岸田國士きしだくにお

加藤弘一

生涯

 劇作家、演出家、批評家、小説家。1890年11月2日、四谷に陸軍士官岸田庄蔵の長男として生まれる。幼年学校から陸軍士官学校に進み、将校として配属されるが、軍隊を嫌い、1914年、軽い肺疾患を口実に休職する。三年後、東大仏文科に入学する。

 1919年、フランスにわたり、ジャック・コポーのヴィユー・コロンビニ座を中心に演劇を学ぶが、1923年、父の死にあい、帰国を余儀なくされる。翌年、早くも「古い玩具」と「チロルの秋」を発表し、洗練された台詞が注目される。

 この年、築地小劇場が設立されるが、岸田は山本有三とともに、小山内らの左翼的な演劇観を批判して、戯曲の文学性を説く一方、戯曲が他の文学ジャンルとは異なることを強調し、森本薫ら、後進の劇作家に大きな影響をあたえた。1928年、「悲劇喜劇」を創刊する。

 1932年、久保田万太郎らとともに築地座を結成して、最盛期をむかえていたプロレタリア演劇に対抗した。1937年には久保田、獅子文六らと文学座を創立している。

 国家社会主義が強化される中、1940年から2年間、大政翼賛会文化部長を引き受けるが、そのために、戦後、公職追放になる。

 1950年、福田恆存、三島由紀夫とともに雲の会を結成する。

 翻訳家、小説家としても知られ、翻訳ではルナールの『にんじん』、小説では『由利旗江』、『落葉日記』、『暖流』等がある。

 1954年、「どん底」演出中に脳動脈硬化症で倒れ、急逝。無宗教の文学座葬で送られる。63歳だった。

 長女の衿子は詩人・童話作家、次女の今日子は女優・エッセイスト。

 1954年に創設された岸田國士演劇賞は、1961年から白水社に移り、岸田國士戯曲賞とあらためられて、新人劇作家の登竜門となっている。

舞台

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