演劇ファイル  Jan - Jun 1998

1987年12月までの舞台へ
1988年 7月からの舞台へ
加藤弘一

*[01* 題 名<] ドレッサー
*[02* 劇 団<] 松竹
*[03* 場 所<] サンシャイン
*[04* 演 出<] エイアー,ロナルド
*[05* 戯 曲<] ハーウッド,ロナルド
*[05* 翻 訳<] 松岡和子
*[06  上演日<] 1988-01-17
*[09* 出 演<]三國連太郎
*[10*    <]加藤健一
*[11*    <]渡辺えり子
*[12*    <]後藤加代
 第二次大戦の空襲下のロンドンの場末の劇場で、地方回りの劇団がリア王を演ずるバックステージものだが、座長を三國、その妻を渡辺、付き人のノーマンを加藤が演ずる。アクの塊りのような役者をそろえているが、芝居としては第一級の傑作である。渡辺や加藤がこんなにいい役者だったとは思わなかった。多分、彼らにとっても、この何年にない出来だったのではないか。いつも場違いな名演をして主役を食ってしまう後藤加代も、今回は堅物の舞台監督として、渋く脇役している。
 三國の舞台を初めて見たが、この人は根っから明るい人だ。ドサ回りをつづけてきた一癖も二癖もある老優で、演ずるリア王なみにわがままで、多少世をすねているが、三國がやったことで根本的に明るくなった。空襲がつづき、物資のとぼしい戦時下のロンドンという設定で、じめっぽい感じは良くでているが、役者子供の軽さがあふれていて、人生の澱りのようなものはチラチラ見えるけれども、押しつけがましくならない。森繁がやったら、こうはいかない。
 ノーマンの加藤は座長の影でしかない男の屈折した支配欲を実にうまく見せている。わがままな座長を操縦できるのは自分だけだという一点で、彼は自分を支えていて、だからこそ、ドクターストップのかかった座長をなだめすかして、舞台に立たせてしまう。
 渡辺の座長夫人は醜女の深情けという感じで、なかなかいいけれども、本当は盛りの過ぎた美人女優がやった方が悲哀がくわわったかもしれない。
 回り舞台で楽屋と袖と舞台を連続して見せる趣向は成功していて、一幕の終わりの舞台がもりあがって、それまで斜に構えていた二枚目役者がノーマンの嵐の効果音の鳴らし方に業をにやし、バチを奪い取るシーンなど、迫力がある。
*[01* 題 名<] お気にめすまま
*[02* 劇 団<] 俳優座
*[03* 場 所<] 俳優座
*[04* 演 出<] 
*[05* 戯 曲<] シェイクスピァ
*[05* 翻 訳<] 小田島雄志
*[06  上演日<] 1988-01-18
*[09* 出 演<]堀越大史
*[10*    <]磯崎勉
 女形シェイクスピァの前評判で、場内満員。オカマ大好きの若い女の子でキャピキャピした客席に負けず、実に楽しい舞台だった。ロザリンドの堀越は「天つ……」のプレイ・ボーイ親王をやった人で、小柄かと思ったらかなりの長身、長い手足をしなわせた、とても優美で中性的な女形だった。従妹の王女の方は、俵まち風の金太郎顔で、ロザリンドと恋人の恋の語らいの間、ムスッとしてゲートボールを悪戯しているのだが、そのムスッとする仕方が少女マンガ的で面白かった。そういえば、ロザリンドも女形とかオカマいうベタついたものじゃなく、軽やかで少女マンガ的だ。もっとも、オードリーの方は水商売的毒々しさと太い声で、正統派オカマだったが。(もう一人、道化女形が出てくるが、これはひどい)
 歌あり、踊りあり、関西万才あり、円高のギャグありと大サービスだが、悪ノリしすぎの感がなくもない。ここまで崩さなくても十分面白いし、踊りなどくどいのだ。追放の公爵はスマートな威厳があって、舞台を引締めていた。彼をもっと強調して、ストレート・プレイの面を出していたら、もっと良かったと思うのだが。ひねくれた家来はひねくれ方がきれいではない。大団円の中の救われない部分は処理が難しいが。
 特筆すべきは、ピカピカ光る金属ポールと細い金属梯を林立させた装置。上げ下げして本数を変えることで、王宮になったり、アームズの森になったりするのだが、このハイテク感覚にあふれた装置で全体のスピード感や軽快さが引き立ったし、ロザリンドの恋の人工性ともあっている。オカマ風でなく、少女マンガ的清潔感の醸成にはこの装置の力も大きい。
*[01* 題 名<] 少年日記をカバンにつめて
*[02* 劇 団<]
*[03* 場 所<] 紀伊国屋
*[04* 演 出<] 長谷川康夫
*[05* 戯 曲<] 長谷川康夫
*[06  上演日<] 1988-01-20
*[09* 出 演<]風間杜夫
*[10*    <]平田満
*[11*    <]浅野かおり
*[12*    <]石丸謙次郎
*[13*    <]高野嗣郎
 風間と平田の5年ぶりの顔合せという。脇も作・演出もつか事務所出身の役者で、内容も同窓会的な芝居である。
 はじまりは高野がキャバレーの店長ののりでマイクを握り、その機関銃のような早口にあわせて、風間を主人公にした寸劇が次々とすごい速度で上演される(高級アングラ劇という感じで、めちゃくちゃおもしろい)。実はこれは座長の風間を引き立てるためだけに作られた芝居で、現実に戻ると、学生座員のボヤキ、座長のいびりという例のパターンになる。座長はあくまでずうずうしく、座員を搾取し、こきつかい、座員はブツクサいうものの、まったく頭が上がらない。風間に芝居に賭ける純粋さを見てしまったからだ。例によって例の如しだが、エネルギーが無駄なくピシッピシッと決る快感があって、昔よりもおもしろいくらいだ。
 この後、突然、十五年後に飛び、異色俳優として売れた平田と、そのマネージャーに成下がった風間の話になる。風間は立場が逆転したのに、相変らずずうずうしく、平田を搾取し、こきつかっている。もちろん、こんな関係が続いているには、二人の間に隠微な愛憎ないまぜの関係があるからなのだが、泥臭いぐちゃぐちゃしたいびりあいがはじまろうとする瞬間、浅野かおりというとりたて(!)の新人女優が、二人の間に平田の内弟子として現れ、寸前で救っている。
 浅野は南野陽子を狂暴にした感じの子で、声量も少なく、身ごなしも硬く、未熟である。だが、少女の容赦のなさが絶妙の香辛料になって、中年男優二人の腐敗を食いとめている。この芝居が単なる同窓会で終わらなかったのは、彼女の存在があったからだ。彼女の潔癖さによって、男たちに潜む少年の心を引出すあたり、長谷川はよくわかっている。
 つかはこのような少年の心は主題にしたことがなかった。彼はもっと屈折していて、少年の心を歌い上げる気にはなれなかったのだろう。その意味で、この芝居は毒がないし、大人の余裕できれいにまとめてみせたといえなくはないが、こういう形の同窓会もいいものだ。
 客席は若い女の子ばっかり。かつて客席を埋めた女の子の下の世代で、TVでしか風間や平田を知らないという感じだった。
*[01* 題 名<] グレンギャリー・グレングロス
*[02* 劇 団<] 文学座
*[03* 場 所<] パルコ
*[04* 演 出<] 江守徹
*[05* 戯 曲<] 
*[05* 翻 訳<] 江守徹
*[06  上演日<] 1988-02-15
*[09* 出 演<]北村和夫
*[11*    <]塩島昭彦
*[12*    <]小林勝也
*[13*    <]大出俊
 男だけ、それもセールスマンたちの殺伐たる世界で、荒っぽい言葉が飛び交うが、それがめっぽうおもしろい。この悪口雑言の応酬、円の「練金術師」に勝るとも劣らぬ爽快感だ。落ち目の老セールスマンが、成績を上げるために、良客の名簿を盗みに自分の事務所に泥棒に入るという、やり切れない話なのだが、スピード感とメリハリのある演出で、颯爽とした舞台になった。まさにアメリカを感じさせるのだ。
 七人の男たちがいい。みんな一癖も二癖もある、うさんくささの塊のような連中なのに、エネルギッシュで、愛敬があり、これならお客がだまされるのも無理はないと納得できる。北村と小林が抜群にいい。北村は犯人の役だけに、一歩間違えれば泣きの芝居になってしまうところを、修羅場をくぐりぬけてきた男の貫禄で押えこんでみせた。こういうしぶとさは、現実には困ったものだが、芝居としては面白い。大出のホモの事務係も、ホモの特異性を爬虫類的皮膚感覚で表現していて、その冷酷さにも説得力がある。ガラスで仕切られた一画に陣取っているわけだが、この人のおかげで、アメリカのセールス会社の雰囲気がよくわかった。最後に登場する刑事役の塩島は、今回はコミカルなところをまったく出さず、よく引締めていた。
 「練金術師」と較べたが、あっちが乾いているとしたら、こちらは濡れており、江守の芝居だなと思わせる。江守独特のヌルッとした感触が全編にあり、それがこくにもなっていれば、男の色気にもなっている。こういう芝居は文学座でしか見られない。
*[01* 題 名<] 桜の園
*[02* 劇 団<] 劇場プロデュース
*[03* 場 所<] 俳優座
*[04* 演 出<] 
*[05* 戯 曲<] チェーホフ
*[06  上演日<] 1988-02-19
*[09* 出 演<]岩崎加根子
*[10*    <]豊川潤
*[11*    <]高木均
 ガラガラだったこともあってか、舞台も低調。前日に申こんで、4列目ほぼ中央に座れたのだが、舞台の狭さ、役者のやつれ具合がわかってしまって、まいった。
 劇場の企画なのでおもしろそうな役者もでているが、こうさえない舞台だと、うだつの上がらない中年俳優のチャリティを見てるみたいで、やりきれない。ワーリャがオタフク顔の小母さんだったり、家庭教師がワハハ本舗の柴田そっくりのオバさんだったり、何ともうっとうしい。中年俳優総出演で、若者も老人もみんな同じ年代の役者がやっている。それが悪いとはいわない。しかし、澱んでいるのだ。
 岩崎のラネーフカヤは三回目か四回目かになるそうだが、水商売上がりという感じ。ボリボリ首筋を掻いたりする仕草やキョロキョロ見回す仕草が妙に生々しい。デカダンスを強調したということだが、生命力まで低下した印象を受ける。
 さすがに終幕はまとまって、悪い夢が醒めたという終わり方になったが、疲れた。豊川の大学生はタモリのように見えた。高木均の借金小父さんはなかなかいい。
*[01* 題 名<] クラウド9
*[02* 劇 団<] パルコ
*[03* 場 所<] Part3
*[04* 演 出<] 木野花
*[05* 戯 曲<] 
*[05* 翻 訳<] 松岡洋子
*[06  上演日<] 1988-02-23
*[09* 出 演<]久世龍之介
*[10*    <]勝村政信
*[11*    <]左時枝
*[12*    <]戸川純
 第一幕はひどかった。ベティの勝村政信が生硬なのだ。美形という点では上かもしれないが、動作がロボット的で、しなを作っても気持ち悪くさえない(気持ち悪さがなければ、可愛らしさも生まれない)。左時枝は家庭教師とベティの母を器用に演じ分けるが、器用なだけで魅力はない。エドワードの戸川純は巧いが、はじめから変な人なので、ハリーの慰みものになっているとわかっても、驚きはない。江波杏子のリンダ夫人はもろ大根。久世のクライブだけはまともだったが、暗転の間に登場人物が走り回る時も「青い鳥」版のあの軽やかな楽しさは生まれず、あまりの退屈さに帰ろうかと思ったほどだ。
 ところが、二幕で見違えるくらいよくなった。とりわけ、左時枝のウ゛ィク。まさに若い母で、娘々しさと女学生の生まじめさが残り、可憐で、はにかんだ表情が本当にかわいい。リンに転じた戸川純もいいし、ジェリーの勝村も今度は決ってる。「青い鳥」版の二幕が、一幕のアブノーマル・パーティの延長だったのに対し、こちらはシリアスな人生劇になっていて、台詞劇として見ごたえがある。こんなに深い台詞だったのかと思うことが何度もあった。やはり木野花はえらい! 芸術的理由による脱退だったわけだ。
 もっとも、江波杏子は浮きっぱなしだったし、一幕の人物と交錯するシーンでは芝居が失速してしまう。衣裳(今回はレースを使わず、厚ぼったいドレープ)のせいもあるのかもしれないが、違いを強調しょうとして演出に余裕がなかったからなのか、あの夢のようにあえかな雰囲気はついに生まれなかった。
*[01* 題 名<] 欲望という名の市電
*[02* 劇 団<] 東宝
*[03* 場 所<] 帝劇
*[04* 演 出<] 蜷川幸雄
*[05* 戯 曲<] ウィリアムズ,テネシー
*[06  上演日<] 1988-03-03
*[09* 出 演<]浅丘ルリ子
*[10*    <]隆大介
*[11*    <]佳那晃子
 舞台を大正期の東京に置き換えてのテネシー・ウィリアムズ。ブランチが雪子で、ステラがきらら、その夫のポーランド人が朝鮮人の金島。浅丘に大正ロマンチシズムの風俗の中を歩かせるための工夫だろうが、案外あっている。あんな大きな浴室つきのアパートといったら、同潤会アパートになってしまうが、内部とか界隈のすさみ方がいかにも怪しげで、わくわくしてくるのだ。赤毛ものにすると埋れてしまうニユーオーリンズの異界性や、ポーランド人のマイノリティ性がはっきり出てきただけでも、この設定は成功だろう。
 しかし、芝居自体はあまりよくなかった。幕を開けて日が浅いせいか、台詞と台詞がうまく噛みあっていないのだ。佳那晃子は初舞台にしてはうまいが、浅丘と二人だけの場面になると、受けきれていない。浅丘の女形的な幻想美と隆の筋肉モリモリもすれちがっている。隙間風があちこちで吹きすぎるのだ。きちんと切符を買うべきだった。
 ポーランド人を「半島者」にする設定で気がついたのだが、「私生活のない女」や「マリアの恋人」も徴つきのマイノリティ社会を舞台にしていたわけだ。ニュアンスがようやくわかった。
*[01* 題 名<] さすらいのジェニー
*[02* 劇 団<] 唐組
*[03* 場 所<] 下町唐座
*[04* 演 出<] 唐十郎
*[05* 戯 曲<] 唐十郎
*[06  上演日<] 1988-04-19
*[09* 出 演<]緑魔子
*[10*    <]唐十郎
*[11*    <]石橋蓮司
*[12*    <]柄本明
 水を盛大に跳ね飛ばし、唐十郎出ずっぱり、サービス満点の第一幕だが、にぎやかなだけ……という印象は否めない。女の子たちには大受けだが。こんなものかと思っていたら、二幕で持直した。緑魔子が素晴らしいのだ。喉を痛めて(動きが少ないのに、二度も水をくぐる!)、歌など苦しいのに、はかなげな美少女光線を全身から放射して、劇場を消え去る幻の切なさで満たし、一人で舞台を立直らせてしまった。謎々合戦やモクモク・ジュースの口上では、凛々しい少年の口調になり、こんな可憐さもこの人は持っていたのだと嬉しくなった。本当はいろんな引出しをそなえた女優だったのだ。
 葬り去られたチクロの復権と失われた夢をたどたどしく訴える第三幕は絶品だった。幕切れ、舞台奥の壁が開いて、真白な衣裳の彼女が隅田川の堤に続く草地を、覚束ない足取りで、どこまでもどこまでも去って行くのだが、ちょっとこの世のものとも思われない美しさだった。うかつにも涙がこみあげてきてしまった。カーテン・コールでも、美少女光線がキラキラして、まぶしかった。桟敷席の四列目で(水と唾をたっぷり浴びた!)、やつれがはっきり見えたのに、なんてきれいなんだろうと、帰る間中幸せな気分が続く。
 ワタナベ・ジュースの素にこだわる「ワタナベさん」こと石橋蓮司は、受けの芝居を確実にこなして、緑魔子の名演を支えていた。役者としての成熟だ。唐はいかにも嬉しそうで、微笑ましいくらいだが、やはり一度失った毒は甦るはずもなかった。猫から人間になったと思いこんでいる浮浪者と言う役で、ジェニーを力づけるのだが、今さら悪役は出来ないだろう。今回の悪役は柄本明で、人工舌を持った食品検査官にしてドラ猫デンプシーを演じたが、変な人としては適役でも、悪役、まして三幕のヌンチャクを振り回すドラ猫としては役不足だった。麿赤児を迎えて追加公演をやるというから、それに期待しょう。
 安藤達男の傘構造の建築は、周囲の竹矢来とあいまって本当に番傘で、中に入るとスカスカ。とぼけた味がある。パイプやらボルトやらがむきだしなのに、少しもメカニックではない。
*[01* 題 名<] もーいいかい・まーだだよ
*[02* 劇 団<] 
*[03* 場 所<] ステ−ジ円
*[04* 演 出<] 岸田良二
*[05* 戯 曲<] 別役実
*[06  上演日<] 1988-04-23
*[09* 出 演<]中村伸郎
*[10*    <]岸田今日子
*[11*    <]橋爪功
*[12*    <]三谷昇
*[13*    <]高木均
 「窓の向うに港が見える」と同じような廃虚と化した洋館で暮らす一家の話だが、同朋間の葛藤ではなく、父子の葛藤をテ−マにしている。別役版「父帰る」だ。
 30年ぶりに帰った父親を、高木、岸田、三橋の三兄弟は何事もなかったかのように迎え、果てしなく繰り返してきた鬼ごっこをつづける。鬼を見つけた時の感動(そんなものはとっくにすりきれているが)もなく。あまりのさりげなさに、心配してついて来た男の方が戸惑う。この不条理な家の中にすらりと立つ中村のたたずまいがいい。不条理の美としか言いようがない。ラストの一人テ−ブルに座る中村の冷え冷えとした姿も決っている。一幅の絵だ。
 抑制した演出で、円ならではの親密な雰囲気を生かした、目のつんだ舞台に仕上がっている。後半の奇怪的な家族愛があらわになっていく条りでも、大袈裟にならずポ−カ−・フェ−スで押し通す。これはこれでみごとなのだが、線が細いという印象も否めない。美しいけれども、骨董品的美しさではなかいかと思うのだ。
 とはいえ、宇野重吉、小沢栄太郎、勘三郎と訃報のつづく中、中村伸郎が背筋のシャンとした芝居を見せてくれたことはうれしい。声も張りがあった。
*[01* 題 名<] 羅因伝説
*[02* 劇 団<] 松竹
*[03* 場 所<] 新橋演舞場
*[04* 演 出<] 
*[05* 戯 曲<] 
*[06  上演日<] 1988-05-17
*[09* 出 演<]片岡孝夫
*[10*    <]大地真央
*[11*    <]金田龍之介
 オンデ−ヌの翻案で、「羅因」とはライン川のことだった。大地真央がラインの源流に住む水魔野女王ミクリマ姫、孝夫が遍歴の騎士桔梗之介。戦国風俗を借りたおとぎ話で、あまりお金をかけていない舞台装置でザ−とらしいスペクタクルを見せてくれてしまう。チャチといえばチャチなのだが、不思議に腹は立たない。こくが無いかわり、嫌味も無いからか。アメリカ人の書いたファンタジ−めいた軽さがあり、ところどころに見せ場や、いいセリフがあって、結構楽しめてしまう。
 大地真央は第一幕の水魔の世界がいい。かろやかで、おおらかで、役がどうこうではなく、キャラクタ−で納得させてしまう。そのかわり、人間界の場面では、ミクリマそのもののようにションボリして、中だるみの一因となっている。もっとも、いじめられても恨みがましくならないのはさすがだが。佳那晃子も、いやな女の役を嫌味にならないでつとめている(これも軽さのおかげだ)。孝夫も大詰め(ミクリが命と名誉を捨ててまで彼を救おうとする)で見えを切り、ちゃんと芝居をしめる。達者な役者と大人の演出家に恵まれたにしろ、結構うまい台本だなと思う(たしか、コンテストの入賞作だ)。
 それにしても、あらためてに蜷川幸男はすごいと思った。きらびやかな戦国衣裳だけでは、この程度の芝居しか生まれないからだ。
*[01* 題 名<] さすらいのジェニー
*[02* 劇 団<] 唐組
*[03* 場 所<] 下町唐座
*[04* 演 出<] 唐十郎
*[05* 戯 曲<] 唐十郎
*[06  上演日<] 1988-05-20
*[09* 出 演<]緑魔子
*[10*    <]唐十郎
*[11*    <]石橋蓮司
*[12*    <]麿赤児
 麿赤児を引張り出したというので、追加公演に行った。
 確かに千両役者だ。坊主頭に白塗りと言う舞踏スタイルだが、顔の造作が写楽絵なみに派手で、怪物的な愛敬がある。画一的かつ無表情な舞踏顔にならないのだけでも凄い。アングラ界の団十郎だ。この存在感で人口舌を口に含み、モガモガやるのだから、笑ってしまった。柄本明には大きすぎた役だが、麿赤児には小指でひねるようなものだ。今は可愛らしさが目立つが、状況劇場当時はどんなだったのだろう。
 もっとも、芝居自体は盛り上がりに欠けた。若い役者たちは着実にうまくなっているが、唐と緑魔子に疲れが目立つのだ。あれだけ水を浴び続けるのだから、大変だと思う。緑魔子は歌はちゃんと歌えていたが、台詞が激してくると声がかすれ、苦しそうだった。前回のような生彩がなく、カーテン・コールでホッとしているように見えた。
 分析的に見られたおかげで、緑魔子のポイントは歩き方だと気がついた。軽やかな颯爽とした少年の歩調。ヨタヨタ体を左右に揺らしながら歩くロボットの歩調。コソコソ忍び歩く猫の歩調。etc.普通の歩き方は決してしないのだ。そして、足取りのバリエーションがそのまま声のバリエーションに繋がっている。声と歩調の一体性が彼女の芝居の秘密だったのだ。
*[01* 題 名<] 作者を探す六人の登場人物
*[02* 劇 団<] 文学座
*[03* 場 所<] 文学座アトリエ
*[04* 演 出<] 鵜山仁
*[05* 戯 曲<] ピランデッロ
*[05* 翻 訳<] 鵜山仁
*[06  上演日<] 1988-06-01
*[09* 出 演<]金内喜久夫
*[10*    <]古坂るみ子
*[11*    <]清水幹雄
*[12*    <]松下砂稚子
*[13*    <]笠松長麿
*[14*    <]荒木道子
 前から気になっていた作品を初めて見た。劇中劇というより、裁判劇に近い印象を受けた。作者や実在のモデルの見ている前で稽古をするのだってうっとうしいのに、登場人物そのものが稽古場に押しかけて来たのだから、迷惑としかいいようがあるまい。しかも、作者が投げた話を上演してくれと言うのだから、そんな話に乗る演出家も演出家である。当然、演劇とは何か、芸術とは何かが問われることになるが、抽象論になりがちな議論が、作者の投出したスト−リイの謎解きとないまぜになって展開され、しかも、その謎は、ごく一般の市井人である「登場人物」の厳粛な人生そのものにからまったものなので、きわめて生々しく、かつ切実なものとなる。
 「父親」の金内喜久夫は特にいい。いかにも小心で、実直そうな中年男が匹夫の勇というか、追詰められたギリギリの所で芸術に異義を申立て、議論を執拗に仕掛けていくさまは、迫力があり、感動的である。彼に犯される義理の娘の古坂は、やや一本調子ながら、家族を、そして劇団員たちを追詰めて行く。女の弱さと刺し違えるという気迫が感じられる。
 これはもう知的遊戯ではない。理知的だが、野趣があり、フォ−クロア性が指摘されるのもわかる。噂をすると出てくるよといっておいて、本当に荒木のマダムが扉をあけて出てくるシーンはうまい。外の本当の緑がきいている。L型のアトリエの舞台でやったのは正解だが、開演前、幕間と裏方にわざとらしく照明を直させるのはくどい。演出家が軽薄そうなのはいいとして、「俳優」役に「登場人物」よりよほど格下の役者を当てたのは残念だ。下手に見せているのではなく、本当に下手なのが一目瞭然だからだ。
 ラスト、舞台の上の人形と、窓(アトリエの壁の胸の高さまでの)の下の「登場人物」を対照させたのはおもしろいが、雨やマチネの時はどうなるのだろう。
*[01* 題 名<] 第二次大戦のシュベイク
*[02* 劇 団<] 民藝
*[03* 場 所<] サンシャイン
*[04* 演 出<] 渡辺浩子
*[05* 戯 曲<] ブレヒト
*[05* 翻 訳<] 渡辺浩子
*[06  上演日<] 1988-06-02
*[09* 出 演<]大滝秀治
*[10*    <]順みつき
*[11*    <]伊藤孝雄
*[12*    <]鈴木智
*[13*    <]里居正美
*[14*    <]山本哲也
 何と民芸初のブレヒトだそうだ。党派色や理論色が少なく、最もフォ−クロア的でボ−ドビル的なこの芝居を選んだ意欲は立派だと思う。しかし、出来は……。
 大滝のシュベイクが苦しいのだ。大滝のとぼけた味は、合いそうで合わない。軽演劇のテンポに乗れなかたことも大きいが、シュベイクのきつい台詞が大滝の落語的持味にそぐわないこともある。おもしろい台詞はたくさんあったのだが、笑いは不発に終わった。もともとシュベイクは、小国ならではの屈折を含んだ一筋縄ではいかないキャラクタ−だが、この芝居では、特にナチとわたりあう前半、ひねった言い方が多いのだ。相棒で食いしん坊のバロウンは伊藤孝雄でうまくいっていたのだが。終わりの方のロシアの農婦との会話や、肉を食べて満足しているバロウンを空想する場面がかろうじて良かった。大らかさや農民の生命力が前面に出た部分だからだろう。
 これに対して、さかずき屋の女将コペカの順みつきは最高だった。アイスナ−作曲のオリジナルのソングをいかにも小粋に唄い上げ、きっぷも良ければ肚も据わったいい女を熱演し、ほれぼれした。母性だけではなく、潔癖さ、りりしさを出すことが出来たのは、かのじょだからこそだ。この芝居は彼女によって救われたといっていい。下町を意識してか、ちょっと森光子風になったが、宝塚と新劇の差を感じさせることなく、中心になっていたのはみごとである(彼女の”キャバレ−”を見ておくのだった)。
 幕間狂言風にヒトラ−が出て来るが、唄がソングらしくないので、感心しない。民芸にはちょっと苦しい芝居だった。
*[01* 題 名<] ここに弟あり
*[02* 劇 団<] 木山事務所
*[03* 場 所<] 俳優座
*[04* 演 出<] 末木利文
*[05* 戯 曲<] 岸田國士
*[06  上演日<] 1988-06-04
*[09* 出 演<]林次樹
*[10*    <]水野ゆふ
*[11*    <]本田次布
 絶品。頼りない音楽家志望の青年のところへ、親代わりの田舎の兄が様子を見に来る。内証で同棲している青年は大慌て。娘の両親は大反対なのに、ここで兄に見捨てられたら大変だという、例によって例のごとしの話だが、三人の腹芸を軽妙に描いて、何ともいえぬおかしみがある。もともと松竹新喜劇みたいな話ではあるが、演技のこなれ工合も、三人の息の合い方も、いい意味で松竹新喜劇に迫っている。
 林は兄に頭の上がらぬ虚勢を張るだけの青年を、愛すべき男として好演したし、水野はまた一段と瑞々しくなった声で、はねっかえりだが、根は素直な娘を演じた。
 特筆すべきは兄役の本田で、かなり過保護的だが、筋も通せば話もわかる、ちょび髭を生やした村の収入役を余裕たっぷり、ユ-モアたっぷりに名演した。この芝居が松竹新喜劇と違うのは、心理分析の鋭さもさることながら、この兄の若い家父長としての風格のゆえである。彼は音楽はわからないと言いながらも、弟を理解しようとし、夢を託し、娘との結婚も最後には認めている。昔の田舎にはこういう知識人がいたわけだ。知識人を好意的に描くというのは、松竹新喜劇のよくしないことである。主人公の危なっかしさ(同時に上演した”犬は鎖に繋ぐべからず”に通じるインテリへのシニカルな目)だけでなく、こういう江戸時代以来の好学の士に注目したところに、岸田の芝居が単なる外国かぶれの無いものねだりではない所以があったのだ。この芝居で、ようやく岸田の骨格がわかったような気がする。
 台詞も実に丁寧で自然だし、林の背を丸めた股火鉢をはじめとして、懐かしい仕草がふんだんに出て来る。大正文化の洗練美を堪能した。岸田の静劇はチェ−ホフかぶれなんかじゃなく、別役につながる「たたずまいの演劇」の源流だったのだ。これは岸田戯曲連続上演の一つの到達点といっていい。
*[01* 題 名<] 犬は鎖に繋ぐべからず
*[02* 劇 団<] 木山事務所
*[03* 場 所<] 俳優座
*[04* 演 出<] 末木利文
*[05* 戯 曲<] 岸田國士
*[06  上演日<] 1988-06-04
*[09* 出 演<]村上博
*[10*    <]鶉野樹理
*[11*    <]林昭夫
*[12*    <]末木三四郎
 英語教師今里念吉一家の飼犬が迷惑をかけて歩いたおかげでテンヤワンヤ。近くに住む失業中の男(林昭夫)がいらぬお節介をして、”近隣平和会議”なんて会合を開いたものだから、近所中を巻きこんでの大騒動になる。岸田戯曲には珍しく出演者が25人も出るが、中心は今里一家と失業者の四人で、あとはワイワイ組。失業者の林と、今里の村上がうまい。村上は人はいいが、神経質そうなインテリを嫌味なく好演していて、好感がもてる。
 残念なのは、妻役の鶉野。サバサバした感じはよく出ているが、山の手言葉がもう一つ板につかず、仕草も美しくない。近所の人との腹芸の芝居も感じがでない。彼女は女中役の方が合うのではないか。そのほかの人は可も無く、不可もなし。まあ、一応まとまりはあり、もともとゴチャゴチャした芝居なのだから、これでよしとすべきだろう。
*[01* 題 名<] 夢夢しい女たち
*[02* 劇 団<] 文学座
*[03* 場 所<] 紀伊国屋
*[04* 演 出<] 加藤新吉
*[05* 戯 曲<] 矢代静一
*[06  上演日<] 1988-06-21
*[09* 出 演<]平淑恵
*[10*    <]大出俊
*[11*    <]渡辺徹
*[12*    <]角野卓造
*[13*    <]本山可久子
*[14*    <]金内喜久夫
 幕末の酌婦お毬、明治の芸者於梅(明治一代女のモデル)、現代の女美帆という三人の薄幸の女をヒロインにしたオムニバス(祖母と孫娘という糸で結ばれている)。大正琴の嫋々たる調べにのせて、平淑恵演ずる苦界の女とウブな男の純愛とくれば、もう矢代静一の世界だ。低い衝立で仕切った装置で、場面転換のたびにガラガラと大きな音を立てて簡易回り舞台が動くのは御愛敬。背中合せの状況というほど舞台が一変するわけではないが、表裏の二面性という感覚は生きていると思う。すべての場面を通して月が中空にかかっているが、「父性」の象徴(パンフの石澤氏)と言い切っていいかどうかはともかく(レベッカの「ムーン」を連想した)、常に見守ってくれる存在を目に見えるかたちで示したいという意図は十分伝わって来る。
 第一話は店の主人の一人娘の婿にという話のある恋人のために、自分に自分で愛想づかしの手紙を書いて姿を消す女の話。男は婿の話を断り、小田原で夜鷹に身を落としている女を見つけ、結ばれる。冷血漢の役の多かった大出が実直な手代を好演している。その親友の金内喜久夫ははまり役で、彼に当てて書いたのだろう。
 第二話、十六年の監獄暮らしの末、出獄した於梅が自分で自分の役を演じて大当りをとっている芝居小屋に、事情を知らぬ法科の学生が「於梅」のために抗議に来る。袴に学生帽の渡辺徹は相撲とりのように太っていて、「食がすすみませんので」と刺身を遠慮する場面では客席がわいた。これも当てて書いた台詞だろう。純愛は純愛でも、男の方は自分を庇うところがあり(ずっと偽名を使うなど)、その小心さと要領の良さを渡辺はなかなかうまく出している。結局、彼は出来た子供を自分で引取り、一生独身を通すのだが、そう息子が於梅の墓前で報告しても、小心さと要領の良さの印象が強くて、ちぐはぐに感じた。於梅の力になる元スリのお蝶をやった本山は粋筋の感じを出していて、すごく良い。
 第三話、出世した劇作家と落ちぶれたかつての恋人の再会。演劇青年の格好をした角野はとても自然で、これが普段の彼だなと思った。三話を通じて、平は色っぽくなったなとは思うが、初々しさが薄れたような印象も受けた。艶っぽさが貫禄になるところまではいっていない、ということなのかもしれない。
*[01* 題 名<] 夏の場所
*[02* 劇 団<] 
*[03* 場 所<] ステージ円
*[04* 演 出<] 前川錬一
*[05* 戯 曲<] 太田省吾
*[06  上演日<] 1988-06-26
*[09* 出 演<]中村伸郎
*[10*    <]岸田今日子
*[11*    <]橋爪功
*[12*    <]安江ひろみ
*[13*    <]野口早苗
 真っ黒な舞台にフランス窓。左に椅子。右に病院の長椅子。暗転もせずに、ネグリジェの岸田今日子が下手から現れる。ざわめいていた場内が不意にしずまる。岸田は左の椅子の上にあがり、膝を抱え、おびえた目でそこここを凝視し、苦悶の表情に移る。そして、水の中でのようゆっくりもがく。
 例の無言劇だなと思っていると、看護婦の押す車椅子に乗った娘があらわれ、母親の愛情の押売をする看護婦に抱きつかれて、やはり苦悶し、もだえる。橋爪も長期入院患者の着古したパジャマであらわれ、岸田と抱きあって情事のまねごとをはじめる。汗くさい前衛劇か……と心配になる。
 だが、中村の登場で一気に変った。リンゲルのスタンドを右手で押しながら出て来たかと思うと、絡みあう二人にポーズをつけ、まるでそれが当然であるかのように、自分の青春の思い出を再現させていく。「こんなもんかな」とか「いいんだよ」といった台詞一つ一つに、超然としたというか、飄々としたというか、いぶし銀の光があって、嘆息と同時に笑ってしまう。澱んだ空気が一気に吹払われ、こちらの肩の力もスーと抜ける。岸田と橋爪も急に生き生きして来て、軽快なフットワークを取り戻す。インディアンの親子の場面など、三人の息があって、もう至芸といっていい。
 別に大げさな振りはしない。ただ、三人が左手を挙げて挨拶するだけで、リンゲルのスタンドは槍に変じ、岸田はちょっとそっくり返ると妊婦になってしまう(このさりげなさは絶対に必要だ)。西部劇で台詞一つもなく死んでいくインディアンになぞらえて、人生の達観を語るのだが、おかしくて、哀しくて、滑稽で、しかも感情の波立ちそのものをそこの底まで見極めた諦念が静に広がって、とても透明な気持ちになる。もう、これは台本のイモさ加減にもかかわらず、傑作と言っていい。善くも悪くも通俗的で、別役劇よりもわかりやすいが、その分、味が薄いのは否めない。結末がきれいにまとまってしまうことといい、前衛版 Well Made Playだ。看護婦役の安江は仏頂面が似あっていて、好演と言える。
Copyright 1996 Kato Koiti

演劇1988年21988年3
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