演劇ファイル Jan - Dec 2001
加藤弘一
*[01* 題 名<] 真情あふるる軽薄さ 2001
*[03* 場 所<] コクーン
*[04* 演 出<] 蜷川幸雄
*[05* 戯 曲<] 清水邦夫
*[06* 上演日<] 2001-01-19
*[09* 出 演<]高橋洋
*[10* <]鶴田真由
*[11* <]古田新太
無残。
今どき、この戯曲が成立するのか、危惧していたのだが、ここまでひどいとは。
幕が下りていて、下手側の通路に数人の列ができている。二メートルはありそうな毛糸編機のケースを背負った若者(高橋)が最後列にならび、ケースを前の男にぶつけ、頭を下げて謝ると、また別の男をケースでたたいてしまい、喧嘩になるが、すぐにおさまる。
幕が開くと、思い思いのかっこうをした男女が下手から上手に向かって列を作っている。人数の迫力があるかと思ったが、ただ並んでいるだけなので、どうということなし。
おとなしく並ぶ小市民に、若者があれこれ挑発するわけだが、30年という時間は
残酷で、しらけるだけである。若者に同調する娼婦(鶴田)も上に同じ。
ただし、すべてが戯曲のせいではあるまい。古田新太の中年男が登場すると、舞台が部分的に活気づき、ドラマらしくなるからだ。
若者と娼婦をアウトローの存在感をもった役者がやっていれば、同時代性は失っていても、1970年代の街頭を回顧する骨董品的な舞台になっていたかもしれない。
*[01* 題 名<] セールスマンの死
*[02* 劇 団<] 無名塾
*[03* 場 所<] サンシャイン劇場
*[04* 演 出<] 林清人
*[05* 戯 曲<] ミラー,アーサー
*[05* 翻 訳<] 倉橋健
*[06* 上演日<] 2001-01-30
*[09* 出 演<]仲代達矢
*[10* <]小宮久美子
*[11* <]高川裕也
*[12* <]金子和
*[13* <]鈴木豊
*[14* <]野崎海太郎
無名塾の公演は仲代達矢のモノローグにならざるをえない宿命を負っているが、「セールスマンの死」はウィリー・ローマンのモノローグに近い構造なので、無理のない演目といえるかもしれない。
実際、仲代以外の役者たちは、点景的な役側という意味では、過不足ない出来を見せていた。妻のリンダの小宮など、あの芝居の枠内でという条件をつければ、いい線いっていた。これまで見た無名塾の芝居の中では、一番退屈しなかった。
しかし、仲代がいけない。作りこみ過剰、演技過剰で、個人的な世界に没入して,空回りしている。リアリティ皆無。仲代をコントロールできるような演出家がいないのが致命的だ。
*[01* 題 名<] ハムレット
*[02* 劇 団<] シェイクスピアシアター
*[03* 場 所<] 高円寺ニュープレイス
*[04* 演 出<] 出口典雄
*[05* 戯 曲<] シェイクスピア
*[05* 翻 訳<] 小田島雄志
*[06* 上演日<] 2001-02-21
*[09* 出 演<]吉田鋼太郎
*[10* <]松木良方
*[11* <]吉沢希梨
*[12* <]久保田広子
*[13* <]杉本政志
*[14* <]山$崎泰成
『セールスマンの死』がウィリー・ローマンのモノローグだとするなら、この『ハムレット』もハムレットのモノローグである。こういう解釈はこれまで見たことがないが、本作は成功している。すくなくとも、こんなにリアリティのある独白を聞いたのははじめてだ。ハムレットの苦悩には客観的相関物がないとするエリオットの批判に、こうした形で答えることもできたのだ。
こんな演出が可能だったのは、ハムレットの吉田と他の役者の間に格段の差があるからだろう。吉田は『
アテネのタイモン』で一人芝居に近いような力業を見せたが、今回の舞台はもっとこなれた形でまとまている。他の役者が育ってきたということもある。
松木はクローディアスと父王の亡霊の二役だが、亡霊の声に迫力がある。ホレーショの杉本はもうけ役だが、この人は悪役の方があっているのではないか。ポローニアスの山$崎と墓掘り人の橋倉は逆の方がよかったのではないか。
吉沢のガートルードはいい。深みのある声が聞かせる。久保田のオフィーリアはおどおどした表情が悲劇性を高めている。
*[01* 題 名<] 少女と魚
*[02* 劇 団<] ひとみ座
*[03* 場 所<] 俳優座劇場
*[04* 演 出<] おおすみ正秋
*[05* 戯 曲<] 安部公房
*[06* 上演日<] 2001-03-19
*[09* 出 演<]篠崎亜紀
*[10* <]伊東史朗
*[11* <]中村孝男
*[12* <]篠崎早苗
*[13* <]龍蛇俊明
*[14* <]中村みちよ
1953年に「群像」に発表されたままになっていた安部公房の「人形劇のための戯曲」の初演で、演出は初代「ルパン三世」のおおすみ正秋、人形デザインは「ひょっこりひょうたん島」の片岡昌だという。大いに期待したのだが……。
ひとみ座は人形劇専門の劇団で、近年、「大人のための人形劇」というシリーズに力をいれているという。黒衣があやつる1m余の大きな人形を使うので、中規模の劇場でも大丈夫なのである。ヒロインの魚子(篠崎亜紀)と、狂言回しの紙芝居屋の爺さん(伊東史朗)は生身の俳優が演じる。
まず、爺さんが自転車で緞帳(舞台となる港町の絵地図が描いてある)の前を横切り、下手で紙芝居をはじめる。本篇は紙芝居のお話という趣好だ。
貧乏に絶望した母親が、赤ん坊を抱いて橋から身を投げる。母親は水死し、魚に食べられるが、赤ん坊は沖に流されていく。緞帳があがり、海をあらわすラメ入りの幕を背景に、骸骨の人形がばらばらになり、赤ん坊の人形がゆっくり下へおりていく。ローテクだが、なかなかおもしろい。
赤ん坊は海の底で魚の王様にひろわれ、魚子と名づけられ、特別なホルモンでまたたく間に美少女に成長する。魚子は自分が生まれた陸地へいってみたいといいだす。魚の王様は彼女を赤ん坊にもどし、海岸に返してやる。漁師が魚子を見つけるが、貧乏で育てることができないので、電信柱の下に捨ててしまう。
キャラメル工場の社長夫人が見つけるが、魚子の銀色に光る服に目をつけ、服だけ奪おうとするが、どうしても脱がすことができない。ハサミをとりにいっている間に、漁師の妻が魚子をひろい、家に連れていく。
漁師の家で魚子はたちまち成長し、服も大きくなっていく。社長夫人は魚子が自分の子供の服を盗んだと難癖をつけてくるが、魚子の服は体にぴったりはりついていて、脱がせることができない。
漁師は怪我をするが、魚子の涙でたちまち治ってしまう。隣室の工員の怪我も治り、魚子の涙は近所の評判になる。
キャラメル工場の社長は涙の評判を聞き、魚子を誘拐する。社長は魚子の目にホースをとりつけ、採取した涙を薄めてナイダゲンという万能薬をつくり、大儲けする。
人間社会に絶望した魚子は魚の王様に海にもどしてくれと呼びかける。すると大洪水がおこり、工場は海に飲みこまれてしまう。
共産主義が信仰されていた時代の産物で、今となっては応対のしようがない。リアリズムならば他の要素がはいってくるのだが、幻想的な物語では図式があらわになるだけに、つぶしがきかない。
せめて人形がよければと思ったのだが、グロテスクなうす汚いデザインで、なんとも言いようがない。グロテスクなのが悪いわけではないが、うす汚いのがなんとも……。
ひとみ座は共産党系だそうで、そうでなければ、こんなシーラカンス的公演は実現しなかったろう。出来はともかく、「人形劇のための戯曲」を人形劇として上演してくれたことに感謝したい。
*[01* 題 名<] こんにちは、母さん
*[03* 場 所<] 新国立劇場小ホール
*[04* 演 出<] 永井愛
*[05* 戯 曲<] 永井愛
*[06* 上演日<] 2001-03-21
*[09* 出 演<]加藤治子
*[10* <]平田満
*[11* <]杉浦直樹
*[12* <]大西多摩恵
*[13* <]田岡美也子
*[14* <]橘雪子
日本のお母さん、加藤治子を主役に据えたホームドラマで、三時間を越える長丁場の芝居だが、実にいろいろな問題が盛りこまれていて、たっぷり堪能した。
下町の神崎家の居間を斜めに断ち切った舞台。下手に玄関と階段、上手に事務机と台所、中央奥にはガラス戸ごしに、木をびっしり植えこんだ狭い庭が見える。
上部は下手側から神崎家の物干、琴子(田岡)の住む外階段つきアパート、煎餅屋の小百合の家の物干、李燕の下宿する二階家の窓がならぶ。
ビートルズの「ヤア、ヤア、ヤア」とともに客電が消え、舞台が明るくなる。
息子の昭夫(平田満)が裏木戸をあけて庭にはいってくる。彼はガラス戸を開け、座敷に上がりこむが、すっかり様子が変わっていて、戸惑っている。実家は二年ぶりなのである。
自分の茶碗を探していると、李燕とばったり出くわす。李燕は中国からの留学生で、隣家に下宿しているが、昭夫のことを泥棒と思いこむ。誤解が誤解を生み、こじれているところに、直ちゃん(杉浦直樹)という母親の恋人らしい老人があらわれ、事態はいよいよ紛糾する。
母親の福江(加藤治子)が帰ってきて、ひとまずおさまるが、黄色いコートに赤いリュックという派手な服装である。福江はひなげしの会という中国人留学生の世話をするボランティア団体の仕事で忙しく飛びまわっていた。
直ちゃんもひなげしの会の会員だが、公民館の『源氏物語』講座の講師だという。未亡人になって、生々としている母親に昭夫は取り残されたように感じたのか、不貞寝してすねている(加藤・平田とも芸達者だけに、母親に甘える中年の息子という図がなんとも笑える)。
昼間から訪ねてきて、仮眠するといって二階にあがった昭夫の姿に、福江はリストラされたのではと心配するが、そこへ昭夫の部下の木部(酒向芳)が土足で上がりこんできて、昭夫と乱闘になる。昭夫は人事部長に昇進していて、リストラする側にまわっていたのだ。ストレスのたまる仕事に、家庭もぎくしゃくして、破局寸前に来ているらしい。
状況は深刻なのだが、すっとんきょうな日本語の李燕、ひなげしの会をはじめた琴子というヒッピーくずれのオバサン、昭夫の幼なじみで、昭夫が離婚するかもしれないと知ると、俄然、色目を使いだす煎餅屋の小百合という騒々しい面々のおかげで、爆笑につぐ爆笑で話が進む。二階どうしでにぎやかにお喋りしあう場面は傑作。
二幕は福江と直ちゃんの再婚話が軸になる。直ちゃんには昭夫と同年輩の直文という息子がいるがうまくいっていない。昭夫は足袋職人だった父親との間のわだかまりを引きずっていて、直ちゃんに対しては、母親の恋人に対する感情と、死んだ父親に対する感情が重なりあっている。直ちゃんの方は実の息子に素直になれない分、昭夫に対しては人生のよき先輩としてふるまおうとしている。福江の方は元大学教授の直ちゃんに引けめを感じているが、反面、だらしない男となめている節も見える。三人の距離感が絶妙で、これ以上の配役は考えられないのではないか。
直ちゃんはついに家出してきて、福江の家に居ついてしまう。昭夫も家に帰るのが気まずく、直ちゃんに対する対抗心もあって、実家で寝泊まりするようになる。
直文の嫁の康子(大西)が直ちゃんを迎えに来るが、直文と康子も離婚寸前で、康子はメンコを通じて昭夫と意気投合する。康子は直ちゃんを応援するようになり、直ちゃんの荷物を運びこむ手伝いをする。
いよいよ入籍して、新生活をはじめようとする直前、直ちゃんは脳溢血で倒れる。
三幕は死んだ父親が軸になる。
直ちゃんの急死の後、法事にも呼ばれない福江は気おちし、昼間から酒をあおっている。昭夫は木部に勝手に謝罪文を書いたことが原因で、自分自身がリストラされる羽目におちいり、妻には逃げられ、最悪の誕生日をむかえている。
昭夫は高校の時の家出の原因は、福江にあると言いだす。トイレの壁に描いたジョン・レノンの似顔絵を福江は褒めていたのに、父親が怒ると、あっさり父親に同調した。それで裏切られたと感じたというのだ。福江はその件をすっかり忘れていたが、あったかもしれない、自分の性格なら言いそうなことだと語る(このくだりは加藤治子の至芸)。
母と息子の不幸自慢の中で、三月十日の東京大空襲で一家全滅した顛末が語られ、戦争から帰ってきた父が人が変わったようになったことが明かされる。父親は昭夫を一度も抱こうとせず、それが昭夫のわだかまりの根にあるが、福江はある時、夫は中国で子供を殺してきたと直感したという。息子を一度も抱かなかったのは、子供への愛をみずからに禁じていたためかもしれないというのだ。それが引っかかっていたので、琴子から中国人留学生の世話をするひなげしの会をもちかけられると、一も二もなく参加したわけだ。
昭夫にとっては最悪の誕生日になったが、七月二八日の墨田川の花火で幕となる。
ホームドラマの枠の中に、戦後史をそっくり包みこもうという意図はかなり成功している。あれもこれもと、よくも詰めこんだものだが、中心になる加藤治子が、ただのお母さん女優ではないという本領を見せたことが、最大の理由だろう。酒を飲んで、管を巻くところなど、昔、nhkでやった『修羅のように』の悪女を思いだした。この人はだてに長いキャリアを誇っているのではないのだ。
ただし、あらかじめ伏線が張ってあったとはいえ、戦争責任まで盛りこむのは苦しかった。戦争は遠景にとどめた方が、余韻が深まったのではないか。
*[01* 題 名<] 紙屋町さくらホテル
*[03* 場 所<] 新国立劇場
*[04* 演 出<] 渡辺浩子
*[04* <] 井上ひさし
*[05* 戯 曲<] 井上ひさし
*[06* 上演日<] 2001-04-10
*[09* 出 演<]宮本信子
*[10* <]大滝秀治
*[11* <]三田和代
*[12* <]辻萬長
*[13* <]井川比左志
*[14* <]小野武彦
暗幕の前の椅子に老人(大滝)が座っている。帳簿をもってあらわれた係官(小野)に、老人は自分は海軍大将の長谷川だ、戦犯だ、収監してくれと訴える。ボケ老人のたわ言と思いきや、係官は老人に長谷川閣下と呼びかけ、自分は要人を監視する任務についていた針生元陸軍中佐だと名乗る。
長谷川は1945年の4月から5月にかけ、天皇の密命で本土決戦準備が本当にできているかを調べ歩いた。天皇の決断には長谷川の報告が大きな影響をあたえている。針生は長谷川の調査を監視し、陸軍に不利な報告をしそうな場合は殺す権限をあたえられていたと明かす。
ここで暗幕が引かれ、広島駅裏の紙屋町ホテルの場に。
時は1945年5月。戦争末期なのに、丸山定夫(辻)と園井惠子(三田)のリードで、ピアノに合わせ、「菫の花咲く頃」を合唱している。入口には移動劇団さくら隊を募集という立て看板。築地小劇場出身の丸山と、新劇俳優になるために宝塚を退団して、丸山に弟子入りした園井は、中国地方巡演の慰問劇団を作ることになり、急に決まったお披露目公演のために、役者を集めていたのだ。
ここに、宿がなくて困っていた長谷川と、長谷川を尾行する針生がにわか劇団員になり、三日間をともにすごすことになる。ホテルには、中国地方の方言を調査している言語学者の大島輝彦(井川)も転がりこんでいる。
紙屋町ホテルが移動劇団の本部に選ばれたのは、実質的なオーナーの神宮淳子(宮本)が帰国二世のため、陸軍に借り上げられなかったからだ。淳子は日本国籍を申請したが、門前ばらいされ、アメリカ国籍のままだった。本土決戦近しで、敵性外国人を24時間密着監視するために、特高刑事戸倉(松本きょうじ)がやってくる。丸山は当たり役の「無法松の一生」を舞台にかけるために、戸倉も強引に劇団員にしてしまう。
(淳子役は、初演では森光子だったそうだが、はかなげで、品のいい宮本の淳子を見てしまうと、ちょっと想像がつかない。まったく別の作品になっていたのではないか。見ておくべきだった。)
呉越同舟の素人劇団の稽古という趣向はみごとな効果をあげている。話はおのずと演劇論になり、園井の三田が宝塚風の演技と新劇風の演技を演じわける場面は笑ったが、芝居の解釈を通じて、各人の考え方が浮き彫りになっていくのだ。
井上十八番の軍国主義批判も、演劇論を通すと、新鮮である。最高の俳優である滝沢修が演劇の仕事につけず、長谷川一夫の演技指導で食べていたという話ははじめて知った。特高刑事の戸倉は杓子定規な応対で皆を悩ませたが、だんだん芝居の虜になっていき、最後には淳子に収監命令が出たことを教えてしまう。
富山の薬売りというふれこみだった長谷川は淳子を救うために県庁にゆき、海軍の人脈を動かして彼女を無線傍受の要員に徴用し、紙屋町ホテルも海軍の保護下に置き、さくら隊は無事、旗上げ公演を打つことができる。もちろん、一ヶ月半後には、紙屋町ホテルも、さくら隊も、原爆禍に遇うのだが。
言語学者の大島が披露する、特攻で戦死した弟子のN音の理論はおもしろい。多くの言語ではN音で否定をあらわすが、これは舌で外界と内界を遮断するからだという。元になる学説があるのか。
最後にふたたびGHQの取調室にもどり、国体論と天皇の戦争責任論になる。天皇が姓をもたないのは皇室が国民から一度も否定されなかったからだ、天皇教を失うと日本人は善悪の判断がつかなくなると主張する針生に対し、長谷川は聖断が遅れた責任を天皇がとり、筋を通すことが、新たな日本の基準になると主張する。針生はマキャベリストの悪役という割りつけだが、一概に否定していない点に、井上の底力を見た。
*[01* 題 名<] 桜の園
*[02* 劇 団<] シェイクスピア・シアター
*[03* 場 所<] ニュープレイス
*[04* 演 出<] 出口典雄
*[05* 戯 曲<] チェーホフ
*[05* 翻 訳<] 小田島雄志
*[06* 上演日<] 2000-04-25
*[09* 出 演<]吉沢希梨
*[10* <]林秀樹
*[11* <]久保田広子
*[12* <]杉本政志
*[13* <]住川佳寿子
*[14* <]佐藤昇
フローリングの床も柱もふくめて、クリーム色一色に塗りかえた明るい舞台(この劇場は近々、取り壊すそうなので、思い切ってやったのだろう)。ベンチ代わりの木の台が置いてあるくらいで、百年たった本棚などは紗の書き割り。
美術はシェルバン風だが、中味は違う。
「桜の園」は、近年、喜劇性を強調する演出が主流だが(それしか見たことがない)、この舞台は暗くギスギスしていて、喜劇味はかけらもない。優雅な言葉の戯れとして耳になじんだやりとりが、緊張をはらんだ人間関係のきしみと化している。
この劇団は、シェイクスピアは明るく、にこやかに上演するが、シェイクスピア以外だと、抑圧の反動か、不機嫌で衝動的な舞台になる傾向がある。今回もそうだった。
暗い衝動を代表する人物はガーエフ(林)とワーリャ(久保田)だ。片や過去をなつかしむしかない、うだつのあがらぬ初老の男、片や養女という身分で、逼迫した家政を押しつけられたオールドミス。不機嫌になって当たり前だが、ここまであからさまに不機嫌なガーエフとワーリャは、はじめて見た。
身分関係もはっきり視覚化している。フィールス(佐藤)が土下座に近い姿勢で、農奴解放令を罵る場面。膝まづいてラネーフスカヤ夫人に足台を差しだす場面。それを当然と受けいれるラネーフスカヤ夫人。ロパーヒンがやはり膝まづく場面。貴族と農奴の絶対的な身分差を再認識した(喜劇性を強調した演出では、このあたりがぼやかされている)。
ロパーヒンが落札したことを報告する場面も、アイロニーというような距離をおいたものではなく、やけっぱちというか、急性アノミーをきたした暴力性質を感じた。
演出意図はおもしろいのだが、役者の力不足はいかんともしがたい。林のガーエフはよかったが、久保田のワーリャと杉本のロパーヒンは一本調子におちいっている(この二人が一番うまいのだが)。
*[01* 題 名<] 結婚……
*[02* 劇 団<] tpt
*[03* 場 所<] ベニサン
*[04* 演 出<] アッカーマン,ロバート
*[05* 戯 曲<] ベイブ,トーマス
*[05* 翻 訳<] 常田景子
*[06* 上演日<] 2001-04-27
*[09* 出 演<]麻実れい
*[10* <]浅野温子
*[11* <]及森玲子
*[12* <]藤川洋子
*[13* <]吉村実子
『娘への祈り』のベイブの作品。『娘への祈り』は男だけだったが、こちらは女性五人の芝居。ニューヨーク初演ではアンディをメリル・ストリープが演じたという。演出はニューヨーク初演と同じアッカーマン。
シティ・ホールというか、公民館の一室。奥に作りおきの巨大なウェディング・ケーキがそびえ、ティッシュで作った花や紙の鎖で飾りつけてある。手前に紙コップと紙皿をならべたテーブルが数脚。上手に階段につづくドア。下手にストーブ。壁際に貸し衣装のタキシード、上にシルクハットが並ぶ。寒々としている。
ケバい毛皮のディクシー(麻実)が正面奥の扉からはいってくる。下手の電話でやかましく金の交渉をはじめる。彼女は売れない歌手で、結婚式のリハーサルで呼ばれたらしく、出演料を誰に請求したらいいかで、もめている。
そこへアニー(及森)がはいってくる。ジーンズ姿で、落ちつかない風。ディクシーに「花嫁でしょ」と図星をさされるが、心配ごとがあるらしく、歌ってほしくないから、帰ってくれと、とりつく島もない。
姉のアンディ(浅野)があらわれると、ディクシーの立場はいよいよなくなる。彼女は結婚をやめろと言いだしたのだ。ディクシーは口論をはじめた姉妹をなだめ、なんとかして仕事の口にありつこうとする。
にっちもさっちもいかなくなったところに、母のルース(藤川)と伯母のヘレン(吉村)があらわれる。紙の食器とビニールのテーブルかけにあきれ、家から持参した銀器と高級なテーブルクロスにとりかえる。ディクシーはこの二人なら話がわかるのではないかと、身の上話をし、同情を引こうとする。
ディクシーを狂言回しに、四人の女の過去があばかれていくという趣向で、アニーがまだ婚約者に身体を許しておらず、アンディは妹の婚約者とできていることがあきらかになるが、ディクシーの麻実の陽性の迫力で、話がよどむことはない。
良妻賢母然とした母親がディクシーのリードで、シルクハットをかぶって踊りだし(藤川はSKD出身だそうな)、元ダンサーだったと告白する場面は意外性がある。
ヘレンの吉村はとちりが多かったが、女性飛行家との愛に生きた特異な女性の存在感をにじみ出させたのはさすが。
アニーの及森は傷ついた妹をやらせたら、天下一品だ。アンディの浅野は、最初こそ、赤毛ものっぽい喋り方だったが、アニーとの口論がはじまると、生々としてくる。
最後はディクシーが一家を和解に導き、彼女も大金をもらって、まさかのハッピーエンドになる。地味だが、余韻が残った。
気の強い女優ばかり五人集めたわけだが、浅野がルネ、麻実がサン・フォン伯爵夫人、藤川がモントルイユ夫人、及森がアンヌ……とあてはめていったら、そのまま『サド侯爵夫人』ができるではないか。このメンバーで、ぜひ見てみたい。
*[01* 題 名<] アート
*[03* 場 所<] サンシャイン劇場
*[04* 演 出<] ケルブラ,パトリス
*[05* 戯 曲<] レザ,ヤスミナ
*[05* 翻 訳<] 齋藤雅文
*[06* 上演日<] 2001-05-18
*[09* 出 演<]市村正親
*[10* <]平田満
*[11* <]升毅
傑作。フランスのインテリをからかったトゲトゲしい喜劇なのだが、見ているうちにトゲの痛さが快感になってくるのだ。
天井の高いベージュがかった白一色の舞台で、室内の見立て。正面の壁は二本の柱で、三つに分かれている。左にフランドル派の絵が出てくれば、設計技師のマークの部屋。中央に白い壁がおりてくれば、皮膚科医のセルジュの部屋。右に牛を描いた素人の絵が出てくれば、文房具店店員のイワンの部屋。
セルジュ(升)がマーク(市村)に五百万フラン出して買ったというアントニウスの「白い絵」を披露する。絵といっても、やや黄ばんだ画布に、斜めに三本、下方を横断して一本の白い線が引かれているだけだ。
マークは子分だと思っていたセルジュが、デコンストラクションがどうのこうのと言いだし、大枚はたいて自分に理解のできない絵を買ったのがおもしろくない。マークは絵を笑いものにし、二人は気まずくなる。
マークはイワン(平田)にセルジュの愚行をおもしろおかしく伝え、セルジュをからかってこいといって、イワンをけしかけるが、気のいいイワンは、セルジュに会うと、同調してしまう。マークはいよいよいきりたち、イワンの結婚話がからんで、三人の十五年間の友情が怪しくなる。
関係を修復しようと、久しぶりに三人で食事をすることになるが、イワンの遅刻で二人はいらだち、一触即発の危機をむかえる。遅れてあらわれたイワンは母親、義理の母親、婚約者にもみくちゃにされ、普段は温厚なのに、ブチ切れ状態。
さて、どうなるかというところで、セルジュはマークとの和解を選ぶ。彼はイワンがシャツのポケットにさしたフェルトペンをマークにわたし、「白い絵」に落書きしろという。マークは対角線をスロープに見立て、スキーヤーを描く。
芝居とはいえ、五百万フランの絵に落書きするという行為はカタルシスを生む。
「友だちってやつは、いつも見張っていないと、遠くへ行ってしまうんだ」というマークの傍白は、インテリの権力欲をあからさまにしていて、迫力がある。
セルジュとマークがバケツをもってきて、雑巾で落書きを消す場面で終わる。実はセルジュはフェルトペンが消せることを知っていたのだが、それを言わずに、友情の「テスト期間」をはじめるというセリフで幕になる。
照明をやや落とし、傍白の人物にだけスポットをあてる手法を使っているが、鋭利なメスで切り裂くような傍白は、現代でも傍白が有効なことを示してくれた。
*[01* 題 名<] 女優N
*[02* 劇 団<] 木冬社
*[03* 場 所<] シアターX
*[04* 演 出<] 清水邦夫
*[05* 戯 曲<] 清水邦夫
*[06* 上演日<] 2001-06-08
*[09* 出 演<]松本典子
*[10* <]黒木里美
*[11* <]吉田敬一
*[12* <]中村美代子
*[13* <]水谷豊
*[14* <]林香子
松本典子の引退公演。新作は清水の体調不良で断念し、1987年にパルコPartIIIでやった「戯曲推理小説」の再演。笑わせるべきところは笑わせ、しんみりさせるべきところはしんみりさせ、ウェルメイドにまとめている。
初演の感想をこう書いていた。
これは卒業公演か、公開稽古か。
狭さを無視した大声と一本調子の力み芝居、それに若手のまずさが重なって、見ていて辛い。あきらかに稽古不足だ。
14年前のこととて、よく憶えていないのだが、格段によくなっているのは間違いない。
「欲望という名の電車」の地方公演の楽屋で、看板女優の新村玲(松本)が、一年前、同じホールで自殺した妹のえりの幽霊と出会うという設定で、「楽屋」の自己パロディのおもむきがある。 幽霊(黒木)がちょっとの風にもふらふらするあたりは「頭痛肩こり樋口一葉」の花蛍のパクリだが、清水邦夫らしい憂愁がくわわり、味が濃い。
えりの元夫の木村冠は不破万作から、劇団生えぬきの吉田敬一に交代。吉田は30歳になるかどうかくらいのはずで、高校生の息子がいる父親役には若すぎるが、決して不自然ではなく、二人の先輩に伍して、セピア色の老成した芝居を見せている。
えりは自分は自殺ではなく、玲に殺されたと言いだすが、元夫と息子がくわわって、記憶をたどっていくうちに、実はえりの方が玲を殺そうとしていて、息子がグラスをすりかえ、それを知らずにえりがキニーネのはいった方のワインを誤飲したという経緯がわかる。
推理というほどではないが、姉妹の嫉妬、女優の嫉妬という生臭いドラマをコミカルなやりとりでくるみ、熟成したドラマにまとめた手際はみごとだ。背景で進行する劇団の内紛もサスペンスを盛りあげる。
ラストは掃除のオバサン(中村)が、かつて女優として玲と同じ舞台に立った時のことを回顧するセリフで締めくくる。つながりが悪いから、再演のために加筆したのだろうが、貫禄でまとめている。
*[01* 題 名<] 桜の園
*[02* 劇 団<] 木山事務所
*[03* 場 所<] 俳優座劇場
*[04* 演 出<] 小林裕
*[05* 戯 曲<] チェーホフ
*[05* 翻 訳<] 小田島雄志
*[06* 上演日<] 2001-06-13
*[09* 出 演<]旺なつき
*[10* <]広瀬彩
*[11* <]磯貝誠
*[12* <]橋本千佳子
*[13* <]内田龍麿
*[14* <]内山森彦
これまで見たうちで、最高の「桜の園」の一つ。シェルバン演出に匹敵する。
中央下手寄りにフランス窓が上下二段に開いている。上のフランス窓の高さから、階段が左右に流れ、踊場を介して、また中央に向かって降りてくる。パンタグラフ状である。上手側の踊場は胸の高さの通路となって、そのまま舞台袖につづく。通路の下にはグランドピアノが置かれ、生で伴奏をつける。サロン劇の趣向だ。
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一人一人が卑小な面も含めて、くっきり造形されていて、愛すべき人物として記憶に残り、行く末が気になるほどだ。アンサンブルがすばらしく、細部まで重厚に磨きあげられている。言葉の本当の意味でリアリズムであり、また「喜劇」になっている。
召使まで優雅に演出する舞台が多いが、ドゥニャーシャはあくまで田舎の芋娘だし、ヤーシャはジゴロ予備軍だ。養女のワーリャ(橋本)はどん臭いオールドミス。身分社会なのだ。
ラネーフスカヤの旺なつきは襟ぐりの広い、体の線がくっきり浮きでた細身のドレスであらわれる。思いっ切り現代風だが、レースのひらひらした衣装よりもよほど優雅で、デカダンスの香りを強烈に発散させている。旺の意志的で鋭角的な美貌もあるが、お嬢様育ちの天然ぼけでは断じてなく、愚かなことをしているとわかっていながら、そうせざるをえない哀しさがにじみ出ている。
アーニャ(広瀬)は広がったスカートに、チリチリの茶髪でお転婆に飛びまわり、1950年代アメリカ娘という感じ。素直で明るくて理想主義的だが、蓮っ葉さがちらちらしていて、数年後には身をもちくずしそうである。優等生的でないアーニャははじめてだが、ラネーフスカヤの娘なのだから、これが本当ではないのか。
永遠の大学生、ピーチク(内田)は自分の語る理想に自信がなく、それを自覚している。ロパーヒンとの別れの場面で、人類は目標に向かって進んでいくのだと威勢がいいが、君は目標に行きつけるのかと問い返されると、とたんにしょげてしまう。どうせ口先だけで、うだつの上がらない一生を送るのだろうなと先が見えるのだが、民藝版のような労働英雄よりも、はるかにリアリティと魅力がある。
ロパーヒン(磯貝)は自分の偶像を自分で壊すことになる哀しさを、悲劇ぎりぎりのところで表現している。
借金おじさん(児玉泰治)はユーモラスで風格があり、やはり出色。周囲から愛されている理由がよくわかる。
*[01* 題 名<] キャンディード
*[02* 劇 団<] パルコ
*[03* 場 所<] 東京国際フォーラム
*[04* 演 出<] 宮本亜門
*[05* 作 曲<] バーンスタイン,レナード
*[05* 戯 曲<] ウィーラー,ヒュー
*[05* 翻 訳<] 松岡和子
*[06 上演日<] 2001-07-06
*[09* 出 演<]石井一孝
*[10* <]日紫喜恵美
*[11* <]岡田眞澄
*[12* <]中島啓江
*[13* <]岡幸二郎
*[14* <]グラブ,シルビア
全世界を飛びまわる話だけに、地球儀を思わせる三層の立体構造で、円形の舞台を斜めの回廊が土星の輪のようにとりまき、その上に半周の輪が乗っている。最上段(さすがに水平)は怖いだろう。
まず、岡田眞澄のヴォルテールが登場し、胸に手をあて、無言で礼をし、ピット内の指揮者の佐渡裕を紹介。いったん引っこんで、フリルのいっぱいついた18世紀の衣装に着替えてあらわれ、登場人物を次々と紹介する。カーテンコールならともかく、いきなり紹介されても困るのだが、岡田眞澄の貫禄でもっている。
私生児キャンディード(石井)は伯父にあたるウェストフェリア男爵家で、楽天主義の哲学者、パングロス(黒田博)から、すべては最善なりと教えられて育てられる。天真爛漫な青年に成長するが、令嬢のクネゴンデ(日紫喜)を愛したがために、早速、挫折。きれいごとを言っていた男爵に屋敷をたたきだされ、なにがなんだかわからないうちにブルガリア軍に入隊させられる。最初の戦いの相手はウェストフェリア家で、屋敷は軍に蹂躙され、屍が累々。見知った人たちはみんな死んでしまう。
いきなり世の中の荒波に放りだされ、天涯孤独の身となったキャンディードはオランダに流れてゆき、奇跡的に生き残ったパングロス先生と再会。ここからはしっちゃかめっちゃかのヴォルテール流になるが、舞台は暴れ馬のようなダイナミックな展開で、原作の奔放さを失っていない。要所要所に出てきて、狂言回しをつとめるヴォルテール=岡田眞澄の力も大きい。
キャンディードとパングロスは親切な船長にひろわれ、リスボンに向かうが、地震に遇い、パングロスの言葉が誤解されて宗教裁判にかけられ、奇跡的に生き残って宗教裁判所長の愛人になっていたクネゴンドに救われるが、キャンディードはクネゴンドとともにパリに逃れる。
クネゴンドはパリではユダヤ人と枢機卿の愛人をかけもちするが、二人の男を手玉にとる際のアクロバット的なソプラノは一幕最大の聴かせどころ。
お付きのお付きのオールドレディー(中島啓江)がローマ法王の隠し子であることを告白し、波瀾万丈の半生を語る場面も聴かせる。中島はオペラ畑の人であったか。
二幕は舞台が南米に移るが、ここで、またも奇跡的に生き残ったクネゴンドの兄のマクシミリアン(岡)と再会。マクシミリアンは美貌をいかし、男娼をやったり、有力者の囲い者になったりして生きのびていたが、岡の女装と、ナルチシズム全開の芝居が圧倒的。
有為転変の末にエルドラドにたどりつくが、クネゴンドが恋しくなり、再会を約したヴェネツィアに帰ることにする。エルドラドの王は12頭の黄金の羊をキャンディードに贈るが、結局、一頭だけ残り、ヨーロッパにもどったキャンディードは、羊を売った金で領地を買い、生き残りの仲間とともに引退生活をはじめる。
しかし、無為な生活と減っていく一方の金は心をすさませる。最後にキャンディードは労働の尊さを仲間に説き、土を耕す新しい生活をはじめようと歌う。
前向きのハッピーエンドではヴォルテールではなくなるが、ミュージカルなのだから、後味はいい方がいい。
キャンディード=石井は独唱は悪くないが、オペラ畑の出演者とからむと、声の薄さを感じてしまう。クネゴンデ=日紫喜は感情が乗って、すばらしい。二幕のオールドレディ=中島との二重唱もよかった。
*[01* 題 名<] 阿蘭陀影繪
*[02* 劇 団<] 文学座
*[03* 場 所<] 三越劇場
*[04* 演 出<] 戌井市郎
*[05* 戯 曲<] 金子成人
*[06 上演日<] 2001-08-18
*[09* 出 演<]平淑恵
*[10* <]山崎美貴
*[11* <]山本道子
*[12* <]北村和夫
*[13* <]仲恭司
*[14* <]早坂直家
慶応三年の長崎。上野彦馬(白鳥哲)の写真撮影局に、月琴を背負った宿無し女のきみ(山本)がはいってくるところからはじまる。
上野彦馬の視点から、幕末の長崎を描くのはおもしろいと思ったが、その方向にはいかなかった。長崎芸者と亀山社中周辺の無名志士の色恋模様と、その後日譚を描いた話で、上野彦馬は狂言回しですらなく、きみ同様、単なる店番といったところ。
薩摩藩士の薮原(沖)ら、国事に奔走する志士を応援する扇屋一蝶(平)と、志士たちを皮肉に眺めている、医学修行中の長州人、神林(早坂)に献身する菊春(山崎)が一応の主人公だが、女たちの気っ風のよさとは対称的に、男たちは口は立派だが、行状はだらしなく、所詮、小物の集まり。神林にいたっては、仕送りをとめられた苦境を助けるために、身を売った菊春に子供ができると、誰の子かわからないと罵倒し、国元に帰っていく。
二幕の明治三年になると、男たちはいよいよ卑怯な本性をさらす。ようやく警察にもぐりこんだ薮原は、芸者の世話になっていた過去を隠そうとして、吉利支丹の一蝶を脅迫する始末。
萩の乱で家産を失った神林が長崎に舞いもどってきて、足蹴にして捨てた菊春の厄介になる。ラストで、神林は誰の子かわからないとなじった子供と受けいれ、菊春と三人で長崎を旅立っていく。とってつけたような救いで、白ける。
一蝶に「長崎ぶらぶら節」を歌わせていたが、時代的にはちょうどこの頃か。文学座にあてて書かれた、女の心意気を見せる芝居である。ここまで男を情けなくした以上、一蝶を演じる平の啖呵がこの芝居の成否を決めるが、この人の啖呵は湿っぽく、後味の悪いままで終わってしまった。
*[01* 題 名<] BREATHLES 1990
*[02* 劇 団<] 燐光群
*[03* 場 所<] シアタートラム
*[04* 演 出<] 坂手洋二
*[05* 戯 曲<] 坂手洋二
*[06 上演日<] 2001-09-21
*[09* 出 演<]柄本明
*[10* <]島田歌穂
*[11* <]下総源太朗
*[12* <]大西孝洋
*[13* <]岡本易代
*[14* <]瀧口修央
小劇場系では老舗の劇団だが、多分、はじめて見たと思う。1970年代の正統小劇場の雰囲気を残していて、なつかしかった。
1990年のガード下のゴミ捨て場が舞台である。古いビルの裏口に、今は禁止の黒いゴミ袋が山盛になっている。なぜ1990年の設定なのだろうと考えこんだが、なんのことはない、1990年初演の芝居の再演だからだった。
坂本弁護士失踪事件、ダンサーがからんできた酔っ払いをホームから突き落とした事件、「サンデー毎日」の「イエスの方舟」キャンペーンと、当時話題になった事件が登場する。1990年と現在の間にはオウム事件があるのだが(本作は発覚前なので、坂本弁護士は記憶喪失になって生きていたことになっている)、古びた印象がないのが意外である。十年前の状況がずるずるつづいていて、変わったようで変わっていず、この種の事件はこれからもいくらでも起こると気づかせた点は功績かもしれない。
都の清掃員(下総)が、リボンで口を結んだゴミ袋を捨てにきたOL(島田)に関心をもつ。OLはからんできた酔っ払いを突き落として死なせてしまい、新聞種になった過去がある。弁護を担当した坂本弁護士は彼女に恋愛感情を持つようになり、失踪する。ホームレスになって生きている坂本を見かけた彼女は、リボンで飾ったゴミ袋で彼に思いを伝えようとしていた。客演の島田はオーソドックスな芝居だが、異和感はない。
このストーリーと平行して、ゴミ教団のエピソードが進行する。OLはゴミ袋を両手に下げた若い女に自殺をするつもりではないかと声をかけられる。彼女はOLを強引に教団の集会に誘う。やはり両手にゴミ袋を下げた女たちがガード下に集まり、世話役の号令一下、ゴミの山の下から棺桶を掘りだし、蓋をとると、「お父様」こと教祖(柄本)が登場する。あっけらかんとした陽気な教祖は千石イエス氏をモデルにしているが、こういう役は柄本でなければ無理だろう。リアとコーディリアの台詞をなぞったくだりがあるが、ここは意味不明。
部分部分はおもしろいが、OLと清掃員と坂本弁護士のすれ違いの三角関係が延々と終わらない。もやもやというか、うじうじした生殺し状況がつづき、こういうのっぺらぼうの日常は十年前からずっとつづいていたのだなと、ため息が出てきた。
どこまで台本に手を入れているかはわからないが、同じだったとしても、初演の時とはまったく別の意味をおびているはずだ。アナクロニズムがアクチュアリティに転ずるといっては誉めすぎか。
*[01* 題 名<] おばかさんの夕食会
*[02* 劇 団<] シアター21
*[03* 場 所<] 世田谷パブリックシアター
*[04* 演 出<] 鵜山仁
*[05* 戯 曲<] フェベール,フランシス
*[05* 翻 訳<] 鵜山仁
*[06 上演日<] 2001-09-26
*[09* 出 演<]陣内孝則
*[10* <]辻萬長
*[11* <]神野三鈴
*[12* <]田代隆秀
*[13* <]白木美貴子
*[14* <]綾田俊樹
「
奇人たちの晩餐会」の元になった芝居の再演である。映画では息がとまりそうになるくらい笑いころげたので、原作はどうなっているのだろうという興味が大きかった。
ピエール(陣内)がぎっくり腰を起こした悲鳴で幕が開く。長椅子の上に手を突きだしている。なるほどと納得。陣内はおばかのピニョンもできそうで、嫌みなエリート役には若干距離がある。
おばかのピニョンは辻だが、そつはないものの、おのずとにじみ出てくる愛敬が不足気味。
台本がすばらしいので、どう転んでもつまらなくなりようはないが、笑い全開とまではいかない。陣内と辻は役を交換可能で、映画版の隠し味になっていたブルジョワとプチブルの階級差が消えてしまったからだろうか。
*[01* 題 名<] サラ
*[03* 場 所<] サンシャイン劇場
*[04* 演 出<] 宮田慶子
*[05* 戯 曲<] マレル,ジョン
*[05* 翻 訳<] 吉原豊司
*[06 上演日<] 2001-09-28
*[09* 出 演<]麻実れい
*[10* <]金田龍之介
サラ・ベルナールの晩年の一日を描いた二人芝居である。
幕はなく、石造りのビラから、客席に向かってテラスが張りだしている。テラスの下には観葉植物がのぞいている。上手にグランドピアノ、下手にカンバスの日除けとテーブル。手すり際に望遠鏡。南仏の別荘地の風景だ。
暗転後、まばゆい昼の情景に。背もたれ付寝椅子にサラ(麻実)が横になっている。ただ横になっているだけなのだが、物憂げな姿がゴージャス。大女優のカリスマに輝いている。
サラは老齢の召使、ジョルジュ・ヴィト(金田)に、パラソルをもってくるように命ずるが、ジョルジュは何度も度忘れして、他のものはもってくるが、パラソルだけはもってこない。サラを屋内にいれたいのだ。
サラは自伝の二巻目を口述するという。ジョルジュは資料をはさみこんで、分厚くなったノートを持ちだしてくるが、サラは記憶を甦らせるために、ゲームを持ちかける。ジョルジュは渋っているが、セイロン製の扇を拡げ、高級娼婦だったサラの母親をかわきりに、サラとかけあいをはじめる。ぐうたら夫やあこぎな興行師など、サラの生涯をいろどった男女に次々と扮し、過去を再現していく。芸達者の金田だけに、ここが一番の見どころだ。
二幕は深夜。眠れないサラは自伝のノートをテラスに持ちだしてくるが、突風が吹き、はさんだ資料を飛ばしてしまう。
そこへ灯りをもったジョルジュがあらわれ、床にもどるように勧めるが、サラは言うことを聞かず、また過去をふりかえりはじめる。「トスカ」の事故で右足を折り、十年後、その後遺症で膝の上で脚を切断した経緯を再現する。強気一方で世の中をわたってきた大女優がはじめて心の弱さを見せる場面だが、ここは今一つだった。豪放磊落で、転んでもただでは起きないしたたかな女優像を一幕で見せつけた後なので、右足切断がショックだったといわれても、道場が湧かないのだ。
ラストは夜明け。昇りくる太陽をむかえて、サラが生きる気力を甦らせるのだが、直前で弱さを見せきれていないので、もう一つ盛りあがらない。
*[01* 題 名<] トリスタンとイゾルデ
*[02* 劇 団<] ク・ナウカ
*[03* 場 所<] 青山円形劇場
*[04* 演 出<] 宮城聰
*[05* 戯 曲<] 宮城聰
*[05* 戯 曲<] ワグナー,リヒァルト
*[06 上演日<] 2001-10-17
*[09* 出 演<]美加里
*[10* <]本多麻紀
*[11* <]大高浩一
*[12* <]阿部一徳
*[13* <]中村優子
*[14* <]野原有未
アイルランドと英国の関係を琉球とヤマトの関係に重ねあわせた「トリスタンとイゾルデ」。同じような読み替えは「王女メディア」でやっているが、寓意が見えすぎて、薄っぺらになってしまった。今回は過剰に意味を詰めこんだ結果、諷刺が相殺され、ドラマの骨格が逆に浮かび上がってきた。前半は危ぶんだものの、後半はみごとに決まり、美加里の存在感にひれ伏したくなった。
円形劇場のドーナツ型客席の1/3を舞台にし、穴の部分に十字に通路をわたして、エプロン・ステージとしている。芝居の大半は十字型のエプロン・ステージで演じられる。
例によって、スピーカーが粛々と入場してくるが、今回は黒ずくめ。劇場の内装も黒一色だし、やけに禁欲的だ。主役級の四人は穴の十字の隙間にはいり、他は舞台となっている円周の1/3部分に陣取る。
ここで暗転。本当に真っ暗になる。
照明がつくと、まばゆいスポットライトを浴びて、琉球の色鮮やかな衣装をまとったイゾルデとブランゲーネが十字路の中央に。いきなりやってくれる。
しかし、この後は低空飛行がつづく。おなじみのストーリーが繰りひろげられるのだが、楯の会風の軍服や薔薇族風のトルソ、昭和天皇風に右手を上げ、ひょこひょこ歩くマルケ王とか、これでもかこれでもかと寓意を持ちだしてきて、集中できない。
結ばれる場面は照明をぎりぎりまで落としているが、松明に見立てた電球が明るすぎて、興醒め。
ところが、ここからぐんぐんよくなってくる。トリスタンの背に仰向けになったイゾルデの上に、ワグナーの無限旋律とは似ても似つかない不協和音の音楽がなだれ落ち、地を這うようにコロスのざわめきが沸きあがってくる。陶酔とは逆方向の、騒音で頭が真っ白になっていくような恍惚。他に開かれた無意識とはこういうものか。
一幕の最後、マルケ王は密通に気づき、トリスタンをなじるのだが、スピーカー(吉植荘一郎)の声涙くだる訴えと裏腹に、ムーバー(萩原ほたか)はヨイヨイになったように全身を滑稽に震わせる。なんというミスマッチ。ブレヒトもびっくりの超絶的異化効果である。
二幕、十字のエプロン・ステージの中央に置かれた籐椅子の上にトリスタンが横たわっている。コーンウォールの領地にもどり、傷を養っているのだが、そこにイゾルデが船で着く。
イゾルデの登場に総毛立った。目を血まみれの包帯で蔽い、杖を突きながら斜路をすり足で降りてくるのだ。シテの出ではないか。
そこへマルケ王の軍勢が到着し、二人は絶望して死を選ぶ。トリスタンの死後のイゾルデがまたすごい。目の包帯をとり、細かい襞のいっぱいはいった白い衣装で、十字のエプロン・ステージとコロスの陣取る舞台を時計回りに一周半めぐる。
白塗の人形のような顔に涙が伝わっていく。感情をそぎ落とした表情。ブラックホールが突如舞台の真ん中に出現したかのようで、眩暈がしてきた。
美加里は大変な役者になった。
*[01* 題 名<] ある憂鬱
*[02* 劇 団<] THEガジラ
*[03* 場 所<] 紀伊国屋
*[04* 演 出<] 鐘下辰男
*[05* 戯 曲<] 鐘下辰男
*[06 上演日<] 2001-11-07
*[09* 出 演<]南果歩
*[10* <]有薗芳記
*[11* <]大鷹明良
*[12* <]畠中洋
*[13* <]大内厚雄
*[14* <]竹本りえ
灰色一色の客席にはりだした舞台。灰色のひだをつけたカーテンで三方を囲み、天井はU字型に垂れ下がったカーテン。上手側に床置きの大画面TV。上に劇作家として著名だった亡父の写真。中央上手寄りに灰色の階段。二階の入り口も灰色のカーテン。中央下手寄りに灰色のテーブル。酒瓶とおつまみの袋が散乱。下手側にバケット型のゴミ箱。
客電がついた状態で、正面のカーテンの下手よりの隙間から舞台に出てくる。無言のまま、L字型に舞台を横切り、下手側の隙間から出ていく。下手側からライトが当たる。ざわついていた客席が静まっていく。
つづいて坂口美里(南)が下手から出てきて、階段を上り、二階に消えていく。次に坂口喜生(よしお)(有薗)と河東(大内)がおもちゃの箱を運んでくる。ひそひそ話。ここでようやく客電が消える。
オープニングの緊張感は素晴らしかった。
しかし、本篇はスカスカ。
「華々しき一族」の後日譚に「人形の家」を組みあわせたような話で、著名な劇作家だった父親から遺伝病を受けついだかもしれない兄弟の葛藤と、壊れていく妻を描くが、追いつめ方が弱い。一方の局である次男の妻の玲來(あきら)が若林しほから竹本りえに代わったせいかもしれない。あきらかに役不足で、実力の差は歴然。南との二人の場面がまったく尻抜けになっている。台詞はかなり削られているかもしれない(トークセッションで、稽古中に、160ページを115ページに削ったとい言っていた)。
喜生は病気で会社を馘になり、妊娠中の妻と一緒に、弟の嘉晃(大鷹)が父親から引きついだ北海道の別荘に転がりこんで来る。喜生は牧場に勤めはじめるが、父親が実の息子よりも可愛がったかつての居候の三浦が金を返せと言ってくる。
三浦は演劇プロデューサになっていて、喜生は彼から900万円借りたが、返さなかったので、三浦は制作費を持ち逃げしたと誤解され、本名で仕事ができなくなる。
美里は人妻AVに出て返済するが、三浦は喜生に内緒でAVに出ていたことにつけこみ、返済を要求してきたが、実は父親の隠し子で、三人兄弟だったことがあきらかになる。
一方、管理人の息子でAVマニアの河東は美里がAVに出ていることを種に、脅迫してくる。追いつめられた美里は河東を殺し、原生林に埋める。
美里がしゃらっとした顔のまま、狂っていくのが見どころなのだが、南果歩はいいにしても、周りが弱いし、ストーリーをひねくり回しすぎて、小さくしてしまった感がある。考えすぎの悪い癖が出たようである。
名古屋のB級遊撃隊の佃氏とのトーク・セッション
同年生まれということもあって、同級生どうしの会話のようだった。
佃は1984年に大塚でやった「ワンスアポンナタイム・イン・京都」の初期のものを見ていて、ラストの「名前を聞いておこう」という千葉哲也の台詞で滂沱と涙が出たという。
高校時代は「それが青春」のような熱血ドラマに感動していたが、漫才ブームで、ドラマを茶化すようになったが、1984年の鐘下がドラマを信じていたことに感動した。
鐘下は最近は冷ややかに見るようになったといっていたが、子供に「亜人夢」、「来夢」という名前をつけているところをみると、まだ信じているんだろと佃がつっこむ。
「ぶっちゃけた話」が多く、鐘下が子供の名前を決めるのに字画占いに頼ったが、「夢」の「タ」が二本棒だったと思いこんでいて、区役所でそんな字はないと指摘され、せっかくの字画が一画すくなくなったとか、普通の父親をやっていることがわかる。
鐘下は1985年頃からワープロを導入したという。ワープロのお陰で辞書を引かないですむようになったが、なんと読むのですかと役者に聞かれて、わからないことがよくある。自分の劇団ならいいが、新劇だったり、国立のプロデュース公演だったりすると、すごく恥ずかしい。
ワープロのせいか、台詞が長くなるので、稽古場で削る。今回は160ページを115ページに刈りこんだ。
昔は手書きの清書にワープロを使ったが、今は逆で、ワープロ原稿を手書きで清書したら、説明的な部分を削れるのではないかと思うようになった。
役者は役に入りすぎたらいけないし、周囲を意識しろというと、周囲を意識する方に集中してしまう。そこで、今回はテーブルの下に秒針がカチカチいう時計をとりつけ、時計の音を意識するように役者に注文した。
*[01* 題 名<] 煙草の害について
*[02* 劇 団<]
*[03* 場 所<] シアターX
*[04* 演 出<] 柄本明
*[05* 戯 曲<] 柄本明
*[06 上演日<] 2001-11-07
*[09* 出 演<]柄本明
チェーホフの「煙草の害について」に短編などから材料を追加して、三倍くらいに伸ばした作品。上演時間はちょうど一時間。
未来派風の曲線を多用したセットの前に、薄紫色のほぼ真四角の幕が降りている。幕の上の方に「煙草の害について」という文字。装置は洒落ているが、結構、かかったのではないか。
1920年代風のSPレコードの音楽がかかり、そこに柄本の朗読の声がかぶさる。ここで客電が消え、柄本が幕の下手側から登場し、自分でロープを引いて幕を上げる。
30年前の結婚式で作ったというよれよれの燕尾服に、白髪のかつら、瓶底眼鏡。
下手には椅子、中央には演台がどちらも上手向きに置かれている。演台は手元が低くなっているが、柄本はそのまま使うので、左側が低くなってしまう。
わきの下や股間をぼりぼり掻きながら、「煙草の害について」の講演をはじめるが、原稿の第一ページを痰を吐くのに使ってしまったところから、脱線につぐ脱線。原作は演題にたどりつけないという話だから、役者に力量があれば、いくらでも引き伸ばせるわけだ。柄本にはその力があり、最初から最後まで抱腹絶倒。
ラストに近くなって、原作にもどり、楽屋から女房が見ていると恐がりだす。一度腹立ちのあまり脱いだ燕尾服を裏返しに着たぶざまな姿で錯乱し、終わる。
暗転後、裏がえしの燕尾服のまま、カーテンコールだが、本篇との差がなく、ここでも笑いの渦。「お客さんがみんな寝てしまったら、自分のやっていたことは無意味だとわかるが、そうなったら落ちこむなあ」というぼやき口調が絶妙。
*[01* 題 名<] 四谷怪談
*[03* 場 所<] シアター・コクーン
*[04* 演 出<] 蜷川幸雄
*[05* 戯 曲<] 鶴屋南北
*[06 上演日<] 2001-12-27
*[09* 出 演<]竹中直人
*[10* <]藤真利子
*[11* <]広末涼子
*[12* <]高嶋政伸
*[13* <]村上淳
*[14* <]田口浩正
今年最後の舞台だが、期待はずれ。
演出意図はおもしろいし、四時間半を超える長丁場を退屈させずに見せるくらいの力はあるが、ドラマも笑いも恐怖も中途半端なのだ。
思い切り散文的にした四谷怪談で、省略されがちな細かいエピソードに均等に光をあて、伊右衛門とお岩の比重を下げている(お岩は目に見えて出番がすくない)。伊右衛門を竹中にやらせ、せこい醜男にしたり、二枚目の村上に小狡い直助を振ったり、人物をひとしなみ卑小にしている。エロティシズムや残酷趣味は抑え気味で、お岩の化粧の場くらいだ。
ふんどし一つの男たちが奈落で回り舞台を動かすのを透き見させたり、地べたに転がった生首の仕掛をばらしたり、スカパラの陽気な音楽を使う(最後は悲愴な蜷川調にもどるが)っといった趣向もその延長なのだろう。
悪の美学の方向ではなく、不条理喜劇の方向を目指したのはいいのだが、作りが雑で、喜劇になりきれていない。
ここ数年の蜷川の舞台は台詞がぞんざいになっているが、今回はきわまった感がある。まともに聴きとれたのはお岩の藤真利子と與茂七の高島政伸くらい。
お袖の広末は顔の割りに首が太く、それが妙に肉感的なのはいいとして、台詞が最悪。七五調を棒読みし、「……聞かぬでありんす」の「ありんす」に妙なアクセントをくっつける。なんでこんな役者を板に上げるのか。
唯一、印象的だったのは宅悦の田口で、明るい小悪党を好演していた。もうちょっと声が通ればよかった。
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