演劇ファイル Jan - Oct 1997
加藤弘一
*[01* 題 名<] 巨匠
*[02* 劇 団<] 民藝
*[03* 場 所<] 俳優座劇場
*[04* 演 出<] 内山鶉
*[05* 戯 曲<] 木下順二
*[06 上演日<] 1997-01-13
*[09* 出 演<]大滝秀治
*[10* <]伊藤孝雄
*[11* <]千葉茂則
*[12* <]西川明
*[13* <]棟方巴里爾
*[14* <]南風洋子
1967年にNHKで放映された同じ題名のポーランドのTVドラマ(ジスワフ・スコヴロンスキ作)を木下順二が脚色したもの。
登場人物Aが幕がしまったままの舞台袖にあらわれ、ポーランドのTVドラマに感動したある劇作家がどうのこうのと説明をはじめる。幕があくと、「マクベス」初日を控えた主役を演ずる俳優の楽屋で、登場人物Aは演出家役で芝居に参加する。俳優は伊藤孝雄で、演出家と衝突した短剣のくだりをさらったあと、20年前、ワルシャワ蜂起直後の想い出を話はじめる、という額縁芝居。
蜂起に参加した若い日の俳優は、収容所送りの列車から脱出し、家を失った人々が避難している小学校に逃げこむ。彼はインテリばかりが集まっている部屋に潜むが、ゲシュタポが入ってきて、パルチザンの線路爆破の見せしめに、五人いるインテリのうち、四人を処刑すると通告する。
ピアニスト、前町長、医者、教師が選ばれるが、巨匠という綽名の旅回り芝居の老優は、簿記係の身分証明書を持っていたので処刑からははずされる。命拾いした老優は、自分は俳優だと言いはるが、ゲシュタポの中尉は相手にしない。そこで、マクベスの短剣の独白を演じてみせ、すすんで処刑されるという話。
極限状況のドラマらしく、どんどん緊張感が高まっていったが、ゲシュタポの中尉の登場で芝居が破綻する。温厚そうで全然こわくないし、小声でドイツ語もどきをしゃべるが、声が甲高いので笑ってしまう。
俳優の伊藤、演出家兼狂言まわしの千葉という格調高いバリトンで幕開けしただけに、あの声にはがっくりきた。
医者役の西川は冷静な知識人らしく、堂々として、印象的。
老優が最後に演ずるマクベスは、新国劇っぽい、無骨な演技だが、気迫がこもっている。旅役者だから、これでいいのだ。
*[01* 題 名<] 仮名手本ハムレット
*[02* 劇 団<] 木山事務所
*[03* 場 所<] 東京芸術劇場中ホール
*[04* 演 出<] 末木利文
*[05* 戯 曲<] 堤春恵
*[06 上演日<] 1997-02-03
*[09* 出 演<]内田稔
*[10* <]藤木孝
*[11* <]磯貝誠
*[12* <]林昭夫
*[13* <]坂本長利
*[14* <]早坂直家
十二代目守田勘弥が借金に借金を重ねて運営してきた新富座で「ハムレット」をかけようとしている。その総ざらいの日のてんやわんやを描く。歌舞伎くささが抜けない出演者、観念的な言葉でしかシェイクスピアを語れない演出の男爵、グラント将軍の引き幕を狙う借金取り、「ハムレット」が評判を取る前に新富座買収をたくらむ大阪の興行主と、勘弥は四面楚歌状態。
仇討ちを誓ったのに、なぜ自殺を考えるのか──ハムレットの独白の場面がどうしてもわからない主演の市川新蔵に、勘弥は忠臣蔵の一力茶屋の場の心境と説明する場面は秀逸。滑稽だった歌舞伎もどきの新蔵(藤木孝)の芝居が、ぴたっとはまる瞬間は思わず拍手。
よくできた芝居なのだが、今回もお勉強くさい印象がつきまとう。
*[01* 題 名<] 魔子とルイズ
*[02* 劇 団<] 東京演劇アンサンブル
*[03* 場 所<] 俳優座
*[04* 演 出<] 広渡常敏
*[05* 戯 曲<] 立原りゅう
*[05* <] 山内久
*[06 上演日<] 1997-03-19
*[09* 出 演<]志賀澤子
*[10* <]真野季節
*[11* <]上條恒彦
*[12* <]長畑豊
*[13* <]田辺三岐夫
*[14* <]里居正美
グランドピアノの蓋を、突きだした舌のところでぐにゃっと曲げたような中舞台が、舞台の上に設営されている。明るくなると、客席に突きだした舌のところに、中年の二人の女が座っている。ビュウビュウ激しく吹く風に負けまいとする声で、満州がどうのこうのと喋っている。大杉栄と伊藤野枝の娘の魔子とルイだ。
舞台が暗転して、背後の壁に大杉と野枝の十七回忌と出る。舞台左手のピアノの蓋のひっこんだ部分に、大杉栄全集をのせた卓袱台を囲み、遺族が集まっている。二人姉妹に辻潤の息子のまこと、魔子の夫で新聞記者の田所、野枝の母だ。
遺族たちは黙っているが、ピアノの蓋の上に甘粕大尉があらわれ、裁判官の質問に答えるように、大杉惨殺を正当化する演説をはじめる。判決がおりて、退場してから、大杉の遺族たちが語りはじめる。
つづいて満州の場面。満鉄職員となって勇躍渡満した佐分利とルイを、辻まことが訪ねる。五族協和の現実に佐分利は幻滅し、くじけかかっている。
そして、日本の敗戦。暗転からひときわ明るくなり、ルイがおしめを干しているところに、矢島という若い女性記者が取材におとずれる。佐分利は労組の委員長になり、希望に燃えている。東京の日本アナキスト連盟の設立集会に出た魔子が、添田という老アナーキストといっしょに帰ってくる。高揚する気分のまま、魔子は家庭の幸福を大切にするルイをなじるが、佐分利はおしめは未来のシンボルだと力強く断言する。
次は添田のやっている博多人形の工房、雲月堂(工房の名はそのままだが、添田のモデルは副島辰巳)。黒木という、後に魔子とかけおちする青年が弟子いりする。
佐分利はレッドパージにあって失職するが、共産党ではないので復職するも、職場で白い目で見られ、生活が荒れだす。
と書いていくときりがないが、共産党の蔭になって、あまり知られていないアナーキストの人々の活動が描かれていて興味がつきない。
少女っぽさを失わない魔子(真野季節)とルイ(志賀澤子)も魅力的だが、黒旗を掲げつづける添田老人や、添田にほれこんでいる内藤という老職人(伊藤克)、駄目になっていく佐分利(上條恒彦)、ひたむきな矢島記者(原口久美子)、学問はないが一本筋の通っている野枝の母のうめ(羽鳥桂)と、みんなきらきらしている。
*[01* 題 名<] 野分立つ
*[02* 劇 団<] 文学座
*[03* 場 所<] 三越劇場
*[04* 演 出<] 藤原新平
*[05* 戯 曲<] 川崎照代
*[06 上演日<] 1997-04-16
*[09* 出 演<]倉野章子
*[10* <]高原駿雄
*[11* <]郡山冬果
*[12* <]中村彰男
*[13* <]稲目和子
*[14* <]川辺久造
築40年以上の古い家に、未亡人と娘と祖父が三人で暮らしている。家計は未亡人の佐和子が働きに出てささえ、舅の宗一は家事、娘の綾子は短大で、他に北海道の大学にいっている長男がいる。佐和子は宗一を乱暴な言葉でこきつかい、宗一は嫁に叱られたり、こきつかわれたりするのを結構よろこんでいる。二人のかけあいは痛快で、そこにおしゃまな娘がからんでくると舞台がパーっと明るくなる。こういう一家団欒もあるんだなと思う。
台風接近の日、亡夫の姉で海外暮しの長かった鈴子が訪ねてきて、突然、家をあけわたしてくれと言いだす。家を建てかえ、宗一の面倒は自分たち夫婦で見るというのだ。実の父娘のように暮らしてきた宗一はなにも言わない。
鈴子の帰ったあと、北海道から長男の邦彦が突然もどってくる。学会に出る教授のお供で東京に出てきたのだという。佐和子は家を出ることになった事情を説明するが、邦彦は実の父娘のようにふるまっても他人なんだから、出ていくのは当然だととりあわず、さらに父の死後、宗一と仲がよすぎるのを祖母が嫉妬していたと言いだし、自分が北海道の大学を選んだのはそのせいもあるとほのめかす。愕然とする佐和子を後目に、邦彦は嵐の中を早々に帰っていく。
二幕では家を出る話は本決まりになって、建てかえのために亡夫の勤めていた建設会社の後輩がやってくる。彼は会社の資料室で発見した二世帯住宅の設計図と、それをもとに作った模型をもってくる。それは亡夫が自分の家の建てかえのために引いた図面だった。細部まで工夫がこらされていて、家庭を省みないと思っていた夫の意外な一面におどろく。模型の屋根をはずすと、子供部屋にベッドが三つ並んでいて、後輩がうっかり「二人生まれたところで死んじゃったんだ」と口をすべらすところが一つの山場になっている。ずっとおさえてきた佐和子がここで激情をのぞかせるが、ここの倉野の芝居はりりしくて実にいい。
最後の場面で、佐和子は気落ちしている宗一を引きとるという貧乏くじを自分から引くが、NHKの単発ドラマを見ているような印象がなくもない。
結末こそTVのホームドラマそのものだが、人物の対立は時にTVの限度を越えるところまでつきつめられ、ああ、これは演劇だったんだなと納得する。適度に糠味噌くさいが、舞台女優の柄をもつ倉野の功績も大きい。
*[01* 題 名<] 草迷宮
*[02* 劇 団<] メジャーリーグ
*[03* 場 所<] コクーン
*[04* 演 出<] 蜷川幸夫
*[05* 戯 曲<] 泉鏡花
*[05* 潤 色<] 岸田理生
*[06 上演日<] 1997-04-22
*[09* 出 演<]浅丘ルリ子
*[10* <]田辺誠一
*[11* <]辰巳琢郎
*[12* <]剣持たまき
*[13* <]新橋耐子
*[14* <]大富士
幕のない舞台には夏草が繁茂し、ところどころに白い花がついている。中空におなじみの巨大な月がかかり、演歌調の曲が流れ、魔界の住人が跳梁跋扈する。せりあがってくる水槽の中に膝をかかえて横たわっていた浅丘ルリ子がすっくと立ちあがり、澄みきった美声で鏡花の唐草模様のようにいりくんだ台詞を嫋嫋と歌いあげる。ああ、蜷川ワールドだなあと思う。
今回は褌一つで山野をかけまわる旅商人が出てきたり、子供芝居が登場したり、大きな月を覆いかくすほどの手鞠がバーンとおりてきたりと新趣向がこらされているが、いつもほど酔えない。
相手役の田辺誠一(トップモデルだそうだ)ががらがら声で、浅丘ルリ子の美声に水をかけてしまうことが大きいが、舞台が小さくて、ごちゃごちゃしていることもある(コクーンであの手鞠は大きすぎるのではないか)。キムタクを使って帝劇でかけるべき芝居だったと思う。
*[01* 題 名<]
アニーよ銃をとれ
*[02* 劇 団<]
*[03* 場 所<]
新宿コマ
*[04* 演 出<]
小池修一郎
*[05* 戯 曲<]
フィールド,ハーバート
*[05* <]
フィールド,ドロシー
*[05* 翻 訳<]
小池修一郎
*[06 上演日<]
1997-04-23
*[09* 出 演<]
高橋由美子
*[10* <]
石川禅
*[11* <]
麻倉未稀
*[12* <]
小松政夫
*[13* <]
鹿内孝
*[14* <]
畠中洋
コマは15年ぶりくらいだが、劇場全体が歌舞伎座三階席のような雰囲気は昔通り。若いOLのグループや、修学旅行の中学生の団体が三つはいっているのはわかるとして、オバンサンや老人のグループがやけに多い。再春館製薬の冠公演のせいか。
高橋由美子は歌はぱっとしないが、華がある。男まさりの女という感じにはならないが、自然児の天衣無縫さはでている。俺、俺」という台詞はかわいくていい。これなら「リボンの騎士」をやっても面白いだろう。
脇はフランクの石川禅、シッティグ・ブル酋長の小松政夫、ドリーの麻倉未稀と芸達者がそろっていて、歌、踊りともレベルが高い。回り舞台が三段にせり上がる一幕の終わりの、アニーを養女にする儀式のインディアン・ダンスはなかなかの見もの。
残念なことに、音響設備が劣悪で、ワンワンしてしまい、せっかくの歌が満足に聞きとれない。こんなに音が悪かっただろうか。
1943年版の台本を復活させたということで、アニーがフランクにわざと負けて花をもたせ、二人で一座を結成するという結末になっている。ヨーロッパ公演から尾羽打ちからして帰ってきたアニーは、ちょっと生意気になっているが、シッティング・ブルのアドバイスで、負けるが勝ちと納得して負けてみせる。フランクはおめでたいなという印象にまとめてあり、この解釈は正解だと思った。アニーはヨーロッパの王族からもらった勲章もあっさり譲ってしまうし、勝負に負けて名声に傷がつくとかも一切気にしていない。この自然児ぶりに、すがすがしい印象が残る。
*[01* 題 名<] トゥーランドット姫
*[02* 劇 団<]
*[03* 場 所<] コクーン
*[04* 演 出<] ジョーウォ,ルドルフ
*[05* 戯 曲<] ゴッツィ,カルロ
*[05* 翻 訳<] 関口時正
*[06 上演日<] 1997-05-14
*[09* 出 演<]吉田日出子
*[10* <]真名古敬二
*[11* <]毬谷友子
*[12* <]木ノ葉のこ
*[13* <]深貝大輔
*[14* <]冨岡弘
幕があくと、舞台半分はありそうなキルトが下がっているだけの空っぽの舞台。背景は黒一色で、パーカッションを中心にした四人の楽隊が控える。皇帝と姫の玉座も二脚の脚立であらわされる。練習着の役者たちが出てきて、道化芝居をはじめる。
いかにもポーランド前衛劇という感じの幕開けだが、道化芝居が道化芝居になっていない。役者に道化芸やパントマイムの基礎がないので、仕草がぐずぐずしている。切れが悪く、スピード感もなく、見ていて肩が凝ってくる。
これは失敗作かなと思ったが、パセティックな場面は見違えるようにすばらしい。哀切で、水際だっていて、芸術の香高い。亡国の王子、カラフ役の真名古敬二がかっこいい。
さんざん待たせた末に登場するトゥーランドット姫役の吉田日出子はぞくぞくするくらいすばらしい。これまでの役の中でいうと、クスコの線だが、激情が芸術的に昇華されていて、彼女のキャリアの中でも最高の出来ではないだろうか。拷問している老人がカラフの父親だとわかる場面などで、ボケの持ち味がちらっと出るところなど、余人に真似のできないおもしろさだ。
毬谷友子が演ずる奴隷にされている亡国の姫のアデルマはドラマティックだが、流れの中では浮いていた。演出家が十分コントロールできなかった感じだ。
残念なのは、パセティックな場面をつなぐ道化劇がどうしようもなくひどく、場面の間にはいるリルケやレリスの朗読も効果をあげていないことだ。タイトルに「阿呆劇 トゥーランドット姫」とあるのに、困ったものだ。
しかし、それでも第一級の出来で、感動的である。ちゃんとした身体訓練を受けた役者が演じたら、今年最高の舞台になっていただろう。
*[01* 題 名<]
熱帯樹
*[02* 劇 団<]
ク・ナウカ
*[03* 場 所<]
和敬塾(旧細川侯爵邸)
*[04* 演 出<]
宮城聰
*[05* 戯 曲<]
三島由紀夫
*[06 上演日<]
1997-06-03
*[09* 出 演<]
美加理
*[10* <]
川相真紀子
*[11* <]
大高浩一
*[12* <]
ヴァキエ,ジェローム
*[13* <]
友貞京子
*[14* <]
久保酎吉
旧細川公爵邸というから、サロンでやるのかと思ったが、三階というか、屋根裏部屋のようなところでやる。戦前の洋館だが、意外にこぢんまりしていて、階段の上に格子戸の納戸があったりして、日本風の作りになっている。建築史的にもおもしろいのではないか。
会場は低い天井の四方が屋根の形に合わせて斜めに落ちこんでいて、舟を裏返しにかぶせたよう。ベンチ席をぎっしり作りこんでいて、まるでスズナリ。冷房がないのに、百人以上詰めこんでいるので蒸し暑く、酸欠になりそう。しかし、休憩時間にベランダに出ると、東京とは思えない夜闇に木立が亭々としずまり、なかなかの雰囲気だった。虫の音も聞こえてくる。
暗転のあと、スポットライトで金属ベッドが浮かび上がる。上体をおこしている娘はおかっぱで、戦前の土臭い日本少女を思わせる。兄は神経質そうな現代風の青年で、美加理の母は無国籍マネキン風、父親はエジプト風の衣装のフランス人というミスマッチだが、ク・ナウカの語り物の様式に力ずくで統合されている。
不治の病におかされた無垢の少女が小鳥を面白半分に殺す気持ちを歌いあげる絢爛豪華な台詞を、ク・ナウカ式に男の俳優が朗唱する。アンドロイド歌舞伎と呼ぶべきか。あの恥ずかしくなるようなブルジョワ趣味の美文は、こうでもしないとリァリティがないかもしれない。
美加理の演ずる母は、悪の凄みを感じさせることはないが、マネキン人形の石膏の脳髄を、ひだひだ一つ一つまでなぞっていくような無機質の美しさがある。痛烈な三島批判になっていると同時に三島讃美にもなっていて、もしかしたら傑作かもしれない。これから三島の上演を見ると、この舞台が二重映しになりそうだ。
自転車で兄と妹が出奔するというラストは、石川淳を連想させる。「薔薇と海賊」でも思ったが、三島の戯曲と石川の小説は妙に近い。
クライマックスで美加理とフランス人が、それぞれの言葉で会話をかわすところは様式の一貫性がくずれた。ない方がよかった。
*[01* 題 名<] 昭和歌謡大全集
*[02* 劇 団<]
*[03* 場 所<] セゾン
*[04* 演 出<] 蜷川幸夫
*[05* 戯 曲<] 清水邦夫
*[05* 原 作<] 村上龍
*[06 上演日<] 1997-07-09
*[09* 出 演<]島田陽子
*[10* <]手塚理美
*[11* <]東ちづる
*[12* <]西川峰子
*[13* <]壌晴彦
*[14* <]筒井道隆
*[15* <]勝村政信
*[16* <]井手らっきょ
*[17* <]村田雄浩
*[18* <]不破万作
絶対芝居になりそうもない原作をどう料理するのかという興味で見にいったが、意外によく出来ていた。青年たちのたまり場のアパートに囲まれた廃車置場と、緑会のたまり場のレストランの二つを主な舞台とし、装置を入れ換える間、紗幕をおろして説明字幕を映したり、紗幕の前や客席通路で役者がカラオケを歌ったりしてつないでいく。
一幕の前半は空中分解寸前だったが、最初の復讐がおこなわれ、青年たちがアパートの住民といっしょに通夜をおこなうあたりから調子が出てくる。ここから登場する人形マニアで兵器ヲタクの中年男をやった壌晴彦の力が大きい。
大がかりな装置を迅速にいれかえるために、舞台の奥行はずいぶん浅くなったが、役者が頻繁に客席におりてきたり、客席までライティングすることで、広がり感を確保した。最後の燃料気化爆弾で調布が壊滅するシーンは、紗幕に住宅地の航空写真を映し、音とストロボでおどろかせたあと、核爆発のフィルムを流してごまかしたが、半透明の紗幕の向こうに焼け野原が広がり、映画のエンディングのように紗幕にキャストやスタッフの名前が流れていく。蜷川のスタッフの力を動員すれば、どんなものでも芝居になってしまうという見本か。
オバサンの緑会にスキャンダル女優を勢ぞろいさせた意図は成功している。M78を入手するために、富士山麓の山荘にいくシーンでは、台詞通り、オバサンたちが本当に輝いていた。さしもの片桐はいりも顔色ない。リーダー格の手塚理美が一本調子なのは残念だが、演技力の不足を役者の地をとりこむことでプラスにしている。
青年たちは影が薄く、不破万作をリーダーとするアパートの住民にも負けている。歌われる歌謡曲がカラオケボックスの中の自己陶酔ではなく、ほとんど合唱になってしまうあたり、清水邦夫の脚本が 60年代を引きずっていて、現代の若者をとらえきれていないせいかもしれない。
清水の脚本は、ロルカを無理矢理いれるなど、わがままをやっているが、よくまあまとめたものだと思う。
*[01* 題 名<] 村岡伊平治伝
*[02* 劇 団<] 俳優座
*[03* 場 所<] 俳優座劇場
*[04* 演 出<] 増見利清
*[05* 戯 曲<] 秋元松代
*[06 上演日<] 1997-09-03
*[09* 出 演<]てらそま昌紀
*[10* <]石田大
*[11* <]田野聖子
*[12* <]伊藤克
*[13* <]志村要
*[14* <]伊藤初雄
増見演出はところどころ隙間風が吹いて、いまいちだが、戯曲のおもしろさで 2時間50分の芝居を長さを感じずに見た。今村昌平の「女衒」以来、村岡伊平治のことは気になっていたが、あの波乱万丈のほら話を、三幕にまとめた構成力に脱帽する。
純朴な青年が大言壮語の中尉と満州に軍事探偵に出て、国士的パーソナリティを獲得する第一幕。
廈門では海員宿泊所を開き、中尉に教えこまれたいかがわしい理想主義から、日本人女郎を救出するが、八方窮して女衒に転じる第二幕。元の雇い主につかまるくらいならと、女郎の方から売ってくれと村岡に懇願するあたり、本人のほら話が元になっているにしては、リアリティがある。
シンガポールで出世し、内地から娘をかどわかしてくるシステムを確立し、伊藤博文を招くまでになる第三幕。
主演のてらそまは、一幕の純朴な青年の面影を最後まで残し、ギラギラした女衒になっても、アクの強さを感じさせない。緒方拳の伊平治は俗物そのものだったが、てらそまの伊平治は、最後まで、理想主義を半分くらいは信じつづけているのではないか。そういえば、ほとんどの場面で御真影がうやうやしく飾ってあった。
最後の幕で、村岡は日本から連れてこられて、泣きつづける娘たちを、おまえたちは「心の妻」だという涙ながらの大演説で丸めこむのだが、客席は大笑いするものの、あの屁理屈、妙に説得力がある。ヤクザ者の世間に対する引け目を、天皇=国家が救済するという構造を衝いているからだろう。
*[01* 題 名<] ゆうれい
*[02* 劇 団<] 円
*[03* 場 所<] 紀伊国屋サザンシアター
*[04* 演 出<] マーリ,タリエ
*[05* 戯 曲<] イプセン
*[05* 翻 訳<] 毛利三彌
*[06 上演日<] 1997-09-19
*[09* 出 演<]岸田今日子
*[10* <]橋爪功
*[11* <]井上倫宏
*[12* <]三谷昇
*[13* <]唐沢潤
幕はなく、正面に天井までの高さの格子のガラス窓がたち、雨滴がちょろちょろ音をたてながら流れおちている。薄緑をおびた照明が北欧らしさをかもしだす。ひんやりした装置だけでぞくぞくしてくる。
はたして傑作だった。地方の名望家の夫人が堪えてきた二十年近くにおよぶドラマを、亡夫の名を冠した孤児院を落成を明日にひかえた一晩のうちに凝縮して展開する。1880年にかかれながら、1900年までノルウェーでは上演できなかったというだけに、道徳家の放蕩、女中に生ませた隠し子、胎児性梅毒、近親相姦と、あぶない材料が次から次へと出てくる。すべてが二重三重構造になっており、野卑な大工が男爵の罪を引き受け、女中に産ませた娘まで自分の娘として育てているとわかるが、その立派な男が実は男爵夫人から金をせびりとろうとしていると二転三転するあたり、キリスト教への皮肉か。
スキャンダルで売る芝居ではない。何重底にもなっていて、梅毒という明言されない秘密の中心がわかっても、まだ何かがありそうな気がしてくる。
男爵夫人の岸田、牧師の橋爪、自暴自棄になった息子の井上、老獪な大工の三谷、硬質のフェロモンをふりまく唐沢とキャストは最高だが、惜しむらくは、台詞が十分入っておらず、時々、流れが乱れること。それにもかからわず、緊迫感が維持された。作品はもちろん、演出力もすごい。
*[01* 題 名<] 白夜
*[02* 劇 団<] T.P.T.
*[03* 場 所<] ベニサン
*[04* 演 出<] 大鷹明良
*[05* 戯 曲<] 寺山修司
*[06 上演日<] 1997-10-15
*[09* 出 演<]伊原剛志
*[10* <]平栗あつみ
*[11* <]真名古敬二
*[12* <]鈴木久美
僻地のホテルの狭い一室という設定なので、舞台の左半分に部屋、右半分はそびえ立つ壁に隠され、隣の部屋という見立て。怖い宿屋を暗示させる舞台装置だ。
扉があき、ボストンバッグを手にした主人公が、ホテルのがさつな女主人とともにはいってくる場面はムードがあって、なかなかよかった。芝居も適度に緊張感があり、好調な出だし。
しかし、平栗の女中が掃除にはいってくると、芝居がくずれてしまう。ムードはつづいているのだが、平栗の場違いな明るさに、主人公の伊原が敏感に反応してしまい、緊張感がなくなってしまった。平栗がミスキャストというより、戯曲の構造に目が向かない演出の問題だと思う。
影のある宿の主人の真名古が登場すると、多少もちなおすが、ムードが深まるだけで、芝居は立ち直らなかった。失踪した妻が、失踪直後にこの宿屋に立ち寄り、遺留品を残していたという謎が怖さまで深まらないのだ。一般的なレベルから見れば及第かもしれないが、T.P.T.でこの程度の出来は寂しい。
*[01* 題 名<] 冬のライオン
*[02* 劇 団<] 俳優座
*[03* 場 所<] 俳優座劇場
*[04* 演 出<] デヴィッド,ジョン
*[05* 戯 曲<] ゴールドマン,ジェームズ
*[05* 翻 訳<] 小田島雄志
*[06 上演日<] 1997-10-20
*[09* 出 演<]栗原小巻
*[10* <]池田勝
*[11* <]井上薫
*[12* <]田中茂弘
*[13* <]矢野和朗
*[14* <]塩山誠司
ヘンリー二世と、幽閉の王妃、エレノアの葛藤を描いた歴史劇で、キャサリン・ヘップバーンとピーター・オトゥール主演で映画化されているそうだ。
禿げて脂ぎったヘンリー二世(池田勝)が、クリスマスを前に、若い愛人(井上薫)とベッドでいちゃつく場面からはじまる。いかにも小娘という感じだが、愛人にしては威張っているなと思っていると、彼女はフランス王の姉のアレー王女で、ヘンリー二世は王妃と離婚し、彼女と正式に結婚すると約束する。王妃は何度も反乱を起こし、今はイギリスの城に幽閉中だが、クリスマスの一族再会のために、ここ、フランスのヘンリー城に呼んだのだという。
王子たちとともにあらわれたエレノア妃は、もちろん、栗原小巻。老境の王妃の威厳を出すためか、全体に鼻にかかった発声で、皮肉な傍白や引いたセリフは、声のトーンを高くしてしゃべる。映画版は見ていないが、キャサリン・ヘップバーンを意識しているような気がする。
ヘンリーはエレノア妃に離婚を懇願するが、彼女は聞きいれない。さんざん女遊びをしてきて、何度も政治的に煮湯を呑まされてきた彼女にしてみれば、最後の誇りのよりどころなのだ。
ごうを煮やしたヘンリーは、ローマ法王に謁見し、離婚を願いで、ついでにアレーを正式な王妃にし、出来そこないの三人の王子に代わって、アレーが生む王子に王位を譲ると言いだす(出来そこないの王子たちを演じた若手はもっとどうにかならないか。あれでは本当に出来そこないだ)。
エレノアはそんなことをすれば、王子たちに反乱を起こさせると言い放つが、ヘンリーはすぐさま三人の王子を地下牢に幽閉する。
ヘンリー一行がローマに進軍をはじめる前夜、エレノアは息子たちの命を救うために地下牢にはいっていく。そこにヘンリーがあわられ、エレノアと激しく言い争うが、王子たちを殺すことが出来ず、逃げるがままにする。
よくまとまっていたが、映画向きの題材だと思う。映画版を見たい。
*[01* 題 名<] 紙のドレスを燃やす夜
*[02* 劇 団<]
*[03* 場 所<] コクーン
*[04* 演 出<] 岸谷五朗
*[04* <] 寺脇康文
*[05* 戯 曲<] 一色伸幸
*[06 上演日<] 1997-10-22
*[09* 出 演<]小泉今日子
*[10* <]岸谷五朗
*[11* <]寺脇康文
*[12* <]渡辺哲
*[13* <]袴田吉彦
*[14* <]友金敏雄
「香港大夜総会〜タッチ&マギー」という映画の舞台版らしい。暗転のあと、舞台正面上のスクリーンに「香港大夜総会」というタイトルと、麻薬取り引きで人が殺されるところを、取材中の日本人ルポライター二人組が目撃するというオープニング・シーンが映しだされる。ギャングに追われて、盛り場へ逃げるのだが、スクリーンの下にダンサーがあらわれ、雑踏をあらわした群舞で舞台につなげる。映画の部分が長いし、かなり異和感がある。
場面転じてオカマ・バーの葬儀。マギーと呼ばれるゲイのママの写真が飾られているが、マギーがオカマであることを知らない妻を迎えるので、口裏をあわせるために店のオカマたちが大騒ぎ。そこへ妻で売れない脚本家のマック(小泉今日子)が登場。うまくいきかけたと思ったら、マギーの死を知らないタッチこと立浪が飛びこんできて、オカマだったことがばれてしまう。マギーは香港返還でゲイ・バーを締めなければならなくなり、カナダに移住するために金が必要だったのだ。
タッチの目撃した殺人の被害者はマギーで、マックは店を締めると言いだす。マギーの店をショーパブとしてつづけさせるために大騒動。
ショーパブとしての初日に、マギーを殺した黒社会のボスが客としてあらわれるが、渡辺哲のフルーツはボスを殺そうとして舞台はめちゃめちゃになりかける。しかし、店をつづける決心をしたマックは、腕に負傷しながらも舞台をリードする。
店側と黒社会側のWスパイのような立場のリョウが、一人でボスを殺し、自分も生命を落とす。
マックはタッチに、店をつづけたのは脚本を自由に書かせてやろうとしたマギーの愛に応えるためではなく、タッチといっしょにいたかったからだと打ち明ける。マックからベッドに誘うが、タッチの身体は反応せず、日本に帰っていく。舞台の奥に姿を消したタッチに向かって、マックは「好きよ」と叫ぶ。
かなり無理のある舞台だが、説明過剰なくらい説明がはいり、ダンスシーンや活劇シーンもてんこ盛りで、飽きさせない作りになっている。
岸谷と寺脇は PAに頼りながらも、どうにか芝居を維持したし、一歩引いた立場ながら、実はマギーの恋人のフルーツだったという渡辺哲が要所要所で引き締めている。
小泉今日子は一本調子の芝居ながら、あどけなく訴えかける声の魅力で、ヒロインの存在感はどうにか示せた。
芝居という感覚で見てはいけないのかもしれないが、若い女の子を中心に立見まで出る盛況だった(演劇ファンとは感じが違ったから、小泉や岸谷や袴田のファンだろう)。どうせ PAや実写フィルムに頼るのなら、もっと大きな小屋でかけてもよかったろう。開演前のアナウンスで、衛星放送で放映するなんて告知するのは興ざめだ。
Copyright 1997 Kato Koiti
This page was created on Feb10 1997; Last Updated on Jan03 1998.