演劇ファイル  Jan - May 1999 1

1998年12月までの舞台へ
1999年 6月からの舞台へ
加藤弘一
*[01* 題 名<] 千鳥
*[02* 劇 団<] 俳優座
*[03* 場 所<] 紀伊国屋サザンシアター
*[04* 演 出<] 阿部廣次
*[05* 戯 曲<] 田中千禾夫
*[06  上演日<] 1999-01-13
*[09* 出 演<]荘司肇
*[10*    <]大塚道子
*[11*    <]森永明日夏
*[12*    <]中野誠也
*[13*    <]児玉泰次
 島根県の旧家の当主の戦後をあつかった、意味不明の芝居。
 高額納税者で貴族院議員にもなった主人公は、戦後の財産税と農地解放で家産をなくすが、あいかわらず孫娘に剣術の稽古をつけ、かつての使用人や小作人に威張りちらしている。彼は末娘を妊娠させた山歩きの男を日本刀で負傷させて下獄した過去があり、産れた孫娘の千鳥を下女のようにあつかい、自分を「旦那様」と呼ばせている。
 一幕目は尺八を吹かせたり、裏山の洞窟で末娘と男にくさい台詞を喋らせたりと悲劇路線だが、二幕は民主化でせちがらくなった村を諷刺する風俗劇になり、三幕では主人公を煙たがって寄りつかない三人の子供を、父危篤の電報で呼びつけるが、この三人はきわめつけの俗物で、完全な喜劇路線。ラストは派手な花笠踊りで締めくくる。
 没落しただけなら、二幕で終わってしまうのだが、裏山からウラン鉱石が発見されたことから、家を誰に継がせるかという話になり、喜劇的要素がはいってくる。しかし、なぜウラン鉱石なのか。
 時事的な話題や花笠踊りのようなスペクタクルな要素があれこれあって、千草の素性とか、千草の母の行方といった謎で興味をつなぎ、千草の父親が二幕では進駐軍の通訳、三幕では探鉱技師になって思わせぶりに再登場するなど、観客の興味をひっぱるものの、末梢的な技術で終わっていて、見終わると徒労感しか残らない。
*[01* 題 名<] ロスト・バビロン
*[02* 劇 団<] 第三エロチカ
*[03* 場 所<] スズナリ
*[04* 演 出<] 川村毅
*[05* 戯 曲<] 川村毅
*[06  上演日<] 1999-01-22
*[09* 出 演<]吉田鋼太郎
*[10*    <]中川安奈
*[11*    <]宮島健
*[12*    <]坂本容志枝
*[13*    <]哀藤誠治
*[14*    <]吉村恵美子
 第三エロチカを十数年ぶりに見た。あいかわらず図式見え見えの設定で、説明的であるが、意外にも芝居として見ごたえがあった。
 正面のはがれたタイルの壁に六つの扉。上に格子窓。中央の格子窓が上に開くと、モニターの画面があらわれる。床に金属の簀の子(タラップ)。走るとガシャガシャ音がする(このあたりはいかにも第三エロチカ)。
 外国人をふくむ三人のホームレスに人を撃つTVゲームをやらせ、その成績で採用するというシーンにつづいて、中川安奈が一人でワープロを打つ場面。扉が開いて、映画監督の吉田鋼太郎が軍服姿の宮島健とともに登場。新しいテーマパークの宣伝のために、ペキンパーばりのバイオレンス映画を撮るという設定が説明される。
 その合間にも、ホームレスを訓練したスタッフが乱入し、撃ってきて、客は血のりのはいった弾丸で反撃するという趣向。主役二人は気乗りがしないが、モニターと滞在している政治家のどら息子の三人組は大喜びで銃を撃っている。
 撃たれたスタッフはすぐに起き上がってしまうので白けるが、中盤で、五分間、仮死状態になる弾丸を支給し、よりリアリティをもたせるようにする。ラストはスタッフが反乱を起こし、本物の弾丸が混ざってパニック状況に陥る。
 このパターンはまったく進歩がないが、中川安奈が自分のレイプ体験を投影した架空の妹と語りあうシーンが軸になって話がふくらみ、吉田がそれを受けとめて、ドラマとしてのバックボーンを通した。主演二人に客演をあおいだのは正解だった(自前の役者はみんな小粒)。
*[01* 題 名<] イーハトーボの劇列車
*[02* 劇 団<] こまつ座
*[03* 場 所<] 紀伊国屋
*[04* 演 出<] 木村光一
*[05* 戯 曲<] 井上ひさし
*[06  上演日<] 1999-02-10
*[09* 出 演<]村田雄浩
*[10*    <]佐藤慶
*[11*    <]中村たつ
*[12*    <]たかお鷹
*[13*    <]仲恭司
*[14*    <]佐藤正宏
 紗幕がスキーのジャンプ台のように客席に押しだしている。舞台に照明がともり、紗幕の後に裸の木が浮かびあがる。暗転し、もう一度照明がつくと、舞台奥方に半円にならんだ台に役者たちが白っぽい衣装(死に装束であることが最後にわかる)で立っている。紗幕が上がると、役者たちは宮澤賢治の章句をちりばめたテキストを群読風に読みあげていく。ぞくぞくする幕開けだ。
 傾斜舞台は裸の木を中心にして回り舞台になっており、後方の円周にならんだ台が前にまわると、列車の座席になる。役者たちはガタン、ゴトンと言いながら、体を揺らす。
 舞台は東京と花巻で、その間を行き来する列車に、賢治の童話の登場人物が闖入してくる。かすかに立ちこめていた死の匂いがだんだん濃くなっていき、ラストにいたる。
 賢治を議論でやりこめる父親と特高刑事の二役は佐藤慶。初演以来の持ち役だったが、四演目にすまけいに交代。今回はすまが急病のため、急遽、佐藤に代わったものだが、あまりにもはまりすぎという感じがする。すまけいでも見たい。
 村田雄浩の賢治はとても夭折するようには見えないが、生活苦にあえぐ教え子に脳天気に理想を説くところは愛敬があり、嫌みにならないですんでいる。父親と刑事にやりこめられ、ちっちゃくなるところは、大柄な村田だからおもしろい。最後にぶきっちょなでくの坊の悲しみに到達するさまは感動的だ。
*[01* 題 名<] リチャード三世
*[02* 劇 団<]
*[03* 場 所<] 彩の国さいたま芸術劇場大ホール
*[04* 演 出<] 蜷川幸雄
*[05* 戯 曲<] シェークスピア
*[05* 翻 訳<] 松岡和子
*[06  上演日<] 1999-02-19
*[09* 出 演<]市村正親
*[10*    <]有馬稲子
*[11*    <]久世星佳
*[12*    <]嵯川哲郎
*[13*    <]勝部寅之
*[14*    <]辻萬長
 河口の中州のように、舞台の真ん中に三階建ての構築物があり、両側の壁は末広がりに奥に延びている。上手と下手もやはり同じ壁が建っていて、舞台前部は二つの河の合流点のように見える。
 照明が明るくなると、上手側から人間が二人はいった馬が駈けてきて、どうっと倒れる。それを合図に、天井から動物の死骸やがらくたがどさっ、どさっと落ちてくる。重しがはいっているらしい落ち方で、見ていて怖い。
 ここで緋色のマントに身を包んだびっこのリチャード三世が登場し、悪党宣言をうれしそうに述べる。ギラギラしているが、愛敬があって、この主役なら傑作間違いなしの予感がある。
 はたして、夫の柩に付きそう皇太子妃アンに、夫殺しの下手人のリチャードが言い寄る場面がすごい。リチャードを呪いながら、引かれていくアンの姿にリアリティがある。ああいうくどき文句なら、当然かなと思わせてしまうものがある。
 しかし、その後は盛りあがりそうで、盛りあがらない。権勢をほしいままにするエリザベス(有馬稲子)の一党に、三階の扉を開けて登場したヘンリー六世未亡人のマーガレット(楠郁子)が呪いの予言を投げつける場面は冴えない。
 ヨーク公の未亡人でリチャードの母の中村美代子は明るすぎて、ぶちこわしだ。裏切られるアンも、口説かれる場面のレベルには達しなかった。女が活躍する芝居なのに、貫禄の有馬稲子を除くと、女優陣が冴えない。リチャードを圧倒するくらいの女優をそろえないと、芝居の柄が小さくなってしまう。
 最後の戦いの前夜、リチャードの夢に恨みを呑んで死んだ者らがあらわれ、口々に呪うシーンは、中央の構築物の二階と三階を交互に使うが、ここはまあ及第。
*[01* 題 名<] 愛の勝利
*[02* 劇 団<] T.P.T.
*[03* 場 所<] ベニサン
*[04* 演 出<] ルヴォー,デヴィッド
*[05* 戯 曲<] マリヴォー
*[05* 翻 訳<] 薛朱麗
*[06  上演日<] 1999-03-03
*[09* 出 演<]吉田日出子
*[10*    <]中嶋朋子
*[11*    <]田中哲司
*[12*    <]平栗あつみ
*[13*    <]大森博
*[14*    <]松本きょうじ
 小砂利を敷いた上に、板の通路をわたしてある。シンメトリーで、フランス風の庭園を思わせる。謹厳実直な哲学者が隠棲する庭園の見立てなのだが、頭上には金属パイプが配管してある。果たして、クライマックスではシャワーのように本水が舞台に降りそそぎ、役者はずぶ濡れで芝居をする。感情を抑圧し、ひからびた日常をおくってきた哲学者とその妹が、ヒロインに翻弄され、人間的な情念をとりもどすという話なのだが、本水を使うことで、ヒロインの善意の裏にある狂気じみた部分をあからさまにしようということだろう。
 王位簒奪者の娘で、王国の支配者であるヒロインは、哲学者にかくまわれて育った正統な血筋の王子と結婚し、王位を返そうとしているというのは芝居の建前で、本当の見せ場は、哲学者とその妹のオールドミスを恋の手管でいいように振りまわすところにある。吉田日出子のヒロインは、一歩間違えれば傲慢になりかねない台詞をとぼけた持ち味で料理していて、余人に変えがたいが、狂気の部分がもうちょっとはっきり出た方がいい。本水の仕掛なしでは、単純な喜劇で終わっていたかもしれない。
 男装の侍女の中島は、コケティッシュで傲慢で、はまり役。オールドミス役の平栗は、女性らしさを取りもどすとあでやかな若い娘に変身するが、本当はオバサンを使うべきではないか。
*[01* 題 名<] エレジー
*[02* 劇 団<] 木冬社
*[03* 場 所<] 紀伊国屋サザン
*[04* 演 出<] 清水邦夫
*[05* 戯 曲<] 清水邦夫
*[06  上演日<] 1999-03-15
*[09* 出 演<]名古屋章
*[10*    <]松本典子
*[11*    <]安原義人
*[12*    <]黒木里見
*[13*    <]磯部勉
 黒木里美が塩子、松本典子が小金持ちの叔母さんの敏子だと思っていたら、松本が塩子だった。敏子は義妹に設定を変えて黒木。料理学校の講師を15年やっているという台詞はそのままだから、松本は50歳近い計算で、相当な姉さん女房だったことになる。
 作者が劇団の事情にあわせて設定を変えるのは仕方ないが、今回の場合、ぶちこわしの結果に終わった。初演では平吉と塩子は親子ほど年が離れていて慕情が昇華されたが、年齢が近すぎて老いらくの恋になってしまった。後味が悪い。  初演では年齢差に加えて、宇野重吉と仙北谷の圧倒的な実力の差が、仙北谷の直線的な懸命な演技を可憐で切ないものにしていたが、今回の場合、松本は若く、たどたどしく見せようと無理な手加減をしていて、台詞が燃焼しきれていない。だらしのない弟の右太の安原も、年齢的に若すぎて、先の見えた男の哀しさが出ていない。
 結果として、じめじめした暗い舞台に終わってしまった。いくら作者だからといって、こんな暴挙が許されるのか。
*[01* 題 名<] 紙屋悦子の青春
*[02* 劇 団<] 木山事務所
*[03* 場 所<] 紀伊国屋サザンシアター
*[04* 演 出<] 福田善之
*[05* 戯 曲<] 松田正隆
*[06  上演日<] 1999-03-29
*[09* 出 演<]水野ゆふ
*[10*    <]内田龍麿
*[11*    <]本田次布
*[12*    <]田中雅子
*[13*    <]平田広明
 街並みのシルエットが浮かびあがる夕暮れ。病院の屋上で車椅子の老人と老妻が桜の思い出を話している。夕暮れが闇に代わると、二分咲きの桜が背後に浮かびあがる。
 一転して、昭和20年3月の鹿児島県米の津の紙屋家に移る。悦子の兄が帰宅するが、悦子はまだ帰っていない。戦時下の貧しい食卓で他愛のない会話をかわした後、兄は嫂に後輩の明石から縁談の話があった、永与という整備士官で、明日、明石が連れてくるという。嫂は悦子さんは明石を好いていたはずだ、悦子さんの気持ちを考えずに進めていいのかと言葉を濁す。明石は航空士官で特攻隊を志願しなければならない立場にいる。彼は最愛の女性を、生きのびる可能性の高い親友に譲ろうとしているのかもしれない。
 悦子が帰ってくるが、なまじ明石に好意をもっているといわれたので、兄は縁談を切りだせない。嫂が業を煮やして明日、見合だがいいのかと告げる。悦子はかまわないという。
 次の場では悦子と永与のぎこちない見合。最後の場では永与が特攻に出撃する明石から託された手紙を悦子にとどけるという展開。
 第一場は悪くないが、第二場以降がひどい。笑わせようと無理しすぎだし、演技がオーバーで白ける。余韻が残るべき最後もざわつきすぎて、死者の影が吹き飛んでしまった。せっかくの鎮魂の劇を福田善之は台無しにした。これはもう冒瀆である。
*[01* 題 名<] 坂の上の家
*[02* 劇 団<] 木山事務所
*[03* 場 所<] 紀伊国屋サザンシアター
*[04* 演 出<] 末木利文
*[05* 戯 曲<] 松田正隆
*[06  上演日<] 1999-03-30
*[09* 出 演<]内田龍麿
*[10*    <]磯貝誠
*[11*    <]田中実幸
*[12*    <]広瀬彩
*[13*    <]内田稔
 前回と同じキャストだが、前回にはおよばなかった。内田稔の叔父は今回、さらによくなっていたが、他の役者は若いので、噛めば噛むほど味が出てくるという域まで達していないのだろう。
 冒頭のシーンは、前回は照明を落として、夜明け前の感じを出していたような気がするが、今回は最初から明るい。照明のミスか。
*[01* 題 名<] 海と日傘
*[02* 劇 団<] 木山事務所
*[03* 場 所<] 紀伊国屋サザンシアター
*[04* 演 出<] 木島恭
*[05* 戯 曲<] 松田正隆
*[06  上演日<] 1999-03-31
*[09* 出 演<]林次樹
*[10*    <]広瀬彩
*[11*    <]堀内美希
*[12*    <]三谷昇
*[13*    <]宮川知久
 高校教師をやりながら、小説を書いている男を林次樹、その妻を、昨日、「丘の上の家」で結婚をためらう原爆症の娘をやった広瀬彩。隣家の世話好きの家主夫婦を三谷と堀内、善意の塊のような編集者を宮川。
 主人公とワケありの女編集者も出てくるものの、みんな気のいい人間ばかりで、ドラマが成立するには大きな不幸がなければならない。果たして、退院してきたばかりの妻がまた病床につき、余命半年と宣告される。死までの日常を淡々と描くが、ヒロインを同じ広瀬がやったことで(衣装もそっくり)、昨日の「坂の上の家」の続篇のような気がしてきた。女編集者には嫉妬するが、親切にしてくれた看護婦には、自分のいなくなった後、夫を頼むと匂わせる。このあたりの微妙な女の意地を静謐のうちに表現している。広瀬はただ者ではない。
 典型的な病妻ものだが、一人悲しみに耐える林の寡黙な芝居(最後の一人でお茶漬けを食べる場面!)と、それを支えるアンサンブルがすばらしい。感動した。
*[01* 題 名<] かもめ
*[02* 劇 団<]
*[03* 場 所<] STUDIOコクーン
*[04* 演 出<] 蜷川幸雄
*[05* 戯 曲<] チェーホフ
*[05* 翻 訳<] 小田島雄志
*[06  上演日<] 1999-04-02
*[09* 出 演<]原田美枝子
*[10*    <]高橋洋
*[11*    <]宮本裕子
*[12*    <]筒井康隆
*[13*    <]山谷初男
*[14*    <]あづみれいか
 消防法で月三日しか使えないという話だったが、これではそうだ。ビルの二階にあるただの稽古場で、客は近くの空き地に並び、場内外整理係(東急の社員がまじっている風)の誘導で道路をわたって劇場にはいる。これでは消防法がなくても、月三日がいいところだろう。ロビーもトイレもなく、天井近くまで座席を作っているので、手を伸ばせば照明機材にさわれる。壁際には暗幕をたらし、壁との間をスタッフ用の通路にしている。
 中央の舞台をはさんで、両側に天井近くまで 15x7の階段座席が作ってある。入り口側にはニーナが立つ舞台、その前には椅子とテーブル。柿落としの高揚感というか、熱気がみなぎっていて、窮屈なのに楽しい。整理係が携帯電話をお切りくださいと口上を述べているのを尻目に、デブの小間使い(中島陽子)がサモワールを運んできて、丸いテーブルの上にドスンと置くと、上の煙抜きの穴から火の粉が飛んだ。本当に火がはいっているらしい。
 マーシャの鈴木真理とメドヴェジェンコの飯田邦博が出てきて、ようやく客電が消える(照明が近いので、目がきつい)。ソーリンは妹尾正文で、まるっきり蜷川スタジオ。そのせいもあって、ベニサンでやった「三人姉妹」を思いだす。あの頃から較べると、みんな格段にうまくなっているけれども、血の気の多い不器用な感じはそのまま。
 トレープレフの高橋洋は蜷川スタジオで見た顔だ。トレープレフというと、甘ったれた息子という演出が多いが、鋭角的で新鮮。ニーナはういういしく、生気にあふれている。蜷川スタジオの新人かと思ったら、「十二夜」でオリビアをやった宮本裕子ではないか。オリビアの時はうますぎるというか、小さくまとまっている印象だったが、今回ははじめて大役に抜擢された新人のように見える。
 トレープレフの芝居の上演時間が迫り、他の登場人物が登場する。アルカージナは原田美枝子だ。今までお婆さん女優のやったアルカージナしか見たことがなかったので、原田は水際だっているというか、女っぷりがよすぎるし、息子を等身大の相手としてからかったり、女として危なっかしいところに異和感があったけれども、段々これこそが本当のアルカージナではないかと思えてきた。44歳で、息子と20歳ちょっとしか離れていないという設定だから、お婆さん女優にやらせる方が不自然なのだ。
 筒井康隆のトリゴーリンは愛すべき駄目男という感じで、二枚目俳優のやる嫌みなトリゴーリンとはまったく違う。二幕の終わりのニーナに不器用に愛を告白するシーンはみごとにはまっている。原田のアルカージナといい、筒井のトリゴーリンといい、これしかないというリアリティがある。今までの「かもめ」はなんだったのか。
 休憩の後、第三幕。かつての客間は、作家として名をなしたトレープレフが書斎に使っている。照明なしで、六つの燭台の明かりだけで芝居がはじまる。シャムラーエフ一家のごたごたと、トレープレフの成功で時間の経過を暗示した後、トレープレフがニーナの逆境を語る。そこへよりのもどったアルカージナとトリゴーリンがやってくる。トリゴーリンの憎めないだらしなさは、これぞ作家だ。サロンの憂鬱で退屈な時間が水彩風に描かれ、ため息が出る。
 トレープレフだけになったところで、ニーナが登場する。一幕のういういしかった彼女はすっかり面やつれして、時にしたたかさを見せる女になっている。宮本の暗い目はぞくぞくするくらい力がある。「わたしはカモメ」という台詞を三回言うが、三回目の絶望に満ちた声は耳に残る。去り際にトリゴーリンを愛していると、さりげなく言い残す場面の残酷さ。
 オーソドックスな舞台作りに見えて、新解釈になっている。蜷川はあなどれない。
*[01* 題 名<] 龍を撫でた男
*[02* 劇 団<] ガジラ
*[03* 場 所<] シアター・トラム
*[04* 演 出<] 鐘下辰男
*[05* 戯 曲<] 福田恒存
*[06  上演日<] 1999-04-17
*[09* 出 演<]伊藤孝雄
*[10*    <]佐藤オリエ
*[11*    <]千葉哲也
*[12*    <]金久美子
*[13*    <]大高明良
*[14*    <]田村泰二郎
 正面に一段上がって、フランスドア。下手に階上にあがる階段、上手に玄関におりるらせん階段。日生劇場のような曲線の多い作りで、壁には龍の鱗を思わせる流紋模様が白い漆喰で浮きでている。アフター・トークで、鐘下はいたたまれない家にしようと美術家と相談したと語っていたが、確かにこんな家には長居はしたくない。
 敗戦直後、半世紀前に書かれた戯曲だが、完全に鐘下の芝居になっていて、『貪りと嗔りと愚かさと』をさらに過激にした家庭崩壊劇があれよあれよといううちに進行していく。
 主人公は精神科医で妻の弟を居候させているが、出入りしている劇作家の妹と関係があり、劇作家の方は妻に横恋慕し、妻の方も気がある。二つの不倫が同時進行するが、劇作家がかつて彼の患者だったことが明らかになったり、精神病院を退院したらしい二人組の男が怪しげな計画をもって談判に来たりするうちに、主人公が密かに心にいだいていた自分以外はすべて気違いだという観念があらわになっていく。妻が彼の傲慢をなじり、劇作家との愛を告白し、彼の面前で劇作家とともに寝室にはいるところがクライマックスで、まったく鐘下劇になっている。これしかありえないという感想をもったが、初演時はどんな風に演じられたのか。
 翌朝、彼は妻を起こし、庭の池から龍が這いだして、天に昇っていくと言いだす。妻は夫の気がふれたと思い、救急車を呼ぶが、精神科医の夫が黙っていたために、彼女の方が精神病院に強制入院させられてしまう。
 妻に復讐するために気違いを装ったのかと思っていると、彼はまた龍がどうのこうのと言いだし、本当に狂っていたことがわかる。このあたり、伊藤孝雄のコミカルな面がよく活かされている。
 『貪りと嗔りと愚かさと』と違うのは、このブルジョワ家庭の一歩外には傷痍軍人のような貧しさがあることで、すさんだ世相が皮膚感覚で伝わってくる。
 佐藤オリエはT.P.T.時代のカミソリのような演技から、鉈のようなどすの利いた演技に一変している。演出家でこうも違うものか。
 アフター・トークで鐘下と劇場スタッフの対談があったが、たいした話は出なかった。本人が芝居の印象とは裏腹の明るさと軽さをもっていたのがおもしろい。
*[01* 題 名<] 蕨野行
*[02* 劇 団<] 民藝
*[03* 場 所<] 紀伊国屋ホール
*[04* 演 出<] 米倉斉加年
*[05* 戯 曲<] 北林谷栄
*[05* 原 作<] 村田喜代子
*[06  上演日<] 1999-04-28
*[09* 出 演<]北林谷栄
*[10*    <]中地美佐子
*[11*    <]千葉茂則
*[12*    <]内藤安彦
*[13*    <]今野鶏三
*[14*    <]久保まづるか
 北林谷栄の企画・脚色の公演で、『粉本楢山節考』につづく棄老伝説だが、舞台奥に太鼓橋一つという抽象的な装置で、北林の庄屋の古かかのレンは、青いスモックの稽古着のまま、上手手前の椅子にすわり、手元ライトのついたテーブルの上に広げた台本を読むという形で劇に参加する(二幕目は赤いスモック)。北林以外の役者はリアルな衣装で出てくるが、主に客席に向かって語りかけ、朗読劇のような作りになっている。
 この趣向は成功していて、村の決まりの年齢を過ぎた老人が、蕨野という生と死の中間地帯で共同生活を営むという観念的な設定を呑みこみやすくしている。蕨野にはいった老人は村人と口をきくことも、手紙をやりとりすることも許されないが、朗読劇仕立てのおかげで、息子の後妻にはいった若い嫁のヌイとレンの交流を往復書簡のように展開させることができた。原作はどうなっているのか。
 ヌイの中地美佐子は古風なきりりとした美人で、レンを慕う一途さが切々と伝わってくる。北林と中地は『エレジー』の宇野と仙北谷に匹敵する成果をあげた。
 レンとヌイの夢の中に、先妻が死産した男児がオムツをした化け物のようにあらわれるが、この奇怪さがあるから、レンがヌイの長女として生まれ変わってくるというラストに説得力が生まれ、芝居の柄が一回り大きくなった。
 民藝だからこそできた傑作だが、十年後、奈良岡朋子のレンでやったら、成立するだろうか。
*[01* 題 名<] 北の阿修羅は生きているか
*[02* 劇 団<] 文学座
*[03* 場 所<] 紀伊国屋サザンシアター
*[04* 演 出<] 西川信廣
*[05* 戯 曲<] 鐘下辰男
*[06  上演日<] 1999-05-21
*[09* 出 演<]内野聖陽
*[10*    <]山本深紅
*[11*    <]関輝雄
*[12*    <]田中明生
*[13*    <]原康義
*[14*    <]大場泰正
 例によって家のセットだが、粗末なログハウス風で、石炭ストーブが置いてある。果たして北海道の原野の掘っ建て小屋の見立てで、悪夢の場面では旅順の中国家屋になる。
 小屋には萬日報の元旅順特派員だった楠と妻の恵子とアイヌ人の下男の三郎が暮らしているが、楠は恵子がライバルだった瀬川と通じているという妄想にとらわれていて、瀬川が彼を東京に連れもどしにくると、夜、二人を小屋の中に閉じこめて試すなど、行動が常軌を逸してくる。
 楠は旅順陥落直後の非戦闘員の虐殺を目撃している。日本兵に対してくわえられた残虐行為の報復におこなわれたもので、事件をスクープしたアメリカの従軍記者の記事で日本は野蛮国と避難される。
 楠も虐殺の記事を送っているが、社主の宮谷に握りつぶされる。東京に帰って、抗議する楠を宮田は休職あつかいにする。楠は、宮田の妹にあたる妻をともなって北海道にわたる。
 例によって漢語の多い台詞で怒鳴りあい、インテリやヒューマニストのエゴイズムが暴かれ、楠の人格は崩壊していくが、最後に楠は小隊長に強いられ、中国人に銃剣を突きたてていたことが明らかになる。
 いつもながら重い芝居だが、今回はぐちゃぐちゃになっていく楠を恵子が見捨てず、最後まで抱擁しつづけるのが救いになっている(疲れた!)。
Copyright 1999 Kato Koiti
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