三島由紀夫みしまゆきお

加藤弘一

生涯

 劇作家、エッセイスト、小説家。1925年1月14日、東京四谷で農商務省官僚、平岡梓の長男として生まれる。本名公威。祖父定太郎は原敬の懐刀といわれた内務官僚だったが、樺太庁長官に抜擢されたものの、汚職事件で失脚している。初等科から高等科まで学習院で学んだが、16歳の時、「花ざかりの森」を三島由紀夫の筆名で「文芸文化」に発表。同誌の人脈をたどり、日本浪曼派に接近する。1944年、創作集『花ざかりの森』を刊行後、東京帝大法学部に入学。翌年、応召するが、軍医の誤診で即日帰郷となり、勤労動員で「雷電」を作っていた海軍高座工廠に配属される。1948年、高等文官試験に合格し、大蔵省に入省するが、8ヶ月で退職、作家生活にはいる。

 1949年、初の書下し長編小説『假面の告白』を刊行。歪んだ生いたちと男色への傾斜、破れた初恋を赤裸々に語った小説で、自己劇化が顕著だが、絶賛を受ける。翌年、戯曲「邯鄲」を発表。この後も「卒塔婆小町」など、能を現代に置きかえた連作を書き、1957年に『近代能楽集』としてまとめる(三島戯曲中でもっとも上演回数が多い)。同年、同じ東大法学部学生が起こした光クラブ事件に取材して『青の時代』を書く。モデル小説の趣好も、繰りかえし踏襲することになる。1956年、『金閣寺』を発表。小説家としてのピークをむかえる。

 1958年、ブールバール調の喜劇「薔薇と海賊」と、歌舞伎台本「むすめごのみ帯取池」を発表・初演。1960年、「熱帯樹」を発表(初演は翌年)。1961年、江戸川乱歩の「黒蜥蜴」を脚色(映画化にあたっては自ら出演)。1963年、オペラ「美濃子」を発表。1965年、最高傑作「サド侯爵夫人」を発表・初演。同年、「憂国」を自らの監督・主演で映画化(封切は翌年)。三島の本領は演劇にあった。

 この頃から急激に憂国の情を深め、1967年には身近に集めた青年たちとともに自衛隊に体験入隊し、翌年、「楯の会」を結成する。「朱雀家の滅亡」、「わが友ヒットラー」のような秀作はあるが、創作力の衰えは蔽いがたい。

 1970年11月25日、「楯の会」の青年たちとともに自衛隊市谷駐屯地で決起するも、自衛官たちの嘲罵を背に自決。45歳だった。

舞台

参考文献

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