演劇ファイル  Sep - Dec 1998

1988年 8月までの舞台へ
1989年 1月からの舞台へ
加藤弘一

*[01* 題 名<] オセロ
*[02* 劇 団<]
*[03* 場 所<] 新橋演舞場
*[04* 演 出<] 栗山昌良
*[05* 戯 曲<] シェイクスピァ
*[06  上演日<] 1988-09-08
*[09* 出 演<]北大路欣也
*[10*    <]中村勘九郎
*[11*    <]遥くらら
*[12*    <]范文雀
 北大路欣也と遥くららの二人の口跡はさすがに立派だし、勘九郎の噛んで含めるような口跡も悪くない。しかし、つまんないのだ。オペラ演出家の悪い癖がでたのだ。ドラマの暗い部分に対する感受性がこの演出家には欠落しているらしい。オセロが明朗なのは結構だ。しかし、明朗なだけのオセロと言うのは……。キプロスへオセロ一行が上陸する場面など、クラシックの声学家を先導にテ・デウムをコーラスさせるのだが、何とも安っぽい「厳粛さ」であることか。戦勝の祭りの場も優等生的動きと歌に終始し、白けること夥しい。役者はいっぱし芸術しているつりだろうが、困ったものだ。勘九郎のイアーゴが呼び物だが、ちょっと分析的すぎる。イアーゴの心境を観客にわからせようとするあまり、悪の凄みに頬かむりし、矮小化してしまったのだ。あきれるべし。毒にも薬にもならないオセロだ。
*[01* 題 名<] 少女都市からの呼び声
*[02* 劇 団<] 唐組
*[03* 場 所<] 下町唐座
*[04* 演 出<] 唐十郎
*[05* 戯 曲<] 唐十郎
*[06  上演日<] 1988-09-09
*[09* 出 演<]藤原京
*[10*    <]麿赤児
*[11*    <]千野宏
*[12*    <]菅田俊
*[13*    <]増井直美
*[14*    <]唐十郎
 前回より2ヵ月だが、パワーが数段上がっている。旧作だからだろうか。李礼仙の秘演会よりもアングラ性のボルテージが高い。麿赤児の力が大きいのかもしれない。御釜に入って乞食の一党とともに登場する出など、狭い舞台に力が沸騰し、アナーキーで、すごい迫力だ。前回は浮いていたが、わずかの間に集団を掌握したのか。
 唐組の若手の力も上がっている。二枚目の千野宏は根津甚八以来のヒーロー役者になるかもしれない。意地悪な婚約者のビン子をやった増井直美は立派に敵役していた。幻の妹をやった藤原京は艶っぽい声の声美人で、ガラスに改造されていくいたいけな娘を嫋々と演じて、時にふるえつきたくなるくらい妖艷だった。李礼仙にしろ、緑魔子にしろ、アブノーマルな幼さ、弱さが少女性だったが、藤原の場合、ノーマルな女の子のいたいけさだし、ひょっとしたら大人にだってなれそうな感じがする。そういう女優でも唐のヒロインが立派に勤まるわけで、これは発見だった。
 ただ、複層構造で時空がねじまがっていく凄さは薄かった。幻の妹という幻想が、手術中で生死の境をさまよう田口の深層のドラマだったという枠を、今回、加えたわけだが、これはかえってイメージを限定してしまったのではないか。
 下町唐座は唐傘のようなむき出しの天井裏が売物かと思ったら、今回は、テント(紅色も!)で舞台と客席を低く覆ってしまい、重苦しい、濃密な空間につくりかえていた。照明用の桝にだけ黒くぬった青ビニールをかけてあったから、ひっとしたらこの夏の長雨で雨漏りがしたからかもしれないが、結果的にこれでよかったと思う。アングラに高い天井はにあわない。
*[01* 題 名<] ドストエフスキーの妻を演じる老女優
*[02* 劇 団<] 民藝
*[03* 場 所<] 博品館
*[04* 演 出<] 内山鶉
*[05* 戯 曲<] ラジンスキイ,エドワルド
*[05* 翻 訳<] 宮沢俊一雪山香代子
*[06  上演日<] 1988-09-26
*[09* 出 演<]北林谷栄
*[10*    <]米倉斎加年
 期待はずれ。一幕、北林と声だけの米倉との絡みで情況説明。これ、やたらと長い。単なる前置ではないのかもしれないが、前置としか見えない。米倉は長椅子の下に隠れているという設定だが、声はPAを通して頭上から降って来る。しかも、北林の肉声を圧する音量で。肉声とPAで歪んだ声では芝居の空間は生まれない。米倉の大仰な喋り方ばかりが耳につく。北林はかわいいし、ひらりひらりと身ごなしも決っているが、シラケドリが舞台を飛回っていた。
 二幕、米倉がいよいよ登場して、芸達者どうしの丁々発止がはじまるかと思ったら、どうもさえない。部分的には面白いし、演技と素との切換えは切れ味がよくて見事なものだが、平面的で終わっているというか、立体的な構造として組み上がっていかないのだ。あれでは何か二人でごちゃごちゃやっているという風にしか見えない。アニータ←→老女優←→付き人という構造を絵として見せられなかったという点で、この芝居は失敗だった。
 原作の責任もある。こねくり回しすぎているし、特にラストなんてやりすぎだと思う。しかし、それ以上に演出の問題がある。「神秘劇をリアリズムで」なんて言ってるが、民藝的ネットリズムのリアリズムではこういう芝居はそもそも無理なのではないか。この芝居の入組み方は唐十郎の入組み方に等しく、そうであれば、スピード感がなによりも必要なはずである。ちょっと間違えたのではないか。
 カーテンコールで演出家を紹介したので妙だと思ったら、作者が来ていると言って客席からラジンスキーが登場した。ずんぐりしたオジサンだ。毎日、見に来ているのだろうか? まぁ、満席で追加公演も決ったので作者としては満足だろうが。
*[01* 題 名<] イヌの仇討
*[02* 劇 団<] こまつ座
*[03* 場 所<] 紀伊国屋
*[04* 演 出<] 木村光一
*[05* 戯 曲<] 井上ひさし
*[06  上演日<] 1988-10-04
*[09* 出 演<]すまけい
*[10*    <]江波杏子
*[11*    <]菅井きん
*[12*    <]小野武彦
*[13*    <]段田安則
*[14*    <]山下智子
 江戸の切絵図のスライドが本所松阪町にだんだん拡大され、吉良邸の図面になり、台所脇の隠し部屋が幕一面に映し出される。幕が開くと、舞台はその隠し部屋。上野介が隠れた部屋を舞台に、討たれる側から忠臣蔵を見直そうという趣向だ。赤穂浪士は声としてしか出て来ない。上野介と側室、女中、侍、茶坊主に上様拝領のおイヌ様、そして泥棒という顔ぶれで、この暴挙を敢えてした大石の真意をああでもない、こうでもないと忖度していくのだ。この設定はちょっとすごい。密室の2時間の中に討入りをめぐる前後の状況を全部凝縮してしまうわけで、まさに三一致の法則通り。裁判劇に近い作り方だ。
 この数年の井上の常だが、説明や図式に終わって、くどくなっている部分もないではない。もっと発酵させてから書いてほしかったという部分もある。しかし、台詞の欠陥にもかかわらず、中だるみどころか、ピンと張りつめた緊張が二時間持続し、「樋口一葉」以来の名舞台になった。役者が最高の芝居をやっているからだ。それは木村演出の勝利でもあるが、それ以上に、芝居自体の見通しがよく、役者が実力を発揮しやすい構造になっているからではないか。とにかく、十人の役者が全員一二〇パーセントの熱演で、みごとなアンサンブルをつくっている。
 みんなそれぞれにいいが、特にすまけいはすごかった。桃の花咲く里の幻を語った場面の陶酔的な美しさも印象的だったが、何より「大石の心底見抜いたり」という条りでは、舞台全体が彼一点に凝集し、おとぼけ老人が悲劇の主人公に尊厳化した。背筋がゾクゾクした。一人の教養豊かなニヒニストが、大石の反乱に加担することによって、ニヒリズムを越えるのだ。この役はすまけい一世一代の当たり役ではないか。これは「樋口一葉」と好一対をなす男の芝居である。
 ドルビー・サウンドも真っ青の音響もめずらしいが、お犬様も首をふったり、尾をふったり、実によく出来ていた。演劇にもハイテクが入って来た。
*[01* 題 名<] 真昼に分かつ
*[02* 劇 団<] 
*[03* 場 所<] Part3
*[04* 演 出<] 渡辺守章
*[05* 戯 曲<] クローデル
*[05* 翻 訳<] 渡辺守章
*[06  上演日<] 1988-10-11
*[09* 出 演<]後藤加代
*[10*    <]佐古雅誉
*[11*    <]勝部寅之
*[12*    <]有川博
 またしても腕立て伏せ芝居(!)。一幕はイゼの夫がちょった腕立て伏せをするだけで、大体は大人しく、台詞はなかなか聞かせた。自然の荒々しさを歌ったテンションの強い言葉の流れは、ほとんど歌舞伎の道行きという感じで耳に入り快かった。二幕からがいけない。例によって唾を飛ばし、腕立て伏せをし、汗を飛散らせて荒れ狂うのだが、その肉体エネルギーが言葉のエネルギーにまったく転化しないのだ。メザの頌歌にしたって、一本調子にわめくだけで、言葉としての激しさなんか消えてしまっている。「熱演」ではあるし、「狂気」かもしれないし、「肉体」も頑張っていることはいる。しかし、学者先生が書斎生活の反動から、必死に肉体、肉体と叫び回っているとしか思えないのだ。鈴木忠志風にいえば、身体感覚を遊んでいないということになるか。生活感覚と遊離したところに、どんな「肉体」を探そうというのか。それにしても、あの土木作業用一輪車にはあきれた。演劇的センスの無さもここまでくると……。
 難しい顔したインテリ男とフランス文学やってますという感じのお嬢様とカルチャー主婦だけの客席で、かなり気持ち悪い。皆さんお勉強に来ているのである。守章先生はお産を待つ夫よろしく、場内をソワソワ、ウロウロ。とうとう座席案内まで始めてしまう。
*[01* 題 名<] セイムタイム、ネクストイャー
*[02* 劇 団<] 渡辺プロ
*[03* 場 所<] 博品館
*[04* 演 出<] 鴨下信一
*[05* 戯 曲<] スレイド,バーナード
*[05* 翻 訳<] 青井洋治・堤孝夫
*[06  上演日<] 1988-10-18
*[09* 出 演<]小柳ルミ子
*[10*    <]角野卓造
 最初はかなり苦しかった。台詞のとちりが多いし、二十代のドリスをやる小柳が無理に甲高い声を出したり、オーバーな仕草をしたりで、わざとらしかったのだ。髪型もケバケバしくて、ださい。ここぞという台詞になると、演歌風に感情をこめ(!)気持ち悪かった。蓮っ葉を通り越して、下品なのだ。しかし、角野のフォローがよく、着実に笑いをとってペースを作り、ムードが出来てくる。そうなると、とちりがなくなり、良い循環が出来てぐんぐん面白くなった。小柳の演歌風感情表現は同じだが、流れの中でだとずいぶん違ってくる。彼女は年をとるほどに役がなじんで来て、最後の二十五年目のドリスは本当に素敵だった。地味な格好の方が似あうんじゃないだろうか。
 角野は上手い(「巧い」ではなく)。あれだけしっちゃかめっちゃかな芝居を受けとめて、いい方向にしっかり引っ張っていくのだから。体からにじみでるスケベったらしさと、小心さもこの人独自のものだ。その土台の上に実直な公認会計士や、ビバリーヒルズに住む顧問会計士、シングル・バーのピアノ弾きの顔がのる。まったくそうとしか見えない。橋爪の瀟洒さとは違った実在感だ。
 小柳の方は違いを強調しょうとして逆効果に陥ったが、しかし、後半になるとちゃんと年をとっているのだから、立派だ。それにしても、すばらしいプロポーションだ。あの引締まったお尻と太腿は驚異である。
*[01* 題 名<] 逢魔が恋暦
*[02* 劇 団<] 松竹
*[03* 場 所<] 演舞場
*[04* 演 出<] 渡辺えり子
*[05* 戯 曲<] 唐十郎
*[06  上演日<] 1988-10-25
*[09* 出 演<]三田佳子
*[10*    <]奥田瑛二
*[11*    <]石田えり
*[12*    <]菅野菜保之
*[13*    <]塩島昭彦
*[14*    <]秋川リサ
 唐版おさん茂兵衛だが、現代のトルコ風呂の額縁をつけたり、おさんそっくりの夜鷹のみつと夜鷹グループ(その頭目が嵐徳三郎)を登場させたり、大経師の使用人たちを三十人近く出してコロスにしたりと、いろいろ工夫している。おさん茂兵衛の道行きも、おさんに手を出せない茂兵衛はみつをだしにしておさんを帰そうとするなど話をややこしくしている。しかし、結局、盛りだくさんのバラエティ・ショー的な演舞場の芝居になってしまっている。
 三田佳子は巧いし、貫禄もある。奥田はやさ男を好演している。石田えりの優等生の女中は彼女である必要はない。唐は少年役で嬉しそう。渡辺演出も手慣れている。しかし、ここまで演舞場に取こまれてしまうとは。一番の怪物は演舞場である。
*[01* 題 名<] 青い紙のラブレター
*[02* 劇 団<] 地人会
*[03* 場 所<] 本多
*[04* 演 出<] 木村光一
*[05* 戯 曲<] ウェスカー,アーノルド
*[06  上演日<] 1988-11-15
*[09* 出 演<]北山和夫
*[10*    <]渡辺美佐子
*[11*    <]清水宏治
 白血病で余命いくばくもない引退した労働組合指導者と、その妻の交情を、親友の美術史の教授が見守るという話。北村のトチリが多かったし、こちらも偏頭痛でフウフウいいながら見たが、かなりいい芝居で、出来のいい日にベストのコンディションで見たら、感動していたかもしれない。
 舞台を三面に割り、斜めに客席にせり出した右前の部分が主人公の寝室、その奥が台所、左前が居間で、ここは最後に横にずれて病室になる。大部分のシーンでは渡辺は台所でせっせと家事をしており、夫に出したラブレターの朗読は録音で流れる。テレビ的な手法だが、この対照が効果を上げ、四十年つれそった夫婦の愛情表現として説得力があり、翻訳劇臭さも少なかった。渡辺の朗読はみずみずしく、しかもさっぱりとしていて、名演と言えよう。トチリは多かったが、北村のベランメェ調の芝居も悪くない。清水の受けの芝居も良かった。あのキザさがクッションになって、妻のラブレターという気恥かしさを減じていた。
*[01* 題 名<] SKIN
*[02* 劇 団<] MMM
*[03* 場 所<] Part3
*[04* 演 出<] 飴屋法水
*[05* 戯 曲<] 飴屋法水、大橋二郎
*[06  上演日<] 1988-11-19
*[09* 出 演<]佐野領域
*[10*    <]嶋田久作
*[11*    <]飴屋法水
*[12*    <]斎藤聡介
*[13*    <]大橋二郎
*[14*    <]上野仁
 高圧碍子を並べ、左右にオブジェを配した舞台。背後は白と黒のブラインドで、スライドを映すと横筋が入り、ハイテクっぽくなる。前回のパンフで攻撃した「発泡スチロールにペンキを塗った」装置を使ったわけで、密度感が不足でエレガントになっているが、あくまで飴屋法水の舞台である。
 お葬式ごっこをやっている悪童たちのところへ、「理科」と呼ばれる少年の父親の骨壺が届けられる。大学で実験中、事故でなくなったというのだ。死に疑問をもつ「理科」の元に、父親からフロッピーが送られて来る。「科学と学習」と題された問題を解くことで父の行方がわかるかもしれない。子供たちは謎解きをはじめる。父親に改造されたというホセとドロシーが絡み、父は共同研究者だったテン博士が保護していたことがわかる。その父は牛の角が生え、痴呆化し、息子のことさえわからない。「理科」はパソコン通信で父とのコンタクトを懸命に回復しようとし、ついにホセの持っていたフロッピーのパスワードをつきとめる。
 本当はコラージュで構成したかったが、二時間持たせるためにやむなく物語の力を借りたのだという。なまじ辻妻を合せたために竜頭蛇尾に陥るという物語の悪い面が出ている。美術的な効果は例によって素晴らしいのだが、謎々を解いていく部分の陳腐さや、最後の録音で流れる嶋田のモノローグが話を小さくしてしまう。第三エロチカのように古臭い枠に縛られているわけではないし、新しい感覚を確実につかんで表現しているが、まとめる段階で後退してしまっている。これは古い物語を使ったせいであって、物語そのもののせいではない。
 テン博士の飴屋、ホセの斎藤、ドロシーの大橋は素晴らしいし、嶋田はほとんど痴呆化した芝居で、まともに喋るシーンはなかったが、存在感で舞台をまとめた。主演の佐野はつっかえながらの喋りが弱く、緊張が抜けてしまう。悪童たちも集団だといいが、緩い芝居になると緊張を維持できない。大学側の職員の二人は力不足で芝居が破綻する。
 水準は高いが魅力は薄れた。
*[01* 題 名<] 夢去りて、オルフェ
*[02* 劇 団<] 木冬社、仕事
*[03* 場 所<] 紀伊国屋
*[04* 演 出<] 清水邦夫
*[05* 戯 曲<] 清水邦夫
*[06  上演日<] 1988-11-21
*[09* 出 演<]平幹二郎
*[10*    <]松本典子
*[11*    <]塩島昭彦
*[12*    <]黒木里美
*[13*    <]王城美路
*[14*    <]渕野俊太
 初演の方が面白かった。飾りと計算が邪魔なのだ。
 初演でぎこちなかった前半は格段に良くなったし、平の出の場面など、ぞくぞくした。プーシキンの引用を全部言えなかったと愚痴るギンに、それでよかったといって、引用の後半を頬をふくらましてこらえて見せる部分など、滑稽やら、切ないやらで、初演にはなかった見せ場になった。平は確実に良くなっている。ところが、受けの松本がいけない。平が良くなった分、彼女が浮いてしまった。平がすぐ悪童に戻ってしまうのに、彼女の方は子供に返れず、子供っぽさを演じている女優であり続け、かみあわないのだ。だから、兄弟喧嘩は彼女主導から平主導に移ると、芝居が持直す。
 それ以上に困るのは、夢を紡いではぶちこす肝心の後半がいけないことだ。初演は多分に行き当りばったりの作りで、平の大芝居が迷走気味になってスリリングだったが、今回は妙に整理されてしまった。塩島を中原刑事にしたことも裏目に出た(最初と最後のナレーションは清水)。クールに見える垂水が妄想を告白するから意外性があったのに、塩島では役につきすぎだし、「デーモン」という台詞にも、デーモン小暮のような愛敬を感じてしまう。第二幕は全体に説明的で、冗漫なのだ。これは結末を知って見たからではないと思う。
 ただ、中年の食えないしたたかさは今回の方がはっきり出て、「夏の日の陽炎」と茶化して呼ぶ青年の純潔さとの対比が明確になった。小桜少尉の渕野(今回の収穫)と平の対決は大きな山場になった。
 文句を言えば、彼以外の青年たちがものたりない。王城は今回は平に距離を置きすぎている。生徒集団に踊りを振りつけたり、ピエロを出したりしたのも、裏目に出た。どうやったって、四季ではないのだ。中途半端な踊りでは芝居は成立しない。
*[01* 題 名<] トーチソング・トリロジー
*[02* 劇 団<] パルコ
*[03* 場 所<] パルコ
*[04* 演 出<] 青井陽治
*[05* 戯 曲<] ファイアスティン,ハーヴェイ
*[05* 翻 訳<] 青井陽治
*[06  上演日<] 1988-11-22
*[09* 出 演<]鹿賀丈史
*[10*    <]西岡徳馬
*[11*    <]山岡久乃
*[12*    <]佐藤オリエ
*[13*    <]柄沢次郎
*[14*    <]松田洋治
 待望の再演。全体に良くなっているし、アンサンブルもいい味を出している。役者もうまくなった。しかしというか、そのためにというか、前のようには笑えなくなった。台詞一語一語にびっしり意味がつまっていることがわかって、グサッグサッと胸をえぐる。もちろん、きつい台詞の後では、鹿賀が信じられない切換えの早さでひょうきんな芝居をつけ、場内を爆笑させるのだが、つい考えこんでしまうのだ。
 第一部のアーノルドの一年は味が濃くなった。アーノルドはたくましくなった印象で、その分、オカマショーは単色的になったが、エドとの痴話喧嘩は、飾りなしのエッセンスだけで笑わせた。よくを言えばエドの一人芝居の部分が物足りなかった(たまたま西岡の出来の悪い日だったのかもしれない)。
 第二部は面目を一新した。前回、物足りなかった柄沢次郎と佐藤オリエが格段によくなった点も大きいが、アンサンブルが確立した点も見逃せない。柄沢は素直さを保ったまま理解を深めた感じで、決して巧みではないが、アランのイノセントな魅力を十分に出している(初演の時は、こんなパープリンを恋人にしたは、エドへのあてつけとしか思えなかった)。佐藤のローレルも本当に良くて、こういう人ならああいう無茶なこともやりかねないと納得した。四人の心理の綾も手に取るようにわかって、わかりすぎるから笑えなくなった。
 第三部はやはりいい。この幕のアーノルドが一番かわいらしいが、同時に一番たくましくもあって、人間の尊厳ということが抽象でも何でもなく、事実として納得させられる。山岡久乃の母親はすさまじく素晴らしい(翻訳物という感じがしない)。また、松田は「巧い」から「上手い」に成長していて、最後のベンチで語りあう場面など、寛容ということを考えさせるいい味を出していた。
 このキャスティングは最高だと思う。
 最初の休憩に、レディー・ブルースの中島啓子とピアノ伴奏の林アキラがロビーで唄を披露していた。楽しそうで、こってりとしたいい演奏だった。
 あいかわらず女性客が多いが、前より格段に質が下がった。三十代、四十代のオールドミスが多いのにはびっくり。ホモのカップルは数組いただけ。ギャルパワーに恐れをなしたのだ。
*[01* 題 名<] 尺には尺を
*[02* 劇 団<] ライミング
*[03* 場 所<] ベニサン
*[04* 演 出<] ウォルフォード,グレン
*[05* 戯 曲<] シェイクスピァ
*[05* 翻 訳<] 小田島雄志
*[06  上演日<] 1988-12-11
*[09* 出 演<]田代隆秀
*[10*    <]吉田鋼太郎
*[11*    <]小林勝也
*[12*    <]中島晴美
*[13*    <]渡辺哲
*[14*    <]下村彰宏
 今までのウォルフォード演出の中で一番いい。ようやく板についた感じ。はつらつとしていて、軽快で、去年とは違ってスピード感に押しつけがましさがない。だが、まだなんか一味足りない。サバサバしすぎているのだ。ひょっとしたら、これが彼女の持味で、こっちがわからないだけなのかもしれない(そう思わせるだけの完成度はある)。そもそもソフィスティケートの見本のような芝居なので、ロマンチックになりようがないのかもしれず、これでいいのかなとも思う(そういえば、彼女が今までとりあげた三本は、読むぶんには面白いけど……という難しい喜劇だった)。しかし、なんか物足りないのだ。
 舞台は中央の正方形を客席が四方から取囲む形式だが、全体にカンバスを敷いて、すわりこんで見るようになっている。これ、なかなかいい。舞台と客席の境を取払うなんていうのは、大抵、理屈倒れで終わるのだが、今回は間違いなく成功している。カンバスの感触がよくて、どんな格好でも見れるし、二階通路でやる時は、角度によって見えない所が出来るので、舞台に移動して下さいと役者が声をかける。一幕と二幕で場所を移ったので、二回、舞台へ出て見ることになったが、暗い中をみんなでゴソゴソと動くのはけっこう楽しい。
 田代の公爵は風格があって、単なるオメデタイ人にはならなかったのは立派だ。吉田のアンジェロは物足りない。演出の意図もあるのだろうが、イザベラに恋する条りがあっさりしすぎているので、ただの嫌な奴にしか思えない。あんな調子で結婚したら、うまくいくはずないのにとも思う。やはり、恋やつれするくらい恋して、悩みに悩むべきではないか。イザベラの中島もあっさりしている。兄に死んで下さいなんてぬけぬけ言うには、ああでなくてはならないのかもしないが、なんかもう一味ほしい。渡辺はアンジェロの腰巾着と死刑囚の二役だが、死刑囚の方がらしい。口のへらないルーチオの関川はちょっと役不足(もっと笑いをとれたはず)。ポン引きのポンピーの小林はさすがで、軽妙な台詞回しで洒落のいっぱい入った台詞を成功させた。下村彰宏を典獄にしたのはもったいない。
 千秋楽にあわてていった。九割の入りで、ちょうどいい人数だった(あの形式で人数が少ないと悲
*[01* 題 名<] 場所と思い出
*[02* 劇 団<] 文学座
*[03* 場 所<] 文学座アトリエ
*[04* 演 出<] 杉本正治
*[05* 戯 曲<] 別役実
*[06  上演日<] 1988-12-13
*[09* 出 演<]坂部文昭
*[10*    <]八木昌子
*[11*    <]塚本景子
*[12*    <]たかお鷹
*[13*    <]塩田朋子
*[14*    <]三津田健
 電信柱、ベンチ、停留所のそろった舞台にオヤオヤと思っていると、案の上、典型的な別役劇。バスを待つセールスマン(坂部)に乳母車(!)を押した未亡人(八木)がからみ、無理矢理ピクニック(!!)に引っ張りこんでしまう。紅茶の押売からはじまって、ネクタイや靴の交換にエスカレートしていき、もう一人の未亡人や盲人の夫を乳母車にのせた主婦が仲間に入って来て、例によって例のごとし。
 前半はかなり好調で、アトリエ別役劇ならではの流れがある。大体が生活感のあるリアリズム調の芝居だけに、クレージーさがきわだつ。特に未亡人の八木がかなり誇張した普通のオバサンなので笑ってしまう食べる物を探す辺りでちょっと乱れたが、八木か塚本かどちらと結婚するかという辺りで盛返す。
 しかし、マンネリといえばマンネリだし、やり取りのくどさにいらいらしないでもない。それだけに、最後に三津田がダービーハットで飄々と登場すると、ホッとする。
*[01* 題 名<] ももからうまれたももたろう
*[02* 劇 団<] 文学座
*[03* 場 所<] 文学座アトリエ
*[04* 演 出<] 藤原新平
*[05* 戯 曲<] 別役実
*[06  上演日<] 1988-12-13
*[09* 出 演<]三津田健
*[10*    <]七尾伶子
*[11*    <]田村勝彦
*[12*    <]小野洋子
*[13*    <]外山誠二
 最初の「場所と思い出」が典型的別役劇で、例のくどくどしさに辟易していたからか、話をこんぐらがせる田村の小役人に「黙りなさい!」と命令する七尾がまず新鮮だった。結局は彼女も話をもつれさせるにしても、風通しがよくなった感じだ。左手から聞えてくる「オーイ」という遠い呼び声も舞台に広がりを与えた。
 舞台左手にはカフェテリア風の白い洒落たテーブルと椅子。右手にはタイプライターをのせた事務机。中央奥には、円錐台形型に積み上げられた古靴の山。小役人は靴の番人で、一種の「文化事業」だという。七尾は何をしにきたかは分からないが、小役人をからかう役だ。
 いよいよ三津田の登場。風の匂いを追う老人の役で、上機嫌な顔を持上げて匂いをかぐ仕草がいかにもかろやかで、舞台が急に華いでくる。話のはずみで七尾に結婚を申こみ、後の二人はふりまわされる。「おい、別れたよ」とか、「風が吹き、事態は推移する。時間が流れる」、「じゃ、いくよ」とか、何でもない台詞に花があって、優美なとぼけぶりに場内爆笑。見通しのつかない台詞の応酬に、そよ風がさっと吹こんだ。一回目の引きには思わず拍手してしまった。中村伸郎のいぶし銀の不機嫌さとはまったく違う、ハイカラな風老人だ。
 途中で登場する人物も冴えている。大きなリュックをかついだ登山姿の若夫婦で、出て来ただけで大笑い。リュックの中には目覚し時計とか花瓶とか、いろいろ変なものがつまっている。こんな飛躍は最近の別役には見られなかった。のってる証拠だ。また演出の功績だが、こっちの登場人物はよくいそうだ。七尾は島田さんだし、田村みたいなお役人はよくいる。若夫婦だって今風の異常さだ。「場所と思い出」の方は普通以上に普通っぽくつくって、逆に嘘になっていた。
 三津田の追っていた匂いは、実は、以前に忘れてきた靴の匂いだったというアイデンティティ探しのテーマになるが、それとは別に自分は「ももからうまれたももたろう」だったと語る三津田の古木のような姿に老いの華ぎを見た。人生の時間の深さがじんわり迫る。
 三津田は忘れっぽい老人の役なのに、台詞をまったくとちらない! しかも、別役のつかみ所のない台詞を。滝沢修と何たる違い。塩島昭彦が出口近くの席で見ていたが、終わるとすぐビニ
*[01* 題 名<] 正午の伝説
*[02* 劇 団<] 各駅停車
*[03* 場 所<] 駅前劇場
*[04* 演 出<] 池田一臣
*[05* 戯 曲<] 別役実
*[06  上演日<] 1988-12-15
*[09* 出 演<]多田幸男
*[10*    <]内山森彦
*[11*    <]林次樹
*[12*    <]水野ゆう
 傷痍軍人の話だからでもないだろうが、とにかく辛気臭く、陰気で、さえない舞台だった。傷痍軍人二人を演ずる中年役者たちは、地味を通り越して、存在感が皆無。前半を担当した若い二人は、演出に足を引っ張られてか、手堅いが、花のない舞台になってしまった。とにかく、退屈だった。
 芝居はつまらなかったが、チラシには別役が力のこもった文章をのせている。多分、主演の二人と古いつきあいで、それなりに評価しているのだろう。
*[01* 題 名<] テンペスト
*[02* 劇 団<] 東宝
*[03* 場 所<] 帝劇
*[04* 演 出<] 蜷川幸雄
*[05* 戯 曲<] シェイクスピァ
*[05* 翻 訳<] 小田島雄志
*[06  上演日<] 1988-12-25
*[09* 出 演<]津嘉山正種
*[10*    <]田中裕子
*[11*    <]松田洋治
*[12*    <]松重豊
*[13*    <]石井愃一
*[14*    <]辻萬長
 エジンバラで絶賛を博しての凱旋公演だが、初演の感動にはおよばない。前回見逃した幕開きの船の場面はなかなかの迫力だし(組立て式で、帆は上から降りて来る!)、切々とした台詞で登場する田中裕子も素晴らしい(背中がゾクゾクした)。津嘉山との二人の場面も文句なし。津嘉山の朗々とした口跡がちょっと綺麗すぎるのに対して、田中の台詞は節があって引っかからないでもないが、妙に存在感があり、耳に残っているというか、初演の時に確かに聞いた台詞だとわかるのだ。道化たちも初演同様決ってる。松重豊の憎めない鯉上りキャリバンは一層よくなって、原住民の悲哀感が出て来た。キャリバンの比重がこれだけ大きいテンペストは珍しいだろう。後ろにもお面をつけた道化の石井愃一も、お尻を出した大門伍郎も、すばらしい。
 冴えなかったのは、まず、声のつぶれかけていた松田洋治。彼の不調で、津嘉山と田中の作り上げた盛り上がりがスーッとしぼんでしまったし、エネルギーもそがれた(それだけ重要な役だったのだ)。ナポリとミラノの貴族たちも冴えなかった。それぞれ考えていることも、思惑も違うというのはわかるが、ナポリ王位の纂奪のサスペンスが薄れたし、ナポリ王の回心もあっけない。前回はもうすこしこってり描いていたように思う。
 妖精の顕現の部分は美しいが、感動は薄れた。今日が冴えなかったのか、それとも、二回目で驚きが無くなったからなのかは判断がつかないが。
 初演の時は様式折衷という意味で「ポスト・モダン」だと思ったが、今回、あらためてポスト・モダンそのものだと思った。これはドラマがあらかじめ終わってしまった世界なのだ。津嘉山のゆるしも、辻の悔いも、すでにあるものの確認にすぎない。そして、その確認の儀式として演出したのが、このテンペストなのだ。
 しかし、初演時は、もっと別な要素もあったように憶えている。平から津嘉山に代ったことで、様式化が進んだのではないか。
 プログラムに山口猛氏の「これぞ歴史的な日英劇評バトルロイヤル」という一文があり、けっこう笑わせる。「ロミオ」の酷評がよほど頭に来たらしい。
*[01* 題 名<] ホワイト・クリスマス
*[02* 劇 団<]
*[03* 場 所<] 博品館
*[04* 演 出<] 加来英治
*[05* 戯 曲<] テイラー,レニー
*[05* 翻 訳<] 甲斐萬里江
*[06  上演日<] 1988-12-28
*[09* 出 演<]順みつき
*[10*    <]中山仁
*[11*    <]ありす未来
*[12*    <]有希み英
 売れない女優兼劇作家が、クリスマス・イヴの晩、売れっ子のCMプロデューサーを家に連れこんで監禁し、あろうことか、結婚まで勝取ってしまうというすごい話。渡辺えり子がやったら、なんとも生々しい、目を覆いたくなる芝居になっていただろう。しかし、さすがに順みつきだけあって、とても愛らしい、きれいな話になっている。露骨に迫る場面も、ネグリジェで脚をチラチラ見せるシーンも、ダンスで鍛えた体と仕草だけあって、すこしも不潔感がない。プロデューサー役の中山もそつのない好演だ。
 泣きの要素はあるはずなのだが、あえてそっちへはいかなかった演出家の選択は見識だと思う。たっぷり笑わせてくれたし、満足した。
 日本版で加えたという、二人の女の子の歌うつなぎのスタンダード・ナンバーは、なかなか良かったが(有希み英がうまい!)、順の歌が無かったのは寂しい。踊りも、ネグリジェのシーンで無理矢理クルクル回転したりで、本来は台詞劇だったこの芝居で、サービスしようという意欲はわかるが、いっそのこと、はっきり歌と踊りの見せ場を作ってしまったほうがよくはなかったろうか。
Copyright 1996 Kato Koiti

演劇1988年21988年1
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