演劇ファイル  Feb - Dec 2002

2001年12月までの舞台へ
2003年 1月からの舞台へ
加藤弘一
*[01* 題 名<] ハムレット
*[02* 劇 団<] シェイクスピア・シアター
*[03* 場 所<] 東京グローブ座
*[04* 演 出<] 出口典雄
*[05* 戯 曲<] シェイクスピア
*[05* 翻 訳<] 小田島雄志
*[06  上演日<] 2002-02-08
*[09* 出 演<]吉田鋼太郎
*[10*    <]松木良方
*[11*    <]吉沢希梨
*[12*    <]久保田広子
*[13*    <]杉本政志
*[14*    <]山$崎泰成
 二年前とほぼ同じキャスト、同じ演出だが、舞台が五倍くらい広いので、すきま風を感じた(吉田の出ない場面で特に)。今回も椅子以外、舞台装置がないが、この劇場では苦しい。最前列の真ん中でこう感じたのだが、後ろの列や二階ではどう見えたろうか。
 若い役者たちは成長しているが、吉田の一人芝居なのは同じである。最初の二つの独白と尼寺の場の迫力はさすが。
 ホレーシオの杉本はかなりうまくなり、吉田を受けるところまできている。フォーティンブラスの田村真は風格がある。松木はクローディアスもよくなったが、台詞のとちりが結構ある。ポローニアスの山$崎は今回も棒読み。ここの役者は棒読みから段々メリハリがついてくるのだが。
 一幕はいいが、二幕はモノローグの限界を感じた。
*[01* 題 名<] 新ハムレット
*[02* 劇 団<] シェイクスピア・シアター
*[03* 場 所<] グローブ座
*[04* 演 出<] 出口典雄
*[05* 戯 曲<] 太宰治
*[06  上演日<] 2002-02-15
*[09* 出 演<]吉田鋼太郎
*[10*    <]杉本政志
*[11*    <]松木良方
*[12*    <]吉沢希梨
*[13*    <]住川佳寿子
*[14*    <]松本洋平
 半分ちょっとしか客がはいっていなかったが、予想外の傑作だった。もったいない。
 吉田のクローヂアスは中小企業のオヤジさんといった感じで、思いがけず社長になってしまったために、ひたすら低姿勢で社員の御機嫌をとっている風。吉沢のガーツルードは絵に描いたようなしっかり者の母親で、甘ったれのハムレットに容赦ない。杉本のハムレットは頭でっかちの大学生。松木のポローニアスは小心な番頭。
 デンマーク宮廷が日本的風景にはまっているだけでもおかしいのに、ハムレットの苦悩の原因がオフィーリア(住川)を妊娠させてしまったことだというのだから、これはドタバタ喜劇だ。
 ドタバタだけで終わっても十分面白かったが、二幕はシリアスになる。ガーツルードとオフィーリアの対話がすごいのだ。モノローグとモノローグがかするというべきか、西洋的な言葉のフェンシングとは違うが、遠回しにハムレットを諦めさせようとするガーツルードに、オフィーリアは本当はハムレットではなく、ガーツルードを慕っているのだと押しまくり、ガーツルードはついに情にほだされてしまう。
 オフィーリアの住川はまだ棒読みが残っているが、この劇団で育った女優が共通して持っている潔癖感とりりしさが匂いはじめている。
 次のハムレットとの対話では、オフィーリアは「ごめんなさいね」と断りながら、男の甘さをずばり、ずばり衝いて、ハムレットはたじたじ。太宰は同じような耳に痛い苦言を愛人たちから散々呈されていたのだろう。
 最後のクローヂアスとポローニアスの対話もすごい。文字で読んだら、多分、対話として成立していないのだろうが、吉田と松木は力業で対話に仕立てあげることに成功している。ついにクローヂアスはポローニアスを殺すが、ガーツルードに立ち聞きされてしまう。
 結末、ノルウェーがデンマークに宣戦布告し、クローヂアスはいきりたち、檄を飛ばす。そこにレアチーズが名誉の戦死を遂げたという注進と、ガーツルードが川に身を投げて自殺したとの報がはいり、デンマークは打ちひしがれたハムレットを置き去りにして、一路、戦争へとひたはしる。1941年7月発表だから、この終わり方は時局諷刺なのだろう。
*[01* 題 名<] アダムとイブ
*[02* 劇 団<] tpt
*[03* 場 所<] ベニサン
*[04* 演 出<] 木内宏昌
*[05* 戯 曲<] 寺山修司
*[06  上演日<] 2001-03-28
*[09* 出 演<]中川安奈
*[10*    <]塩野谷正幸
*[11*    <]真名古啓二
*[12*    <]北村有起哉
*[13*    <]小山萌子
 新進演出家にチャンスをあたえるフューチャーズ・プログラムの一篇。
 一段高くなった枠の中のかしいだ床。上手のダブルベッド側がもちあがり、下手が下がっている。天井の格子もかしいる。床のそこここから蒸気が噴きだしている。
 トルコ風呂(楽園)の上の部屋に雑居する家族の話で、楽園追放後のアダム一家という見立てだ。
 タキシードで正装したコロスが舞台を通りすぎた後、本篇がはじまる。
 林檎をかじらずにはいられないイブこと母親(中川)が大量に林檎を隠している。林檎ノイローゼのアダムこと父親は(真名古)八百屋に林檎を返しにいくが、数があわないと言われ、これで全部だと啖呵を切って帰ってくる。警察が林檎が本当に残っていないかどうか調べに来るのに、イブが林檎を隠していたことがわかり、大慌てする。
 これに切手蒐集狂アベル(北村)と殺人者のカイン(塩野谷)がからみ、母親=イブはカインをベッドに招く。床に打ちつけた板を剥がすと楽園=トルコ風呂が丸見え
になる。
 多分、この戯曲は生活に疲れた中年一家の話と楽園追放の神話のズレがポイントなのだろうと思うが、抽象的な舞台と、みごとなスタイルをスリップ一枚で包んだ中川安奈と、脚線美を誇示する少女が魅力的すぎて、ズレが見えなくなってしまった。いい素材(役者&台本)を使いながら、演出の狙いがぼけているのではないか。
*[01* 題 名<] 火あそび
*[02* 劇 団<] tpt
*[03* 場 所<] ベニサン
*[04* 演 出<] 熊林弘高
*[05* 戯 曲<] ストリンドベリ
*[05* 翻 訳<] 木内宏昌
*[06  上演日<] 2002-04-05
*[09* 出 演<]中川安奈
*[10*    <]塩野谷正幸
*[11*    <]久松信美
*[12*    <]真名古啓二
*[13*    <]小山萌子
*[14*    <]藤川洋子
 「アダムとイブ」と同じセットだが、床は水平である。
 富豪の父親の家に同居しているカースティン(中川)とクヌート(塩野谷)のところに、友人のアクセル(久松)が滞在している。カースティンとアクセルの間にはただならぬ感情がきざしていて、アクセルは別に宿をとろうとするが、クヌートは二人の思いを知ってか知らずか、それを許さない。生殺しのまま、密室の中で関係が煮詰まっていく。まさにtptの芝居といえるが、ルヴォー演出によくも悪くも似すぎている。
 中川のカースティンは白いワンピースの立ち姿が美しく、生命感にあふれている。訴えるような一途な目がたまらなく魅力的だ。
*[01* 題 名<] その人を知らず
*[02* 劇 団<] 民藝
*[03* 場 所<] 紀伊国屋サザンシアター
*[04* 演 出<] 内山鶉
*[05* 戯 曲<] 三好十郎
*[06  上演日<] 2001-04-12
*[09* 出 演<]香原俊彦
*[10*    <]小杉勇二
*[11*    <]日色ともゑ
*[12*    <]吉岡扶敏
*[13*    <]河村理恵子
*[14*    <]梅野泰靖
 戦中の弾圧、戦後の左翼全盛期に、愚直に信仰を守り通した若いクリスチャンの話である。
 幕が開くと、牧師の人見(小杉)が国民服姿で、直立不動で目を見開き、ぶるぶるふるえている。一見、温厚そうな憲兵の伴(杉本孝次)が蛇が蛙をいたぶるように、人見に圧力をかける。人見が洗礼をほどこした友吉という青年に、徴兵忌避をやめるように説得しろというのだ。人見は拷問をほのめかされ、失禁する。
 警察署に移された友吉は剣道場で何度も殺されかける。困った、困ったと愚痴りながら、拷問とリンチをつづける警察官は遊び半分に暴力をふるっているようにしか見えない。
 人見はキリスト教国の英米が戦争をしている事実を例にあげ、転向を迫るが、朴訥な友吉に原則論を持ちだされると、おまえの傲慢さのために回りが迷惑を受けると怒鳴りだす。
 友吉が働いていた工場では、徴兵忌避者を出して申し訳ないと、友吉の弟がいじめられ、ついに殺されてしまう。
 しかし、讃美歌を歌いながら、便所掃除をつづける友吉に、留置場の犯罪者たちは畏敬の念をもちはじめる。
 二幕は戦後。スト準備のための労働組合の集会に、友吉は反戦の英雄として引っ張りだされるが、自分が意地を張ったためにみんなに迷惑をかけたと謝り、それがかえって戦争協力を思いださせ、集会は白けてしまう。1949年初演の芝居にこんな場面があったとは、驚くべきことだ。
 友吉は工場を辞めざるをえなくなり、親友の回してくれる部品で時計の修理工をほそぼそとはじめる。留置場で知りあった闇屋(梅野)がたびたび訪れ、食べ物を置いていくが、いかにもいかがわしい。
 牧師として活動を再開した人見の教会は、二世の信者のおかげでクリスマス・ツリーを飾っている。羽振りもいいらしい。イブの前夜、人見の妹の治子(日色)のことで訪れた友吉に、人見は冷たい態度を見せる。
 浮浪者狩りにひっかかり、盲目の妹(河村)と治子を残して、友吉がトラックに乗せられ、連行されるところで終わる。
 戦後、ペコペコ謝りつづける友吉は、クリスチャンというよりは常不軽菩薩そのものだ(香原の朴訥さが活きている)。徴兵忌避をつらぬいた彼が謝れば謝るほど、インテリは自責の念を呼び起こされることになる。
 ずしりと重いものが残る芝居である。
*[01* 題 名<] ロンサム・ウェスト 神の忘れたまいし土地
*[02* 劇 団<] ひょうご舞台芸術
*[03* 場 所<] 世田谷パブリックシアター
*[04* 演 出<] 鵜山仁
*[05* 戯 曲<] マクドナー,マーティン
*[05* 翻 訳<] 鴇澤麻由子
*[06  上演日<] 2001-05-13
*[09* 出 演<]辻萬長
*[10*    <]磯部勉
*[11*    <]横堀悦夫
*[12*    <]小島聖
 アイルランドの寒村、リーネンを舞台にした、粗暴な男たちの話である。
 墓石に囲まれてコナー家の居間。一家の父親の葬儀をすませたウェルシュ神父(横堀)とコールマン(辻)が登場する。父を誤って射殺したというのに、コールマンはまったくこたえておらず、弟のヴァレン(磯部)と派手に喧嘩をする始末。事故ではなく、コールマンが故意に父を射殺したのだという噂がある。
 神父がもどってきて、入水自殺したトムの死体を引きあげるのを手伝ってくれと頼むが、噂は事実で、コールマンは父に髪型をけなされて、発作的に射殺し、それにつけこんで、ヴァレンは全財産を自分のものにしたという経緯がわかる。コールマンはヴァレンが収集した聖人像をオーブンで熔かしてしまう。
 密造酒売りのガーリーン(小島)は神父に気があるらしく、しきりにちょっかいを出すが、神父はおろおろするばかりだ。
「父親を殺してもゴメンナサイすれば、天国にいけるのがカトリックのいいところ。
しかし、自分自身を殺したら、地獄いき」という身も蓋もない台詞は笑うに笑えない。
 一幕だけでも十分すごいが、二幕はもっとすごい。
 夜、自殺者がよく出る湖畔でウェルシュ神父とガーリーンが話している。神父は自分の教区から二件の殺人と一人の自殺者を出してまいっていて、村を出ていくという。
神父が好きなガーリーンは引き止めようとする。
 次の場はコナー家。コールマンとヴァレンの兄弟が言い争っている上で、ブランコに乗った神父が二人にあてた手紙を読み上げる。神父は下におり、しきりに二人を諭すが、二人には神父が見えないらしく、いさかいをつづけている。
 ヴァレンは今度は陶器の聖人像をコレクションし、棚にならべて悦にいっている。翌日、ガーリーンがやってきて神父の自殺を告げ、兄弟に手紙を届ける。ガーリーンは落ちこんでいて、神父の魂は地獄に落ちたが、二人が仲直りすれば救われるからと、懸命に和解を懇願する。
 神父の葬儀から帰った二人はぎこちなく和解する。コールマンは葬式で出たミートパイの残りをもらってきて、珍らしく弟に勧めたのをきっかけに、子ども時代を思いだし、あの時は悪かったとたがいに謝罪するものの、すぐに謝罪合戦になり、どんどんエスカレートしていく。
 コールマンがヴァレンの愛犬の耳をちょんぎったのは自分だと告白。ヴァレンは信じないというが、コールマンは外に出て、袋に入れた耳をもってくる。ヴァレンはついに切れて、包丁をつきつけるが、コールマンは銃を向ける。ヴァレン自慢のオーブンに向けて発射し、棚に並べた聖人像を銃身でなぎ倒す。
 ヴァレンは泣きわめいた後、あきらめの心境に達する。
 四人の役者すべてがいい。悪態をつくが、人のよいヴァノンの磯部と、はねっかえりのガーリーンの小島が特に印象的だ。
*[01* 題 名<] オイディプス王
*[02* 劇 団<]
*[03* 場 所<] コクーン
*[04* 演 出<] 蜷川幸雄
*[05* 戯 曲<] ソフォクレス
*[05* 翻 訳<] 山形治江
*[06  上演日<] 2002-06-26
*[09* 出 演<]野村萬斎
*[10*    <]麻実れい
*[11*    <]吉田鋼太郎
*[12*    <]菅野菜保之
*[13*    <]川辺久造
*[14*    <]山谷初男
 期待ほどではなかった。
 鏡張りの舞台で、上演中、しばしば客席に向けて照明をあて、鏡に映る。バルコニー席は一階から三階まで壁際に立見がびっしりで、「三文オペラ」の舞台のようになる。お客をコロス化しているわけだ。ねらいはわかるが、わりと前の席だったので、照明があたると落ちつかない。
 男ばかりのコロスは赤い衣装で、「グリークス」と同じらしいが、チベット僧のようにも見える。一斉に五体投地する場面は怖いくらいだ。笙を吹き鳴らしながら客席から舞台にあがり、チョルテンを張る場面もある。「グリークス」と違って、内発的な力が感じられず、様式と力まかせの荒技の寄せ集めという印象を受けた。
 台本は「情報」のような今風の漢語が多く耳障りだ。現代劇として演出しようということらしいが、こういう様式的なドラマの現代化は根本的に作りかえない限り、中途半端に終わってしまうのではないか。男たちの声が明るすぎるのも気になった。
 うねるような感動には程遠いが、芸達者なキャストの瞬発力のおかげで場面場面ではドラマが成立していた。腐っても鯛だ。
*[01* 題 名<] 櫻の園
*[03* 場 所<] 新国立劇場
*[04* 演 出<] 栗山民也
*[05* 戯 曲<] チェーホフ
*[05* 翻 訳<] 堀越真
*[05*    <]@神西清
*[06  上演日<] 2001-07-17
*[09* 出 演<]森光子
*[10*    <]津嘉山正種
*[11*    <]佐藤慶
*[12*    <]キムラ緑子
*[13*    <]吉添文子
*[14*    <]三谷昇
 客席は小劇場にしては年齢が高く、森光子のファンとおぼしい爺婆に占拠されていた。はたして森が登場すると拍手が起こった。
 舞台を昭和初頭の信州に移したのが裏目に出た。いくら洋館でも、没落地主の家という設定で仏間も親戚たちも出てこないのなら、森光子に赤毛ものを演じさせた方がまだ自然だったろう。
 一幕はどうにか見るに耐えたが、二幕はお粗末。
 活動写真館の楽隊を呼んで夜会をやりながら、競売の結果を待つのだが、朱色の振袖をだらしなく着てあらわれる森光子は、どう見てもカフェの女給だ。千穐楽が近いというのに森の台詞がはいっていず、智彦(トロフィーモフ、段田安則)との場面は無残だった。
 下に降りていく階段を設けて、舞台を二階に見立てたのはアイデアが、小さな舞台に黒い漆地に金泥で梅を描いた衝立等々の家具がひしめき、せっかくの装置が逆効果である。
 綾子(アーニャ、吉添)は台詞は棒読みで、芸達者がそろっているだけに悪い方で目立つ。織江(ワーリャ、キムラ)はもうけ役。
*[01* 題 名<] 藪の中
*[02* 劇 団<] THE・ガジラ
*[03* 場 所<] 世田谷パブリック
*[04* 演 出<] 鐘下辰男
*[05* 戯 曲<] 鐘下辰男
*[06  上演日<] 2001-07-19
*[09* 出 演<]内野聖陽
*[10*    <]高橋惠子
*[11*    <]若松武史
*[12*    <]小林勝也
*[13*    <]藤井びん
*[14*    <]海津義孝
*[15*    <]宮島健
 真っ黒な円形の舞台が客席に張りだしている。D列なので油断していたが、A〜C列は取り払ってあるので、かぶりっつきだ。藪を墨絵風に描いた布が半円形に舞台を囲んでいる。客電が落ちていく中、木樵(小林)、旅法師(藤井)、翁(真砂の父親、海津)、放免(宮島)が客席通路を通って舞台に上がったかと思うと、上から鎖をまかれた人形がドサッと落ちてくる。もうもうと埃がたち、客席奥から奉行の声が響き、死体を発見した木樵と、前日、殺された武弘(若松)が妻を乗せた馬を引いていくのを見た旅法師の詮議がはじまる。二人の語りがみごとで、なにもない舞台の上に目撃した場面がくっきり浮かびあがる思いがする(古典劇でおなじみのレシだ)。
 現場が明らかになったところで、いよいよ放免が鎖につないだ多襄丸を引きだし、核心にはいる。多襄丸が陳述をはじめると、舞台の左右奥から武弘と真砂があらわれ、無言のまま、状況を再現する。先ほどまで責められていた木樵、旅法師、娘をかばうために異議を申し立てる翁がコロスになり、それぞれの立場から議論を戦わせる(この話は裁判劇だった!)。多襄丸と真砂は東国から連れてこられた俘囚の末裔で、西国人から蔑まれており、武弘はそれを承知で真砂を妻にしたという、原作にはない差別の構造がつけくわわり、それが言葉の責具になるが、多襄丸はそれを吹きとばし、真砂を武弘の眼前で犯したさまを汗まみれになって陳述する。内野の最高の演戯ではないだろうか。
 古墳から出てきた鏡を格安でわけるなどといういかがわしい話に乗るなど、武士としてあるまじきこととコロスが罵詈讒謗をあびせかけると、それまで無言だった武弘が突然、言葉を発する(最初はエコーがついているが、霊媒をださなかったのは正解だった)。まったく別のストーリーが語られ、武弘は自害したと告白し、非難が真砂に集まると、今度は真砂が陳述をはじめる番だ。
 雄渾に進んできた裁判劇が真砂の語りで失速しはじめ、情けない三角関係の様相を呈していく。原作とも、黒澤の映画とも異なる結末だが、最後の多襄丸のモノローグは芥川論だろう。
*[01* 題 名<] ヴェニスの商人
*[02* 劇 団<] グローブ座カンパニー
*[03* 場 所<] グローブ座
*[04* 演 出<] 山崎清介
*[05* 戯 曲<] シェイクスピア
*[05* 翻 訳<] 小田島有志
*[05* 構 成<]@田中浩司
*[06  上演日<] 2001-07-26
*[09* 出 演<]伊沢磨紀
*[10*    <]木村多江
*[11*    <]戸谷昌弘
*[12*    <]明楽哲典
*[13*    <]原田砂穂
*[14*    <]山谷典子
 夏休みの恒例だった「子どものためのシェイクスピア」の最終回。このシリーズは評判がよく、いつか見ようと思っていたのだが、グローブ座閉館の今年、あわてて見にいった。
 傑作である。これまで見のがしてきたことを悔やむ。
 赤紫色のはんぺんのような正方形の衝立が正面に立ち、その後ろに一回り大きな衝立、その後ろにさらに一回り大きな衝立が置かれている。衝立の間は役者が通れるくらいあいていて、時に応じて照明がつく。
 黒い帽子、黒い外套の役者たちが拍手しながら固まって出てくる。
「まさにこんな夜だった、ロミオとジュリエットが死んだのは」
と、「子どものためにシェイクスピア」の演目を回顧する台詞を順番に発していく。エネルギッシュで、浮き立つようなリズムがあり、子供ならずともわくわくしてくる。
 ヴェニス市民(コロス)の噂話とごっこ遊びの中から芝居がはじまるという趣向で、黒外套と帽子を脱いで登場人物になったことを示すが、コロスの衣装のまま、仮に登場人物を演じてみせる場面もある。台詞は小田島訳のままだが、フットワークがよく、子供でも飽きないだろう。
 伊沢磨紀はポーシャではなく、シャイロックとロレンゾーの二役だった。
 なんという声だろう。耳にやさしく、綿菓子のようにふうわり溶けていく。子供向けにしてはユダヤ人を罵倒する台詞がそのまま残っていて、対するシャイロックの台詞にもルサンチマンがたっぷりふりかけられているが、耳にはいったとたん、たちまち浄化され、虚空に消えていく。
 あの声を聞いているだけで幸福になる(他の役者がシャイロックをやったら、子供向けにならなかった!)。
 ポーシャの木村はしゃきっとしていて、かわいい。
 驚いたのは長台詞を分解し、本来の役者とヴェニス市民との対話に変えていることだ。これはすごい発明だ。
*[01* 題 名<] W;t
*[03* 場 所<] パルコ劇場
*[04* 演 出<] 西川信廣
*[05* 戯 曲<] エドソン,マーガレット
*[05* 翻 訳<] 鈴木小百合
*[06  上演日<] 2002-08-16
*[09* 出 演<]草笛光子
*[10*    <]田中律子
*[11*    <]鵜澤秀行
*[12*    <]佐藤一平
*[13*    <]本山可久子
 1999年度ピュリッツアー賞受賞作だそうだが、つまらなかった。終末医療というテーマが評価されたということではないか。
 白いバンチングボードを張っただけの舞台で、正面の壁は真中でわかれ、下手側がやや前に出ている。壁の隙間を通って赤いキャップをかぶったビビアン(草笛)が点滴のスタンドを押しながら登場して、芝居がはじまる。
 ビビアンはジョン・ダンを専門にする英文学の教授だが、独身で身寄りはなく、白血病で死が迫っている。放射線治療で髪の毛も眉毛も抜けてしまっている。
 ほとんどビビアンの一人芝居で、末期癌患者としては不自然なほどの量の台詞を立板に水で喋りまくる。なんで他の出演者がいるのだろうと思ったが、骨に転位し、モルヒネの点滴でビビアンが意識不明に陥ると、ようやく他の出演者が前面に出てくる。
 研修医のジェイソン(佐藤)はビビアンの授業に出たことがあり、一点の感傷もない軍事教練のような授業だったと尊敬をこめて語る。
 ジェイソンはダンの詩は救済不安からのがれるために作られたパズルのようなもので、どんどん複雑化させていったと要約するが、ビビアンに対する批評でもあるだろう。
 同僚教授の老女、アシュフォード(本山)が見舞いに来て、肩を抱いて、絵本を読んでやる場面があるが、夢かもしれない。
 ビビアンの臨終にあうや、ジェイソンはパニックにおちいり、延命拒否しているのにコード・ブルーを発動し、延命チームを呼んでしまうが、看護婦のスージー(田中)が止める。
 みんなが立ち去ると、ビビアンはベッドから起き、舞台を一周して奥に進む。正面の壁が左右に引っこみ、中央に青空が開ける。客席に背を向けて立つビビアンはパジャマを脱ぎ捨て、全裸になる。
 カーテンコールではキャップと同じ赤のガウンを羽織っていた。
 必然性があっても、婆さんのヌードは見たくない。
*[01* 題 名<] ミレナ
*[03* 場 所<] 世田谷パブリックシアター
*[04* 演 出<] 佐藤信
*[05* 戯 曲<] 斉藤憐
*[06  上演日<] 2002-10-03
*[09* 出 演<]南果歩
*[10*    <]渡辺えり子
*[11*    <]渡辺美佐子
*[12*    <]真名古啓二
*[13*    <]二瓶鮫一
*[14*    <]大鷹明良
 斉藤憐作、佐藤信演出で、ナチスの政治犯収容所で死んだカフカの恋人、ミレナ・イェセンスカを主人公にしている。着眼はおもしろいし、アナクロな左翼新劇にならないように勉強した成果も一応あがっているが、結局のところ、全共闘世代の思考パターンから出ていない。
 ラーヴェンスブリュック収容所の記念館からはじまる。周囲の壁は百味箪笥のように区切られ、ここで死んだ女たちのハイヒールが展示されている。沈痛な表情のマルガレーテ(渡辺えり子)があらわれ、暗転。シュミーズ姿の女囚たちが踊りながら出てきて、記念館はそのまま1939年の収容所になる。マルガレーテがコートを脱ぐと、下は囚人服である。新しい女囚が到着し、振りわけがおこなわれるが、その中にミレナ(南)がいる。
 自由奔放で、結構したたかな「プラハの不良娘」、ミレナと、粛正された共産党幹部の妻として重荷を負っている生真面目なマルガレーテの関係は(登場する男たちがだらしないことも含めて)『OUT』の雅子と師匠の関係に似ているが、大きく異なるのはゲルダ(渡辺美佐子)という無学な農婦あがりの女看守がからんでくることだ。「庶民」のリアリズムを代表するゲルダからみれば、ミレナもマルガレーテも「食べるものに困ったことのない」インテリお嬢様なのである。
 反帝、反スタ、真の社会主義と無垢な「庶民」の信仰……いやはや、全共闘そのまま(苦笑)。
 ソ連とナチス、二つの収容所を経験したマルガレーテが全体主義を批判し、「恋」と快楽主義に希望をつなぐ単細胞ぶりは、胴長短足の女優たちのシュミーズ群舞同様、応対のしようがなかった。
 壁の下段の引出からカフカが登場して、「城」がどうのと独り言をいうのだが、意味不明。
 なんとも困った芝居なのであるが、唯一、南果歩のミレナはよかった。悲惨な現実をメルヘンに変えてしまう彼女の妖しげなコケットリーのおかげで、全共闘オヤジのぼやきで終わらずにすんだ。
*[01* 題 名<] 新・明暗
*[02* 劇 団<] 二兎社
*[03* 場 所<] シアター・トラム
*[04* 演 出<] 永井愛
*[05* 戯 曲<] 永井愛
*[06  上演日<] 2002-10-17
*[09* 出 演<]佐々木蔵之介
*[10*    <]山本郁子
*[11*    <]木野花
*[12*    <]下総源太郎
*[13*    <]小山萌子
*[14*    <]山本龍二
 三時間を超える長尺。しょっちゅう回転する舞台の上を俳優が小走りに走りまわり、コミカルにテンポよく進行する。台詞には今風の話題がまじって笑わせてくれるが、小悪党の騙しあいが延々とつづくのはちょっとつらい。
 長いといっても、出演者は八名だけで、津田の佐々木以外は二役、三役を兼ねる。すべて同じに見えるアクの強い役者もいるが、津田の妹と延子の妹、仲居を演ずる小山萌子にはすっかり騙された。T.P.T.の「アダムとイブ」に台詞のない役で出てきたと思うが、ナイスボディだけの人ではなかった。
 山本郁子は陽性の延子と、少女のように小首をかしげるはかなげな清子を兼ねる。陰陽どちらの女性像も魅力的に演じているが、とぼけた味で油断させておいて、ラストの変貌は背筋がぞくぞくした。ここまでくると、うまいを超えている。
 木野花は吉川夫人を貫禄たっぷりに演じ、リアリズムもできるのかとうならせるが、途中から小劇場風の大袈裟な芝居の地が出てくる。二幕の天道「夫人」はあちゃらかである。下総源太郎の小林はルサンチマンに満ちた大時代的な左翼インテリで、現代化しがちな舞台を明治に引きもどした。
 地味な一幕に対して、二幕は迷宮化した温泉旅館で清子と再会したり、天道「夫妻」の刃傷沙汰や台風の中を帰ったと派手な場面が多い。
 今頃、なんで『明暗』なのかと思ったが、しがらみから逃げようとしながら、結局自らしがらみを求めていく津田の駄目男ぶりに現代性があるのかもしれない(とても共感できないが)。
*[01* 題 名<] エレファントマン
*[03* 場 所<] 赤坂ACTシアター
*[04* 演 出<] 宮田慶子
*[05* 戯 曲<] ポメランス,バーナード
*[05* 翻 訳<] 山崎正和
*[06  上演日<] 2002-10-23
*[09* 出 演<]藤原竜也
*[10*    <]今井朋彦
*[11*    <]小島聖
*[12*    <]湯浅実
*[13*    <]腹筋善之介
*[14*    <]湯浅幸一郎
 赤坂ACTシアターは大きいだけで安普請の「小屋」だった。ロック・コンサートやミュージカルならともかく、ここでストレート・プレイは無茶だ。9割が女性客で、30前後が多い。広大な客席には年増フェロモンが充満していて、藤原竜也の必然性のない入浴シーンでは生唾を呑むような妙な緊張感が充満した。
 芝居は案の定、隙間風びゅうびゅう。シンプルなセットはこういう巨大な小屋では殺風景なだけだ。PAでワンワンして、台詞のニュアンスもなにもあったものではない。もともと八人の出演者が何役も兼ねるというコンパクトな芝居だけに、パルコ劇場あたりでかけるべきだったろう。
 エレファントマン=ジョン・メリックの藤原は特殊メークなしで、上半身裸で演じる。左腕を固定しているくらいだが、無垢な魂を表現したということらしい。毛布にくるまっておびえる姿は年増客の母性本能を刺激するだろう。
 ジョンは孤児院で育ち、興行師にベルギーに連れていかれるが、あまりにも醜いために、見世物にすることが禁止される。ジョンは捨てられ、ロンドンにもどり、再会したトリーブス医師に救われる。院長のタイムズ投書で全国から募金が集まり、ジョンは特別室で暮せるようになる。
 知名度があがるとともに、ケンドール夫人(小島)を皮切に名士が訪問するようになるが、トリーブス医師はジョンに道徳的な障碍者であることを要求する。女性を知らないジョンのために、ケンドール夫人は裸体を見せるが、トリーブス医師に見つかってしまい、面会できなくなる。
 ジョンは頭がよく、自分に期待されている純粋無垢な障碍者という役割をわきまえて結う統整的に生活するが、それだけに孤独が深まり、物質的には恵まれても、寂しく死んでいく。
 こぢんまりとまとめた演出で、小さな劇場なら大成功だったかもしれない。
*[01* 題 名<] 欲望という名の電車
*[02* 劇 団<] ク・ナウカ
*[03* 場 所<] すずなり
*[04* 演 出<] 宮城聰
*[05* 戯 曲<] ウィリアムズ,テネシー
*[05* 翻 訳<] 小田島
*[06  上演日<] 2002-11-07
*[09* 出 演<]美加里
*[10*    <]阿部一徳
*[11*    <]吉植荘一郎
*[12*    <]大高浩一
 最初から幕がないのだが、舞台装置がやけに色っぽく、妙に胸騒ぎがした。
 下手に鏡台とレースのカーテンで覆われたベッド、上手にポーカー・テーブル、奥に長椅子は定番として、奥の二枚のすすけた衝立にアールデコ風の大輪の花が描かれ、すがれた花弁の周りにペンキの隆起が葉脈のようにうねっている。ただでさえ低い天井から羊歯の鉢物が下がる。脂粉が匂ってきそうで、どう見ても素人さんの住む部屋ではない。
 客席の照明が暗くなると、ベッドのカーテンを持ちあげ、黒いスリップ姿の美加里が起きだし、鏡台で化粧を整える。上手奥の冷蔵庫をあけて、ぺしゃんこの帽子を取りだして頭に乗せる。長椅子の上でトランクに衣装をつめ、両手で下げて舞台の真ん中に正面を向いて立つ。客電は完全に落ち、奥の方からステラと隣人との騒々しい会話が聞こえ、後ろの衝立の上からスピーカーが首を出すと、いよいよ芝居が動き出す。
 いつものク・ナウカと違い、ブランチの美加里だけが言動一致で、彼女と関係する人物、ステラ、スタンリー、ミッチー、集金の少年はスピーカーとムーバーが分離する。スピーカー専門だった阿部がミッチーのムーバーなのが目を引くが、中心となるブランチが言動一致なので、ムーバーたちがいよいよ人形じみて見えてくる。
 なんとも異様な舞台で、これはなんなのだろうと頭が破裂しそうになったが、途中で気がついた。この芝居はブランチがホテル・フラミンゴで見た白日夢であり、台詞はすべて人形相手の独白なのだ。
 美加里の台詞らしい台詞をはじめて聞いたが、満艦飾のドレスのような媚をふくんだ口跡は、時に居丈高な女教師の口調となる。いつもの人形的なきりっとした表情とは違って、時に荒れ狂い、時にしどけなく、金縁眼鏡は猥褻ですらある。圧巻は夫だったアランが自殺する光景を忍びやかに告白するくだり。目が狂っている。
 『欲望という名の電車』上演史を書きかえるような新解釈が次々と登場するが、どれも説得力があるように感じた(感じさせられた?)。正体を暴かれたブランチがスタンリーにレイプされる場面は、女性の隠された願望を覗き見るようで、こんな芝居を上演していいのかと思った。
 ラスト、狂ったブランチはムーバーになり、ステラが自分でセリフを喋りだすが、この転換には息を呑んだ。美加里の不意に凍りついたマネキンのような表情が今も網膜に残る。
 ブランチが去った後、ステラはブランチのトランクを両手で持ちあげ、冒頭の場面をくりかえす。ブランチの欲望をステラが引き継いだということだろう。
 最高の『欲望という名の電車』と断言するにはいささかためらいがあるが、これからどんなブランチを見ても、美加里と比較せずにはいられなくなったのは確かだ。
 清水邦夫のソースとおぼしい詩的な台詞がやけに耳についたが、三時間を超える上演時間からすると、ノーカット版だろうか。
*[01* 題 名<] リア王
*[02* 劇 団<] 幹の会
*[03* 場 所<] 紀伊国屋サザン
*[04* 演 出<] 平幹二朗
*[05* 戯 曲<] シェイクスピア
*[05* 翻 訳<] 小田島雄志
*[06  上演日<] 2002-11-15
*[09* 出 演<]平幹二朗
*[10*    <]平岳大
*[11*    <]小林さやか
*[12*    <]新橋耐子
*[13*    <]一色彩子
*[14*    <]勝部寅之
 大勢の役者が豪華な衣装で大きくかまえ、サザンの舞台で押し競饅頭している、とまず感じた。演技も重々しく、大仰で、これはどう考えても帝劇向きの演出だ。こういうものをサザンでかけるのは場違いではないか。
 ところが、エドガーが追放されるあたりにくると加速度がついてきて、鈍重さが荘重さに変わり、これこそ本物と力押しに納得させられてしまう。一幕の終わり、グロスターが目をえぐられ、真相を知らされる場面は圧巻である。
 平幹は軽みを出そうとしているが、わざとらしくなってしまったし、エドモンドの平岳大は爬虫類的な不気味さはあるものの、口跡がつたなく、明らかに役不足だが、それが結果的に群衆劇的なおもしろさを生んでいる。
 強引であつかましい新橋のゴネリル、性悪でしたたかなリーガンの一色、ケントが持ち役化している勝部、小心者のグロスターが合っている坂本長利、いかがわしい魅力をふりまくコーンウォール公爵の藤木孝という粒ぞろいのキャストが、主役二人が引っこんだ分、前に出てきているのだ。仲代の一人舞台になってしまう無名塾とは対照的である。
 眼鏡っ子の小林コーディリア、原康義のひょろひょろしたエドガーは軽すぎるかなと思ったら、最後はちゃんと格調を示している。ただし、道化(西本裕行)は鈍重さが裏目に出て瑕になっている。
*[01* 題 名<] Mozart
*[03* 場 所<] 帝劇
*[04* 演 出<] 小池修一郎
*[05* 戯 曲<] クンツェ,ミヒャエル
*[05* 翻 訳<] 小池修一郎
*[06  上演日<] 2002-12-17
*[09* 出 演<]井上芳雄
*[10*    <]西田ひかる
*[11*    <]市村正親
*[12*    <]山口祐一郎
*[13*    <]久世星佳
 ウィーンのミュージカルだそうで、ロック仕立てなのだが、音楽的にかなり凝っている。凝っているのはいいが、不安と後悔に満ち、暗くて辛口で、耳に残るメロディーがない。
 暗夜、コンスタンツェ(西田)がメスマーをモーツアルトの墓に案内するところからはじまる。メスマーは天才研究のために頭蓋骨を掘りだそうとしていているのだ。
 ここでモーツアルトの子供時代に遡り、宮廷で天才ぶりを披露した後、青年時代に飛んで、本篇がはじまる。
 コロレード大司教との対立、父の怒り、ウィーンでの成功と浪費、コンスタンツェとの結婚、不遇と、おなじみのエピソードが登場するが、なんとなくおかしい。
 異和感の正体はすぐにわかった。モーツアルトが青年(ヴォルフ)になっても、赤い上着を着た少年時代の自分(アマデ)がしたがうという趣向をとっているが、ヴォルフが浮れて遊んでいる間に、アマデがコツコツと曲を書きあげるというように、自我の分裂をテーマにしているのだ。ただし、レクイエムだけはヴォルフが自分で書き、ラストでヴォルフはアマデと差し違える。典型的な19世紀的天才観で、18世紀的な天才、モーツアルトとはあいいれない。
 コロレード大司教もサリエリもどきの役割をふられている。大司教はモーツアルトにつらくあたるものの、音楽の素晴らしさは理解していて、メスメリズムの見地から天才の謎を解明し、神の秩序をさぐろうと、彼を手元にとどめておこうとするのだ。
 コンスタンツェは天才にインスピレーションをあたえることに存在理由を見いだしている世話女房として描かれる。
 シカネーダとはウィーンに出てきた直後からのつきあいで、金を浪費させる悪友にされているが、あきれたのは「魔笛」はフランス革命に触発されて書いたことになっていることだ。革命の報を聞いたモーツアルトが皇帝打倒を叫んでこぶしをつきあげる場面まである。
 ここまで19世紀的にしたいのなら、シューマンあたりを主人公にすべきだったのではないか。
 このミュージカルは根本的に間違っているが、出演者はよかった。レオポルドの市村は暗い情念のうねりを感じさせて圧倒したし、ヴァルトシュテッテン男爵夫人の久世星佳の歌唱はドラマチックで、みごご。ナンネルの高橋由美子はアイドルあがりとは思えない技巧を見せた。コンスタンツェの西田の歌唱は一人だけ歌謡曲的で、よくも悪くも聞きやすかった。唯一、ヴォルフの井上は意志薄弱な駄目男を演じているのに、優等生的に朗々と歌いあげ、共感がもてなかった。
Copyright 2002 Kato Koiti
This page was created on Dec24 2002.
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