演劇ファイル  Jan - Jul 1996

1995年12月までの舞台へ
1996年8月からの舞台へ
加藤弘一

*[01* 題 名<] ファンキー
*[02* 劇 団<] 大人計画
*[03* 場 所<] 本多劇場
*[04* 演 出<] 松尾スズキ
*[05* 戯 曲<] 松尾スズキ
*[06  上演日<] 1996-07-16
*[09* 出 演<]宮藤官九郎
*[10*    <]池津祥子
*[11*    <]松尾スズキ
*[12*    <]新井亜樹
*[13*    <]宍戸美和公
*[14*    <]山本密
 本公演だが、パンフが冗談みたいに豪華なこと以外、俺隊の「紅い給食」とかわらない。新井亜樹が車椅子で登場し、父親と近親相姦するというエピソードが出てくるが、変なやつが変なことをやっているというだけで、身障者のセックスを問うというような大問題をあつかっている風ではなく、ほかのヤバイエピソード同様、軽く流している(ただ、本物の車椅子の青年(脳性麻痺ではないようだ)が観劇に来ていて、休憩時間もロビーに車椅子で鎮座ましましていたのはアイクチみたいだった)。
 新井亜樹は脳性麻痺の真似だけにリァリティがなかったが、父親とテレパシーで話す場面では十八番の可憐な口調になり、ファン・サービスもばっちり。
 健常者なのに、デブでセックスできない井口昇は欝陶しくて迫力だったが、なんといっても松尾スズキの暗さは群を抜いて存在感があった。座長の責任感だろうか、こいつだけ重く、怖いのだ。
*[01* 題 名<] エンジェルス・イン・アメリカ
*[02* 劇 団<]
*[03* 場 所<] セゾン劇場
*[04* 演 出<] アッカーマン,ロバート
*[05* 戯 曲<] クシュナー,トニー
*[05* 翻 訳<] 吉田美枝
*[06  上演日<] 1996-01-05
*[09* 出 演<]池田成志
*[10*    <]余貴美子
*[11*    <]小須田康人
*[12*    <]高橋和也
*[13*    <]天宮良
*[14*    <]近藤洋介
*[15*    <]佐藤オリエ
*[16*    <]麻実れい
 第一部、第二部あわせて六時間五分の通し上演。第一部はゲイとエイズ患者とユダヤ人とモルモン教徒と政界の黒幕とジャンキーがからみあう絶望的でこみいった人間模様を描き、第二部では現実と幻想がごっちゃになった道化芝居になって、いよいよ混乱を深めていく。どう終わるのか心配になったが、黒幕はエイズで死に、共和党員でモルモン教徒でゲイの書記官の妻は西部に旅立ち、名門の息子のエイズ患者は死の床から一時的に回復して、セントラル・パークの噴水に腰かける三人の友人とおしゃべりをして幕がおりる。ほのぼのとした救いを感じさせる結末で、ご苦労さまという感じだが、今のアメリカは本当にご苦労さまという状況なのだろう。絶望的な話なのに、後味はいい。去年、第一部だけ見た人は、やりきれなかったろうし、今年、第二部だけ見た人はなにがなんだかわからないだろうが。
 八人の男女が二九役を演じわける。離れた場所で演じられる葛藤を同時に舞台にならべて見せたり、天使がおりてきたり、モルモン・ビジターズ・センターのジオラマ・ルームに展示してある幌馬車に乗った西部開拓民の人形が喋りだしたり、混沌とした芝居だが、ちゃんと筋をわからせる演出の手際と、役者の演技力は脱帽ものだ。
 役者はみなうまい。近藤洋介と佐藤オリエがうまいのが当り前だが、控訴院書記官とワープロ係の二人はどちらも第三舞台だそうだが、手堅くて、演じわけもみごと。エイズ患者の青年をやった高橋和也は男闘呼組出身のアイドルだが、芸達者に伍して、まったく遜色ないし、恋人に見捨てられたゲイの絶望を切々と出していた。
 特筆すべきは天使の麻実れいと、書記官の妻で安定剤中毒の妻の余貴美子。麻実はブロンズ像そのままの立派な天使になったが、第二部で道化芝居になっても、天使のままでおかしみが出ている。余貴美子はだぶだぶの靴下をはいて、なんとも可憐だし、ハスキーな声が魅力的だ。
*[01* 題 名<] アテネのタイモン
*[02* 劇 団<] シェイクスピア・シアター
*[03* 場 所<] グローブ座
*[04* 演 出<] 出口典雄
*[05* 戯 曲<] シェイクスピア
*[05* 翻 訳<] 小田島雄志
*[06  上演日<] 1996-01-16
*[09* 出 演<]吉田鋼太郎
*[10*    <]鵜沢秀行
*[11*    <]岩川隆則
*[12*    <]円道一弥
*[13*    <]大塚英市
 朝日の劇評で「吉田鋼太郎の一人芝居」と、条件つきで絶賛されていたので、楽日に当日券ですべりこむ。一階の指定席はいいところが埋まり、二階はほとんどからっぽなので、三階自由席にする。指定席の当日組は10人程度、自由席組は20人か。ひとけのない二階を通って三階にいくと、ここもガランとしていて、真中の区画だけが自由席組で賑わっているという不思議な雰囲気。上から見ると、一階も空席が目立つ。客のはいらない劇場は寂しい。
 めったにかからない戯曲で、読んだこともないが、シェイクスピアの中では重要な作品だ。一幕の前半は「ベニスの商人」の裏返しという印象だったが、大富豪のタイモンが破産し、とりまきたちが次々と手のひらを返すようになると、「リア王」の原型だったかと気づく。一幕の最後で、タイモンは友の不実と社会の無情に罵詈雑言をあびせ、ボタンをブチブチと引きちぎってワイシャツを脱ぎ、ズボンも脱いで、黒いパンツ一つになって去っていく。すごい迫力。一幕が終わっただけなのに、客席から拍手がわきおこる。
 二幕になると、タイモンは乞食になって森に隠棲し、人間世界を呪うが、スケールは小さく、荒削りではあるが、リアが嵐の中で叫ぶ場面を彷彿とさせる。タイモンと道化の問答もリアと道化の問答の原型だし、最後まで忠実な侍従はケント伯だ。やはりアテネを追われた武将、アルシバイアディーズにアテネの攻略を託し、アテネが彼の軍門にくだるという結末も「リア王」を思わせる。
 ただ、荒削りは否めなくて、お金だけで話が進むのは味わいが単純すぎるし、二幕で落葉の中から金貨の袋をひろい、そのお金に引かれて旧知の連中が彼のもとをおとずれるという展開も御都合主義だ。もっとも、ここまでお金にこだわる芝居を書いていたというのはすごいことかもしれず、マルクスが『資本論』に引用したのもわかる。
 朝日の劇評が「吉田鋼太郎の一人芝居」と書いていたのはまったくその通りで、彼だけが突出している。侍従の鵜沢秀行は、温厚な役にはあっていると思うが、自己完結的に台詞を歌いあげるので、吉田の台詞を受け切れていない(円道一弥を侍従にした方がよかったのではないか)。道化の岩川隆則は、自分の台詞を立ち上げるのが精いっぱいで、やはり台詞を受けるところまでいっていない。この二つの役が生きていれば、二幕にもっと奥行きが出たはずだ。本当に惜しい。
 出口演出は、衣装を現代風の背広と兵士の服にし、宴会の場面に金色や朱色のお膳を登場させることで、タイモンの栄光と没落をバブル景気に重ねあわせ、戯曲の荒っぽさを諷刺に転化している。出口演出のシェイクスピアの現代化では、唯一、うまくいった例か。
*[01* 題 名<] 渦巻
*[02* 劇 団<] T.P.T.
*[03* 場 所<] ベニサン
*[04* 演 出<] 宮本亜門
*[05* 戯 曲<] カワード,ノエル
*[05* 翻 訳<] 常田景子
*[06  上演日<] 1996-01-17
*[09* 出 演<]桃井かおり
*[10*    <]山本耕史
*[11*    <]キムラ緑子
*[12*    <]中島晴美
*[13*    <]千葉哲也
*[14*    <]及森玲子
 十字に交差した通路の真中に、デッキでできた五メートル四方の舞台。それをとりかこんで、客席が三重、四重にならぶ。後ろの列の席は鉄の手摺でかこまれたデッキの上で、舞台・客席ふくめて、鉄のオブジェのようになっている。ルーシー・ホールの装置はすばらしい。
 座席番号は反時計回りに「渦巻」のように。142番で、三列目だったが、一段高いデッキだったので、かえって見やすかった。
 パリにピアノの勉強にいっていた息子のニッキー(山本)のつれてきた婚約者バンティ(及森)が、母親のフローレンス(桃井)新しい愛人、トム(千葉)の元の恋人で、ふたりのよりがもどり、母と息子がふられるというノエル・カワードらしい話だが、親友のヘレン(キムラ)がフローレンスに真剣に意見し、息子が母に愛人のことを詰めよるなど、すごくシリアスなのが意外だったが、25歳の時の処女作だというので納得。
 桃井のフローレンスははまり役。ヘレンに向かって泣き叫びながら、「あ、目が腫れちゃう」という素に返った台詞をはさむところなど、桃井の本領発揮。自堕落だが憎めない、かわいい女をやらせたら、この人におよぶ女優はいない。
 ニッキーの山本は「レ・ミゼラブル」のガブロシュの子役出身だそうだが、長身の貴公子然とした物腰と、一本気の表情はみごと。
 ヘレンのキムラは関西の MOPの役者だそうだが、気のいい女友達を好演。ほかの舞台も見たい。
 上流社会を遊泳している歌手のクララの中島晴美はなかなかの貫禄。
 トムの千葉とバンティの及森はまわりがすごすぎるので、ちょっと見劣りする。
*[01* 題 名<] シャネル
*[02* 劇 団<]
*[03* 場 所<] パルコ劇場
*[04* 演 出<] マッキンリー
*[05* 戯 曲<] ルース
*[05* 翻 訳<] 
*[06  上演日<] 1996-02-20
*[09* 出 演<]岸恵子
*[10*    <]榎木孝明
*[11*    <]斉藤晴彦
*[12*    <]河内桃子
*[13*    <]塩谷庄吾
 岸恵子のシャネルをめぐるさまざまな人物を、四人の役者がつぎつぎと演じる。榎木はドイツ軍将校でシャネルの愛人だったスパッツとオカマのジャン・コクトーだけだが、斉藤晴彦と河内桃子は対独協力を調べる査問官やら、執事やら、父親に捨てられたシャネルを育てた修道院長やら、話し相手のミーシャ、女中と、たくさん演じわける。ただただみごと。河内桃子の押し着せを着た女中がすごくかわいい。
 残念ながら、岸恵子のシャネルは棒読みの上に、よく台詞をとちる。声色を使っても、声色になっていない。きわどい台詞がきわどくなさすぎるのも問題だ。カーテンコールでは大女優の貫禄を見せたが……。
*[01* 題 名<] 紅い給食
*[02* 劇 団<] 大人計画・俺隊
*[03* 場 所<] スズナリ
*[04* 演 出<] 井口昇
*[05* 戯 曲<] 井口昇
*[06  上演日<] 1996-03-01
*[09* 出 演<]池津祥子
*[10*    <]新井亜樹
*[11*    <]山本密
*[12*    <]金子清文
*[13*    <]宍戸美和公
*[14*    <]桑畑虚
 奈良の修学旅行で落ちこぼればかりを集めた班の話。班長の池津は一見、優等生に見えるが、背中にケロイドがあるという秘密をかかえていて、いじけた新井亜樹に打ち明けたところ、池津が好きな金子にしゃべってしまう。裏切られた池津は新井と金子を崖からつき落とし、二人を障害者にしてしまう。十年後、池津は新井と金子にまといつかれ、公演の掃除婦をやっているが、そこに金満家のくノ一忍者と結婚した山本があらわれ、かつてのクラスメートを殺そうとする……。
 弱者が弱者をいじめる。いじめっ子がいたつかこうへいの世界とはまったく違う。
 治りかけた脚を自分で痛めつけ、障害者でありつづけようとする新井の性格の悪さは強烈。
*[01* 題 名<] オンディーヌ
*[02* 劇 団<] 指輪ホテル
*[03* 場 所<] 法政大学学館大ホール
*[04* 演 出<]
*[05* 戯 曲<]
*[06  上演日<] 1996-03-15
*[09* 出 演<]
 会場が40分遅れ、開園が60分遅れ。タバコの煙のたちこめる学生会館のロビーで延々待たされる。いくら初日だからって、段取りが悪すぎる。
 ホールに入ってびっくり。300人くらいは入れそうなホール全体に土がいれこんであるのだ。「マハーバーラタ」の時みたいな赤土。客席は正方形の二辺にスチール椅子を100脚ほどならべてあるだけ。暖房はなく、土の湿気で冷える。
 舞台奥の盛土の上から、土煙をあげて30人以上の男女がすべりおりてきて、群舞をはじめる。すぐに乳房をだすことといい、アイシャドーべったりの化粧といい、音楽が生演奏の現代音楽といい、60年代前衛劇を思わせる。
 毛の生えたコウモリの耳をつけた四人組の胴長短足の女の子が狂言まわしで、またまた60年代風の怪しげな雰囲気をだしているが、今時、よくこれだけ日本人体型の女の子をそろえたものだ。
 水の精が遊びまわっているという趣向らしいのだが、よくわからない。寒さと待たされた点はともかく、なかなか面白かった。
*[01* 題 名<] ポルカ
*[02* 劇 団<] 自転車キンクリート
*[03* 場 所<] シアター・トップス
*[04* 演 出<] 鈴木裕美
*[05* 戯 曲<] 飯島早苗
*[05     <] 鈴木勝秀
*[06  上演日<] 1996-03-19
*[09* 出 演<]小野みゆき
*[10*    <]柳岡香里
*[11*    <]大石継太
*[12*    <]樋渡真司
*[13*    <]久松信美
 輪舞形式。不正融資に加担している銀行の貸付係り、その同期生で義理の弟からホモだと告白された銀行の総務課員、編集者に恋するイタリア文学の講師、ついつい親切の押売をしてしまい、昔の恋人の結婚式にまででる編集者、男にその編集者と二股をかけられていたOL、そのOLは本当のことしか言えないので、友達が一人もいないが、彼女にウソをならべて一晩すごした最初の銀行の貸付係。
 本当のことしか言えないOLの小野みゆきの使い方がみごと。小劇場的な大げさな芝居をする役者の中で、彼女だけがTV的な芝居をして浮いてしまうのだが、本当のことしか言えないという設定のおかげで、浮いていることがうまく芝居にはまった。TVのイメージとは違って、知的で性格のよさそうな女性だった。
 今回は鈴木勝秀の脚本のようだが(飯島はアドバイスしただけ?)、短いエピソードの中で本音をさらけだしていく展開はうまいものの、大きなドラマはまだ無理なのかもしれない。
*[01* 題 名<] 夢、ハムレットの
*[02* 劇 団<] 木山事務所
*[03* 場 所<] 俳優座
*[04* 演 出<] 末木利文
*[05* 戯 曲<] 福田善之
*[06  上演日<] 1996-03-22
*[09* 出 演<]林次樹
*[10*    <]五代路子
*[11*    <]三谷昇
*[12*    <]春風ひとみ
*[13*    <]森塚敏
 超つまらない。
 敗戦後、特攻帰りの「若」を中心に、大衆劇団が GHQの指導で「ハムレット」を上演しようとするが、眠っている王の耳に鉛を注ぎこむ台詞を原作にない、原爆を暗示した台詞と誤解され、上演禁止になり、大乱闘。通訳を投げ飛ばした「若」も指名手配になるという出だしだが、大乱闘がミュージカル風にアレンジしてあって、モンペをはいた大衆劇団にしては不自然にダンスがうまいし、統制されすぎたマスゲームになっていて、白けてしまう。大学にはいってマルクス主義にかぶれた若者が、貨幣がどうのこうの説教をたれるのも浮いている。朝鮮戦争がはじまると、通訳はあの台詞は原作にあったとあっさりお詫びにくるが、まったくドラマになっていない。
 ハムレットの稽古をやっているうちに、高度経済成長がはじまり、TVが茶の間にはいってくるという展開になるが、新劇俳優が大衆劇団の真似をしているという印象しかなくて、しかもドラマがなくて、なにを考えているのかあきれる。
*[01* 題 名<] エレクトラ
*[02* 劇 団<] T.P.T.
*[03* 場 所<] ベニサン
*[04* 演 出<] ルヴォー,デビッド
*[05* 戯 曲<] ソフォクレス
*[05* 翻 訳<] 小田島雄志
*[06  上演日<] 1996-04-02
*[09* 出 演<]佐藤オリエ
*[10*    <]加藤治子
*[11*    <]千葉哲也
*[12*    <]倉野章子
*[13*    <]川辺久造
*[14*    <]江波杏子
 右側のブロック最前列の真中。右側主体なので、すごくいい席。クリュタイメストラのアポロへの祈りは目の前2メールのところ。
 エレクトラの二人のコロス(植野と松本)はレディースのような衣装と髪型。特にコロスは白塗りで、眉がほとんどつぶれ、怖い。オレステスとその親友も暴走族風。
 緻密で文句のつけどころがない。エレクトラの芝居はきわめてテンションが高く、アドレナリン過剰の状態を持続するのは大変な力業だと思う。
 クリュソテミスの出番をカットしなかったので、家族内の悲劇という面がくっきり出た。ギリシア流のこまごまとした形容語を残したのは繁雑だったのではないか。
 エレクトラがハイテンションで怒り、悲しみつづけているので、むしろ脇が引きたった。加藤治子のクリュタイメストラ、倉野章子のクリュソテミス、川辺のアイギストス。どれも印象深い。
 さらにコロスがいい。台詞はまったくなくなったが、右へ、左へ、視線を移動させるたびに雰囲気が変わり、濃密な緊張を生みだす。ベニサンのような小さいところだから出来るわざだ。
*[01* 題 名<] 近松心中物語
*[02* 劇 団<]
*[03* 場 所<] 明治座
*[04* 演 出<] 蜷川幸夫
*[05* 戯 曲<] 秋元松代
*[06  上演日<] 1996-04-16
*[09* 出 演<]坂東八十助
*[10*    <]樋口可南子
*[11*    <]嵐徳三郎
*[12*    <]園佳也子
 舞台が帝劇より二回りくらい小さかったが、役者も主役から脇役まで二回りづつ小さい。小さいだけならともかく、樋口をはじめとして、口跡が悪く、台詞が聞きにくい役者が多い。お亀の寺島しのぶは朝日ではほめていたが、台詞が聞きとれない。長期公演で声がつぶれたのか。
 帝劇版とつい較べてしまうが、八兵衛の嵐徳三郎は特に見劣りがする。憎々しさでは金田龍之介に匹敵するが、金田の憎々しさは陽性で豪快なのに、この人の憎々しさは陰性で、後味が悪い。また、金田は舞台をぐっと締めたり、盛り上げたり、自由自在だったが、嵐の八兵衛はせこせこしているだけで、緊張も生まない。
 園佳也子の姑は山岡久乃がやった役だが、うまいものの、やはり後味が悪い。スカッとしないのだ。こんなことばかり言っていると、団菊爺になってしまうが。
 ラスト、一階席全体に紙吹雪が舞う趣向が評判だが、蜷川のことだから、せせこましい舞台に業を煮やし、最後に鬱憤ばらしをしたのではないか。
*[01* 題 名<] 千里送京娘
*[02* 劇 団<] 北方昆曲劇院
*[03* 場 所<] 東京芸術劇場中ホール
*[06  上演日<] 1996-05-21
*[09* 出 演<]侯少奎
*[10*    <]侯爽
*[11*    <]董宏崗
*[12*    <]楊帆
 北昆の代表的な演目だそうだが、地味な京劇ぐらいにしか見えなかった。
*[01* 題 名<] 夕鶴
*[02* 劇 団<] 上海昆劇団
*[03* 場 所<] 東京芸術劇場中ホール
*[04* 演 出<] 郭小男
*[05* 戯 曲<] 木下順二
*[05* 翻 訳<] 鄭拾風
*[06  上演日<] 1996-05-21
*[09* 出 演<]梁谷音
*[10*    <]計鎭華
*[11*    <]劉異龍
*[12*    <]張銘栄
 都民劇場50周年とかで、今月はこれ以外に選択肢がない。あまり見たくはなかったのだが、意外に面白くてびっくり。日本版「夕鶴」は、民話劇の趣向を借りた現代劇で、おつうの独白がうるさいが、昆劇版では独白はほとんど歌になっていて、くどくど説明するかわりに、情熱を直線的に歌いあげる。すかっとしているのだ。
 梁谷音のあでやかで、情熱的で、明るい碧玉(おつう)は、山本安英の貧乏くさく、御不浄の臭いのするおつうより格段に親しめたし、阿平(与ひょう)も商業資本に虐げられた愚鈍な農民というより、そそっかしい若者で、彼に悪知恵をつける張三(惣ど)と李四(運づ)の悪党も越劇の道化として演じられている(張三はフランキー堺、李四はトンネルズのノリタケそっくり)。鶴が機を織る場面が出てこないのも好感がもてた。
*[01* 題 名<] ヴェニスの商人
*[02* 劇 団<] グローブ座カンパニー
*[03* 場 所<] グローブ座
*[04* 演 出<] マーフィー
*[05* 戯 曲<] シェイクスピア
*[05* 翻 訳<] 
*[06  上演日<] 1996-05-25
*[09* 出 演<]毬谷友子
*[10*    <]木場勝己
*[11*    <]竹下明子
*[12*    <]松田洋治
*[13*    <]武正忠明
*[14*    <]山崎清介
 稽古場スタイルの演出で、役者は稽古着で登場し、客席の照明がついたままはじまる。当然、出番が終わってもひっこまず、壁ぎわで芝居の進行を見ている。
 なにを今さらと思ったが、だんだん意図がわかってきた。演出家は「ベニスの商人」を16世紀に書かれた古典喜劇としてではなく、現代に通じる問題劇として観客につきつけたいらしいのだ。
 問題劇の「問題」とはユダヤ人差別である。この芝居にはもともとユダヤ人の金貸しを罵倒するきわどい台詞がたくさん出てくるが、この舞台では特にユダヤ人罵倒の台詞が目立つにように演出されており、今回のために新訳されたという台本も、ことさら差別的な表現をどぎつく訳しているらしい。最後のみんなでなごやかに笑いあう場面でも、ユダヤ人を攻撃する言い方に傷ついたジェシカが一人で泣きながら舞台裏にひっこむという演出がされていたが、こんな終わり方の「ベニスの商人」ははじめてだ(原作にもこういう指定はなかった)。
 演出家の問題意識はわかるけれども、「ベニスの商人」でわざわざこういう問題意識を押しつける必要があるのかなと思った。特に喜劇としてなかなかこくのある出来の舞台だっただけに、演出家の問題意識が空回りしているような印象がなくはない。
*[01* 題 名<] きぬという道連れ
*[02* 劇 団<] まにまアート社
*[03* 場 所<] 俳優座劇場
*[04* 演 出<] 石澤秀二
*[04*    <]@立沢雅人
*[05* 戯 曲<] 秋元松代
*[06  上演日<] 1996-06-04
*[09* 出 演<]徳永街子
*[10*    <]新克利
*[11*    <]立沢雅人
 丹後の機織の町で代々機屋を営んできた男が、東京オリンピックを期に投資をしたばかりに倒産し、妻と二人で夜逃げして、山道を懐中電灯を手に逃げる話。一種の道行だが、二五〇年前の百姓一揆にさかのぼる機織の町の歴史がつぎつぎと去来し、最後にたどりついた無人の山奥の村で、山姥に出会う。
 羽衣伝説、浦島伝説など神話的手法も使うが、男女六人づつのコロスが灰色の忍者みたいな服装で、さまざまな人物となって二人にからむが、洋舞+マスゲームの恥ずかしい演出なので白けてしまう。女のコロスがやる機織の仕草もマシン・ジムみたいだ。主演の二人はまあまあうまくいっているのだから、秋元松代を新劇の枠内で演出すると、こうなるという見本のような出来といわざるをえない。
 山姥の立沢雅人は、嵐徳三郎を明るくした感じで、口跡もよく、謡いもうまい。
*[01* 題 名<] 瀕死の王さま
*[02* 劇 団<] 木山事務所
*[03* 場 所<] 三百人劇場
*[04* 演 出<] 末木利文
*[05* 戯 曲<] イヨネスコ
*[05* 翻 訳<] 大久保輝臣
*[06  上演日<] 1996-06-05
*[09* 出 演<]野沢那智
*[10*    <]堀内美希
*[11*    <]水戸部千希己
*[12*    <]中村まり子
*[13*    <]益富信孝
*[14*    <]本田次布
 役者たちのただよわせるおかしみがいい。あきらめてしまったような第一王妃の堀内(台詞のとちりは多かったが)、あれこれ色気で画策する第二王妃の水戸部、無愛想な家政婦の中村、微妙にタイミングのはずれた衛兵の益富の四人は絶品。こういう品のいい滑稽味は末木演出ならでは。
 王さまの野沢は最初こそ台詞が上すべり気味だったが、軽さが役にあっているし、やはり主役の器だなと思う。久々の本田の医者兼占星術師は無難だが、声がかすれ気味。
 死をめぐって堂々回りする後半がだれ気味で、ここが立体的に立ちあがったら傑作だったと思う。
*[01* 題 名<] 愛と偶然の戯れ
*[02* 劇 団<] 櫻花舎
*[03* 場 所<] 青山円形劇場
*[04* 演 出<] 守輪咲良
*[05* 戯 曲<] マリヴォー
*[05* 翻 訳<] 鈴木康司
*[06  上演日<] 1996-06-07
*[09* 出 演<]天祭揚子
*[10*    <]博田章敬
*[11*    <]阿部麻子
*[12*    <]英丘礼資
*[13*    <]石塚智二
*[14*    <]華島光陽
 マリヴォーお得意の入れかわりの喜劇。再演のせいかすこぶる洗練されていて、余計な芝居がない。台本通りにやって、楽しく盛りあがり、エゴイズムの残酷な面も見せるという演出はみごとだ。
 ただ、演出が端正すぎて、役者にはバーが高かったかもしれない。特に二人だけの場面になると、役者の力不足があらわになる。一対一の対決で、緊張が高まらなくてはならないのに、舞台の密度がスーッと引いていってしまうのだ。最初は主演の二人だけかと思ったが、召使カップルの場面でも、同じことがおこった(ギャグがあって、騒々しくはねまわって、役者には楽な場面なはずなのに)。一対一の対決で発揮されるべきロココの裏面の残酷さがもっと出ていれば、厚みのある舞台になったはずだ。
 天祭揚子は憎らしくなりかねない役をかわいらしく演じとおした。父親の石塚智二は危なっかしい芝居に中心をあたえた。この舞台は彼でもったところがある。
 もっと役者に力がついてから、また見たいと思う。
(櫻花舎のホームページに今回の公演のデータが載っているが、写真の方は初演の時のもののようだ)。
*[01* 題 名<] 薔薇と海賊
*[02* 劇 団<] 
*[03* 場 所<] 紀伊国屋
*[04* 演 出<] 大間知靖子
*[05* 戯 曲<] 三島由紀夫
*[06  上演日<] 1996-07-08
*[09* 出 演<]高林由紀子
*[10*    <]井上倫宏
*[11*    <]小松エミ
*[12*    <]三谷昇
*[13*    <]有川博
*[14*    <]勝部寅之
 三島にこんなぶっとんだ作品があったとは! これはまるで石川淳の世界ではないか。
 童話作家のところに、彼女の大ファンだという知恵遅れの青年が世話役の初老の男といっしょに訪ねてくる。彼の純粋さに打たれ、二人はたちまち恋におちてしまうが、実は彼女は夫と形だけの結婚生活を送っていて、二十年前に彼にレイプされた時以来、セックスを拒絶して純潔を通している。家には海外放浪からもどってきた夫の弟が寄食していて、夫は彼に妻を誘惑するように頼む始末。レイプの結果生まれた娘だけが現実派で、ロマン過剰の家から出ようとしている。
 最初の童話のロマンで二人が盛りあがる部分は気持ち悪かったが、異常な結婚生活の実態が明らかになってきて、三島の自己パロディが本領を発揮してくると、がぜんおもしろくなってくる。ラストの幽霊の力を借りた御都合主義の展開も楽しい。
 中年のぐうたら兄弟を演じる有川・勝部の二人がいかがわしさを芬々とただよわせ、なんとも変てこな味を出している。はまり役というべきか。娘をやった小松エミはスチールはブスだが、舞台ではなかなかチャーミング。三谷はしょぼくれた中年男をやらせたら右に出る者がないし、幽霊になる二人の老人もとぼけていていい。主役の二人はまあまあだが、こういう変てこな脇役がうまいのが、円のいいところだ。
 これは重要な作品だと思う。三島観を根本的にあらためなくては。
 楽日だったので、カーテンコールで大間知靖子が三谷の紹介で登場。
*[01* 題 名<] ピアノ
*[02* 劇 団<] T.P.T.
*[03* 場 所<] ベニサン
*[04* 演 出<] 中島晴美
*[05* 戯 曲<] グリフィス,トレヴァー
*[05* 翻 訳<] 松岡和子
*[06  上演日<] 1996-07-09
*[09* 出 演<]佐藤オリエ
*[10*    <]堤真一
*[11*    <]吉添文子
*[12*    <]平栗あつみ
*[13*    <]大森博
*[14*    <]春海四方
 廊下のような細長い舞台を両側から客席がはさむ。廊下は石炭置場からのびていて、突きあたりにはすりガラス越しに酒瓶のならぶパイプ台が見える。暗転し、頭上、斜めにわたした吊橋がぽっと明るみ、二人の召使の声が聞こえてくる。なにか重いものを渡しているらしい。重さで吊橋がたわみ、危なっかしい。なんとも重苦しい出だしで、これが「ピアノ」かと意外に思った。
 貴族たちの馬鹿騒ぎがはじまっても、重苦しく、憂愁をたたえ、時にピリピリしたタッチはライミングの「ピアノ」とはまったく違って戸惑う。もちろん、ミハルコフの「機械仕掛のピアノ」とも。
 一幕の前半はギクシャクして、超低空飛行。特にソフィアとプラトーノフが再会し、冴えない教師になりさがった彼に対して彼女が問い詰める場面で沈黙をひっぱるところは、場が白けるのを通り越して客席が白けかけ、芝居が破綻する寸前までいった。舞台が低調なのに、長い沈黙をはさむのは自殺行為だ。数日前に出た否定的な朝日の劇評は当っているのかと思った。
 しかし、佐藤オリエのアンナの頽廃を体現したこってりとした存在感と、召使頭のサーシャ(春海)の当意即妙な受け答えを軸にすこしづつ調子があがってきて、アンサンブルがなめらかに動きだすようになると、ミハルコフ=ライミングとはまったく別のことをやろうとしているのだとわかってくる。
 ミハルコフ=ライミングのアンナは陽気にはしゃいで、虚しさから逃げまわっていたが、T.P.T.のアンナは虚しさに直面し、目をそむけようとしてもそむけられず、ギリギリさいなまれている。これはまさにルヴォーの世界だ。喜劇性が足りないとした朝日の劇評は間違っている。
 本当の調子が出たのは二幕になってからだ。細長いテーブルをはさんだ会食の場面で、農奴からの成り上がりの (田代)が金を出しているのは自分だと朗々と語ると、貴族社会の脆さが自明のものとして浮かびあがってくる。ライミングでは同じ台詞を吉田鋼太郎が貴族社会に挑戦するように語ったが、今回の田代は挑戦するまでもないという調子で、貴族社会そのものがここで狭苦しい牢獄に変貌する。そして、ソフィアとプラトーノフのなじりあい、さらにプラトーノフとアンナにプロポーズしたがふられたポルフィーリーとの対決へ一気になだれこんでいく。ここでの沈黙はすごい。去っていくプラトーノフに、ポルフィーリーは唾をはきかけるが、唾が衿にかかったとを気にする場面をつけくわえたのも効いている。ポルフィーリーの山本享はJACの出身だそうだが、なかなかの役者だ。
 プラトーノフの自殺未遂はなまじ頭上の吊橋を使ったためにわかりにくくなった。自殺が失敗したことがわからなかった人もいたかもしれないし、すくなくとも客席に笑いは起きなかった。笑いより苦いアイロニーをとったのだが、自殺が滑稽な失敗におわったことがはっきりわかれば、アイロニーの苦さがもっと際立ったと思う。
 朝日の劇評がプラトーノフはもっと喜劇的な人間だと書いたのはこの点をさしているのだろうが、ここを笑いで流してしまっては芝居がくずれてしまう。喜劇ではなくアイロニーの観点から注文をつけるべきだった。
 アンコールの拍手が長かったし、立見が何人か出ていて、パンフレットが売り切れで、ほしい人はお金を払って、後日郵送になっていたから、公演は成功だったのだろう。
Copyright 1997 Kato Koiti
This page was created on Feb10 1996; Last Updated on Jan07 1997.

演劇1996年 2
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