演劇ファイル  Jan - Mar 1998

1997年12月までの舞台へ
1998年 4月からの舞台へ
加藤弘一

*[01* 題 名<] おもろい女
*[02* 劇 団<] 東宝
*[03* 場 所<] 日生
*[04* 演 出<] 三木のり平
*[05* 戯 曲<] 小野田勇
*[06  上演日<] 1998-01-07
*[09* 出 演<]森光子
*[10*    <]芦屋雁之助
*[11*    <]米倉斉加年
*[12*    <]名古屋章
*[13*    <]山岡久乃
 漫才師ミス・ワカナの一代記。三幕160分だが、おもしろくて、あっという間に終わってしまう。
 一幕は、15才のワカナが大阪に出てきたところからはじまる。強引な弟子入り志願を、後の玉松一郎(芦屋)や秋田実(米倉)、菱本興行の女社主があとおししてくれる。ワカナは自分の芸を見せようと安来節を踊りだすのだが、足の運びからしてプロだ。役者の踊りを越えている。
 次の場では、合方に求婚されたワカナは好きあった一郎と駆け落ち。楽士だった一郎は漫才の合方にされてしまうが、二人のやりとりはもう練達の漫才になっている。
 三場は巡業先の青島で一郎が長患いをし、ワカナはダンスホールで働いて看病している。一郎が荷物になるまいと、首をくくろうとする場面のボケた味はなんともおもしろい。一番弟子になる若いカップル(坂上忍と越智静香)が内地に駆け落ちするために、ワカナたちを助けてくれるが、脚の長さといい、屈託のなさといい、完全に現代っ子。
 二幕は一番の見どころで、ワカナの芸づくしがある。
 一場では九州一円で売れっこになったワカナ一郎を、秋田実が大阪に誘いに来るが、社長の女興行師(山岡)が恩を忘れたのかと物言いをつける。こういう役は山岡久乃でなくては無理だし、漫才の将来を熱っぽく説く米倉もはまり役。
 次の場は笑わし隊に参加して上海の飯塚部隊を慰問。温情あふれる飯塚部隊長の名古屋章もみごと。中国人の浮浪児をストーブにあたらせてやりながら、中国語の金色夜叉を思いつく。ほんのちょっとだが、ふんわりしたおかしさは絶品。
 三場はラジオのリハーサル風景。方言づくしの漫才を五分ほどやるが、これは確かにすごい。昨今の殺気だった漫才とはまったく違う、やわらかなおかしみがある。
 いよいよ本放送というところで、飯塚部隊長が戦死したという臨時ニュースがある。ワカナはしばらく言葉が出ないが、やおら飯塚部隊長の思い出を語りはじめる。スタッフは軍部を怖れて放送を中断しようとするが、ディレクターが責任は自分がとるとつづけさせる。パンフによると、本当にこれに近いことがあったそうだが、この一人芝居の芸はただただみごと。
 三幕は頂点をきわめた後の転落。新興キネマに引き抜かれ、女たらしのインテリ俳優に入れこみ、一郎と別れてヒロポン中毒になる。山岡久乃の女興行師が再登場し、ワカナをいさめるが、その背景には戦争がある。一番弟子の男の方は召集され、片足になって帰ってくるが、あくまで明るいのが救いだ。
 最後は野球場で開かれた東西対抗お笑い合戦の楽屋。コンクリート打放しの控室に、満州からもどってきた秋田実が訪ねてくる。秋田と一郎を送りだした後、ワカナは心臓の発作に倒れ、みとる人もなく急死。
 「放浪記」ならできる女優が他にもいるだろうが、この芝居は森光子以外では不可能だと思う。ワカナ一郎の実演を見たかった!
*[01* 題 名<] リア王
*[02* 劇 団<]
*[03* 場 所<] 新国立劇場
*[04* 演 出<] 鵜山仁
*[05* 戯 曲<] シェークスピア
*[05* 翻 訳<] 松岡和子
*[06  上演日<] 1998-02-03
*[09* 出 演<]山崎努
*[10*    <]范文雀
*[11*    <]余貴美子
*[12*    <]真家瑠美子
*[13*    <]滝田裕介
*[14*    <]渡辺いっけい
 はじめて新国立劇場にいったが、巨大なスペース(中劇場なのに千五百席も!)と大がかりな装置に負けない出来で、平幹二郎の「リア王」に匹敵する舞台だった。女系家族的な発想というか、きわめて日本的な解釈の「リア王」だが、こんなに笑いのおこった「リア王」もめずらしい。笑いの後には涙が来て、感情の大波にもてあそばれた感じ。
 暗転の後、舞台背景の黒い壁があがり、舞台が前方にゆっくりとせりだしてくる。パイプを地球儀のように組んだ1/4球の天蓋が回り舞台の上にかぶさっており、その中心の位置にコーディリアがすわり、彼女の膝元にはリアが伏せている。母と子という原型的なイメージだ。母権制の掌の上で踊るリアという解釈を打ちだしたのだろう。
 解釈うんぬんはともかく、山崎努のリアがすばらしい。狂気の場面で褌一つになるが、それでも王の威厳と悲劇性を失わない。道化すれすれのところまでいくが、これでも芝居が壊れないのは、父権制的な重さをはじめから放りだしているせいか。 
 范文雀のゴネリ、余貴美子のリーガンは怖いくらいはまっている。娘というより、怒れる地母神という印象が強い。姉二人がすごすぎて、コーディリアの真家瑠美子はかすんでいるが、慈母の側面はおさえている。
 グロースター伯の滝田裕介は愚かさがたりない。渡辺いっけいは優等生になりがちなエドガーを頼りない惣領の甚六として演じていて、親しみのもてる人物にした。エドマンドの畠中洋は一本調子でつまらない。
 ケント伯の松山政路はまあまあ。道化の高橋長英は冴えないし、口跡も悪い。
 オールバニー公の菅生隆之はもうけ役で、妻に頭のあがらない情けない男が、最後には姦通相手のエドマンドを成敗し、新たな国父となる。母権制社会が終わって、オールバニーによって父権制社会が確立されるという解釈は納得がいくのだが、イギリス人はびっくりするだろうか。
*[01* 題 名<] 昨今横浜異聞
*[02* 劇 団<] 木山事務所
*[03* 場 所<] 俳優座
*[04* 演 出<] 末木利文
*[05* 戯 曲<] 岸田國士
*[06  上演日<] 1998-02-09
*[09* 出 演<]林次樹
*[10*    <]水野ゆふ
*[11*    <]菊池章友
*[12*    <]松富まみ
 1931年の岸田作品。はらはら、ドキドキさせて、最後にハッピーエンド。
 横浜のハイカラな洋館(久しぶりにスダレの家が背景に)に住む若夫婦は林次樹と水野ゆふ。禿という台詞があるので、林次樹は額の後退したカツラで登場。
 休日で鶴見にある妻の実家にいく予定だったが、夫は急に家に残ると言いだし、まだ新婚気分の抜けない妻は、嫉妬してあれこれ詮索する。夫はとうとう南京で世話になった「劉先生」が訪ねてくると打ちあける。妻は黙りこんでしまう。
 劉は南京の名家の生まれで、日本に留学時代、妻と知りあい、礼を尽くして婚約を申しこみ、両親の快諾をえていたのだ。ところが、本国で親に不幸があり、三ヶ月の約束で帰国した。財産の相続に手間どり、さらに三ヶ月中国にいなければならないことになる。
 そんな時に夫と知りあい、帰国する彼に婚約者への伝言をことづけたのだ。劉の使者のはずが、恋仲になり、ついに結婚してしまった。三年前のことだ。
 南京の劉は怒り狂い、日本領事館に怒鳴りこんだという話が伝わってきて、夫婦の間のしこりになっていた。その劉がやってくるというのだ。
 妻が実家に向かおうとした時、玄関の呼び鈴が鳴る。劉が来たのだ。夫は妻を別室に隠し、劉をむかえる。
 はたして劉は大変な剣幕で、婚約者を中国に連れて帰るから、離婚しろと迫る。蛇ににらまれたカエル状態だった夫は、腰が抜けた状態ながらも「命に賭けても妻を護る」といいきり、決闘を承諾する。
 あわやという時、玄関の呼び鈴がまた鳴る。恐怖にふるえる夫婦を尻目に、劉が応対に出て、チャイナドレスの婦人を連れてもどってくる。
 実は彼女は劉の夫人だった。婚約者の不実を知って落ちこんだ彼を、当時、秘書だった彼女が慰め、それがきっかけで翌年、結婚にゴールインしたのだ。
 日本語のわからない劉夫人がにこにこしている前で、劉と夫婦は和解する。
 おろおろしながら、妻を護ろうとする林もうまいが、劉の菊池の貫禄も立派。
*[01* 題 名<] 坂の上の家
*[02* 劇 団<] 木山事務所
*[03* 場 所<] 俳優座
*[04* 演 出<] 末木利文
*[05* 戯 曲<] 松田正隆
*[06  上演日<] 1998-02-09
*[09* 出 演<]内田龍麿
*[10*    <]田中実幸
*[11*    <]磯貝誠
*[12*    <]広瀬彩
*[13*    <]内田稔
 1993年初演の長崎を舞台にした家族劇。五年前、両親を台風の豪雨でなくし、兄二人と妹の三人で暮らしている一家の一夏を描く。
 まず、プロローグ風のスケッチがある。ジャージー姿で、早く目が覚めてしまった妹(田中実幸)が茶の間にぼけっとすわって、夜明け前の町並みをながめている。そこへ上の兄(内田龍麿)が起きてくる。太陽が昇る。陽光がさしこんでくる。朝の風景の変化を語る妹のナレーションがかぶさる。早くも傑作の予感。ぞくぞくしてくる。
 第一場は両親の命日の日の朝の茶の間。妹の用意した朝食を、役所勤めで早く出なければならない上の兄が急いでかきこむ。長崎方言の荒っぽいやりとりがなんともおもしろい。夜、結婚を考えている女性をはじめて家に連れてくるので、なんの料理にしようかと話している。そこに予備校に行っている下の兄(磯貝誠)が降りてくる。なにか相談したそう。電車の時間の迫った上の兄は、穴のあいた靴下のまま、家を飛び出す。
 第二場は夕方の茶の間。妹がセーラー服のまま皿うどんの用意をしているところに下の兄が帰ってくる。下の兄は予備校をやめるつもりだという。もやしを買い忘れたので、下の兄が勝手にニラをいれてしまったことで喧嘩に近いやりとりがあるが、長崎方言が強いからで、別に喧嘩ではなさそう。
 ついに上の兄が恋人(広瀬彩)を連れて帰ってくる。恋人が線香をあげにいっている間に、穴のあいた靴下をはきかえさせる。
 四人で卓袱台を囲むが、みんな固くなってぎくしゃく。これがまたおもしろい。
 第三場は数日後の昼。暑くて、妹はスカートの中に扇風機の風を入れるなどという行儀の悪いことをしている。大阪の叔父がこの夏もお盆にやってくる話をしている。両親が亡くなり、実家でもないのに、なぜ来るんだろう、松浦にある実家はどうなっているのだろうと話している。
 上の兄が帰ってくるが、恋人とうまくいっていないので不機嫌。そこに下の兄が予備校をやめて調理師になると言いだし、言い争いになる。
 第四場は叔父(内田稔)の来訪。事前に漬物を段ボール一箱送ってきた上に、大阪近辺の名物のお菓子、大学ノートを一人一束という大荷物をもちこんでくる。子供たちにはありがた迷惑なみやげだ。
 上の兄の婚約者にとネックレスをわたすが、ふられていたので気まずくなる。
 第五場は精霊流しの夜。叔父の話で子供たちの父は松浦の出で、高校教師として長崎に赴任してきた。末っ子だった叔父は出来が悪く、いつも次兄である子供たちの父親にかばってもらっていた。松浦には長兄の継いだ実家が残っているがつきあいはない。大阪でずっと一人暮らしをつづけているので、お盆になるとこの家が恋しくなると語る。
 下の兄は婚約者が上の兄をふったのは、原爆症のせいかもしれない貧血で入院したからだと事情を話す。彼女の両親は浦上で被爆していたのだ。
 下の兄と妹は万一原爆症でも自分たちはかまわないから、病院に電話してくれという。叔父もそれをすすめる。上の兄は抵抗するが、電話が通じてしまうと心を決める。
 最後の場は叔父が帰る日の朝。夕方の飛行機で帰れば、みんなで見送りにいけるという話になっていたが、見送られるのが嫌な叔父は早朝、こっそり帰っていた。
 どうということのない話なのだが、余韻が深い。時間がたてばたつほど、印象が鮮やかになっていく。
*[01* 題 名<] ブルーエンジェル
*[02* 劇 団<] ホリプロ
*[03* 場 所<] コクーン
*[04* 演 出<] 加藤直
*[05* 戯 曲<] ジャムズ,パム
*[05* 翻 訳<] 松岡和子
*[06  上演日<] 1998-02-20
*[09* 出 演<]沢田研二
*[10*    <]鈴木砂羽
*[11*    <]小鹿番
*[12*    <]秋川リサ
*[13*    <]中村繁之
 「嘆きの天使」のミュージカル版だった。鈴木砂羽がローラは当然として、ラート教授が沢田研二!
 沢田研二はよくやっているが、鈴木砂羽が冴えない。演技が堅苦しく、映画やTVのレベルに達していない。唯一、二幕の秋川リサとの場面に彼女らしさが見える。しかし、彼女を中心にしたショーの場面がつまらないのは致命的だ。歌が自分のものになっていず、音程を合わせるのがやっと。音楽そのものも躍動感がなく、楽しくない。一幕の最後のラート教授の歌はさずがに聞かせる。二幕の最後の、瀕死のラートがあおむけになって歌うところは、姿勢が姿勢だからか声が伸びなかった。
 映画はベルリンが舞台だったが、こちらは港町、ハンブルク(原作はリューベクだそうだ)。結婚にいたる第一幕は映画とほぼ同じだが、二幕はまったく違う。映画では、夫妻はすぐに金を使い果たして一座にもどり、ラートは道化師になって狂死するが、こちらはハンブルクにもどって、世間の冷たい仕打ちに怒ったラートは、美人局で資金を稼いでブルーエンジェルを買い取り、いかさま賭博で上流社会の連中の首根っこをおさえ、ハンブルクの闇社会の帝王にのしあがる。大学入学資格=紳士の条件をあたえることのできたギムナジュウムの教師だっただけに、上流社会の裏事情に通じていたのだ。
 ローラの誕生日の日、ローラに恋する道化師が彼女の黙認のもと、恐喝のネタを上流人士に返してしまい、ラートは逮捕され、店も閉鎖される。
 しかし、ローラに恋する侯爵の息子の力でラートは釈放される。ローラと離れたくないラートは道化師になり、笑い者になって死ぬ。
 ラートが上流社会に復讐するくだりは、沢田研二が不良の魅力を見せて多少よくなるが、最後のバタバタした展開でまた芝居が失速する。
 音楽は弦楽とブラスを中心にした生演奏だった。カーテンコールでは、楽士をふくめると四十人近い人数が並んだ。客の入りはまばらなのに、これでは大赤字だろう。ホリプロ製作で、お抱えタレントに勉強させているということか。
*[01* 題 名<] テレーズ・ラカン
*[02* 劇 団<] T.P.T.
*[03* 場 所<] ベニサン
*[04* 演 出<] ルヴォー,デビッド
*[05* 戯 曲<] ライト,ニコラス
*[05* 翻 訳<] 吉田美枝
*[06  上演日<] 1998-02-27
*[09* 出 演<]若村麻由美
*[10*    <]堤真一
*[11*    <]佐藤オリエ
*[12*    <]今井朋彦
*[13*    <]真名古敬二
*[14*    <]伊藤美奈子
 伝説の舞台をやっと見たが、体調は最悪。前夜、39度の熱が出る。ぎりぎりまで寝ていて、ふらふらの足で出る。間に合うはずだったが、乗り換えに手間取り、10分遅れで着く。入口に黒づくめの案内係が待ちかまえていて、もう開演しているので、一幕は二階のギャラリーで見てもらうが、いいかと念をおされる。
 ロビーは真っ暗! しんとして、かすかに台詞が聞こえてくる。いやでも期待が高まるではないか。
 懐中電灯で先導され、客席の扉をはいったすぐのところの扉を開け、二階に。手すりのところに高い椅子が五脚用意してある。黒いベルベットをはった木箱が奥の音響調整卓との間にあったので、そこによりかかる。照明は薄暗く、二階はほぼ暗黒。遅刻席は30分くらいで埋まる。
 斜めにかしいだ天井が客席全体を覆って正面ギャラリーまでとどいているので、パイプの手摺と天井板のわずから隙間からのぞきこむ形だ。苦しい。
 休憩になり、案内が来てやっと客席へ。最後列だったので、コンクリートの壁に頭をもたせかけることができた。
 伯母で小間物屋をやっているラカン夫人に望まれて、テレーズは従兄のカミーユと結婚するが、彼女はカミーユの幼なじみのローランに引かれ、人目を避けて狂おしく愛しあう。プチブルの能天気な生活の隙間で、テーブルの上で互いをまさぐりあう二人の盲目的な愛欲に客席はしんとなる。
 ローランはテレーズとはかり、舟遊びの事故に見せかけてカミーユを殺す。彼は息子を失ったラカン夫人をなにくれとなく気づかい信頼をえる。テレーズは罪の意識にさいなまれ、情緒不安定になる。友人たちはローランとの再婚をラカン夫人に勧め、夫人はとうとう了承する。
 結婚式の夜、ラカン夫人とシュザンヌはテレーズの花嫁衣装を脱がせ、初夜の床に送りだす。全裸の背中を見せるが、官能的な肉づきの彼女は罪におののき、ローランをなじって、関係を持つことを拒否する。壁のカミーユの絵にすらおびえ、それがローランにも感染していく。
 激しく口論する二人の秘密をラカン夫人はついに知るが、ショックで倒れ、口がきけなくなる。
 介護の必要になった義母をけなげに世話するプチブル夫婦の仮面の裏側で、二人のいさかいはいよいよ激しくなり、口のきけなくなったラカン夫人は執念のこもった眼差しで二人をにらみつける。客が来て、ラカン夫人が目の動きや指で書く文字で真相を知らせようとする。このサスペンスは息づまるほど。
 ある夜、ラカン夫人は口を開く。おまえたちを警察に突きだしたりはしない、息子の悔しさを思ったら、おまえたちが苦しんで破滅していくところを見とどけてやると、切れ切れに言葉を絞りだす。
 しかし、テレーズはそんなことはさせないと言い捨て、ローランを毒殺し、自分も生命を断つ。
 堤のローラン、佐藤オリエのラカン夫人は予想通りだが、若村麻由美のひたむきさゆえの狂気と、罪にもだえるリビドーにむんむんした身体はすごい。初演は藤真利子だったそうだが、ガリガリのヒステリー女より、優等生風でむちむちした若村の方があっていると思う。
 なんとも鬼気迫る舞台だが、友人の真名古敬二と花王オサムの能天気さ、シュザンヌの伊藤美奈子の天真爛漫さが絶妙なバランスを作りだしている。
 官能性と抑圧、狂気にいたる罪悪感、視線の芝居と、T.P.T.のすべてがここにあった。もっと体調のいい時に見ることができたら!
*[01* 題 名<] フタナリアゲハ
*[02* 劇 団<] 指輪ホテル
*[03* 場 所<] グローブ座
*[04* 演 出<] 羊屋白玉
*[05* 戯 曲<] 羊屋白玉
*[06  上演日<] 1998-03-07
*[09* 出 演<]羊屋白玉
*[10*    <]坂田有妃子
*[11*    <]岡光美和子
*[12*    <]小池こづえ
*[13*    <]川相真紀子
*[14*    <]津島美咲
 ぎりぎりにはいったので、中二階の席になってしまったが、結果的には正解だった。一階の席を1/4ほどはずし、舞台に向かって木造船が斜めに突っこんでいるという趣向で、中二階だと、ちょうどいい角度で見おろす形になる。
 正面の位置にブラス主体の楽団がひかえ、譜面のための青紫色の蛍光灯が幻想的。フォーレやプーランク風の音楽がゴージャス。
 船に住んでいるらしい五人の女の子がパステルカラーのワンピースと、茶色や黄色の毛糸の鬘で出てきて、思い思いに遊びはじめる。妊娠した母親(羊屋白玉)も登場するが、子供たちと変わらない。白い毛糸の鬘のおばあさん(津島美咲)はさすがにおばあさんらしい。
 上の三人の子は学校にいくが、学校も同じ船の上で、先生と生徒がやってきて、やはり勝手に遊びはじめる。図工の時間になると、画板をかかえて、劇場のあちこちに散らばってスケッチしはじめる。ズボンをはいた謎の女が登場するが、なんということもなくたわむれの一部になる。
 台詞らしい台詞もなく、筋もあるんだかないんだかわからないうちに時間が過ぎていき、とりとめなく終わる。マシュマロのように徹底して歯ごたえがないのが、逆におもしろい。
 最近のコギャル文化と60年代のフーテン文化がまぜこぜになったようで、独特の丸っこさがこころよい。
 終演後、「アフター・パフォーマンス・トーク」として飴屋法水と舞台美術家と週刊新潮のカメラマンが舞台にあがり、羊屋白玉とトークをやったが、これまたとりとめがない。男たちはやや斜めに傾いた甲板のどこにすわっていいかがわからなくて、配給されたペットボトルの小瓶を手におろおろしている風で、話もさっぱり盛り上がらず、なんとなく30分たったのでお開きになる。
 20ページほどの台本があるとか、「フタナリアゲハ」という題は大きな劇場でやる時のためにとっておきたかったが、去年の夏の公演で使ってしまったのを、また使ったとか、事実は出てくるが、さっぱりまとまらない。
 わけがわからないが、このこころよさはなんなんだろう。
*[01* 題 名<] 砂の女
*[02* 劇 団<] オムスクドラマ劇場
*[03* 場 所<] 東京芸術劇場小ホール1
*[04* 演 出<] ペトロフ
*[05* 戯 曲<] ニキフォロワ
*[05* 原 作<] 安部公房
*[06  上演日<] 1998-03-13
*[09* 出 演<]オークネフ,ミハイル
*[10*    <]荒木かずほ
 縦長の客席を横に使い、コの字に席を並べ、中央に巨大な黒いプラスチックの丼がどんとすえてある。
 暗転すると、上からロシア語の会話。丼の内部に照明がつく。砂の女の家が浮かびあがる。丼と見えたものはすり鉢状に貼りあわせた透明なビニールで、二メートルほどの高さに空気穴がたくさん開けてある。透明といっても、埃で曇っているし、角度によっては歪んで見える。閉塞感とのぞき見しているようなスリルもある。
 天井から縄ばしごが下がっていて、昆虫採集鞄をさげた男が降りてくる。女は黙って卓袱台をだし、食事を用意して、男の上に番傘をさしかける。
 男の方は普通のリアリズムの芝居をやっているのだが、女の方は安部公房が最も嫌った感情過多の臭い芝居なのだ。女が上に向かって「なんでこの人を連れてきたんだよ。わたしは一人がいいんだよ」と詠嘆調の日本語で叫ぶ。女は男の監禁に責任がなく、男同様、共同体のイノセントな犠牲者だとでもいうのだろうか。原作のように、意地の悪い共同体の一員でなければ、展開がおかしくなる。
 はたして、監禁された言葉の通じない男女の愛の物語の色彩を強めていき、原作とは似て非なる芝居になっていった。
 男がビニールの壁を駆けのぼろうとするあたり、サルトルの「出口なし」が二重写しになってくる。「出口なし」では希望がないので、「砂の女」にしたのか。
 ラスト、女が子宮外妊娠で運びだされた後も、縄ばしごがはずされていないのに気がついた男は途中まで昇りかけるが、子守歌を唄う女の声が流れると、逡巡した末に穴の中にもどってしまう。女への愛ゆえに脱出を思いとどまったというわけだ。いやはや、砂の女と愛を確認するとは。愛の物語としては一貫したのかもしれないが、原作とは別物である。
*[01* 題 名<] ハムレット
*[02* 劇 団<]
*[03* 場 所<] セゾン劇場
*[04* 演 出<] 蜷川幸雄
*[05* 戯 曲<] シェークスピア
*[05* 翻 訳<] 松岡和子
*[06  上演日<] 1998-03-16
*[09* 出 演<]真田広之
*[10*    <]加賀まり子
*[11*    <]松たか子
*[12*    <]嵯川哲郎
*[13*    <]坂口芳貞
*[14*    <]松重豊
 「ハムレット」はずいぶん見てきたが、いつももどかしさが残った。この「ハムレット」は一昨年、絶賛された舞台の再演で、疾走感があるし、メリハリがきいているし、役者はみんなうまいし、第一級の上演であることはわかるが、もう一つピンと来ない。最高のご馳走を出されたのに、食欲のわかないもどかしさ。
 舞台は楽屋に見立てられていて、役者が準備をしたり、お喋りをしたりしている。一階部分に細長い鏡、二階部分に主役級の役者のための個人用の鏡がとりつけてある。正面左がクローディアス、右がガートルード、左斜めがオフィーリア、右斜めがハムレット。ガートルードの加賀まり子が白いドレスで婉然と談笑しているのに目が引きつけられる。
 開演とともに舞台は暗転。ピアノの激しい連打。薄暗い照明がつき、さっきまで楽屋風景は夜の山に一変(山を描いたカーテンを引いただけなのだが)。
 夜警のの緊迫感はすばらしく、ホレーショの松重が水際だっている。先王の亡霊は日本の鎧兜で登場。
 舞台は一転して宮廷。夜の山のカーテンは、ちょっとの風にもなびく白い薄いカーテンに変わり、二階の正面部分に鉄のタラップが二つ並んでとりつけられ、広間の大階段に。新王と王妃があらわれ、大階段を颯爽と降りてくる。
 次の場面では、タラップが片づけられ、緋毛氈の上の雛壇に飾られたおひな様の目隠しを、オフィーリアとレアティーズの兄妹が一つ一つはずしている。雅楽風の音楽が流れるが、鎧兜と同じで、まったく違和感がない。松のオフィーリアは一本調子で、芸達者の中では影が薄い。狂ってからアカペラで歌うところはよかった。台詞にはなかった声の魅力がある。
 いよいよハムレットが亡霊と出会い、佯狂をはじめる。マントを翻して駈けまわる一方、ボケの芝居をみせたり、思いつめた独白をしたり、ガートルードをオスのフェロモンを発散させながら押し倒したり、振幅の大きな芝居で真田という役者を見直した。
 旅役者の一座の場面は、雛壇にグロテスクな雛人形の扮装をした役者がいならぶ。頸を水平に近く曲げている者もいる。これだけ笑えたこの場面ははじめて。墓掘りの場面も笑える。
 ラストのフォーティンブラスの軍が入城する場面は、二回の窓から侵入し、守備兵をおいちらす。ブラナーの映画とよく似た趣向だ。
*[01* 題 名<] 消えた版木――富永仲基異聞
*[02* 劇 団<] 前進座
*[03* 場 所<] 東京芸術劇場中ホール
*[04* 演 出<] 香川良成
*[05* 戯 曲<] 加藤周一
*[06  上演日<] 1998-03-18
*[09* 出 演<]嵐圭史
*[10*    <]森三平太
*[11*    <]中野誠也
*[12*    <]金内喜久夫
*[13*    <]東恵美子
*[14*    <]藤本栄治
 どうせ理屈っぽい芝居だろうと予想したら、プロローグとして本居宣長の幽霊(森三平太)と黒衣に支えられた加藤周一の人形が幕の前で議論する場面があって、やはりと思う。
 しかし、一幕はディスカッション・ドラマとして成功していて、日本人にもこういう芝居が書けるのかと目を見張った。懐徳堂の一室で後援者があつまり、「説蔽」の手稿を前に困り果てている。そこへ学頭のの三宅石庵(村田吉次郎)と仲基があらわれ、激論をかわす。論というより怒鳴りあいなのだが、議論の細部にわたっていたら客席がついていけないから、しょうがないだろう。その点を割り引いても、よく出来ている。理屈っぽさと江戸時代の大阪情緒を両立させることができたのは、前進座ならではだろう。
 懐徳堂の最大の金主である父の芳春(津田伸)の死後、身代は異母兄の毅斎が継ぎ、仲基は母と妹ともに別家をたて、私塾を開くが、家族関係の肉づけがよくできていて、富永仲基像に厚みがくわわった。「出定後語」の出版で懐徳堂や実家の道明寺屋があわてふためくくだりも説得力がある。新地の女郎の佐幾とねんごろという設定もおもしろいが、大時代的な理屈っぽい濡場はまいった。父親の幽霊と夢で対話する場面につなげる趣向としては悪くないが。
 二幕はガクンと落ちる。「出定後語」が評判になりすぎたために、「説蔽」の版木が版元の蔵から消えるという謎でひっぱったものの、案の定、一癖ありそうな版元の富士屋長兵衛(藤本栄治)が圧力を受けて隠したという展開だし、「翁の文」の出版で懐徳堂をついだ中井甃庵(中野誠也)と実家を継いだ毅斎がうろたえ、仲基の謀殺にいたるのだが、この二人、仲基との正面からの対決を避け、お前が先にやれと延々と争う場面がくどい。仲基と議論をさせてこそのディスカッションドラマではないのか。
 エピローグは仲基と宣長の幽霊がブランコに乗って、「ユーパリノス」風に語りあう。ここは悪い意味で理屈っぽい。
*[01* 題 名<] 怪しき村の旅人
*[02* 劇 団<] ステージ・ワンダー
*[03* 場 所<] 世田谷パブリック
*[04* 演 出<] 塩見哲
*[05* 戯 曲<] 武田泰淳
*[06  上演日<] 1998-03-20
*[09* 出 演<]市原悦子
*[10*    <]高橋長英
*[11*    <]麿赤兒
*[12*    <]山本耕史
*[13*    <]松本紀保
 武田泰淳の戯曲をアレンジしたゲテモノ芝居。
 昭和30年代(?)の山奥の村に、夫婦の行商人(市原と高橋)がインチキ商品をもってやってくる。勝手に寺の本堂に泊まっていると、住職で村長の盲目の老人(麿)が二人を幽霊と勘違いする。村ではかつて夫婦者の行商人を殺して荷物を奪ったことがあり、村長はそのたたりで目がつぶれたという因縁があった。
 幽霊になりすました二人は歓待されるが、村長もさるもので、幽霊のたたりで盲目になったことになっている自分の立場を強めるために、二人を贋幽霊と承知でたてまつっていた。
 幽霊騒ぎを尻目に、村長の娘(松本)と青年団のリーダー(山本)は幽霊話など頭から認めず、社会主義的な理想をかかげて共同農作業に汗を流している。
 蕨座風の青年団の群舞あり、ブトー風の魑魅魍魎の群舞あり、スリップ一枚で頑張る市原悦子ありと、盛りだくさんだが、かなり原作を刈りこんでいるらしく、話がさっぱり見えない。いろいろあった末に、行商人夫婦はインチキ商品を村長に押しつけて村を離れ、めでたし、めでたし。
 二時間の芝居だが、かなりだるかった。パンフを見ると、武田泰淳を「無頼派」として評価している。それでこういう作りになったのかと納得したが、かなり無理がある。
 なんと「無頼派」作家、石川淳(!)の『狂風記』を同じスタッフで舞台化する予定があるという。上演時期未定ということだが、どうなることやら。
*[01* 題 名<] 休むに似たり
*[02* 劇 団<] 自転車キンクリート
*[03* 場 所<] TOPS
*[04* 演 出<] 鈴木裕美
*[05* 戯 曲<] 飯島早苗
*[06  上演日<] 1998-03-25
*[09* 出 演<]柳岡香里
*[11*    <]歌川椎子
*[12*    <]池田貴美子
*[13*    <]
*[14*    <]
*[15*    <]柳橋りん
 暗いマンション。玄関口から、酔った女たちの声。部屋の主が「待ってくれ」女たちをと制止して、中にはいってくる。照明がつくと室内は散らかりほうだい。彼女は大あわてで掃除をはじめる、一段落したところで友人たちを入れる。酔った女たちは汚い自慢をはじめるが、これがすさまじい。自転キンお得意の露悪趣味。
 三十代をむかえ、責任ある仕事をまかされるようになった女たちの話で、結婚しようか、一生独身でいようかという悩みがテーマ。
 男もそうで、女から女へわたりあるくのに疲れた男が、部屋が水浸しになったのを口実に、主人公のところに転がりこんでくる。追いだそうとするが、高熱が出て一週間めんどうを見る破目に。そこへ田舎から結婚をひかえた弟が出てくる。両親から姉の結婚が先といわれて催促に来た弟は、男友達を婚約者と勘違いし、男友達の方も誤解を助長するようなことを言いだす。あわよくば結婚してしまおうという男のさもしさがにじみ出ていて、笑える。
 いつもながら等身大のリアルな台詞の連続で、いよいよ松竹新喜劇になってきた。
*[01* 題 名<] ミザリー
*[02* 劇 団<] メジャーリーグ
*[03* 場 所<] サンシャイン
*[04* 演 出<] 鴨下信一
*[05* 戯 曲<] ムーア,サイモン
*[05* 翻 訳<] 常田景子
*[05* 原 作<] キング,スティーヴン
*[06 上演日<] 1998-03-28
*[09* 出 演<]市村正親
*[10*    <]白石加代子
 10分遅刻する。中は真っ暗で、舞台では二台のモニターがポール(市村)の授賞式のスピーチを映している。案内係を待つ間に、目が慣れてくると、客席がぎっしり満員なのがわかる。詰まりすぎているような印象だったが、縦通路・横通路とも、補助席が出ていたのだ。やっと案内が来て座れる。
 暗転し、タイヤがスリップし、ガードレールを破る音。薄暗い照明がつき、ログハウスの中が浮かび上がる。ベッドに寝かされている男はポール。立っている女はアニー(白石)。
 映画ではアニーの異常さは徐々に明らかになっていったが、舞台では最初の場面から切れしまう。二場では床を拭いたモップのすすぎ水で鎮痛剤を呑ませる。水なしで呑もうとしたら、吐かせて鎮痛剤をやらないと脅かす。こういう場面は映画にはなかったと思う。映画と違って、いきなりホラーだが、あまり怖くない。
 ペーパバックになった「ミザリーの子供」でミザリーが死んだことを知ると、アニーは本格的に切れる。
 果たして、クリスマスの朝、 5:30にたたき起こされ、薫製機(箪笥かと思ったら、煙突がついていた)の中に飾ったクリスマスツリーを見せられる。ポールからのプレゼントを勝手にでっちあげ、次に自分からのプレゼントだといって、車椅子、タイプライター、紙を押しつける。ポールは「帰ってきたミザリー」を書かざるをえなくなる。
 舞台左側が回り舞台になっていて、ポールが車椅子で部屋を出ると、回転して別の部屋になる。
 休憩になる。観客の八割は女性。20代後半から30代といったところ。市村のファンかと思ったら、「ミザリー」のファンらしく、映画との比較をあちこちで喋っていた。アニー予備軍がこんなにいるのか。
 二幕ではアニーがシリアル・キラーであることがわかり、ポールが他の部屋にはいったことがばれ、足を斧で切り落とされる。映画ではハンマーでたたき折られるだけだったが、原作は切断だったのだ(それほど怖くないが)。
 二人ともうまいが、コメディすれすれのところが何ヶ所もある。演出の責任だろう。
Copyright 1998 Kato Koiti
This page was created on Feb08 1998; Last updated on Jun13 1998.

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