演劇ファイル  Oct - Dec 1998

1998年 9月までの舞台へ
1999年 1月からの舞台へ
加藤弘一
*[01* 題 名<] ルル 饒舌なるサイレントムービー
*[02* 劇 団<] ク・ナウカ
*[03* 場 所<] テレプシコール
*[04* 演 出<] 中野真希
*[05* 戯 曲<] 久保田梓美
*[06  上演日<] 1998-10-02
*[09* 出 演<]榊原有美
*[10*    <]荒井万理
*[11*    <]清水浩二
*[12*    <]徳永崇史
 サイレント映画(ビデオだが)と組み合わせた若手公演。下手に暗幕がはってあり、シーツのようなスクリーンがある。これをはがすと暗幕、さらにはがすとルルを描いた絵(白地に薄い色で描いてあるので、スクリーンになる)が出てくる。スピーカーは右側、ムーバーは主に左で動く。
 弁士の榊原有美がまず口上。メリハリが利き、変幻自在の口跡。なかなかやるなと思ったが、いいのは彼女だけ。総じてスピーカーは悪くないが、ムーバーは影が薄い。
 ルルのムーバーの荒井万理は主役のオーラがないし、美人でもない。スピーカーの清水浩二は技巧はあるが、感情が十分はいっていず、平板。
 映画の画像との連繋もひとりよがり。ラスト、男が赤ん坊を産み、ルルがとりあげるが、あれはなんだ。満員だったが、疲れただけ。
 アフタートークがある。五人出てきて、客の意見を聞こうということらしい。ラストの出産について質問が出たが、ルルを求める存在がさまざまな男に取り憑き、最後に退治として出てくるという解釈だそうだ。
*[01* 題 名<] カストリ・エレジー
*[02* 劇 団<] THE・ガジラ
*[03* 場 所<] 新国立劇場小劇場
*[04* 演 出<] 鐘下辰男
*[05* 戯 曲<] 鐘下辰男
*[05* 原 作<] スタインベック
*[06  上演日<] 1998-10-07
*[09* 出 演<]内野聖陽
*[10*    <]千葉哲也
*[11*    <]石田えり
*[12*    <]三田村周三
*[13*    <]塩野谷正幸
*[14*    <]朝倉伸二
 スタインベックの「二十日鼠と人間」を戦後の焼け跡・闇市時代に移した翻案劇。
 客席に突きだした舞台に、骨組だけのバラックが建っている。開場前、下手のコンクリート壁から突きだした蛇口からしたたる水滴のポトッポトッという音が場内に響く。
 闇市を仕切るヤクザに追われたケンとゴローは、逃げこんだ廃屋で「詩人」と呼ばれる老人と出会い、彼の口利きで拾い屋の親方のところに世話になる。ゴローはケンの入った隊の伍長だったが、戦争神経症でおかしくなり、子供のようにケンに従っている。
 二人は行き場を失った男ばかりのバラックに入れられるが、親方の息子の女房(石田えり)がしょっちゅうやってきては色目を使う。彼女は「シベリア」と呼ばれる復員兵とできているが、新入りのケンにも露骨に迫る。親方の息子の黒木は、女房の男関係にぴりぴりし、何度も殴りあいになりかける。
 ケンは自分だけの家を持つという夢をもっている。前金を払えば、戦前の家作を譲ってくれる知り合いがいるというのだ。その夢をゴローに話しているのを聞いた「詩人」は、貯めた金を出すから、自分も仲間に入れてくれと言いだす。分身のように可愛がっていた老犬を撃ち殺されたばかりの「詩人」は、なにかの夢にすがりたかったのである。
 夢を共有した三人は生きがいをとりもどすが、ゴローが黒木の女房をはずみで殺してしまったことから、悲劇的な結末がおとずれる。
 石田えりは男たちを欲情させ、狂わせる牝犬でなければいけないのだが、以前のむんむんしたエネルギーを失って、慈母になってしまった。彼女のフェロモン不足で、観念の構造が剥きだしになり、二回りくらい小さな、痩せた芝居になってしまった。
*[01* 題 名<] ストリート・オブ・クロコダイル
*[02* 劇 団<] テアトル・ド・コンプリシテ
*[03* 場 所<] 世田谷パブリックシアター
*[04* 演 出<] マクバーニー,サイモン
*[05* 戯 曲<] シュルツ,ブルーノ
*[06  上演日<] 1998-10-13
*[09* 出 演<]
 ブルーノ・シュルツの生涯と作品を、彼が人生最期の日に見た夢として再構成した作品。
 身体演技で夢を物質化した作品だけに、海外劇団でおなじみの同時通訳のイヤホンはなく、舞台両袖に簡単な字幕が出る。
 黒っぽい壁に囲まれた部屋。天井が高く、あちらこちらの棚に本が並べてある。下手の扉が開き、男(ヨーゼフ)が台車で本を死体のように運んでくる。ドイツ語の鋭い響き。男は大部分は投げ捨て、何冊かは大切に棚に立てかける。軍靴の響きが客席を横断し、男は立ちすくむ。
 突然、帽子をかぶった男が、正面の壁を垂直に歩いて降りてくる。それを合図に、年配の男女が一斉に舞台に出てくる。いきなり別の次元にスリップしたみたいだ。言葉は英語になり、陰気なひえびえとした舞台が一気に活気づく。本を一人一人、下向きに開いて手に持って、バタバタと羽ばたかせるシーンには息を飲む。
 机が出てきて学校の工作の時間になったり(シュルツは工作の教師)、生家の晩餐になったり、布のロールが並べられた父親の服地屋なったりする。
 鳥や女性の脚のイメージもさることながら、materialと shapeという言葉も強迫観念になっている。materialを「物体」と訳していたが、布地のように形のない「材料」か「質量」と訳すべきだ。不定型の材料に、いかに形をあたえるかが、服地屋の息子であり、工作教師だったシュルツのオブセッションだったはずだからだ。
 身体演技はサーカス的なマイム芸が基本になっているのだが、フランス流の人工的というか、軽やかなマイムではなく、身体の重量を感じさせる重い所作が、夢に重心をあたえている。
 最後の場面でヨーゼフは夢の中の死をむかえる。死体を担いでさる男たちの退場シーンは美しい。
 終演後、演出のサイモン・マクバーニーのアフタートークがあった。
 「あなたの芝居は身体的といわれるが」との質問に、ちょっと考えこんでから、日本人にそんなことを言われるのは驚きだ、20世紀のヨーロッパ人に身体性を教えてくれたのは日本人じゃないかといって、滔々と語りだす。イサドラ・ダンカンはともかく、オリンピックまで「身体性」にふくめているのは意外だった。
 シュルツのユダヤ性という質問に対しては、ユダヤ文学の幻想性を現代に甦えらせ、夢と現実を対等に描く手法が、現代のユダヤ作家に影響をあたえているとレクチャーしたが、カフカの名前は出なかった。
 日本との関係では、1976年、ロンドンで天井桟敷の「奴婢訓」を見て衝撃を受けた、今回の芝居のラスト・シーンは、寺山修司に対するオマージュだとのこと。
 ケンブリッジ卒業後、フランスにいって、ルコックのスタジオで俳優修行をし、ちょうどフランス留学中の大橋也寸と知りあったというが、安部公房の名前は出なかった。ルコックも大橋也寸も、安部公房人脈だし、今回の作品は「仔象は死んだ」と近縁関係にあるのだが。
 野田秀樹(ロンドン滞在中にコンプリシテに参加)とジョイントで、なにかやるらしい。
*[01* 題 名<] 楽屋
*[02* 劇 団<] 木山事務所トライアングル
*[03* 場 所<] 木山事務所稽古場
*[04* 演 出<] 林まさみち
*[05* 戯 曲<] 清水邦夫
*[06  上演日<] 1998-10-17
*[09* 出 演<]堀内美希
*[10*    <]水野ゆふ
*[11*    <]橋本千佳子
*[12*    <]千葉綾乃
 トライアングルステージという自主公演で、客席は家族友人で埋まっていたようだったが、電話予約組も二十人くらいはいたと思う。
 木山事務所の主力女優が顔をそろえているので期待したのだが、がっかりした。役者を仕切れていないというか、感情が剥きだしで、身も蓋もないのだ。いつもは洗練されたアンサンブルを見せる女優たちが、ここまでバラバラになるとは。水野ゆふはお岩さんのようなケロイドのメークで頑張っているが、頑張りすぎて、芝居を壊している。
 幹部女優の堀内美希は演出関係なしに、貫禄で自分の芝居をやっていて、舞台を失速から救った。女優Bの橋本もよいが、水野の力まかせの暴走をコントロールするところまではいっていない。キーコの千葉は、台本にあるとおり、カバみたいだし、どう転んでもニーナ役は無理だが、一本調子に怒鳴るだけで、芝居をぶちこわした。最初と最後の男の声のナレーションもひどい。
*[01* 題 名<] 絢爛とか爛漫とか モボ・バージョン
*[02* 劇 団<] 自転車キンクリートSTORE
*[03* 場 所<] 紀伊国屋
*[04* 演 出<] 鈴木裕美
*[05* 戯 曲<] 飯島早苗
*[06  上演日<] 1998-10-19
*[09* 出 演<]京晋佑
*[10*    <]吉田朝
*[11*    <]岡田正
*[12*    <]佐々木蔵之介
 モボ、モガの二バージョンあるが、モガはすぐに売り切れてしまったので、モボ・バージョンだけ見る。開演二週間前の時点では、モボの前売はかなり残っていたが、劇場に行ってみると、補助席が出るほどの盛況だった。口コミだろう。
 舞台は吉行エイスケが活躍した頃の東京。登場人物は文学志望の青年四人で、趣味的に小説を書いている上流階級の息子、才気ばしった作品を次々と書き、将来を嘱望されている鉄道会社の社主の妾腹の息子、田舎の地主の息子で、短歌の勉強に上京しながら、猟奇小説を書いている変態男といるが、主人公は上京組で、大学卒業後も東京に残り、不器用ななりに私小説を書いている。
 彼らの交友が描かれるのだが、なにかというと青臭い正論が出てきて、等身大の現代の若者を描いてきたいつもの自転車キンクリートとは勝手が違う。
 後半、主人公の作品が完成した祝に集まるが、その席で、妾腹の息子が筆を折り、父親の会社を継ぐことにしたと打ちあける。正妻の息子が結核になったために、彼に跡継ぎの役目がまわってきたというのだ。
 あっさり小説を捨てた友人を見て、主人公は怒りだす。嫉妬をおぼえるほどの才能をもっているのに、なぜ、あっさりやめることができるのだ、おまえは俺を愚弄しているのか、と。
 妾腹の息子は、文学一筋になれるところが、おまえの才能だと言いかえす。
 あまりにも青臭い議論なので辟易したのだが、周囲の若い観客たちはみんな感動した風で、異和感を覚えた。一昔前の文学青年のような正論に飢えているということだろうか。
*[01* 題 名<] 十二夜
*[02* 劇 団<] 彩の国シェイクスピア・カンパニー
*[03* 場 所<] 彩の国さいたま芸術劇場小ホール
*[04* 演 出<] 蜷川幸雄
*[05* 戯 曲<] シェイクスピア
*[05* 翻 訳<] 松岡和子
*[06  上演日<] 1998-10-23
*[09* 出 演<]冨樫真
*[10*    <]鶴見辰吾
*[11*    <]宮本裕子
*[12*    <]石井愃一
*[13*    <]壌晴彦
*[14*    <]根岸明美
 能舞台のように三方を客席に囲まれた正方形の舞台。奥に向かって、二本の通路が延びているのは、橋懸りの見立てか。舞台と通路の縁に、60本余の蝋燭がともされる。役者の動きでゆらめく焔は蠱惑的(一時間で七割がた燃える)。舞台にいろいろな色と大きさの正方形の敷物を黒衣が敷いて、場面転換をあらわす。
 「夏の夜の夢」のような祝祭感覚は薄いが、儀式的な晴れがましさがあって、透明感のある晴朗な喜劇に仕上がっている。
 ヴァイオラに抜擢された冨樫は、大器であるのはわかるが、ぎこちなさがのぞく。台詞は自然で、力みがないが、感情がもう一つ乗っていない。八の字髭はかわいい。再演でよくなるだろう。
 オリヴィアの宮本裕子は小作りな印象だったが、凝縮力のある演技で、シェークスピアの描く誇り高い女性像を演じきり、すばらしかった。
 ベテランぞろいのお笑い軍団は、白塗りの顔に平安朝風の衣装をだらしなく着て、縦横無尽に笑わせる。マルヴォーリオの壌晴彦のしかめっつらしい顔は絶品。牢の問答の場面では、鉄格子のはまった床下から手を伸ばして訴える。マライアの根岸はもう一人の女主人であることを示す貫禄がある。
*[01* 題 名<] 偶然の悪夢
*[02* 劇 団<] ナイロン100゜C
*[03* 場 所<] 青山円形劇場
*[04* 演 出<] サンドロヴィッチ,ケラリーノ
*[05* 戯 曲<] サンドロヴィッチ,ケラリーノ
*[05* 原 作<] アイヒ,ギュンター
*[06  上演日<] 1998-10-28
*[09* 出 演<]みのすけ
*[10*    <]内田慎一郎
*[11*    <]大倉孝二
*[12*    <]かないまりこ
*[13*    <]石丸だいこ
*[14*    <]長田奈麻
 ギュンター・アイヒの短編集に想をとったオムニバス劇。年配の役者が客演している。不条理劇を完全に消化し、自分たちの等身大の表現にしている。前衛臭さがほとんどなく、いい意味で通俗的。身近な人間関係の齟齬のレベルに不条理を感じとる感性に脱帽。
「列車」
 1948年に逮捕されて以来、何十年も貨物列車に監禁されつづけている老夫婦(内田慎一郎、峯村リエ)の一家の話。息子夫婦(植本潤、戸波咲恵)と孫娘(石丸だいこ)がいるが、貨物列車の中しか知らず、黄色い菜の花が一面に咲いていたと外の世界の思い出話をすると、息子はウソだと憤り、孫娘はおびえて泣きだす。小さな穴が開いて、一条の光線が差しこむが、外を覗いた息子は不安になり、老夫婦も「違ってしまった」とおびえ、穴をふさごうとする。
「友達」
 北極に派遣されることになったセルマと、その弟で地図作りのヨーナス(大山鎬則)を見送る姉の友人たちの話。選別に送ったオドラデク(!)が別の危険な動物とわかったことからぎくしゃくしだし、酒癖の悪いメイ(かないまりこが好演)が酒を飲んだことから、隠していた憎しみが表に出てくる。
「治療」
 中国の貧しい夫婦(大倉孝二、長田奈麻)が六歳になる男の子(新谷真弓)を連れ、金持の家を訪問する。その家の主人(小林高鹿)は病気で、子供の生血を求めていることがだんだんにわかってくる。妻(峯村リエ)は値切ろうとするが、主人は言い値で買う。台所に汽車のオモチャがあるといって、女中(かないまりこ)に連れていかせる。やがて悲鳴。女中は生血をいれた皿をもってくる。妻は悲鳴を聞かせたと女中をなじるが、主人は妻に心臓とレバーを料理しにいかせ、女中の身体をもてあそぶ。
 妻は顔面蒼白になって、血塗れの手でもどってくる。女中が料理したのは、主人夫婦の娘だった。女中は自分の原を撫でまわし、赤ん坊ならどんどん産れてくるという。
「停留所」
 中年になった主婦のリン(山下千景)の見た悪夢。小学校の時に溺死した友達があらわれ、つづいて憧れていた先生に引率されたクラスメートたちがあらわれる。罪悪感と疎外感があぶりだされ、最後に現在の家族が登場するが、みんな彼女はとっくに死んでしまって、おまえなど知らないという。
「死」
 病院の地下プールから、死体を新しいプールに移す話。堕胎手術の費用を稼ごうとしていた女子大生(かないまりこ)がアルコールのプールに落ちたり、骨相学の大家の脳標本のはいったガラス瓶を床に落としたり。
「敵」
 幸福な一家が団欒を楽しんでいた夜、隣家の夫婦が「敵がやってくる」とおびえてやってくる。一家はなんのことかわからず、とりあわない。夜半、敵は一家の門をたたきこわし、家にはいってくる。一家はとるものもとりあえず、隣家に避難するが、敵は今度は隣家を襲おうとする。何も持って出なかったかと聞かれるが、実は娘のエルジー(澤田由紀子)が人形を持ちだしていた。
 一家は市長の家を訪ねるが、市長はおまえたちはもう市民ではない、泥棒だといって追いかえす。
*[01* 題 名<] シェイクスピアの劇音楽
*[02* 劇 団<]
*[03* 場 所<] 彩の国さいたま芸術劇場小ホール
*[04* 演 出<] 鈴木雅明
*[06  上演日<] 1998-11-14
*[09* 出 演<]鈴木雅明
*[10*    <]野入志津子
*[11*    <]野々下由香里
*[12*    <]栗栖由美子
*[13*    <]ムッツィ,レオナルド
*[14*    <]レタゥヴァー,デトマー
 演劇ではなく、シェークスピアの劇中音楽のコンサート。  細く尖らした5Hの鉛筆で描いたシェークスピアという印象がある。このあたりのCDは何枚かもっているが、バッハの禁欲的な演奏で成果をあげた鈴木氏に、シェークスピア関係の情感たっぷりの音楽をやらせるのはちょっと違うのではないか。
 前半は1600年前後に流行った唄と、ロバート・ジョンソン、トマス・モーリーがシェイクスピア劇のために作曲した歌曲。鈴木氏は主にヴァージナルを弾く。
 後半はダウランドのリュート曲など、同時代の音楽。鈴木氏はチェンバロを担当。軽快で清澄だが、期待していたものとは違う。
*[01* 題 名<] 常田富士男とマリオネット 別役実の不思議な世界
*[02* 劇 団<] 都民劇場
*[03* 場 所<] 草月ホール
*[06  上演日<] 1998-10-17
*[09* 出 演<]湯淺隆
*[10*    <]吉田剛士
*[11*    <]常田富士男
 常田富士男と別役実を前面に出した公演だったので、芝居だと思ったらそうではなく、ポルトガルギターとマンドリンのデュオの演奏会に、常田がゲスト出演し、別役の童話を朗読するという趣好だった。
 題名に騙されたのだが、騙されてよかったと思う。アコースティックな音色が実に心地よく、聞きほれてしまった。スペインの音楽と違って芝居がかっていなくて、ひなびた哀愁がある。合間の掛け合いのお喋りも面白い。ぼやきなのだが、関西弁の柔らかさと知的なはにかみが絶妙。
 常田は日本昔話に近い吶々とした語り口で、別役童話を語るが、これも絶妙。
*[01* 題 名<] 春のめざめ
*[02* 劇 団<] T.P.T.
*[03* 場 所<] ベニサン
*[04* 演 出<] 串田和美
*[05* 戯 曲<] ヴェデキント,フランク
*[05* 翻 訳<] 広島実
*[06  上演日<] 1998-11-20
*[09* 出 演<]大森南朋
*[10*    <]馬淵英里何
*[11*    <]北村有起哉
*[12*    <]花王おさむ
*[13*    <]久世星佳
*[14*    <]及森玲子
 『幽霊はここにいる』で串田は一皮むけた演出を見せたが、今度の舞台はさらに洗練され、懐が深くなっている。ショー化していったオンシアター自由劇場時代とは一線を画した、本格的なドラマを造形し、成功している。
 ロビーに入って右手、いつもはバックステージに使われる部分が開放され、入口になっている。トイレへはまっすぐいける。普段は舞台に使われる部分を通って場内にはいる。客席はコの字にならび、中央にテーブルと椅子が置かれ、開演前から稽古着の役者たちがトランプで遊んでいる。黒一色が多いベニサンだが、今回はペンキの落書があちこちに描かれ、照明も煌々とついていて、立方体の空間であるはっきりわかる。開園時間が近づくと、役者たちは鬼ごっこをはじめる。整理係が携帯を切ってくれと注意するのをきっかけに、芝居がはじまるが、客電は一幕の半ばくらいまでついたまま。串田和美はベニサンをコクーンそっくりに作りかえてしまった。
 稽古場上演型の演出だが、出番でない役者に、その他大勢の子供をやらせたのが成功して、性的抑圧の強い時代のギムナジュウムの話が現在に引き寄せられている。
 一幕は優等生のメルヒール(大森)、落第を恐れて悶々としているモーリッツ(北村)、子供っぽさが抜けないのに女の体になりはじめているヴェンドラ(馬渕)の三人が中心。家庭内暴力でもやりそうなのっぺりした顔の北村、驕慢で美少女フェロモンをむんむんさせた馬渕が、軽やかに進行していく舞台に危険な緊張感を作りだす。
 馬渕のヴェンドラは一度もぶたれたことがないから、木の枝のムチでたたいてくれとメルヒオールにせがむ。彼はおっかなびっくりたたき出すが、ヴェンドラに挑発されて、途中から本気になる。傷ついて女の子の弱さを見せるヴェンドラのエロチシズム。従来の串田演出では考えられないシーンだ。
 一気に重くなった舞台をひっくりかえすように、山下裕子が素で登場し、14才の時に娼婦にあこがれていたと剽軽に語りだす。彼女にうながされて、別の役者がイルカのセックスを見て、にっこりした甥の話を語り、春海四方はSM雑誌を学校に持っていった話を披露する。
 後半、一度は仮進級できたモーリッツが落第する。彼はメルヒオーヌの母親のファニー(及森)に助けを求める手紙を出すが、とりあってもらえない。彼は自殺を選ぶ。
 一方、メルヒオーヌはヴェンドラを藁の上で犯してしまうが、ヴェンドラは母親(花王)から抽象的な愛について聞かされていただけなので、自分がセックスしたとは気がついていない。
 二幕では、メルヒオーヌが書いた性の手ほどきの論文がモーリッツの部屋から見つかり、職員会議で感化院送りが決る。ヴェンドラの妊娠も発覚し、母親は堕胎を選ぶ。
 メルヒオーヌの母は彼をかばおうとするが、ヴェンドラの妊娠まで知らされ、感化院送りを認めるしかない。
 メルヒオーヌはヴェンドラに会うために感化院を脱走するが、墓地に迷いこみ、モーリッツの霊と話す。モーリッツは彼を死の世界に誘おうとするが、別の霊に阻まれる。
 モーリッツの死を傷むハンスの久世の独白は宝塚調だが、かっこよすぎるくらいかっこいい。少女っぽい及森をメルヒオーヌの母親にした趣好も成功している。
*[01* 題 名<] ロス・タラントス
*[02* 劇 団<]
*[03* 場 所<] アートスフィア
*[04* 演 出<] 栗山民也
*[05* 戯 曲<] 斎藤克己
*[05* 原 作<] マニャス,アルフレッド
*[06  上演日<] 1998-12-07
*[09* 出 演<]木の実ナナ
*[10*    <]西田ひかる
*[11*    <]上條恒彦
*[12*    <]石井一孝
*[13*    <]山本亨
*[14*    <]黒木里美
 ジプシー版「ロミオとジュリエット」。1963年に「バルセロナ物語」、1989年には「アンダルシアの恋物語」という題名で映画化されたそうだ。
 三角関係を暗示するフラメンコ・ダンサーによる踊りがあってから、本篇がはじまる。「丘」に住む貧しいタラント一家と、「街」の名士となったソロンゴ一家は、ともにジプシーなのにいがみあっている。原因はソロンゴの恋人のアングスティア(木の実)が、人気闘牛士のタラントに恋をし、ソロンゴを振ってしまったこと。ソロンゴは街に出て汚い手段で金をもうけ、闘牛用の牛を育てる牧場主に成りあがるが、人を憎んだ牛を故意にタラントにあてがい、死にいたらせたと噂されている。
 このタラント家のラファエルとソロンゴ家のファナが恋に落ちたために、大騒動が持ちあがる。二人の恋人が殺されるという悲劇で終り、両家は和解する。
 一幕の終り、ラファエルはファナを母親に引きあわせようとするが、母親はファナの顔を見ようとはしない。ファナは母親にフラメンコ合戦をいどみ、自分を認めさせる。ファナの西田はがんばっているが、木の実とならんでは差は歴然。身体の軸が定まらないのだ。
 ファナにはすばらしいアリアがいくつもあるが、西田の歌唱力は今一つ。しかし、育ちのよさからくる天性の素直さがファナ役に合っている。
 タラント一族なのに、ソロンゴの子分のクーロの内縁の妻のイサベルを黒木里美、ソロンゴの屈折した息子をT.P.T.の山本亨がやっている。クーロの海津義孝はなかなかの悪役ぶり。タラントの長男の嫁の絵馬優子は、一度だけ合唱をリードするが、歌唱力がある。
 木の実ナナの女家長は貫禄といい、踊りといい、文句はないが、厚化粧の顔は怖かった。
 アートスフィアははじめて行ったが、円柱に近い狭苦しい空間なのに、舞台をぎっしり役者が埋め、足を踏みならして踊るので、圧迫感があった。台詞と歌をマイクでひろって、天井のスピーカーから流すのも異和感がある。
*[01* 題 名<] ルル
*[02* 劇 団<] T.P.T.
*[03* 場 所<] ベニサン
*[04* 演 出<] ルヴォー,デビッド
*[05* 戯 曲<] ヴェデキント
*[05* 翻 訳<] 松岡和子
*[06  上演日<] 1998-12-18
*[09* 出 演<]大竹しのぶ
*[10*    <]倉野章子
*[11*    <]堤真一
*[12*    <]真名古敬二
*[13*    <]小林勝也
*[14*    <]村上冬樹
 大竹しのぶは『青春の門』のイモ娘ぶりが強烈だったし、最近はがんばりママの役が定着しているので、色気とは縁遠い女優だと思っていた。この芝居を見てびっくりした。最初からフェロモン全開で、あでやかで、かわいらしくて、表情がよく動く。キラキラしている。こんなに魅力的な女優だったとは!
 この人のすごいところは、童女から年増女まで、さまざまなフェロモンをそろえているところだ。『ルル』では、手持のフェロモンを次々とふりまいているが、まだまだストックがありそうだ。
 壁と帽子の内側のような円形の天井には詰物をした深紅のベルベットがはってあり、秘密クラブめいた危うい雰囲気がある。この舞台で、ルル=大竹しのぶのフェロモン毒に当たって、老若さまざまな男が破滅していき、ついには気位の高い伯爵令嬢(倉野)まで振りまわされ、さんざんな目にあわされる。
 これだけ男女を翻弄しながら、ルルは投資していた鉄道会社の倒産で破産し、「白い奴隷女」(『カフカ、映画に行く』によると、高級娼婦をさす隠語として人口に膾炙していたという)にされそうになり、果ては街娼に落ちぶれ、ロンドンの貧民街の一室で、切り裂きジャックに子宮をえぐられる結末をむかえる。
 ルル=大竹しのぶの女っぷりが水際だっていただけに、後半の見る見る落ちぶれていく目まぐるしい展開の印象は強烈だ。資本主義社会ではフェロモンよりも貨幣の方が強いのだ。
Copyright 1998 Kato Koiti
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