱がある。
コロス もうそれ以上いうことはおやめなさいな、エレクトラ、どういうことが因で、今こんな目にあわねばならないか、あなたにはわからないの。こんなにもみじめに、あなたは自分で招いた不幸に落ちてゆくのよ。(松平千秋訳)
コロスは主人公の嘆きに同調し、心を高ぶらせるだけでなく、冷静な第三者となって、主人公のしたことを距離をおいて見つめてもいる。
T.P.T.の『エレクトラ』のコロスを演じた二人の女優は白ぬりにして、眉をほとんどつぶした顔で、つぎつぎと悲痛な自己主張をする登場人物たちに向けて沈欝な視線を送りつづける。彼女たちはなにも語らないが、その眼は、エレクトラだけでなく、クリュタイメストラも正しければクリソテミスも正しく、卑劣な簒奪者、アイギストスすら正しいといっているかのようだ。右へ左へとなげられる彼女たちの視線が織りなすものこそ、正しい者が宿命に強いられて過ちをおかすという古代ギリシアの悲劇観にほかなるまい。ここにはコロスのもう一つの可能性がある。